第4回 403号室 四十三歳はどうしても犬が飼いたい〈後編〉 鈴木涼美「ノー・アニマルズ」
2025年に取り壊しが決まっている老朽化マンション。そこで暮らす住人たちの小さな破綻と孤独を描く鈴木涼美初の連作短篇小説。
403号室で暮らす43歳の鮎美。快適なマンションで、自分の裁量で仕事内容を選べるフリーライターという仕事をし、責任を押し付け合わない恋人と暮らす。鎖のない生活を自ら選択したはずが、「ペットを飼う」という不自由さやしがらみを欲するようになり……。
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©︎OKANOUE Toshiko「幻想」Courtesy of The Third Gallery Aya
高校生の頃にポケベルとPHSは持っていたものの、大学の頃に持っていた携帯電話は今はもうないキャリア会社のものだったし、携帯をガラケーからスマホに替えたときにはすでに今と同じ業界で中堅として仕事をしていた。それが関係しているのか否かはよくわからないが、鮎美は携帯画面を長時間眺めていると自分でも気づかぬまま、いつもとんでもない形の猫背になるらしい。後ろから近づいてきた付き合いの長い編集者に背中を叩かれるまで、自分の首が肩の中に埋まるような姿勢をしていることに気づかなかった。
「そんな格好して肩凝らないの」
男好きの男である同い年の田上は、二十代の頃と全く同じモデル体型でイタリア製の薄手のコートを片手に引っ掛け、鮎美の手元を覗き込んできた。マスクを外さなければ本気で二十代に見えるが、実際は痛風予備軍ですでに白髪染めもしている。四十を過ぎてもマッチング・アプリで毎週末のセックス相手を探すような不摂生な生活を続けているからだと鮎美はよくからかっているが、新しい男とセックスするから見た目が若いのだという田上の言い分もそれなりに正しいような気はしている。それでも自分の寝た男の性器の写真を携帯に保存していたり、港区に立派な家があるのに区民プールのシャワー室でフェラチオをしたりする精神性は、ヘテロセクシャルの四十代女には理解しがたいところがある。
「ワンコ?」
画面を盗み見た田上に聞かれて鮎美は、旅行のキャンセル手続きをするはずがつい二十分以上も保護犬紹介のウェブサイトを凝視していたことに気づいた。五月の連休明けに博隆との台湾旅行を提案したのは鮎美の方で、ついでに女性の一人旅を推奨するウェブサイトに台湾女性に流行しているらしい臍のお灸と薬草茶の記事を書く段取りもつけていた。疫病の終息を願ってぎりぎりまでキャンセルせずにおこうと思っていたのに、昨晩ついに航空会社の方から払い戻しの連絡が来てしまったのだ。ホテルの予約アプリでもキャンセル申請をしなくてはならないことに気づいて、出版社の一階ロビーで田上を待っている間に携帯を取り出したものの、ブックマークしている保護犬サイトを覗いたら新着の犬が三匹も登録されていた。座っていた木製のベンチの高さが合わないせいか、言われてみれば確かに背中から首が硬直している。
「この子かわいいな、黒のパグ、推定二歳のマルちゃん」
「鼻がぺちゃっとした犬種は特に狭い家だと犬臭くなるよ、そんなことよりアンタいつから犬派になったの」
鮎美が新着ページに掲載された一匹を見せるとすかさず田上がケチをつけた。
「昔から好きだよ、田舎の親は猫餌やりおばさんだったからか、猫に憧れがないんだよね、そっちこそなんで犬に詳しいの」
「二十代のときに五年以上一緒に暮らした男が傲慢な社長で無類の犬好きだったんだよね、犬飼ってる男って支配欲のかたまりみたいなやつか、支配されることに何の疑問も持たない宮仕えかのどっちかだよ、従順な犬をしつけて従えるのが好きか、従順な犬に自分を重ね合わせるかなんだろうけど」
「別に犬飼ってる男について知りたいんじゃなくて、犬飼おうかなぁと思ってるだけよ」
口の悪い田上が偏った経験に基づいた男の法則性についてさらに話を続けそうだったので、鮎美は強引に話題を引き戻した。普段ならかなり人の往来が激しい昼時にもかかわらず、ガラス張りの出版社ロビーから見える大通りはどことなくがらんとしている。車はいつも通り走っているし、歩いている人もいないわけではないのだが、誰もが用事のある目的地にまっすぐ向かおうとしているようで、その立ち居振る舞いに無駄がない。他所事のように思えていた疫病はたった二週間で一気に身近なものになった。美容関係のイベントは軒並み中止となり、インタビュー取材はパソコン画面を介したものに移行しつつあり、初夏に向けて用意していた雑誌の企画も練り直しが迫られている。しかし多くの同業者が感染や仕事の不安について口にする中、鮎美は全く別のことに気をとられていた。
犬が飼いたい。絶賛不倫中の友人である綾子にちらっと話してから、鮎美はその願望が覚醒したように日に日に大きく膨れ上がっていくのを感じていた。子どもの頃から何度かそう思ったことはあっても、それが住居や仕事の都合をつけてまで達成するような目標であったことはない。だからペット禁止とわかっていて今のマンションに引っ越したし、そもそも兎が死んでから二十年近く、住んでいる部屋の可否に関係なく具体的にペットを飼おうと動いたことはなかった。兎が死んだときは悲しかったし、飲食関係の恋人ができる前は暇を見つけては出張にかこつけて海外に行っていた鮎美にとって、手のかかるペットは現実的な選択肢とは言い難かった。なのに、一度口に出してしまうとそれは最も逼迫した問題のように生活を侵食し始め、最近では仕事の合間や移動中の電車の中、時には入浴中までペット情報や保護犬のプロフィールを見ている。犬はしがらみと言った綾子のやや後ろ向きな見解は、どうしてか鮎美にとっては何の障壁にもならないどころか、余計に気持ちを加速させるのだった。
「今日はうちの会社の打ち合わせだけだったの? それももう終わったんでしょう」
ようやく画面の保護犬たちから目を離した鮎美がいつも使っているセリーヌの鞄の上にかけていたジャケットを羽織ると、早く昼食に出かけたい田上は鮎美の鞄を左手で持ち上げながらそう言った。博隆も背が低い方ではないが、一八五センチ近くある田上をベンチから見上げると妙な迫力がある。相撲やサッカーの代表戦を一緒に観ていると男の好みは時折一致するものの、生物としてはやはり大きな隔たりを感じるのも事実だ。ちなみに鮎美は全く追いついていけない韓流アイドルの話題にも田上は敏感で、韓国好きの綾子を誘って三人で飲みに行くと二軒目あたりで二人は競って流行曲を踊り出す。
まだ鮎美がバイトで下着メーカーのモデルをしながらたまに雑誌の記事を書く仕事をもらっていた頃、主に美容室に置いてあるようなヘアカタログの編集部にいた田上と知り合った。知り合った撮影現場では鮎美はバイトの被写体だったが、同じ私大卒だと分かって仲良くなると時折書き物の仕事依頼をくれるようになり、田上が今の会社に移ってからも何度も一緒に仕事をした。ただ、二年前に二十代向けの女性ファッション誌が休刊になり、田上が主に料理や語学の実用書をつくる部署に異動してからは、以前ほど仕事上でのかかわりはない。今日も別件で出版社に来る用事があったので、鮎美の方からランチに誘ったのだった。
「打ち合わせっていうより座談会みたいなやつの構成で入ってただけ」
「このご時世によく座談会決行したね」
立ち上がった鮎美に鞄を手渡し、さっさと歩きだした田上はさして興味などなさそうに言った。
「一人はリモートで、一人は後日別で話聞いて座談会風にまとめるから今日来てたのは一人だけだよ。四十代からのトータルケア。主に毛の悩み」
「け?」
ガラスの回転式自動ドアを出ると昨夜に強い雨が降ったせいか、春先に不釣り合いなほど空が青く、また気温が高かった。鮎美は家を出るときに急いで選んだ自分のジャケットの方が、田上が小脇に抱えたままの薄手のコートより正解だった気がして少し愉快だった。ここのところ日替わりで寒い日と暖かい日が交互にあったので、前日の反省を活かそうとして服を選ぶと必ず後悔することが続いていた。だから前日に雨の中博隆の店から歩いて帰り、冷え切った身体で眠りについたにもかかわらず、今日は軽装にしてみたのだった。いずれにせよ、二十代の頃からやたらとファッションに煩い田上に、服選びでなんとなく勝ったと思うと悪い気はしない。
改めて歩き出してみると、やはり大通りもそこに交差するいくつもの細い路地も、見慣れた光景に比べて殺風景で、喋りながら横に並んで歩いても、誰かに邪魔をされたり逆に誰かの邪魔をしたりする気配が全く感じられない。用事がなければ近寄りたくないと思うほどいつも混雑している昼時の銀座を快適に歩けていることに、鮎美は不思議と少しわくわくした。子どもの頃、台風の天気予報に興奮して寝つけず、朝になって雨が弱まっていると妙に拍子抜けした、あの感覚に近いような気もするが、学校が休みになるようなポジティブ要素が世界的パンデミックにあるとは思えない。自分はどこかであらゆるものをリセットしてしまいたいというような破壊願望があるのだろうか、と少し思う。
「抜け毛、白髪、育毛、ハリウッドアイブロウ、それから脱毛。生やしたり抜いたり。大変なのよ、女は」
「いまどき男だってムダ毛のケアはしてるもんね、それに頭髪の方に関してはそもそも男の一番の悩みじゃない」
「一番の悩みが禿げる恐怖なのだとしたら、あなたは幸福よ」
「アメリカのアンケートで昔、男の人に怖いものなんですかって聞いたら戦争より禿げが上にランクインしたらしいよ」
すっかり観光客のいなくなった銀座で田上が口にした他国の名前は、今まで感じていたよりずっと遠い、実態のないもののように思えた。地続きのように気軽に行っていた近隣国ですら、今は靄のかかった向こう側で手の届かないものになりつつある。それとは対をなすように、少なくとも鮎美が生まれてからちっとも身近に感じたことのない戦争という言葉が生々しく響く気がするのは、危機のなせるわざなのだろうか。一瞬は快適に感じた銀座の大通りが急に不気味なほど寂しく見える気がして、鮎美はちんたらと歩くやせ型のゲイをせっつくように築地方面にある鮨屋までの道のりを急いだ。
何度か夕食時に来たことのある鮨屋が、夜の営業時間を短くする代わりに昼食の品数を増やしたと教えてくれたのは田上だ。予約ができないので行列ができていたら近くのインドカレー屋に行くのも悪くないと話しながら歩いたが、店が見えてくると遠目でもその心配がないのは分かった。店内に入るとそれなりの数の客がカウンターを埋めている。ちょうど会計を終えた男性二人連れが店を出るところで、見習いらしき若い男が手早く片付けてくれたので二人は運よく端の良い席を確保した。そして確かにちらしが中心だった昼食に、おまかせの握りが三通りの値段で追加されており、鮎美も田上も迷わず一番高いセットを選んだ。会食が減ったのを良いことに、田上が仕事とは特に関係のない今日のランチ代を経費で落としてくれることになっているからだ。
仕事関係の会食や特別な誘いがなければ夕飯は専ら博隆のビストロで簡単に何か出してもらうようになって、鮎美にとって友人とのランチの心理的な比重は大きくなった。スピード離婚をしてから三十代半ば頃までは、毎日誰かしらをつかまえて夕食の予定を埋める時期と、それに疲れて自炊に精を出す時期とが交互にあった。予定が詰まっていた割にはあまり何も覚えていない三十代前半に比べて、望めばほぼ毎日一緒にいられる人とほどよい距離感で付き合っている現在は間違いなく安定している。旅行に行きたいと思えば行けばいい、仕事に集中したければ好きなだけ集中し、ビストロに顔を出せば落ち着いた大人の男がプロの料理を振る舞ってくれる。驚くほど不自由な結婚生活にすぐに音を上げた鮎美が望んでいたのは気ままさの中にひとそえの安心のある生活であって、鮎美の仕事にも友人関係にも一切口を出さない博隆はまさにそのバランスの要となるような相手に違いない。それではなぜ前にも増して、ちょっとした用事でも都心に出ては友人たちに会おうとするのか、自分でもよくわからなかった。
外に人がならんでいる様子がないのをいいことにお茶を二回おかわりして店を出るとやはり空ははっきりと晴れたままで、急いで会社に戻ると言った田上と別れた鮎美はさっさと地下鉄に乗って帰ることにした。快適に歩ける午後の銀座で久しぶりに服でも見ようかとも思ったが、年明けに綾子と行った展示会で注文した春夏ものが数点、そろそろ着払いで届くはずだったし、そもそも人前に出るイベントや取材が極端に減る中で、服を新調するモチベーションはあまりない。それならば電車が空いているうちに帰って溜まっている原稿でも片付けようと思ったのだ。
思ったよりも混んでいた地下鉄から自宅の最寄り駅に止まる私鉄に乗り換えると、まばらに人が座る座席の端に陣取り、さっそく先ほど見ていた保護犬のウェブサイトを開き、気になっていたパグの写真に指で触れた。詳細情報が表示され、ワクチンの接種状況や里親募集の経緯などが表示される。多頭飼育崩壊、譲渡費用、繁殖引退、混合ワクチン、飼養環境など、先月まで聞いたこともなかった用語にも、毎日サイトを見ながら調べたおかげでかなり詳しくなった。専門の愛護団体スタッフが書いているのであろう募集条件はどの犬であってもかなり厳しく、高齢者や妊娠中の人だけでなく、引っ越しが多い者や単身世帯は不可となっている場合もある。ほかにもトライアル期間やお見合いなどが義務付けられている場合もあり、何か自己点検を強いられているような気分にもなる。
鮨屋の大将がこの時期にはあまり出てこないけど、と言って通常のおまかせには含まれないコハダを握ってくれている間に、以前同棲していた男の悪口を一通り話し終えた田上は自己犠牲に酔うこと、という面倒くさい問題提起をしていた。
「なんか若いときにも献身的なのが好きな男も女もいるけどさ、ほとんどはもう圧倒的に自分が大事じゃない。そうじゃないと多分、死んじゃうんだよ、人って。それで最初は全力なんだけど、そのうちある程度器用に自分のことはできるようになるから、多少は人のこととか気になって、世話やいたり説教したり、恋愛相談乗ったりすんの。利害とか費用対効果がはっきりしてる仕事とは別ね。自分のルーティンとかこだわりとかを変えないでいい程度に。これが普通」
深いことを言っていそうで後から考えると大したことのないことを回りくどい言い方で話していただけ、ということが多い田上の口が止まらないので、鮎美はおまかせの握りの横におまけで置いてもらったコハダを指し、美味しいから早く食べなよ、と言った。実際、直前に食べたマグロがこってりしていたので、コハダの酸味は絶妙だった。鮎美に言われるまま止まっていた箸を動かした田上も、美味しい最高、とひとしきり感動した後、やはり分かるような分からないような言葉を、独特の偉そうな喋り方で続けた。
「だけどそれだけだと世界ってうまく回んないから、大体この世の半分くらいの人には自己犠牲に酔う能力が具わってんの。女のがちょっと多いかな。でも男も結構いる。じゃないと子ども産んだりペット飼ったりしてもうまくいかないんだよ。母性本能がほんとに本能だっていうなら育児放棄する母親なんていないだろうし、男同士で超ハッピーに子育てしてる家とか母性関係ないでしょ。自分の好きなことより何か自分以外のこと優先すると脳内物質が出る能力だよ」
田上の強引すぎる演説はコハダの後に残しておいたきゅうりを糸のような細切りにして米と海苔で巻いた細巻の数十分の一ほども感動的ではなかったが、そう言われてみると鮎美自身には利他的なことに美徳を感じる能力が極めて薄いような気はする。今までの人生を振り返っても、そして今の自分の心を点検しても明らかにそうだ。
私鉄が橋を渡り、降りる駅の目前になるまで携帯画面を神経質に幾度もタップしながら、やはり気になるパグのページに戻って、そのままブラウザを閉じた。鮎美が犬を飼うことに肯定的な反応を示した人は今のところいない。最初に一蹴した綾子も、午前中の座談会を仕切っていた社内結婚をして子どもを作らず優雅に暮らす四十九歳の女性編集者も、田上も、やんわりとだが鮎美にはあまり向いていないというようなことを匂わせてきたし、何よりパグの保護団体が単身者を嫌がっているようだし、今住んでいる古いけれども安くて博隆の店から近い広々としたマンションはペット禁止だ。それなのに鮎美の中では、引っ越しをしてまで犬を飼おうという気が、日に日に現実的な計画へと昇華しつつある。
電車から降りて見慣れた駅のホームにある電光掲示板横の時計を見上げると、まだ午後四時にもなっていない。水曜日の今日も博隆は店で何かしら仕込みをしているか、スタッフと申し送りでもしているのだろうが、店の開いていない時間に訪ねていっても邪魔だろう。犬の件も引っ越しの件も、まだ博隆に話してはいない。かなりの時間、二人で鮎美の家で過ごしている都合上、最も相談すべき相手は博隆なのだろうが、なぜか話す気にならないのだった。
鮎美は特に何も決めず、足を動かした。気分転換に喫茶店でパソコンを開くとか、スーパーに寄って切れかけている食器用洗剤とヨーグルトを買うとか、博隆の店に近いJRの駅の方まで行って開店まで時間を潰すとか、何かしらを決めれば、昼間の銀座をまばらに埋めていた人たちのように、無駄のない足取りで道を進めるのだろうし、どの選択肢にもそれなりに必然性はある気がするのだが、結局決めないままに歩き続け、自宅マンションが右手に見える、すぐ手前の信号に着いてしまった。鮨屋で最初に一杯だけ飲んだビールがいまだに回っているのか、あらゆることにはっきりとした決断が下せない。
日がほんの少し傾いたせいか昼間ほど暑くは感じないが、それでも春と呼ぶには暖かい。ジャケットの中に着た綿の半袖ニットに、じんわりと一日分の自分の体液が染みついているのを脇で感じているうちに信号は変わった。信号が変わったのだから歩き出すしかない。別に帰宅しただけなのに、銀座でも地元の駅前でも何も決めないままに、朝と同じ場所に戻ってきてしまったことに鮎美はどうしてかいつにもなく気落ちしていた。
せめてもの抵抗と思ってマンション一階のコンビニに入る。冬の間中、博隆の店や最寄り駅から寒さに身体をこわばらせて入り、中の温度にほっとしていた店内が、今度は外よりも少し涼しく感じた。なんとなく籠を肘にかけたものの、冷蔵のお菓子類の前でシュークリームやエクレアを手にとっては悩み、一日二つ食べているヨーグルトがあと何個自宅冷蔵庫にストックが残っているか考え、この間久しぶりに飲んだら美味しかったカナダドライを探すとここでは取り扱いがないのか見当たらない。ペットボトル入りの水はAmazonで定期購入しているし、コーヒーやビールもストックがある。結局鮎美は、小さな袋に入ったチョコレート菓子を一つと食器用洗剤だけ籠に入れてレジに持っていき、ここのところほぼ毎日会う割には印象に残らない少し年下の新入り男店員にレジ袋を断って会計を済ませ、洗剤とお菓子を鞄にじかに入れて帰った。
離婚した妻と暮らす子どもが高熱を出し、普段ならさほど気にしない元妻が急に感染が増加しだした疫病を気にしてややパニックになっているから、店をいつもは先に帰る従業員に任せてちょっと病院に連れて行ってくる、と博隆から電話がかかってきたのは夜の八時を過ぎて、鮎美が納豆とインスタントの味噌汁と麦ごはんで、やる気のない夕食を済ませた頃だった。世代なのか性格なのか、こういうときに文字のメッセージではなく電話をかけてくる律儀さを鮎美は信頼していた。予定が早く終わったり、仕事の都合が変わって会う時間が増えるときには簡単なメッセージしか来ないのに、急な仕事や子どもの用事で約束を遅らせたりキャンセルしたりするときは電話や直接会っての会話で知らされる。大学で授業を持っている先輩のコラムニストは、最近の若者は遅刻や欠席の知らせは絶対に文字でしか送って来ないと腹を立てていたのだから、直接話してくれる博隆は礼儀正しいきちんとした大人だ。
「それは心配だね、もし病院が平気でもきっとヒロくんに朝までいてほしいよね、こっちは今日の座談会の原稿まとめたりするから大丈夫よ」
きちんとした大人にはこちらもきちんとした大人として対応しなくてはならない。鮎美は考え得る最もきちんとした返事をした。アユもうがいとか手洗いとかちゃんと気を付けて、とさらにきちんとした締めくくりで切られた電話を、鮎美はしばらく耳に当てたまま、広尾の家具屋で見つけたお気に入りの緑色の椅子に足を乗せ、片膝を立てた若干お行儀の悪い座り方をして天井を見ていた。実際、今日の座談会どころか、最近そこそこ流行っているセルフエステの経営者のインタビュー記事の構成も、有名メイクアップアーティストに迫ったドキュメンタリー映画の紹介コラムも、週明けまでに三パターンほど考えてほしいと言われている美容雑誌の旅行やビーチを除いた夏向けの特集の再考案も、何もかも終わっていない。早めに帰ったものの、なかなかパソコンを開く気にならず、ベッドに服のまま横になって携帯を見たり、テレビをつけて普段は観たいとも思わない夕方のニュースを三十分以上観ていたりしていたせいで、片付けるつもりの仕事は遅々として進まなかったのだ。
納豆のぬめりがついた茶碗や漆器ではない安物のお椀を流しに置いて適当にぬるま湯をかけ、使い捨ての濡れ布巾でダイニング・テーブルを拭くと、ひとまず二週間ほど前に中止となったイベントの代わりにウェブサイトに載せることになっているセルフエステのやり手社長の記事だけでも完成させようと、パソコンと分厚いノートを開いた。インタビュー当日に簡単に会話を起こしておいた原稿ファイルをクリックすると、思ったよりきちんとまとめてある。早く片付きそうなことに安心してファイルを開いたまま、鮎美は一旦立って湯沸かしポットのスイッチを入れ、おもむろに再び携帯を手に取った。ちょうどそのタイミングで玄関の方に向かって右側にある壁が、フライパンで殴られたような良く響く音とともに振動し、続いて男の子の泣き声と母親の声が聞こえてきた。
この時間は、隣の部屋の未就学児ふたりが夕食とお風呂を終え、就寝前に残っている体力を使い切ってしまおうと、もうひと暴れする。今日も何度か壁に突進し、何度か母親に叱られながら上の男子は走り回っているのだろう。下の子はたしかまだベビーカーに乗っているはずだから、その後ろを必死ではいはいで追いかけているのかもしれない。気温が高いので鮎美は久しぶりにキッチン前の外廊下に向いた窓とベッドの奥の川の方を向いた窓を両方開けていたし、向こうもそうしているらしく、冬の間は辛うじて誰のものかわかる程度だった声が、はっきりとその内容まで聞き取れる。どうやらプラスチック製の大きな車のおもちゃに乗って壁に激突し、危険運転の罪に問われているようだ。
鮎美は思い直したように携帯をパソコンの脇に置き、再びパソコンに向き合った。書き起こしたインタビューを効率よく貼り付けながら、やり手社長がよりイノベーティブで努力家で、女性の美について常に考えながら自分磨きを怠らない美しい女に見えるように、それでいてこれを読む消費者女性たちも行動力とアイデアさえあれば、そしてセルフエステで自分磨きを続ければ、これくらい美しく裕福な成功者になれると思えるように、原稿を作り上げていく。セルフエステに通い続けて人生が好転するなんて微塵も思っていない鮎美でも、書いているときはそう信じ込むようにしている。
ピンクベージュの爪がキーボードに触れる度に鳴る小さな音は、時折隣の次男坊の甲高い奇声にかき消される。鮎美は手を止めずに息を止めるようにして集中して文字を打った。変なところで笑う癖がある上に話があちこちに飛びがちなセルフエステの女社長の話が、みるみるしっかりした背骨のある話へ変換されていく。途中でポットのお湯が沸いたことに気づいたが、あとで再沸騰させることにして席を立たず、前後編に分かれる記事の前半を一気に完成させた。ウェブサイト用の記事は文字数の制限が緩いので細かく削っていく作業がいらない。席を立ち、もう一度ポットのスイッチを入れ、すぐに沸いたお湯をティーバッグのほうじ茶を入れた大きいマグカップに注ぎ、完成した前編を改めて頭から読み直して、三カ所あった変換ミスを直し、やや単調な箇所に句点を増やしてファイルを閉じた。
綾子の言葉が引っかかっていた。しがらみは獣の形をしている。間違いなく自己犠牲の能力はかなり低いであろう自分が、世話をする対象をあえて作りたいのだとしたら、理由は母性本能や育成の味わいなどではなく、綾子がしがらみと呼ぶようなものの中にある気がした。いつ取り壊されるかわからない快適なマンションで、自分の裁量で引き受けたり拒否したりできるそれなりに楽しい仕事を持ち、特に責任を押し付け合わない恋人と暮らす幸福に無自覚なわけではない。ただ、博隆が仕事や趣味を放り出してでも駆けつけるような、死ぬまで変わらず重要なものを持っているのに対して、鮎美の方には自分の都合でどうしようもない優先事項は何も思いつかない。
後編の記事を作る前に、開け放していたベッドの奥の窓を閉めようと立ち上がる。いつのまにか次男坊は泣き止み、壁に突進していた上の男の子の気配もない。頭を打ち付けて死んだわけでもないだろうから、きっとちょうど一日分の体力を使い果たして、電池が切れたように眠りについたのだろう。窓に近付くと、時々朝や夕方に遠くで鳴く小型犬が、いつにも増して立体的に、何かを訴えるように連続して吠えている。子どもの声はもう聞こえないし、集中して仕事をしていたせいか身体に熱が溜まっている感覚もある。結局鮎美は窓を完全に閉め切らず、掌の幅程度の隙間を残したまま薄手のレースのカーテンだけ閉めてダイニング・テーブルに戻った。
友人にやんわりと止められ、条件的な厳しさが増すといよいよ普段は人並み程度しかない鮎美の行動力が腹の底から湧いてくるような感覚があった。電車の中で確認したパグが保護されている場所は鮎美の実家のある静岡県内だった。単身がダメならば実家の母に一芝居打ってもらえば引き取るくらいはなんとかなりそうだ。医療費と譲渡費用は旅行のキャンセル代とほぼ同額で、いずれにせよしばらく海外や温泉に行けないことを考えるとそう痛い出費でもない。同年代の会社員より年収は多少見劣りするが、家賃も外食費も一般的なそれよりかなり抑えられている鮎美は今のところ経済的に逼迫した状況になったことはない。そんなことよりも問題は、建て替え予定のこのマンションに入るとき、定期借家で入居できる期間の上限が六年である故に安くなっていた家賃を、少なくとも二年間を二期分、つまり四年は住み続ける交渉をしてさらに値切った経緯にある。取り壊すなら今更ペットを禁止することもないじゃないかと思うものの、ゴミの出し方などを定める管理会社の貼り紙はいつも高圧的で、籠の中で小動物を飼育しているのが分かって契約違反とした事例などが怒りとともに貼り出されていたこともある。
後編用の新しいファイルを作成すると、鮎美の前に真っ白な画面が立ち上がる。記事の仮タイトルを打ち込み、会話を起こした原稿ファイルから、前編に使っていない部分をコピーしていく。本人に記事のチェックをしてもらうから、雑談的な箇所も少しは膨らませて使うのが良さそうだ。
少なくともあと四年は安い家賃で暮らせるこのマンションを出る理由は一つもない。店を閉めるのが遅い博隆とゆっくりできる時間を増やすには、通勤のない鮎美が場所を合わせ、フレキシブルに働ける鮎美が時間を合わせて、持ち家のない鮎美が広めの家に引っ越すことはすべてにおいて理にかなっていた。長く続けているビストロを移転するのは難しいし、住居はビストロの上階にあったし、前妻とは子どもが熱を出したら駆けつけられる距離にいなくてはならない。博隆は気持ちではどうにもならない形で世界と繋がっている。その繋がりは強固で、疫病が猛威を振るおうが、天災が起きようが、たとえ鮎美と別れて会わなくなろうが変わることはないだろう。
鎖のない生活を選択した自分が、しがらみが欲しいと思うのは単なるないものねだりなのかもしれない。隣の芝生が青く見えて、自分の庭が本来的に持つ煌めきに無自覚になっているのかもしれない。かつて三十歳を前にこんな風に焦燥感を持って結婚してすぐに諦めたように、動いてみて初めてもと居た場所の魅力に自覚的になるような気もする。それでも多頭飼育崩壊で保護された黒いパグのために、あらゆる面で都合の良いこのマンションを出るくらいの不自由を、鮎美は欲していた。
まとまってきた記事を細かく切り貼りして整えながら、川の方から聞こえる地元の若者の声や大型トラックの音に耳を澄ます。もう小型犬は鳴いていない。仕事が一通り片付いたら、いくつかある友人グループに引っ越し希望者がいないか確認してみようか。契約期間に上限があるとはいえ、破格の条件なら住みたい人がいるかもしれない。おそらく貸主もそのまま知り合いが入居すると言えば文句は言わないだろう。鮎美の払った敷金をそのまま引き継げばよい。明日、不動産仲介の会社に一応確認してみよう。
二五〇〇字ほどの後編をざっと完成させ、すっかり冷めたほうじ茶の残りをすすりながら最初から読み返す。語尾が、そうしマス、思いマス、できマス、と続いているところのすわりが悪いのでいくつか適当に調整しながら、空いた分の脳の余剰を使って、部屋を引き継ぐ際の段取りとパグの保護団体に送るメールを考えてみる。どのタイミングで送るのが良いのか、早くしないと掲載期間が終わったり、他の人に引き取られたりするかもしれない。作業が山積みで、効率よく進めなければゲームがオーバーしそうな手順だが、鮎美はさくさくと作業をこなすのは不得意ではない。博隆はお互いに居心地も都合も良いこの部屋を惜しむだろうか。遠くなれば会う時間を減らすのだろうか。さらに遠くへ行けばもう会わないだろうか。それでも博隆がいくつかの鎖でこの地に繋がっているのと同じように、自分にも新たな鎖ができることはなんだか前向きに考えられる。
手元で完成間近の原稿は、アラフォー社長がアラフォー女性に向けて説く、現実的な値段で最高のメンテナンスを持続することの重要性を、アラフォーの美容ライターがまとめた良い記事になるだろう。すでに成功しているセルフエステはさらに予約がとりにくくなるに違いない。鮎美は少し悩んでいくつか文章を入れ替え、最後は社長からの提案で締めた。
――二重の形が気に入らないとか、エラがはっているとか、鼻が低いとか、二の腕が太いとか、持って生まれた身体の特徴はそう簡単には変えられないあなたの個性。でもコンプレックスをただ放置しているだけではそれらが徐々に個性となり愛嬌となるわけではありません。変えられるものを変え、よりよくできるところを磨いて初めて、変えられないものを愛せる力が湧いてくるのです。
(つづく)
連載【ノー・アニマルズ】
毎月金曜日更新
鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部在学中にAVデビュー。その後はキャバクラなどに勤務しながら東京大学大学院社会情報学修士課程修了。修士論文はのちに『「AV女優」の社会学』として書籍化。2022年『ギフテッド』が第167回芥川賞候補作、23年『グレイスレス』が第168回芥川賞候補作に。他の著書に『身体を売ったらサヨウナラ』『娼婦の本棚』『8㎝ヒールのニュースショー』『浮き身』等多数。
Twitter:@Suzumixxx