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第3回 403号室 四十三歳はどうしても犬が飼いたい〈前編〉 鈴木涼美「ノー・アニマルズ」

取り壊しが決まっている老朽化マンション。そこで暮らす住人たちの小さな破綻と孤独を描く鈴木涼美初の連作短篇小説。
403号室で暮らす43歳の鮎美。フリーライターとして働く彼女には、付き合って3年程になる男がいる。彼と「結婚」の話をすることはない。焦る気持ちはないものの、仕事にも私生活にも安定した所属先がないことに不安がないわけではなかった。そんななか、鮎美はペットを飼うことを考えるように……。
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©︎OKANOUE Toshiko「幻想」Courtesy of The Third Gallery Aya


 ぺスカじゃないよ多分これでしょう、と言われて瓶を目の前に出されても、レストランで瓶を見たわけではないので、鮎美あゆみは不確かな返事をするしかなかった。カウンターの中にいる男は意に介さない様子で、手際よく何やら混ぜてシェイカーをふり、背の低いロックグラスを置いて乳白色の液体を注ぐ。表面の泡立ったのを見て、ようやく鮎美は確信を持った。
「あ、絶対それだわ、さすがヒロくん」
 グラスが自分の前に出される前に思わず声に出すと、男はニヤリとして泡の上にリキュールらしき液体を数滴垂らし、さらにオレンジピールをほんのひとかけら載せた。今年から四捨五入すれば五十だと自虐する男は鮎美の二つ上で、出会ったのは彼が四十歳になる直前なのだからそれなりに時間が経過している。店ではなんとなくマスターと呼ぶことにしていたが、ほかにお客がいないとつい気が緩む。博隆ひろたかという名前が堅苦しいせいか、常連のお客にもヒロさんと呼ぶ人はいて、常連と言っておかしくない鮎美が家でそうするように呼んでも特に不自然ではないのだが、すべての接客業は色恋営業と思っている鮎美はそのあたり過敏であった。
「ぺスカじゃなくてピスコだね。それを卵白とかレモンと混ぜたのがこれ。多分そのお店ではピスコサワーって言われて飲んだんじゃない」
「そうだったかもしれない。とりあえずここに来たらぜひともこれ飲んでほしいんですっていって出されたのよ」
「うん、ペルーでピスコっていうとまずはこの飲み方みたいだよ」
 青山で化粧品会社の新作発表会に行った帰りに、付き合いの長いファッション誌の編集者に連れられてペルー料理店へ行ったのが二週間前。その頃はまだ街中でマスクをつけている人は多くなかった。
「春のあいだにこの感染の騒ぎって収まるかなぁ」
 鮎美は男の出してくれたお酒の白濁した泡の部分に唇をつけて、お客のいなくなったカウンターを見渡した。先ほどまで初めて見る年齢不詳の男性が座っていた右奥の席には、ほとんど手を付けられていないドライフルーツ入りのホワイトチョコが入ったガラスの器と片付けられたグラスの水滴を含んだ紙素材のコースターが残っている。
 そこから四席空けた鮎美の席はちょうど角になっていて、左前に伸びるテーブルには詰めれば三人座ることができる。早い時間に何度か見かけたことのある三十歳くらいのボブカットの女とその友人らしき金髪の女が座っていたが、二人のグラスや器はとっくに片付けられて跡形もない。ボブ女子は鮎美が入ってくると落ち着かない様子で手先や首を慎重に動かし、少し退屈そうな顔をして、素っ気ない態度で会計を頼んだ。以前鉢合わせたときも、鮎美が博隆と話し出した途端にそれまでの笑顔から硬直したような表情になって、不自然なタイミングで帰って行った。露骨に見えないように礼節で加工されたその小さな敵意を鮎美はそれほど嫌とは思わなかった。ボブと金髪コンビの年齢の頃から四十歳になる直前までは重なっていく年齢は劣等感しか生み出さなかったのに、ある時から若さを妬む気分が引き潮のようにみるみる消えて、むしろ若さと格闘するボブのような女に愛しさすら感じる。
「五月の旅行の話?」
「それもある。航空券のキャンセルってもうしておいた方がいいのかなって。でもそれだけじゃなくて、仕事の変更とかもありそうじゃない」
「アユの仕事は大丈夫だよ。こっちはどうなるかわかんないけど」
 県内にいくつか、都内に一店舗、わりと趣味のよいフレンチ居酒屋を展開する博隆が、一番最初に始めた店がこの冴えない住宅街のカウンターだけのビストロで、今でも本人は余程の事情がない限り、夜はカウンターの中で料理を作ったりシェイカーをふったりしている。ビストロとは言っても夜遅くまで開いているカウンターの店の需要はどちらかというと二軒目以降に偏っていて、お酒だけ飲みにやってくる常連も多い。
「地元の人が多い店は平気だよ、観光客だらけの都心の方が脆弱な気がする」
 年が明けて間もなくその名前が知られるようになった感染症の状況は、少しずつ真冬の寒さが和らいで、日によっては日差しが暖かく感じられるようになるのと反比例するように、深刻さが増している。毎晩人で賑わっていた博隆の店も空いていることが多くなり、店舗によっては一度店を閉める可能性も視野に入れているということだった。
「もう今日は片付け始めちゃってもいいかなと思ってるんだけど、アユ、疲れてたら上で寝ててもいいよ」
 明日の仕込みなのか豚の皮にスパイスをまぶしたものが入ったアルミ製のバットにラップをかけながら博隆が言った。この狭い店の上階は、やはり狭い住居になっている。住居にあまりこだわりのなさそうな博隆は、便利だし一人なら十分といって前妻と別れてからは特にほかに部屋を借りたり買ったりせずに店の二階と三階を住処としている。
 鮎美はカウンターの右奥のトイレの向かいにある階段の方を一瞥してから答えた。
「いいよ、片付け手伝う。一緒にうち帰るでしょう」
 仕事用の机やテレビのある二階とベッドルームとバスルームだけの三階は店と同じように落ち着いたデザインと丁寧な清掃で、住宅として広くはないが比較的快適な作りにはなっている。博隆と付き合い始めた当初は閉店までカウンターで飲んで、酔っぱらったところで上階に移動して朝まで過ごすこともあったのだが、次第に足が遠のき、ここ二年は歩いて二十分ほどの鮎美の住むマンションに二人で帰るのが決まりのようになっている。博隆はそれについて何も言わない。
 食器を洗い、ゴミをまとめて、酒の残りなどを確認する博隆は無言だが不機嫌な様子ではない。たまに静かな音量でかかるボサノバに合わせてリズムをとったり、チェックした食材の名前を歌に合わせて可笑おかしな音程で口ずさんだりしながら、テーブルを丁寧に何度も拭く鮎美の方を時折見てはおどけたように口をとがらせている。鮎美は自分の男のその軽やかさを見るたびに、概ね満足だ、と思う。
「このあいだ借りた本、上にあるからとってくるよ」
 鮎美がテーブルや椅子を念入りに拭いている間に、ごちゃごちゃとしていたカウンターの内側はみるみる綺麗になった。小さなこの店は早い時間に来て混んでいなければ先に帰る従業員と博隆のほぼ二人で回しているので決まり事や引き継ぎも少ない。一瞬店に一人になった鮎美は二年前にフランスで買って以来ほぼ毎日使っているセリーヌのキャンバス地の鞄の中に手を突っ込み、携帯の横のボタンを押して、メッセージの通知がないか確認した。美顔器比較の記事の原稿確認が一件、犬の里親情報サイトからの定期的な配信メールが一件、あとはメッセージグループでのたわいもないやり取りくらいしか来ていない。美顔器の記事は大手出版社の美容雑誌のウェブ版用のものなので、優秀な校閲の指摘が入っていない限りは致命的なミスはないだろう。鮎美はざっと読んですぐに携帯で返事を送った。
「明日は午前中何もないし、その赤ワインの残り持って帰っちゃわない」
 上半身だけ着替え、トートバッグを持って降りてきた博隆にそう聞くと、彼は彼でバッグの中から最近二人してよく飲んでいるホットワインの素を出して見せた。
「俺もそのつもりだったよ」
 鮎美はホットワインを飲みながら登録している配信サービスでお笑い芸人が驚かされるだけの悪趣味な番組などを見て彼の腕の中で眠る時間を想像し、椅子の真後ろのフックに掛けていたウールのコートとストールをしっかり身に巻き付け、深夜はまだまだ冷える外での二十分弱の長い散歩に備えた。東京から川を隔ててすぐ隣とは思えないほど高い建物のないこの辺りの夜は暗い。私鉄の駅の方面に歩いて、川の方へ曲がったところに築四十年を超えるマンションがある。鮎美が博隆と出会ってから借りた部屋はそこの四階だった。

 美容ブログやSNSのファッション情報や動画配信など、街中の女の子が化粧品や整形の情報を一斉に発信しだしたとき、本人も含めた周囲の大人たちは誰もがみんな鮎美の仕事はなくなるだろうと思っていた。鮎美は鮎美で、一応名ばかりの社員をしているPR会社の仕事が主軸になっていくだろうと思っていたが、なんだかんだこの十年、多少の価格変動はあれライターの仕事はなくなることがなく、むしろ以前から仕事をくれる出版社のほかにも、通販サイトや企業のオウンドメディアなど、新しい仕事も増えた。都心の女子高の同窓生の中には広告業界や外資系企業でびっくりするほど高額を稼いでいる人もいるが、自由な立場で自身が調整しながら仕事ができる環境に、鮎美は大きな不満は持っていない。三十歳目前に焦って学生時代の恋人とよりを戻して結婚したが、同居一週間でもう離婚することばかり考えていた。円満離婚ができたことは幸運だったし、結局気ままな独身暮らしが自分に合っているとも思う。ただ、仕事にも私生活にも安定した所属先がないことに不安がないわけではない。
「でもなんで引っ越し? ぼろいけど、家賃抑えられているのは大きいじゃない」
 広々としているわりにテーブルの小さい喫茶店で、綾子あやこは店員が慎重に置いたカプチーノの絵柄に感激のコメントをいくつか高い声で発して、普段はあまりそんなことをしないのに携帯のカメラで二回ほどシャッターを押してからそう言った。新大久保のカフェの店員はアイドルと見紛う韓流男子ばかりなのだった。
「ぼろいのはいいのよ、私タワマンとかに魅力感じないタイプだから。数年後に取り壊しになるって噂だけどね。いま新規の借主は入れてないのかも」
「一階にコンビニなかったっけ。忘れたけど。場所的にも穴場だよね」
 二つ年下の綾子は相変わらず店内のディスプレイに映る歌って踊る韓流アイドルと、二十歳ほど年下に見える白い肌の店員を両方瞳に焼き付けようと、全く鮎美の顔を見ずに会話を続けている。外資系の大手グループ企業で化粧品会社の広報担当をしている彼女の最近の関心ごとはアイドルのファン活動とサウナめぐり、とほぼ時代の平均と一致している。
「コンビニはある」
 ここ二週間で電車の中でマスクをしている人は一気に増えた。鮎美は周囲を見渡し、なんとなく外してセリーヌのバッグの上に置いていたマスクを一度きちんと顔につけてから、ホットの紅茶をすするために顎の下に引っかけた。
 鮎美が都内の端っこにあるマンションから、川を渡って県境を越えた今の場所に転居してからもう二年以上経つ。毎晩のように店に立って、深夜までお客の酒をつくる博隆と一緒にいる時間を増やす目的もあったし、できればフリーで仕事を続けたい鮎美にとっては家賃が大幅に下がるのも魅力だった。電車を使えば都心まで出るのに要する時間は以前住んでいた場所とさほど変わらない。以前は遅くまで飲んでタクシーで帰るようなことも多かったが、四十を目前にした頃、周囲の友人も最後の結婚ブームを迎え、深夜まで自由に遊び回る人はぐっと減ったし、鮎美自身が博隆と落ち着いた付き合いを続ける中で、一人で遅くまで出歩くことも少なくなっていた。
 とはいえ仕事の打ち合わせや取材は都心部が多く、貴重な独身の友人たちが住むのも都心や鮎美の家とは逆方面の西側ばかりなので、仕事の用事に合わせて誰かしらを捕まえ、こうしてお茶したりする時間はなるべく確保するようにしていた。子どもを産んだわけでもなければ、結婚したわけですらないのに、東京を東に外れた冴えない商店しか並ばない街の、マイルドな不良と頭の悪そうな女たちが住むマンションに、必死に働いてまで納得いく形に保ってきた自分自身が埋没してしまわないように。
「コンビニは便利だけど、隣の家の妻が臨月で、産んでない私からすればもうほんと未来のためにありがとうって感じではあるもののだよ、今だってまあまあ煩いのにダンゴ三兄弟になったらいよいよ煩いのもあるし。お互い部屋の中にいたらさすがにそんなに音が聞こえるわけじゃないのよ。外廊下とかベランダで騒いでることが多いんだろうな」
 店内のディスプレイで流れていた男アイドルたちの曲が終わり、今度は昆虫みたいに脚の細い、型でくりぬいたような女の子たちがピンクの背景に黒い衣装を着て独特の発音で歌う映像に切り替わった。若い女子の整形事情について二言三言文句を言ってから、綾子がようやく目線を鮎美の顔に戻して口を開いた。
「あんた自分は子ども産まない代わりに今後の人生、人の子どもを全力でかわいがりますって言ってたじゃん」
「友達の子どもには優しいもん、わたし。別に隣の家とだってさ、社会貢献として全然仲良くなるけどさ、両親が急用の時預けてくれたって別にいいしさ、でもなんかお母さんが不愛想なせいで子どももいまいちはつらつとしてないんだよね」
「言っとくけど、私は全力でかわいがってるからね、子どもでもおかしくないような彼ら彼女らを」
 綾子が講演でもするかのように大げさな身振りで韓国のアイドルの映像を掌で紹介するようにして言ったので、鮎美はそのバカバカしさに少し笑った。引っ越した直後は全く気にならなかった子どもたちの泣き声が、嫌に耳につくようになったのは去年の秋口くらいだろうか。別に毎日悩まされているわけではなく、ほんの時折、自分の背骨を引っかかれるように耐えがたく感じるのだ。それが子どもの声の大きさに関係なく、自分の体調次第なのだということには半ば自覚的だったが、自覚したところで何か改善されるわけでもない。
「それは冗談としても、子どもがはつらつとしてて素直で発想力にあふれてて、偏見がなくて元気でって、それこそ偏見なんだよ。大抵の子どもなんて不遜で、大人より人の目を気にするし不自由なんだから」
「まあいずれにせよ、スマホゲーム課金とかプチ整形とかコンカフェとかパパ活情報サイトとか、そんな障害物競走みたいな時代に子育てしてる人に感謝」
「感謝、とか言ってるときが一番思考放棄だからね」
 少しぬるめだったのか綾子のカプチーノはすぐになくなり、途中からグラスに入ったセルフサービスの水を仕方なさそうに飲みながらそう言った。鮎美はなぜいつも会話の途中で子育て世帯や既婚女と一方的な和平交渉をするようなことになってしまうのか、なんとなく理由はわかりつつも不思議に思った。別に真昼間のコリアンタウンの目抜き通りで、体感としては通り全体の平均年齢の十五も年上の女二人の会話を、誰が監視しているわけでもないのに、最近は特に自分らで自分らの会話を点検してしまう。三十歳を目前に結婚へ駒を進めた安易さにも、すぐに挫折した腰抜けっぷりにも、年齢的な無理を周囲が嗅ぎ出す前に産まない選択を匂わせてしまうしたたかなところにも、劣等感とは違う不気味さを感じる。その不気味さを、年齢とともに勝ち得た礼節で埋め合わせているのかもしれなかった。
「それでなんだっけ、隣の家が子どもが増えるのにビビッて引っ越しが頭をよぎるんだっけ」
 セルフサービスの水のおかわりを注ぎに立ち、ついでにカウンターの中にいるもう一人のイケメン店員の顔を露骨に盗み見てから席に戻った綾子が言った。
「いや違う、それはサブの理由。ペット禁止なのよ」
「ペット飼ってないじゃん」
「禁止だから飼ってないんだって」
「禁止だから飼いたいような気がするんじゃない、今の家に引っ越す前から飼ってなかったんだから」
「いや、大学の時には飼ってたし」
 鮎美の実家の母は近所の猫が庭にやってくると餌をやっていたが、生き物を人間が売り買いするのは好きじゃないと言って小学生の鮎美が憧れたハムスターやインコは飼わせてくれなかった。だから一人暮らしを始めて兎を迎え入れたときは嬉しかった。小さな兎で五年も経たずに死んでしまったが、飼って間もない頃に撮った写真は未だにパソコンの壁紙にしている。
 気づけば午後二時を過ぎており、店内には少しずつ大学生や高校生の姿が増えている。綾子は英国製のシンプルなバッグの中から自社のフランス製リップバームを取り出して指先に少しつけ、鮎美にも勧めてきた。別に唇の乾燥は気にならなかったが、使用したことがない新商品だったので、多めにとって金属製の紅茶ポットを鏡代わりにしてすりこむように塗る。カルダモンの匂いが鼻のすぐ下から香る。
「いい匂いかも、これ」
「でしょう、でも若い子は買わないよ。うちらが若い頃、免税店なんて行ったらみんなランコムのジューシーチューブやらデフィニシルやら買い込んだけど」
「高級な化粧品って二十代だったら、プレゼント需要よね、あとは香水かな」
「そうだね、ま、わかる。韓国コスメ安くてかわいいもん。買い物が楽しいんだよ」
 先ほどまで目の保養と何度も言って店員やディスプレイを眺めていた綾子が今度は店内に座るお客の若い女子たちを一人一人じろじろチェックしながら喋っている。韓国化粧品の記事は鮎美もさんざん書いてきたが、敵情視察と言って定期的に新大久保でお茶したがるのは綾子の方だ。コスメの売り出し方もチェックしているが、毎回新しいカフェを指定してくるあたり、目の保養の比重の方が大きいと鮎美は踏んでいる。テーブルの上のカップやグラスが空になったタイミングで今日はもう見て回ったの、と鮎美が聞くと、一か所新しいメーカーの直営店を見たいから付き合ってほしいということだった。
 店を出ると幸いあまり寒さが感じられない。まだ会社の終わらない時間で、報道ではここのところずっと感染症の恐怖が伝えられているにもかかわらず、目抜き通りは若い女の子で溢れていて、おそらくその熱気で一度や二度は気温が高く感じられるのだと鮎美は思った。細い路地を歌舞伎町方面へ進むとその新しい店はあるらしく、綾子は人の波にバランスを崩されないよう、きびきびと歩いて鮎美を先導する。複雑で脂っぽいスナックの匂いがする通りは、化粧品の小売店から流れる少し流行を過ぎたアイドルソングのせいで、大きな声で話さなくてはお互いの声が聞きづらかった。
「さっきの話、彼も動物好きなの?」
 声のボリュームをあげたせいか、一節と一節の間を空けたやや不自然な喋り方で綾子は会話を続けた。鮎美もまた、雑音と雑音の間をかいくぐるように声を出す。
「どうなんだろ、性格的に嫌いじゃないだろうけど」
「やっぱり、別に本格的に一緒に住むとかじゃないんだ」
「向こうはビストロの上があるもん、まだ」
「ああ、前妻との子どもがたまに遊びに来るから、おもちゃとか置いてあるって言ってたビストロ上ね、結婚当初も新築マンションに入居するまでは妻と暮らしてたビストロの上、優しいけどやや無神経な彼が子どもの写真飾ってて、ペアのシャンパングラスやマグカップなどがちらつく」
「はいはい、そうだよ、もう随分入ってないけど」
「でもちゃんと付き合ってどれくらい? 三年? 四年? 今後もずっと付き合うの? 彼は結婚したいひと? てか結婚しないの?」
 雑踏で足並みがそろわないのをいいことに前を行く綾子が好き勝手に質問を投げかけ、鮎美はわかんないけど、と答えるのが精いっぱいで、あんたも既婚者の彼氏にいい加減見切りつけないの、別居するとか言い出して本格的に離婚する様子がないままもう五年以上たつじゃない、と言うタイミングを逃していた。
「でもペットはどうかと思うよ」
 ようやく目抜き通りの人込みから逃れて路地を折れると、両脇のサムギョプサル屋の片方は準備中と書かれたガラス張りの店内に若く細い男が本当に準備らしい準備をしていて、もう片方は真っ暗なままだった。綾子は歩く速度を緩め、鮎美はようやくほどよい距離感で隣に並んで歩いた。
「なんでよ、かわいいじゃん、三十代だと、マンション買って犬飼ったら結婚できないなんて言われがちだけど、そういうこと言われなくなったよ」
「いや、結婚できないのと逆かも、しがらみって獣の形してるもんだよ」
 三月のはじめの空気は日差しが当たっている箇所だけにほのかな温さを感じるものの、まだ全体的には緊張感のある冷たさに覆われている。飲食店を三軒、アイドルの写真の貼られた雑貨店を一軒通り過ぎると路地から大通りに出る手前に綾子の目的の店はあるようだった。
「うちの妹のとこさ、もともと旦那が飼ってた犬がこないだ死んだんだけど、それ飼い出したのが前の女と付き合ってたときらしくて、死ぬまで毎週二日間はその女が預かりにきてたんだよ」
 グリーンの木の枠が窓を格子状に割っているその店の扉を開ける直前まで、綾子は喋り続けていた。
「大抵、金曜の夜に犬とりにきて、日曜に返しにくんの。それが別れる条件だったらしいよ。で、当然死ぬときは妹と旦那と、その元カノが三人で、なんでか知らないけど葛飾の旦那の実家で看取ったらしいよ」
 離婚のときの親権みたいだね、と言いながら鮎美は店内に満ちるシトラス系の匂いが化粧品のどのラインのものかを探り当てようと、店頭ディスプレイや値段を気にする綾子と離れて、端のアンチエイジングラインから試供用ボトルの蓋をあけて匂いを嗅いでいった。
「別に彼と別れるつもりないかもしれないけどさ、そもそも旅行とかも行きづらくなるよ、せっかくうちらこの歳でひとりで、鎖がないこと以外に自慢ないじゃない」
 ホワイトニングラインと鎮静ラインを試しに嗅いでみたものの、店内の新鮮なシトラスの匂いとは別のもっと甘い香りで、店の匂いは化粧品とは別のディフューザーなのかもしれない、と鮎美は半ば諦める気分でハンドクリームのラインアップをチェックする綾子の横に歩み寄った。
「うーん、やっぱライブ行きたいし、出張作れなそうだし、どっかの週末韓国行かない? 感染おちついたら。あ、今ってなんか行くのに許可必要なんだっけ」
 そう言って振り向いた綾子の握っているグレープフルーツが描かれたハンドクリームのチューブから、店内に漂うのとほとんど同じ匂いがした気がして、鮎美は思わず鼻を近付けたが、色々と嗅ぎすぎた鼻は少しおかしくなっていて、店内の匂いにはすっかり慣れてしまい、全く同じ匂いなのかどうか、確かめる術がなかった。

 博隆が店を閉める月曜日にはなるべく仕事を入れないように調整する癖がついていて、逆に週末の誘いは仕事でも何かしらの会食でも比較的気軽に参加する鮎美は、日曜の昼に昨年月刊誌が休刊してウェブ版に統合されたファッション誌が主催する女性起業家のイベントに、セルフエステ経営者のインタビュアーとして登壇する予定だった。感染症のニュースはいよいよ全ワイドショーを席巻しており、イベントは大事をとって急遽中止となったが、終了時間に合わせて入れていた友人との約束をキャンセルするのもどうかと思ったので、ついでがなくなって若干面倒とは思いつつも出かけ、結局自宅に帰ったときには二十二時を過ぎていた。博隆の店に寄ろうかという考えは少し頭をよぎったものの、焼き鳥屋に三時間半もいたせいか胃も足腰も疲れていて、結局私鉄の駅からマンションまでまっすぐ歩いて帰った。
 比較的広い居間とベッドルームにしている奥の部屋の間の引き戸型のパーテーションを外してある鮎美の部屋は、玄関扉を開けるとバスルームとトイレ以外のすべてが一続きに見渡せる仕様になっている。銀色のドアノブがややひねりにくい扉を開けて中に入ると、ベッドルームのラグを敷いた床に博隆がプロレスの雑誌を広げて座っていた。
 店に出なかったのかと少し驚いてみせた鮎美は彼にメール見なかったか、と聞かれるまで、電車に乗ってから今まで一度も携帯を確認していなかったことに気づいた。日曜に仕事のメールが極端に少ないというのも理由だが、吊革につかまって立っている間中、数日前からひっかかっているペットの話題についてぼんやりと、しかししつこく考えていたのだった。
「何か飲んでる?」
 鮎美はひとまず少し薄手のグレーのコートを脱いでベッド脇のクローゼットにかけ、博隆の座るラグのすぐ横、固いカーペットの上に置かれたグラスを一瞥してからそう聞いた。
「いや、ジンジャエール持ってきた。というか買ってきたよ、下のコンビニで。たまの休肝日にしようかと思ったけど、アユ飲んでるならちょっと飲む?」
「いいや、焼き鳥屋で話し込んじゃって疲れた」
 そう伝えて居間の方へ戻り、冷蔵庫を開けるとペットボトルのカナダドライがちょうど半分残っている。これもらうよ、と言って金色に透き通るそのボトルを手に取りしっかり締められた蓋を回すと、ほぼ新品同様の気泡が残っている音がした。流しに残したままだったコーヒーカップとパン皿、ヨーグルト用の小さいスプーンに加えて、ドリップ式コーヒーメーカーのポットまでもがきれいに洗われて水切り籠に並び、ダイニング・テーブルの上にはドラム式洗濯乾燥機の中で出来上がっていたはずの洗濯物がしっかり畳んで置いてある。タオル類は洗面所の引き出しに入っているのかそこにはなかった。なぜか皴すらのびた洗濯物の畳み方も、水切り籠がびしょびしょにならない皿の置き方も鮎美の仕方とは違う、博隆の仕業とすぐにわかる。
 出会ってから二年以上、一か月に少なくとも二回は会って、好きだとも言うし、セックスもするし、セックスしながら好きだとも言うが、付き合うとか恋人という言葉を口にしない博隆に大きな不満はないにせよ小さな不足を感じ続けていた鮎美が、友達に何と言って紹介すればいいのかわからない、と文句を言ったのはまだ引っ越す前だった。それまでに一度賃貸マンションの更新のタイミングはあったものの、不確かな関係を頼りに手に持っているものを放す勇気はなかった。四十歳になる直前に関係に名前をつけてほしかった。
「だれより大切な人だよ、人生で一番気も合うし、ずっと一緒にいたい」
 当時住んでいたマンションに置いていて、引っ越すときに間取りとの相性が悪くてライター仲間に譲ったソファでそう言われて引き下がった。しつこく追及して結婚したがっていると思われるのは癪に障るし、実際結婚を焦る気持ちはなかった。ほかの女の影がちらつくわけでもなく、連絡がつかないこともないし、一緒にいるときの不満も一緒にいないときの不安も並みの彼氏よりよほど少なかった。それで結局博隆の店から徒歩圏内の古いマンションに移り住み、鍵も渡し、別に後悔するタイミングは訪れていない。
 二十センチほどの高さに積み上げられた下着やパジャマ用のTシャツの横でセリーヌのバッグのマグネットを外して奥に入っていた携帯を取り出すと、新聞社のニュースアプリの通知と、今日会った大学時代の友人からのメッセージ、それから博隆からのメールが届いているようだった。少しもったいぶってメールを開くと、息子との時間が思いのほか長引いたし、店は空いているからきょうはスタッフにまかせて鮎美の家にそのまま行くという内容だった。日曜は隔週で小学生の息子に会うのが仕事以外で博隆が持つ唯一の決まりごとだ。鮎美と出会ってすぐの頃はほぼ毎週だったが、相手方の再婚や息子の成長に合わせて徐々に頻度は少なくなっていくと言っていた。
「メールいま見たよ、電車で仕事のこと考えてたから返しそびれてごめんね」
 鮎美はグラスを持って、特に何も気にしていない様子の博隆の近くに行った。二十二時を過ぎると窓を開けても隣の部屋の声や物音が聞こえることはない。ロックを外して窓を掌の幅程度に開くと、遠くで、しかしくっきりと輪郭を持って小型犬の高い鳴き声が聞こえた。

(つづく)

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連載【ノー・アニマルズ】
毎月金曜日更新

鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部在学中にAVデビュー。その後はキャバクラなどに勤務しながら東京大学大学院社会情報学修士課程修了。修士論文はのちに『「AV女優」の社会学』として書籍化。2022年『ギフテッド』が第167回芥川賞候補作、23年『グレイスレス』が第168回芥川賞候補作に。他の著書に『身体を売ったらサヨウナラ』『娼婦の本棚』『8㎝ヒールのニュースショー』浮き身等多数。
Twitter:@Suzumixxx

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