橋本治『人工島戦記』#15 こどもには分かりにくいこと
2021年の話題作の一つである、橋本治『人工島戦記──あるいは、ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかのこども百科』。その試し読み連載を再開します。12月20日から大晦日をまたいで1月5日まで、毎日一章ずつ公開していきます。題して「年越し『人工島戦記』祭り」!(試し読みTOPへ)
イベント情報
2022年1月5日(水)、編集者・文筆家の仲俣暁生さんと、物語評論家・ライターのさやわかさんが『人工島戦記』をめぐる対談イベントを開催します。詳しいお知らせは、主催ゲンロンカフェのウェブサイトでご確認ください。
第いち部 低迷篇
第十五章 こどもには分かりにくいこと
さて、テツオは、しばし絶句していた。
キイチの言うところが、あまりにも膨大なことだったから、テツオの頭の中はタンカーをぶち込まれて、〝海〞になってしまっていたのである。
テツオの頭蓋骨の中には、今や脳味噌のかわりに〝海〞があった。その海とは、志附子湾であった。青い海はゆらゆらと揺らめいて、とてつもなく大きい。とてつもない大きさの海に漂う自分は、とてつもなく小さい。とてつもなく小さいから、とてつもなく大きい海の大きさが分かる。
いくら志附子湾が〝浅い〞と言われたって、その海に漂ってみれば、海の深さが一メートルや二メートルでないことぐらいはすぐに分かる。海面に力なく漂っている自分がとてつもなく小さくて、その自分が水の中に首を突っ込んで潜ったって、底なんか見えない。底が見えないプールというのは、やっぱり〝とてつもなく〞に近いような深さを持っていて、それが海だということになると、とてつもなく深い。とてつもない深さにとてつもない広さを×ると、簡単に「埋め立てる」と言われてしまう志附子湾という海が、とてつもなく広大なものだということがよく分かる。
「その海の、底を、掘る?」
そう思って、テツオの頭は、一瞬ジーンとしびれた。
「膨大じゃん……」
答はそれだった。
しばし絶句したテツオは、頭の中いっぱいを占めた志附子湾の広大な水の量に圧倒されたまんま、そうつぶやいた。
別に、「海の水を全部搔き出してしまえ」というのではないから、この際〝水の量〞というのは関係ないのだけれど、「海の底を全部掘る」などというとんでもないことを聞かされたテツオは、そのとんでもなさを我が身で実感するために、水の量というものを思い浮かべたのだった。
「膨大じゃん……」
テツオは、いまだに舌が絶句でしびれているみたいな調子で言った。
「そうだよ」
キイチは言って、テツオはもう一度同じことを繰り返した。
「膨大じゃん……」
キイチはなにも答えてくれなくて、テツオの言ったことはひとりごとになった。
広大な志附子湾の水の上に浮かんでいるテツオは、そう言うことによって、「誰か助けてくんないか……」と言っているのだった。〝膨大〞は分かっている。しかしその〝膨大〞にどういう意味があるのか?「膨大じゃん……」と言うことによって、自分はそこになにをつなげたいのか? ──それがテツオにはまったく分からなかった。その分からない状態は、誰もいない広大な志附子湾の水に浮かんで、「誰か助けてくんないか……」とつぶやいているのと同じだった。
こどもには、分からないことがある。経済生活というものを親なる他人に任せているこどもには分かりにくいことがあって、それは、「金の問題」だった。
遠浅状態に近く、普通の船の航行には支障がないけれども、重い大型のコンテナ船になると、その水深が「ちょっとやばいかな」状態になる志附子湾は、いくら市長が「市の発展のため、港湾事業を整備拡大するために人工島を作る」と言っても、そのままでは役に立たなかった。
船が航行する、陸で言えば〝道路〞に当たる部分の底を掘って、重い船でも通れるようにしなければならない。海の底に堆積している泥を搔き出して、船の安全な航行を図るということをしなければ、港であるような人工島を作ったって意味はないのだ。
船が停泊出来るような埠頭が人工島の岸壁にいっぱい作られたって、そこに〝通路〞がなければ、肝心の船が入って来ることは出来ない。つまり、人工島建設には、それと同時に進められる、湾内の浚渫作業を必要としたのだ。
海の底を〝全部〞ではなくても、かなりの部分を掘り下げる。つまりは要するに、金がかかるのだ。テツオの吐く「膨大じゃん……」というつぶやきは、ここにつながる。
人工島建設計画のムチャは、既に一部の市民には「干潟の壊滅、野鳥の死滅」という形で認識されている。されてはいるが、しかしそれは、人工島建設計画のムチャの一部なのだ。
人工島建設計画には、膨大な金がかかる。「一体、その金をどうするの?」という問題もあるのだ。
そして、その〝金の問題〞は、「その金を工面して、でもそれで果してこの計画はペイするの?」という、〝商売の問題〞にもつながるのだ。
こうなると、もう〝こども達〞には分からない。「アレがほしいから」で、金を学生ローンで借りて来るということだけは知っていても、この金の問題はケタが違うし、質が違う。金儲けという経済活動を当たり前のものにしている大人なら、「いいけどさ、その金はどうするの? その金を持って来てそれでこの計画はペイするの?」と、すぐさまに考える。理想は理想で、「ケッコーなものじゃないですか」とは言っても、その理想をこの地上に実現させるということになると、〝具体的方策〞というものがいる。そのことを大人達は知っていて、だからこそ〝理想〞というものに対して及び腰になる。
テツオやキイチはこどもだから、「ポカリスエット飲む? 買ってこうか? あ、金が足りねェや」のレベルで、平気で〝理想〞とかいう難しいことが言える。しかし大人は、まず〝具体策〞というものの計算をしてから、〝理想〞という、よく分かんないウサン臭いものに当たるのだ。
「学園都市はいらないな? 住宅もいらないな? 道路もうるさいからいらないな? だったら、港だっていらないことになんないか?」と言うテツオも、「港はやっぱりいるんじゃないの」とおずおずと言うキイチも、「港の問題は、〝いる・いらない〞の問題ではなく、損得勘定の計算だ」ということにまでは、さすがに頭が回らなかった。
「人工島に埠頭を作る。そうして志附子湾に入って来る船の数を増やす。港湾事業の発展を図って市の繁栄を目ざす」と言っている比良野市長辰巻竜一郎は、実は〝商売〞のことを考えているのだった。
埠頭というのは、海の駐車場である。人工島はそれを作る。それを作って、船の駐車料金を取る。
高い金を出して駐車場を作って、そこに車が全然停まらなかったら、出した金の分だけ大損である。だから、車の来そうなところに、駐車場というものを作る。
今まで「来たい」と言っていたけれども、「駐車場がないからよそう」と言っていた人達を呼び寄せるために作られる駐車場もある。辰巻竜一郎の「人工島による港湾拡充計画」というのは、この「海の駐車場増設計画」だったのであるが、「果たして、人工島という海の駐車場を作って、そこに船という車はやって来るのか?」──人工島問題は、こういう問題でもあった。
果して船は来るのか?
市は「来る」と言う。「来させるようにする」と言う。そう言われてしまうと、大方の市民は、「ふーん」と言ってしまう。
「ふーん」と言ってしまうと、そう言った手前、「別に人工島計画反対とか、大騒ぎしなくてええんやないの?」ということになる。
〝海の駐車場〞というのは、かなりスケールの大きなもんだから、「市が〝来る〞だの〝呼ぶ〞だの言っとるんやから、きっとそうなんやろう」と思ってしまう。問題が自分の日常のスケールからかなり離れたものになると、人間というものは、平気でお手上げをしてしまう生き物なのである。
問題は、実のところ、「果して船は来るのか?」ということではないのである。「果して船は来るのか?」という問題は、市が積極的に商売をすることを前提として認めてしまった後の疑問なのである。つまり、世の中には、それ以前の疑問として、「果して市が、そんなに積極的に商売をする必要があるのか? そんなに高い元手をかけてよォ」という疑問もあるのである。
果して、市がそんなに積極的に商売をする必要があるのか?
市が「駐車場の拡大」を言うのだったら、その前には必ず、「今までの駐車場が満杯で手狭になったから」というのがある。「もう満杯になってるんだから、新しく作らなきゃダメです」というのがあって、そこで駐車場の拡大新設ということになれば、その新しい駐車場に車が来るのは決まっているのである。
決まっている以上は、「果して船は来るのか?」であっても「果して車は来るのか?」であっても、そんな疑問は出ようがないのである。
「果して車は来るのか?」などという疑問が出るのなら、だったらそこには、「もう今までの駐車場が満杯だから」という実情はないということになる。つまり、そういうない実情に目を向けないで、「来る」だの「来させるようにする」だのと言う市長は、かなりとんでもない曲げ方をしているということにもなるのだ。
市というものは、そんなにも積極的な商売をする必要がないものである。自治体というものは、「市民が困っているからこうします」とか、「このままだと市民が困ることになるから、今のうちにこうします」というようなことをするもので、〝実情のメンテナンス〞が最大の商売なのだ。市というものが積極的に商売をしなければならない時というのは、たった一つ、「市の財政が赤字になってしまったので、こうなったらナリフリかまわず商売をするしかない」という、その場合だけである。
比良野市長辰巻竜一郎は、「市は赤字で困っています」などとは、一言も言ってはいない。辰巻竜一郎の言うことは、それとはまったく逆なのだった。つまり辰巻竜一郎は、「市に金はある。人工島建設に資金的問題はない」と言っているのだった。
どうしたって市は黒字で、「金があるから商売しようぜー」と言っている悪い市長辰巻竜一郎は、どう転がっても比良野市一のイケイケオヤジだったのである。
「このバブルのはじけたご時世に、このオヤジは一人でなに言ってんだ?」という声が正面切って上がらないのは、結局みんな、〝商売〞とか〝自治体〞とかいうものがどういうもんだか知らなくて、ここにあるのがただの、「ゴタイソーな金儲け計画」なのだということも知らなかったからなのである。
もちろん、市というような公共体にだって商売は出来る。出来るけれども、普通「市が商売をしている」とか「商売をしようとしている」と言われないのは、こういうオオヤケの世界が〝商売〞という言葉を使わずに、〝事業〞という言葉を使うからである。
〝事業〞というのは、辞書では真っ先に〝社会的な仕事〞という意味が充てられる言葉である。「社会的な仕事だから、きっと金儲けではないのだろう」と思っていると、〝社会的な仕事〞に限って巨額なワイロが動いたりもする。「社会的な仕事だから、きっと金儲けではないのだろうな」と思っていれば、〝社会的な仕事〞をするはずのところが金儲けをしていても、それが〝金儲け〞には見えにくくなる。
そして、それよりもなによりも、〝社会的な仕事をするところ〞というのは、〝倒産〞ということをしない。「公務員には倒産がない」というのはその通りで、普通の会社だったら倒産に至ってしまうようなとんでもなくヘボな商売をしても、国とか県とか市とかというような〝社会的な仕事をするところ〞は、倒産というペナルティを受けないから、あんまり人からは「商売をしている」とは思われにくいのだ。
比良野市は古くからの城下町で、港町でもあるから、古くから商業の中心地にもなっている。比良野市に集まった物が比良野市から千州一円に運ばれ、千州の産物もまた比良野市に集められるということをやっていた。比良野は千州全体の中央卸売市場のような役割を演じていたりもしたのだけれど、この千州の商業基地に目をつけたのが、〝中央〞と呼ばれる東京の大企業達だった。東京に本社を持つ大企業は、千州をマーケットとして把握するために、こぞってここに支店を出した。
五軒町の辺りとか、JR比良野の駅前や、そこに続く大比良通りは、この東京からの支店ビルが立ち並ぶ大ビシネス街となっていた。つまり、今や比良野市最大の地場産業は、〝東京の支店〞ということになっていたのだった。
バブルと言われた金余りの時代、東京の余った金は、この比良野市に流れ込んで、税金という形で比良野市の財政を潤した。「金ならあるぞ」的な辰巻竜一郎の自信は、このことによっているのだった。
しかしバブルははじけてしまった。
辰巻竜一郎は、どうやって人工島建設事業計画の費用を集めるのだろうか?
果して辰巻竜一郎は、人工島建設事業計画の費用を集められるのだろうか?
金がなければ、この計画は挫折するしかないのだ。
辰巻竜一郎は「金がある」と言う。がしかし、人工島建設計画には「とんでもない」の二乗ぐらいの金がかかる。辰巻竜一郎が「ある」という金は、とてもその人工島建設計画を全部達成出来るような額ではない。だから辰巻竜一郎は、そこのところを〝事業〞という金儲けでカヴァーしようとしているのである。
人工島建設計画の足りない金は借金をして、借金で人工島にマンションや埠頭を作って商売をして、「その儲けで借金を返して行けばいい」というのが、辰巻竜一郎の頭の中であり、そしてそういう計画のしかた自体が、典型的な「バブルの発想」だったのである。
こんなことが、「バブルははじけた」と言われる今時、果して成り立つのであろうか? それこそが、辰巻竜一郎の夢見る「人工島建設計画」の、最大の弱点だったのである。
果してこども達は、辰巻竜一郎が公然と隠し持つ計画の弱点を知ることが出来るのだろうか?
「人工島はいるか、いらないか」でウロウロしている二人の若者に、果してこのことは分かるのであろうか?
果して、頭の弱いこども達に、こういうメンドくさいことが全部分かるのであろうか? すべては、次章からの展開なのである──。
第十五章 了
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