見出し画像

第11回 403号室 三十九歳は冷たい手が欲しい〈前編〉 鈴木涼美「ノー・アニマルズ」

前の住人である鮎美が引っ越した後、403号室に入居した有希子は、かつて仕事仲間だった絵里奈とルームシェアをしながら暮らしている。ステイホームが推奨されるコロナ禍、「子どものいない人生を今選択しないで済む最良の方法」として、卵子凍結をすると決めたのだが……。
2025年に取り壊しが決まっている老朽化マンションで暮らす住人たちの小さな破綻と孤独を描いた、鈴木涼美初の連作短篇小説。
[毎月金曜日更新 はじめから読む

©︎OKANOUE Toshiko「幻想」Courtesy of The Third Gallery Aya


 沁みるとも痛むとも違う、つーんという感覚に備えて有希子ゆきこは一度息をゆっくり吐いた。薬瓶の吸入口を鼻の穴の中にそっと差し、ノズルを押しながら息を吸い込む。鼻の奥とも顔の奥とも言えるような微妙な場所に冷たい薬剤が広がっていくのがわかる。三十分後にもう一度同じ手順で吸い込むだけ。使用感としては、鼻炎の時に鼻に直接噴霧する薬とさして変わりはない。こんなもので排卵がコントロールできるなんて信じがたい。
「お、明日だっけ、いよいよタマゴとるの」
 タブレットの画面を横にしてソファにうつ伏せの状態で動画を見ていた絵里奈えりなが視線も姿勢も全く動かさずに言った。キッチンと居間の境目のない造りの部屋ではあるものの、その姿勢で有希子が点鼻薬を差しているのが一体どうやってわかったのか、絵里奈には相変わらず謎が多い。
「いや、明後日」
 有希子は流し台の横に置いた点鼻薬をジップ付きの小さなビニール袋に入れてそのままそこに放置し、鼻の奥に軽微なむず痒さを感じたまま携帯画面で次の点鼻時間のアラームを確認した。
「何個とれるかドキドキする?」
 ちょうど動画が終わったのか、絵里奈がタブレットの画面を上にして一度カーペットの上に置き、ソファの上で器用に身体を二回転させながら聞いてきたので、有希子は冷蔵庫からペットボトルの黒烏龍茶を出して自分の分だけグラスに注ぎ、カーペットの上のちゃぶ台を挟んでソファの対面といめんにある座椅子の方へゆっくり歩いた。横のスイッチを入れると座っているところが電気で温まるタイプの座椅子で、ここへ越してくる時にドン・キホーテで購入した。ソファは絵里奈が実家の自室で使っていたもので、この部屋でも主に絵里奈が使っている。
「大量にとれたところで保存にもお金がかかるんだよ」
「でも薬とか注射とか全部タマゴ増やすためのやつでしょ」
「それもあるだろうけど色々面倒ごとが多すぎてどれが何なのかよくわかんない。とりあえず確実にこの日に採卵できるようにってことだと思う」
 座椅子のスイッチは入れたままになっていたので座った途端に有希子の下半身はじんわり温まっていく。性器から肛門にかけて熱が伝わってくるのを感じながら、椅子までもが自分の子宮をいたわってくれているような、別に病人というわけでもないのに大切にされているような、悪くない気分でグラスのお茶をすすった。越してきたのが暖かくなってきた季節なのに、温め機能付きの座椅子を選んだ自分が天才に思える。
 仕事で知り合った時にはゲイだと知らずにうっかり一時期ちょっと狙っていた長身の編集者の男が、引っ越し先探しているならちょうどいいところ安く住めるよ、と紹介してくれたのがこのマンションだった。取り壊しが決まっているという理由で本来新しい入居者を募集していなかったのだが、前住民がどうしても引っ越さねばならないという理由で、格安の家賃、しかも敷金礼金ゼロで住んでくれる知り合いを探していた。なんでもその人がここに入居を決めた際に、取り壊しの前の年まで借りる約束で家賃を値切ったらしい。住む条件は四年以上居座らないこと。有希子にとってそれは障壁どころかむしろありがたかった。四年後も独身のまま今の生活を続けているなんてちょっと考えたくない。考えたくないのだがどうもそんな気がして怖いので、建物の方からタイムリミットを決めてくれるならそれに越したことはない。
 ワンルームとしても使えるワンエルだよ、と聞いていた部屋は都心のワンルームにばかり住んでいた有希子が思っていたよりずっと広く、しかもパーテーションを使うとワンエルどころかベッドルームはさらに二つに仕切ることができた。一人暮らし前提で契約したが、都心から離れて大きな川まで渡ったこの近くにはエンタメが何もないので、自分でエンタメを誘致することにした。それが一か月半ほど遅れて入居した絵里奈だ。
 バックパッカーで世界中の悪条件の寝床を経験している絵里奈なら、パーテーションで区切られただけのベッドルームに文句は言わないというのが有希子の見立てで、案の定、セックスはできないけどオナニーならできる系のプライバシーだとか言って喜んでやってきた。有希子としては安い家賃はさらに半額となり、ほとんどホームレス状態だった絵里奈にも自宅と呼べる場所ができ、とりあえず二人とも満足だった。もともとはきちんとした芸能事務所に所属する女優だったが、今はフリーの女優とは名ばかりで、知り合いの関わる映画にごく稀に端役で出演する以外は特に仕事をしていない絵里奈が、このコロナ禍に家賃を払い続けられるのかは謎だったが、当初は一人で暮らすつもりだった有希子としては自分だけで家賃を払う月があってもいいと考えていた。結局今のところ絵里奈はどういうわけかいつも生活できるぎりぎりのレベルのお金は作ってくるので、家賃は一度もすっぽかされていない。大家にルームシェアをすることは伝えていないが、取り壊し寸前の古いマンションでそう細かいことは言われないだろうし、きちんと家賃を納めて四年以内に退去すればトラブルにはならないだろう。
「卵子凍結かー、私も来年とかには考えないとなのかな」
 絵里奈がパック入りの豆乳をストローでわざと音をたてるようにズルズルと飲みながら滑舌悪くそう言った。床に置いていたタブレットを再び手に持って、次に見る動画を漁っている。樹海に潜入して死体を見つけるやつとか、南米の危険地帯の道案内とか、世界の呪物紹介とかきっとそんな動画だろう。
「そうよ、あんた誕生日早いんだから、やるなら来年中、っていうか早ければ早い方がいいんだってば。一緒にやればよかったのに」
 有希子は自分の携帯で化粧品メーカーやワイナリーからの広告のLINEを消去しながら小言っぽく言ったが、どうせ絵里奈は付き合いでそんなことを言うだけで、実際に病院に通い、高いお金を払って決まった時間に注射や内服薬、点鼻薬を使って採卵に備え、一般的な意味での女の幸福の期限を延長するなんて考えられない。コロナさえなければ今も国内や海外を飛び回って現地で何かしらの仕事を見つけ、その日暮らしを続けていたであろう絵里奈にはきっと、凍結した卵子のようなよすがも、それがつなぎ止めてくれる一般的幸福も必要ないのだ。
「だよねー。てかやば、ユキユキユキちゃんもうすぐ四十歳かよ。そして私も二年弱でなるのかよ」
 ユキユキユキちゃんは二十歳前後の頃に有希子が使っていたメールアドレスだった。未だに携帯のキャリアメール時代のアドレスをネタにしたあだ名で呼んでくるのは世界で一人だけだ。絵里奈は他にも、連続ドラマ一晩一気見や、コンビニ菓子を買い込んでパーティー開けをして一気に食べまくる、思いついたら夜中に急にカラオケに行きたがるなど、知り合った頃と同じことを二十年経った今でも平気でするようなところがある。冬でも未だにUGGのブーツにショートパンツのような格好をする。年齢に振り回されないのがすごいとは思うが、五十歳になってもYouTube見ながらスナック菓子をつまむのだろうか、と思うと怖い気もする。
「それにしてもこんな鼻にシュッシュってだけで排卵がどうこうなるって信じがたいわ」
「私、花粉症だから鼻シュッシュは慣れてるな。ユキユキユキちゃん健康っぽいからそんなシュッシュしなくても丈夫なタマゴとれるよ」
「この歳じゃ、女の機能は自分でコントロールしないとダメなのよ、もう」
「ふうん、私ピルくらいなら飲んだことあるけど。でも決まった時間に薬飲むとか、何日に病院行くとか、子宮をコントロールしてるより子宮にコントロールされてるみたいに見えるけどな」
 絵里奈が芯を食ったようなことを言ったので有希子は黙った。黙ったのを誤魔化そうとしてまだ半分残る黒烏龍茶の入ったグラスを持って冷蔵庫まで行き、またなみなみとそれを注いで座椅子に戻った。油の吸収を抑える烏龍茶はグリーシーな中華料理などと一緒に飲むには適しているが、何も食べずに飲みすぎると喉の油分を奪われて声が嗄れるらしい。たしか昨年、例のゲイの編集者が言っていた。でも昼には近所のおいしくもなんともないチェーンのカレー屋から出前をとって絵里奈とともに食べたし、いつもなら残す白米も、平気で大盛を頼む絵里奈につられてしっかり完食してしまったので、何かしら美容と健康に良いものを摂取していたい。コロナが明けてみたらぶくぶくに太っていたなんて洒落にならない。
 運動は嫌い、睡眠は好きだが規則的な生活ができるかというとそういう意志の強さはない。身体に良さそうなものを食べるのは好き、化粧品やサプリも好きだが色々と試すので何が結果的に効いているのかはよくわからない。たまに思いついたように美顔器を使ったりエステに行ったりはするが煙草はやめられない。有希子の美容健康意識はいつも中途半端で、それはきっとブスではないが辺りをはらうほどの美人でもなく、ホステスや演技派女優としては成立するが美人女優やモデルとしては成立しない中途半端なポテンシャルのせいだとなんとなく自分でも思っている。
 女優としては結局エキストラに毛の生えたような役しか回ってこなかった自分よりずっと成功した絵里奈は事務所の後輩だった。単館上映の低予算映画では主演級の役を何度もやって、舞台もかなり出演していたが、日常生活や恋愛にまで口を出そうとする芸能プロダクションは全く肌に合わないと言って二十五歳の時には事務所を退所していた。絵里奈に比べれば事務所に干渉されることなく、むしろ所属していることを事務所スタッフですら忘れているのではないかと思うほど連絡がこないことがあった有希子は、ほぼ100%ホステスの給料で暮らしていた。事務所に所属しているという事実だけが焦燥感を緩和し、水商売で生きるような根性などないのに二十九歳まで続けてしまった。ホステスとしての戦績も可もなく不可もなくという感じだった。自分の本来の居場所はここではない、自分にはここ以外に行き場所があるのだ、という顔を隠さず、自分の負けを本来の負けと認めない、嫌なホステスだったと思う。ホステスを辞めるときに事務所も辞めたが、もはや事務所の人間には誰にも何にも言われなかった。ごく稀にカラオケの背景映像に自分の顔が映ることがあるくらいで、有希子の当時の芸名など誰も知らない。
「ねえ、お寿司食べたくない?」
 唐突に酢飯が食べたくなって、有希子はYouTubeで孤独死現場リポートを見ている絵里奈に向かって言った。気を遣わない絵里奈は深夜でも早朝でもこちらが何をしていようがイヤホンなどは使わない。そのせいで一緒に住みだしてから半年、有希子もアングラユーチューバーが扱うようなネタに詳しくなりつつある。樹海で死体を見つけた時の対処法など。
「食べたーい。おごりなら食べるー」
 絵里奈が動画を止めずに有希子の方を向いて三歳児みたいな顔をした。隣の部屋には本当の三歳児が住んでいる。ちょうどアラームが鳴ったので有希子は再度立ち上がり、流しの横でまたつーんとする感覚に備えて一度息を吐いてからノズルを押して子宮と自分をコントロールする薬剤を鼻奥に噴霧した。

 出前で安い寿司をとって二人でタランティーノの古い映画を観ながら食べ、ほとんどソファを寝床にしている絵里奈を居間に残し、有希子は自分のベッドがあるパーテーションの右側の部屋へ引き上げた。明らかに一日の炭水化物の許容量を超えていたが、当分外出の予定もないので来週あたりファスティングでもして帳尻を合わせればいい。と、先週、絵里奈の臨時収入でピザを三枚宅配して揚げ物もつけて二人で昼から夕方まで昨年のM1の録画を観ながらほぼ完食した時にも思った気がしないでもない。でも少なくとも一週間でコロナ禍が終結することが考えにくいのだから、帳尻合わせは多少延びてもいいような気がする。
 時計を見るともう深夜〇時を回っていて、日付上はすでに月曜に突入している。寝て起きたら在宅とはいえ時間までにパソコンにログインし、今時誰が買うんだというレベルのド派手なギャル服ECサイトの問い合わせ対応や商品在庫確認などの仕事をしなくてはならない。コロナ禍に通販関連のサイトは好調で、その波に乗って有希子の会社の商品の売れ行きも悪くない伸び方をしている。外に買い物に行けないのも暇なのもよくわかるが、外に行く用事が極めて少なくなっている今、絶対に家で着ることのない着心地の悪いド派手ギャル服を一体誰が何の目的のために買っているのか、売っている会社の社員である有希子にも皆目見当がつかない。この時期にこれ着てどこ行くんだよ。人気商品の色違いの入荷問い合わせなどが多い時にはつい悪態が漏れる。それに緊急事態宣言中とはいえ徐々にステイホームな風潮が解けつつあるのは明らかで、もしかしたら年度が改まれば再びコロナ前と同じように、窮屈な電車に乗って窮屈な会社のある窮屈なビルに通わなければならなくなる可能性もある。そうなってくると有希子はまた自分の境遇を軽く呪いながら、自分より恵まれた者を苦々しく思い、自分より不運な人を見て安心するような、嫌な女の日常に戻らなくてはならない。
 正直、都心とは川が隔てるこの冴えない地域の、さらに冴えないコンビニの上の冴えないマンションでの女二人のほぼ引きこもり状態での暮らしは気楽だ。家に引きこもっている以上、精神衛生に悪いSNSさえ開かなければ、自分の運命を誰と比較するわけでもなく、家にいるなら別に世田谷区も港区もこの場所も大差ないし、外に出かけないのであれば、今の自分には買えない高額のものだって別にいらないような気がする。毛皮もどんどん値上がりするシャネルもピアジェもベントレーも、外に出て初めて役立つのであって、家で七年前のドラマ一気見大会をしている自分には必要がない。ホステス時代の客からの貢物の類も今では箪笥の肥やしになっているか、とっくにフリマアプリで売り払ってしまった。
 ホステス卒業と同時にもともとあってなきような女優の肩書もいよいよ失った有希子にとって、かつて有希子と同じ店に勤め、大学卒業と同時にさっさと辞めて外資系アパレルに就職、五年勤めた後に起業した友人の彩がいたことは幸運だった。彩はもともと経営が向いていたのか当初はカラーコンタクトレンズの通販サイト、アパレルのノベルティの制作会社などに手を広げ、ギャル服ECサイトでは有希子を責任者の一人にしてくれて、おかげで有希子はそれなりの安定した収入と、ギャル服を着こなせる限りは被服代のかからない生活を手に入れた。セールス・マネージャー兼カスタマーサービス室長の名刺を見た絵里奈は、「すごーい、ユキユキユキちゃん偉い人になってまんがな」と、なぜかいい加減な関西弁と全く邪気のない笑顔で感動してくれた。そういう言葉には実際にすごい誰もが、「いや全然すごくないのよ」という定型句で反応するものだが、有希子の場合は数ミリの曇りもない本心で、「いや全然すごくないよ」と反応するしかなかった。
――彩はすごいにしても、こんな肩書、ホストの主任とか幹部補佐と一緒だ
 寄せ集めの社員の集合体の中で、肩書がただのやる気を出させるためのご褒美的な意味しか持たないのは、それはそうだった。トップに立つ者として彩はそうした社員の掌握術に優れていて、だからこそこのような小さな会社には珍しく、創業当時からずっといる古株の男女が今も転職せずにとどまっている。彼らが中核的な役割を担っているのは事実だが、それ以外の社員はご褒美的な肩書に喜び、つまらない仕事をある程度の責任感を持ってこなし、この生活が上向くことはなくとも失われないことだけをひたすら望む日々を送っている。すでに七年以上勤めている有希子であっても、やっている仕事と言えば就職当初からあまり代わり映えのしない、要は誰にでもできるサイトの管理とクレーム対応、それから簡単な企画立ち上げにすぎない。買い付けは優秀な中国のギャルがそのほとんどを担っている。
――チンさん、コロナ平気かな
 ほかに考えることが思いつかずに有希子はなんとなく買い付けのギャルを心配してみた。陳さんは日本への留学経験もある、彩や有希子と同年代の女性で、なんだか知らないがものすごくギャルを愛している。彩とどうやって知り合ったのかよくは聞いたことがないが、とにかくブラとスカートがゴールドのチェーンで繫がっている謎ワンピや、布の面積より肌の見える面積の方が多い謎デニムなどを買い付けてくることに関しては天才的で、日本ではもう見ることのないような振り切れたギャル服が買えるECサイトはごく狭い、しかし愛の深い客層に愛されている。90年代の終わりとともに高校を卒業したいわゆるギャルど真ん中世代の有希子であっても引くレベルのギャル服は、どうやら懐古的な趣味を持つ若い女性だけでなく、アダルト系メディアの制作に従事する男性や一部の変態男性にもよく買われているようだ。
 暗い部屋にはきちんと閉め切れていないカーテンの隙間から、輪郭のボケたような中途半端な光が差し込んでいる。月の光だとはっきりわかるのは、有希子が自然の変化への感度が高いからでも暦に詳しいからでも勿論なく、単にこの周囲には夜更けに部屋に入り込んでくるほどの光を放つようなものが何もないからだ。華やかな都会はほとんど川の向こう、こちら側ではせいぜい湾岸エリアまで下って米国のシミュラークルの楽園がある辺りに偽物の発光体が集められているだけで、その光がこの部屋に届くことはない。
 掛布団の上にだらしなく横たわっていた有希子は一度起き上がり、枕側の窓の前に立つと、やはり限りなく満月に近い明るめの月が真暗な住宅街を中途半端に照らしている。
――いっそ真暗で何も見えなければいいのに
 せっかくのステイホームに外界の何かが入り込んでくる不快に耐え切れず、勢いをつけてカーテンを引くとレールを伝うランナーがビッと布を破いたような音をたてたので一瞬焦ってカーテンの付け根の部分を見たが、別にどこも破けてはいなかった。明後日の採卵の日はすでに有給申請をしている。正直、在宅の場合は朝のログインさえ済ませれば、ずっと机の前にいなくともなんとか誤魔化せるもので、明日も朝のログインと午後一のテレカンの時間以外はトラブルがあれば対応できる態勢を整えつつ、絵里奈におすすめされたアングラ系ユーチューバーの動画でも見ていようか、ヨガでもしていようかという心構えではいるのだが、さすがにお股を広げてタマゴを採取されながら、うるさいクレーマーの対応を引き継ぐのは無理があるのだった。
――まかり間違ってタマゴが勝手に孵化して玉のように可愛い子が生まれたりしないかな
 有希子は再びベッドに戻り、起きてカレー食べて点鼻薬シュッシュして寿司を食べた時と寸分変わらぬ格好のまま、今度はいつ替えたのかよくわからないがフランフランで結構高かった掛布団カバーの下にもぐり、無理やり眠りにつくようにした。

 クリニックを訪れるのは三回目だったが、約八か月前に今のマンションに引っ越してからコロナのせいで電車に乗って出かけるということ自体が極端に減っていたため、すでにタマゴのために随分と遠路を通わされた気分になっていた。私鉄で一度下りの電車に乗り、一駅で乗り換えて新宿まで、コロナ前に会社の忘年会のビンゴで二等の賞品としてもらったエアポッズをつけて南米危険地帯を紹介するYouTube動画を観ながらすかすかの電車に揺られ、集合時間である十時の十分前にはクリニックの受付に到着した。朝から水を飲むのもダメだと言われていたので起きてから煙草も吸わないでいたが、脳内はすでに採卵後、とにかく早く水を飲んで新宿駅の喫煙所に行くことばかり考えている。
 街は相変わらず局所的に人のいる場所を除いて人通りが少ないのに、不妊治療で有名なクリニックの中は待合の席がかなり埋まっていて、みんな自分の命を守るよりも新しい命の誕生を望む気持ちの方が大きいのか、と毎度ちょっと感動する。或いはみんな三十九歳で、孵化する当てのないタマゴを保存するのに焦っているのかもしれない。女の体内の残酷な時計は感染症もステイホームも忌引きも三密回避も関係なく進んでいく。
「そちら除光液で落としてお待ちくださいね」
 案内してくれた感じの良い受付の女性に言われて、そういえば採卵当日はメイクだけでなくネイルも落としてからご来院くださいと言われていたことを思い出す。最近はそもそもズーム会議の際にも眉すら描かずにメイク落としを使わない日々が続いていたが、ネイルは暇つぶしで塗り直してそのままにしていた。
「すみません! うっかりしていました」
 有希子はやや大げさに恐縮してみせながら、ステイホーム中にジェルネイルからマニキュアに移行していて助かった、と思った。さすがにここで表面のハードジェルを削り、時間をかけて溶かしてさらにやすりをかける時間はない。
「はい、大丈夫ですよ」
 大げさに謝ったのが功を奏したのか、女性は張り付いたような微笑みを一切ゆがめることなく親切に除光液とコットンを渡してくれた。別に命を握られているわけではないが、お股を広げる場所で人に嫌われたり呆れられたりするのは得策ではない。まして今から、自分のことを少しも愛していない男に一番敏感な穴に何かを突っ込まれるのだ。それぞれが独立し、他の席が見えないようになっている待合の一席で鞄を膝に抱えたままコットンに除光液を垂らすと、綿が吸収する水分量と瓶からあふれ出た液体のバランスが合わず、少し鞄の中にこぼしてしまった。
 コロナ禍に卵子凍結をすることを決めたのは結果的に正解だった。同い年の彩が不妊治療で苦労し、結局子どもができないまま疫病禍に突入してしまったと聞いたことと、緊急事態宣言などのない日常に戻る頃には四十歳になってしまうと思ったというのが主な理由で、焦って保管サービスをおこなう企業のホームページを調べ、提携クリニックを探した。
 有希子は子どもが欲しいと思ったことはあまりないが、欲しくないと思ったこともなかった。二十四歳の時に好きな男が興奮するのが嬉しくて危険日に中出しを許してしまい、うっかり妊娠して事務所に内緒で中絶してからは、長らくピルを飲んでいたから、今は欲しくないと思っていたのはたしかだ。でも子どものいない人生を選択した覚えは全くないし、そういうある種毅然とした決断ができるほどの仕事への誇りや自由な生活への愛着もない。卵子凍結を決めたのも、別に今は仕事が忙しくて落ち着いたら子どもを作ることを考えたいとか、特定のパートナーと不妊治療にいそしむ予定があるとかいうことは全くなく、ただ単に子どものいない人生を今選択しないで済む最良の方法だと思ったからだ。引っ越しを機に、二年ほど付き合った男と別れ、精子も男性器も持たない絵里奈と引きこもり生活満喫中の有希子には現在妊娠の希望も心配もひとつもない。そのタイミングでピルを飲むのをやめたのも、ただ生理周期を規則的にするためだけに婦人科に行くのが面倒という理由だった。
 付き合っていた男は三つ年下のテレビ業界人だった。白金のやや五反田寄りの幹線道路沿いに犬と暮らしていた。愛犬家を名乗り、犬はしょっちゅうトリマーやらドッグパークやらに連れて行くが、有希子に対しては男の部屋の充電器を使うのすら嫌な顔をするドケチだった。恵比寿駅前で待ち合わせをした際、有希子がLINEに気づかないでいると、怒り口調で電話をかけてきては電話代がどうの、と文句を言ってきた。それでも目先の贅沢より将来的な安定に重きをおけば、選んで損のない男だと思っていた。
 有希子が狭いワンルームにばかり住むのは、どうせ男と付き合えば男の家に入り浸りになるし、しっかりした広い1LDKなど借りてお気に入りの家具などそろえたところで、結婚したら不要になる気がしていたからだ。彩には感謝しているし、なんだかんだ陳さんセレクトのアクの強いギャル服は笑えるし、同僚も変なプライドや選民意識がなく、どちらかというと仕事意識も低いので付き合いやすい。業務自体にそれほど大きな苦労はないのだが、それでもこの、誰も知らない企業の誰も着ないギャル服部門の誰も見ない企画などを立ち上げて一生を終えると考えるのは怖すぎて考えたことがない。かといって何か特別やりたいことが見つかるまで、ぬるま湯職場からの転職はしたくない。会社が鉄の檻と呼ばれる所以ゆえんは、その強固さではなくぬるさにあるのではないかと思いつつ、ここは結婚と妊娠で一旦区切りをつけてゆっくり資格などとるのはどうだろうなんていうよこしまな思いでケチ男に甘んじていたのだが、有希子が男の家にあったふるさと納税の高級肉を使って料理に失敗した際に、肉代払えよ、とにらまれて別れようと決心した。
 ケチで嫌なやつだった割には別れるとなると男からの電話やLINEはしつこく、一度部屋のインターホンをしつこく鳴らされて以来、有希子は急いで引っ越しをしようと思うようになり、加えて疫病蔓延で自宅にいることが増えるであろうことを考えると、ベッドとローテーブルとクッションしかない自宅はいささか狭すぎると感じた。そんな折にゲイ編集者からの紹介はまさに渡りに船だったのだが、男のいるストレスから解放されてみると、男のいないまま時間が経っていく不安が常に胸をかすめるようになった。
 除光液を返し、カーテンで仕切られた個室に通されてどうせ脱ぐしと思って着てきた自身の運営するECサイトの激安ニットワンピをひと思いに脱いで術衣に着替え、リクライニングチェアの端にちょこんと座って待っていると名前を呼ばれて手術室に案内される。全身麻酔はなんとなく怖くて局所麻酔を選んだので、意識が遠のくことはない。ぱかんと股を広げてぼんやり煙草が吸いたいなどと思っていると、身体の中心に嫌な硬さの器具が挿入された。どういう構造なのか、消毒された器具らしきもので身体の内側を擦られて鈍い痛みを感じる。エコー画像をぼんやり見ていると何やら看護師らしき人に説明されるのだが、赤ちゃんならともかく体内で二十年以上常に作り続けてきたタマゴの画像に何の感慨もなく、やはり鈍い痛みを少し感じながらタマゴをとられている最中、どうしてか有希子の脳内は煙草吸いたいから玉子の握りが食べたいを経由して酢飯が食べたいという欲求に支配され続けた。
 二十分ほどの手術は何の緊張感もなく終わり、痛み止めの座薬を入れられてお尻の方まで軽くロストバージンをして個室に戻った時には、一時間の休憩やハーブティなどいらないからすしざんまいに連れて行ってくれという気分だった。妊娠すると酸っぱいものが欲しくなるというのは聞いたことがあるが、むりやりタマゴを奪われてもやはり酸っぱいものが欲しくなるものなのか、ぼんやりした頭で考えてもよくわからない上に、さすがに混雑したクリニックの看護師にそんなことを聞くほど常識がないタイプでもない有希子は、黙っておいしくもなんともないハーブティを飲んだ。

(つづく)

<前の話へ  連載TOPへ  次の話へ>

連載【ノー・アニマルズ】
毎月金曜日更新

鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部在学中にAVデビュー。その後はキャバクラなどに勤務しながら東京大学大学院社会情報学修士課程修了。修士論文はのちに『「AV女優」の社会学』として書籍化。2022年『ギフテッド』が第167回芥川賞候補作、23年『グレイスレス』が第168回芥川賞候補作に。他の著書に『身体を売ったらサヨウナラ』『娼婦の本棚』『8㎝ヒールのニュースショー』浮き身『トラディション』『YUKARI』等多数。
Twitter:@Suzumixxx


更新のお知らせや最新情報はXで発信しています。ぜひフォローしてください!