第5回 402号室 八歳は権力を放棄したい〈前編〉 鈴木涼美「ノー・アニマルズ」
2025年に取り壊しが決まっている老朽化マンションで暮らす住人たちの小さな破綻と孤独を描いた、鈴木涼美初の連作短篇小説。
両親、ふたりの弟と暮らす小学二年生の李一。母親の機嫌や弟の気遣いで空気が不安定に揺れる家のなかで、聡明な長男が抱える思いとは……。
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©︎OKANOUE Toshiko「幻想」Courtesy of The Third Gallery Aya
白檀という植物の名前はまだ知らないが、香りははっきりかぎ分けられたので、プールから持ち帰ったバッグを玄関土間に乱暴に投げつけて、李一は押し入れのある奥の部屋の方へ急いで駆け込もうとした。足を振るようにしてビーチサンダルを玄関に脱ぎ捨てたつもりが、左だけ汗でおかしな具合に張り付いたままだったので廊下の壁に手をついてもう一度振るい落とそうと左足を上げると同時に、目の前にある扉が開いた。驚いて壁から手を放したせいでバランスを崩し、危うく派手に転ぶところだった。
「靴!」
トイレに入っていたのが母の杏子だったのは不運だった。李一は、うお、と言葉にならない声を出して自分の左足親指にまとわりつくそれを見て、気まずさを感じながらそれを右手で取った。おかえりなさいという言葉を待ったが、考えてみれば李一の方もただいまを言っていなかったので、挨拶は諦めて、手に持ったビーチサンダルを置きに玄関まで数歩の距離を戻る。振り返るまでもなく母の視線がこちらに向いているのがわかったので、さきほど脱ぎ捨てた際に裏返しで斜めに飛んでいた右側と揃えてきちんと置き直した。
「靴は脱いだら先を表の方に向けて置き直すの。玄関を見ると、そのおうちがどんなおうちか分かるって言ったでしょう」
鼻緒の部分が蛍光イエローの青いゴム草履はすでに爪先を玄関扉の方に向けて丁寧に並んでいるのに、これ以上ないほどきちんと置いた後に何度も聞いたことをくどくどと説明される理由はない。李一は返事をせずに投げ捨てたプール用のバッグを持ち上げ、あえて大袈裟に母の身体を避けながら、母と壁の間をすり抜けて奥の部屋に向かった。
トイレに向かっているまさにその時にトイレに行っておいたほうがいいんじゃないかと言われたり、昨年始まった小学校の時間割を確認している途中で明日の用意はしたのかと聞かれたりすることを、李一はこの世に存在するほとんどすべてのものより憎んでいる。一番下の弟が最も煩く泣く一歳半になった頃に学校に上がった李一は、大抵の同級生の親にはしっかり者だと言われることが多いし、五月生まれであるからか保育士や小学校の先生にも利口なふるまいを求められているところがあった。母の口にする小言の多くはすでにわかっているし、実行していない場合も知識がないとか忘れているとかいうわけではない。わかっているけどタイミング的に今ではなかったり、他にそれより大事なことがあったり、悪いとわかっていても止められなかったり、それぞれにそれなりの事情があるのだ。
奥の畳の部屋に入ると、柔らかいゴム素材の柵で囲まれたプレイマットの上で、末っ子の柚希が組み立て型のロボットをしきりにマットに叩きつけている。ロボットの持ち主である真ん中の桂太の姿が見えないが、柚希にとっては都合が良いだろう。ロボットは解体して組み立て直すと新幹線の車両に姿を変えるおもちゃだ。桂太はクリスマスに二つだけ買ってもらったそのシリーズを後生大事にしていて、柚希は勿論、李一にもめったなことでは触らせない。桂太は保育園に行きたがらない日が多く、朝から晩までロボットを解体しては新幹線を組み立て、新幹線を解体してはロボットを組み立てる。扱いが丁寧なのか、作りが良いのか、部品が外れたり割れたりしているのは見たことがないが、一度柚希が新幹線状態のそれの先端部を口に入れた時には、家族の中で一番心優しく穏やかな桂太がマットをひっくり返して怒り、普段大人しい桂太の暴れる姿に驚いた柚希がいつも通りの野性的な大声で泣きだしたので畳の部屋は動物たちの戦場のようになった。
「ユズ、あんまり叩くとまた怒られるよ」
李一はできるだけ穏やかな声でそう言いながら学校の先生を真似てあえて大袈裟に腕組みをしてみせたが、そのような子どもだましの威嚇はまるっきり柚希に無視されて、あげく新幹線ロボットではない汚いぬいぐるみを投げつけられた。ぬいぐるみが股間のすぐ上に当たりそうだったので李一が腰を後ろに突き出す姿勢で避けると、柚希はバアイとよくわからない声を出してけらけら笑う。柚希の着ているアメリカのアニメキャラがプリントされた薄い黄色の半袖の服は、ご飯を食べる手前の部屋に飾られた写真では二歳の李一が着ているもので、そういったことは李一が柚希の意味不明な行動に呆れたり怒ったりしないでいられる理由の一つだった。二歳の頃の記憶なんて李一にはほとんどないが、自分が直面していた現実よりも三番目に生まれた柚希の今まさに直面している理不尽の方が厳しいのはなんとなくわかる。
不安定な両足で立ってプレイマットの囲いから外に出ようとする柚希を横目に、李一が押し入れに目をやると襖の開けられた左側の縁にハンガーで杏子の浴衣がかけられている。玄関までほのかに嗅ぎ分けられたのは、年に一度か二度、普段は紙の箱に入れて押し入れ上段の奥に仕舞い込まれたそれが出される時にだけ香る匂いだった。浴衣と一緒に箱に入れてある扇子や下駄の匂いなのかもしれないが、李一はその白檀とお香の混ざったような香りをざっくり浴衣の匂いだと認識していた。昨年の夏、杏子の祖母、つまり李一の曽祖母にあたる人のお葬式でも、ちょっとだけ似た匂いを何度か嗅いだ。
長兄が畳の部屋にいるのを確認してから杏子は短い廊下にあるトイレ横の扉を開けて、脱衣場にある洗濯機から脱水された衣類をかき出すようにプラスチックの籠に移し、ユズ見ててね、と李一の方を見ずに言ってからご飯の部屋の方へ向かった。ご飯の部屋の方にだけ、小さなベランダがある。築四十五年のマンションの風呂や脱衣場は、はやりのドラム式洗濯乾燥機を置くことができない。設置場所の規格以前に、そもそも脱衣場に入る扉の枠を通らないのだ。入口でつかえてしまうのであれば、壁を壊すようなリフォームでもしない限りドラム式の夢は潰えたも同然で、それは三人の息子が次々に汚す下着やタオルを洗濯する杏子にとって、絶望に値する。李一は母が時折酷く機嫌の悪いことの一因は洗濯機にあると勘づいているし、以前李一たちの父である隆人もそのようなことを言っていた。
「ユズ、ケイ兄はどうした」
李一は押し入れの上段に置かれた蓋の開いた紙の箱の中身を確認しながら、たどたどしく柵につかまる柚希に言った。柵を摑んでいるのと逆の手には未だに桂太の新幹線ロボットが握られている。柚希が生まれてから家族は長男と次男をそれぞれリイ兄、ケイ兄と呼ぶようになった。そうでない名前で呼ばれることもあるが、柚希を含めた家族が全員揃っていると必ずそう呼ばれる。桂太が生まれた四年半前のことは李一もほとんど覚えていないが、少なくとも柚希が生まれる前まで桂太はケイちゃんで李一はオニイチャンだったので、人の誕生というのはすでにいる人の存在を覆すほどの事態なのだと小二の長男は漠然と感じている。
柚希はあいかわらずけらけら笑いながらニイニ、ニイニと李一のことなのか桂太のことなのかよくわからない呼称を繰り返して機嫌よく新幹線ロボットを振り回している。大きな川の近くのこの古いマンションからJRの駅の方へ、細い川沿いを五分とちょっと歩いたところに住む父方の祖父母も、その家に結構な頻度でやってくる父の兄の家族も、独身で派手な格好をしている隆人の姉も、人懐っこい柚希が遊びに行くと、飽きずにずっと遊んでくれる。特に李一と同じ学年で早生まれの従妹である百花は柚希がお気に入りで、柚希もモモ、モモと言って百花の足にまとわりつく。桂太が不親切に扱われるわけではないし、祖母は孫たちに分け隔てなく優しいのだが、人は若いほど露骨に好みを表すものだと李一は少し呆れてみている。そう考えると母の杏子だけが優秀な李一でも愛らしい柚希でもなく、桂太のことばかり気に掛けるのはフェアな感じがした。従妹も含めて最初の子どもだった李一も一族には大層可愛がられたのだろうが、赤ん坊のころの記憶はさすがにもうないし、物心がはっきりついた時にはすでに弟がいて、気づけばオニイチャンと呼ばれていて、学校に入って間もない頃から百花には宿題やら予習やらでわからないところを聞かれるようになっていた。
箱の中に入っているはずの子ども用の甚平が見当たらないので、李一は箱をどかせて押し入れの上段を隅々まで探してみるのだが、父の文字で「冬もの」「クリスマス」などのメモが貼られた箱がびっしり詰まっているだけで、それらしき布は見当たらない。風呂敷で包まれた衣類があるので風呂敷の結び目を解かずに隙間から中身を確認すると黒ばかり見えてどうやら葬式の服がまとめてあるだけらしい。下の段は座布団と冬用の毛布などがやはり隙間なく詰まっていて、右に寄せてあった襖を今度は左に二枚ともずらしてみても、そこには見慣れた敷布団や普段着の入った衣装ケースが見えるだけだった。
夕方になると西日が差し込む畳の部屋は、午前中は夏でも廊下やベランダのある部屋に比べると涼しく過ごしやすい。夏休みのプール登校を終えて李一が帰ってくるこの時間はちょうどご飯の部屋と畳の部屋の光の加減が同じくらいになる時間だった。洗濯物を干し終えたのか、プラスチックの籠にいくつか白い洗濯ネットだけを入れた母の姿が廊下に見える。柚希から桂太の場所を聞き出すのは難しそうなので、李一はプールのバッグから濡れた水着とタオルを取り出しながら母のいる脱衣場の方へ移動した。
「俺の甚平ってもう出した?」
李一が濡れた水着を洗面台に置いてから、洗濯機の前に立つ母にタオルを渡しながら聞くと、母は小さく眉間にしわを寄せて一瞬動きを止め、ああ、と言ってタオルを受け取る。
「ケイちゃんが着たいって言うから、畳んでた皴がそのままだったけど、着せちゃった。リイ兄着たかった?」
なんとなく予想していた通りの答えに少しだけ李一の気分は沈んだが、杏子の気を遣った親切な言葉は李一の不満を寄せ付けない響きを持っていた。母が桂太をケイちゃんと呼ぶときは、桂太をケイ兄ではなく弟として、李一にオニイチャンの役目を求めるときだということに、聡明な長男は気づいている。洗面台の明かりが畳の部屋や廊下より随分暗い気がしたので瞳だけ動かして天井の方を見ると、脱衣場の蛍光灯はちゃんとついている。夜には眩しいくらいの電気なので、蛍光灯の調子が悪いような気がした。
「もうお祭り行ったの?」
「ん? 誰? ケイちゃん? あのね、二階のおにいさんとちょっとだけ見に行ってるよ」
そういって母は李一から受け取ったタオルを洗濯機に放り込み、排水口にゴム栓をしてから水着に水道水を勢いよくかけて、もみもみして洗ってね、と二、三度お手本を見せるように右手で水着をこねてみせた。浴衣に合わせるつもりか、昨日まで黄色かった母の爪が白地に青の花柄になっているのに気づいた李一が洗面台の下を見ると、足の爪も黄色から青一色に変わっていた。
学童の友だちであるハガやオガたちには甚平で行くと言ってあるが、桂太がいつ帰ってくるのかはよくわからないので、そわそわして待つよりも諦めて別の案を考えた方がよさそうだった。それに、桂太は宝物の新幹線ロボを誰にでも好かれるタイプの弟に何度も床に叩きつけられていたわけだし、李一が友人らと甚平を着てお祭りに行くとなれば余計に脱いではくれないだろう。ロボの一件を除くといつも柚希の面倒をよくみて、母の日なんかじゃなくても母の疲れや機嫌に敏感に反応して気遣い、ときどき威張りたがる父が何か喋り出すと、子どもには退屈な話題でも大人しく聞いて、親や保育士がダメと言ったことは二度としないような桂太が、なぜか李一のすることだけはやめろと言ってもこっそり隠れてでもなんとかして真似をしたがる。柚希の場合はもっと堂々と正面から突進してきて力ずくで欲しいものを手に入れていく感じだが、桂太は李一のいないところで兄の下敷きをお尻の下に敷いている感じなのだ。
いずれにせよ母も一度祖父母の家に行って、祖母に手伝ってもらわなくては浴衣を着ることができないと分かったので、李一は柚希と杏子とマンションを出て、桂太を下で拾ってから祖母の家に歩いていくことにした。隆人の実家には子ども用の浴衣がいくつかある。他界した隆人の祖母が子どもや主婦に盆踊りを教えていたからだろう。友だちとの待ち合わせには遅れそうだったが、一緒に行ってくれるはずのハガの父親に杏子から連絡を入れておいてもらった。李一は母の機嫌や桂太の気遣いで空気が不安定に揺れる自分の家よりも、ちょっと散らかってはいるが広くて明るい祖母の家が好きだったので、一度立ち寄ってお菓子でもつまんでからお祭りに行くのでも全くかまわなかった。
マンションを降りてすぐの横断歩道はうまい具合に周辺の建物の影から逃げて、ちょうど白線だけが日の光を浴びていた。夜と雨の日は黒の縞模様に見えて、晴れの日の朝や昼は白い梯子に見える。柚希は杏子が昔の同僚にもらったドイツ製のベビーカーに一人だけ乗せられているのが不満なのか、マンションのエレベータの中からずっと奇声をあげていて、母は焦ったような泣きそうな顔でそれをやめさせようとしていたので、ベビーカーの下の荷物入れに入りきらなかった杏子の浴衣や下駄の入った大きな紙袋は李一が持った。横断歩道の手前の植え込みのあたりで会うはずが、次男の姿が見えないので母が首からぶら下げた携帯電話を手に取った瞬間、ようリーチ! と大人の男の人のよくとおる声がして、振り向くと同じマンションの二階に住む絵描きのマコトさんに脇腹を手で挟まれるような形で、ふわっと宙に浮いている桂太が見えた。やはり去年のお祭りで李一が着ていた紺色の甚平を着ている。いつもの桂太のぎこちない笑顔も、あれはあれで結構可愛げがあると長男としては思っているが、外で母や父ではない大人と一緒にいる弟はなんとなく別人のように見えた。
「大事なご子息お借りしましてすみません」
マコトさんはどうやら桂太に描かせたらしい自分で絵をつけられる夜店の風船を桂太の手にしっかり握らせてから、柚希が暴れるせいでバランスを崩しかけていた杏子の持つベビーカーを手慣れた様子で横から支えた。
「すみません、風船買ってもらっちゃったんですか」
母がよそ行きの声を出したので李一はなんとなく居心地が悪く、相変わらずガーゼのタオルケットを振り回すようにして腕を動かしている柚希の手を握った。マコトさんが李一の持っていた紙袋をひょいと横から持って、こんな重いの持てるのか、さすがだなと言ってから、最近時々仕事をしている子ども向けの絵画教室が風船のブースを出しているから、そこに遊びに行くのにつきあってもらっただけで、お金は全然払っていないというようなことをよそ行き顔の母に説明した。李一が小学校に上がるより前にこのマンションで会うようになったマコトさんがどうしてこんなに子ども扱いがうまいか不思議だ。マンションの防災訓練のお知らせを伝えに来たマコトさんが時々家に来たり、マコトさんが彼女と住む二階の部屋に李一や桂太を招いたりして、絵を描かせてくれるようになったのはもうずいぶん前だ。父の隆人もカレンダーの休日が関係のない自営業だが、マコトさんはそれ以上に自由なようで、父がいないときに電球を替えてくれたこともあるし、柚希のプレイマットの柵を組み立ててくれたのもマコトさんだった。特に一人でもくもくと何かをするのが好きな桂太はマコトさんとのお絵描きが気に入って、誘われなくとも部屋を訪ねていく始末だった。
プールにいたときより陽は少し陰っているものの、外で立っていると蒸し暑い。李一は帰ってきたときと同じ服の内側で、自分の肌の上を汗がつたっていくのを感じていた。祖母の家まではベビーカーを押して歩いても十分ほどでつくので学校より少し近いくらいだが、それでも真夏に歩いていくときは到着するとすぐに祖母にシャワーを勧められるほど汗をかく。祖母の家の風呂はマンションの三倍ほども大きくて、古いので冬は寒いが子どもなら三人でも四人でも一緒に入れるのだ。李一は全く覚えていないが、実はほんの少しだけ、祖母の家に家族で暮らしたことがあった。
家族がこのマンションに引っ越してきたのは李一が生まれた後だ。杏子の母は結婚相手として隆人を紹介された時にはすでに大腸にできた腫瘍が体内のあちこちに転移しており、正式に入籍する前に死んでしまった。東京の江戸川とは逆側、多摩川沿いの住宅街に育った杏子は隆人との結婚を意識し出した頃には、多摩川を渡って実家と行き来しやすいエリアに近年急速に増えている新しいマンションに居を構えることをなんとなく考えていた。都内のホテルに勤めていた杏子も、電気関連の工事を請け負う会社を個人で立ち上げている隆人も、都心から遠く離れなければ特に仕事に支障はないと思ったし、多摩川沿いの治安や民度に絶対的な信頼と愛を持つ杏子に対して、隆人が地元に強いこだわりを見せたことはなかった。
治療すれば治ると信じていた母が闘病を始めてすぐに死んでしまったことと、産休からすぐにでも復帰するつもりだったのが産後の肥立ちが思いのほか悪かったこと、そもそも約三千グラムの赤ん坊が一人増えただけで睡眠時間の七割以上と体力の九割以上、それから自宅のスペースの十割を奪われるのがわかったことで、新しいエリアでの新生活は全く非現実的なプランになってしまった。杏子はひとまず育休として申請できるぎりぎりの期間まで仕事を休まざるを得なかったし、仕事を休んだところで誰かの手を借りずに昼間、赤ん坊の面倒をみる自信もなかった。杏子の父はまだ働いていたし、そもそも昭和二十年代生まれの男親に子育てに関して期待できることなど何もない。介護が必要でないだけまだ幸運だと思うしかなかった。
「とりあえず、李一がちょっと大きくなって、キョンが体力回復して仕事できるようになるまでうちの親頼ってくれればいいよ」
隆人は気軽に実家の二階への転居を提案した。そもそも隆人の祖父母が一階、隆人の家族が二階に住んでいたその家は、祖母が九十歳で死んでからは隆人の両親が一階に移り、つまり二階部分がまるまる空いていたのだった。若い夫婦はそれまで隆人が一人暮らしをしていた渋谷区のマンションから、生後二か月の李一を連れて古い二世帯住宅に移り住み、約六か月そこにいた。少し体調の持ち直した杏子はいかに嫌われることなく、手助けだけは今まで通りしてもらう関係を維持しながら、義理の母が毎秒話しかけてくる距離からいかにして離れるかということだけに外資系ホテルのレセプションで培った社交性と戦略的思考をフルに使うようになった。
隆人の母はもともと美術系の出版社に勤めていただけあって考えが古いようなところはなかったし、父の方は制作会社から食品会社の広告部に移ったディレクターで、新卒一年目から電力会社に勤める杏子の父よりずっと料理にも育児にも積極的だったが、二人して異様なおしゃべりで、しかももう何十年も同じ土地に住んでいるせいか、一階の居間にはしょっちゅう近所のよく知らない中高年がやってきてはべらべら喋っていた。何か具体的に気に入らないことがあるわけではない。ただ、一世代前から使っている食器やいつのものかわからない雑誌など、生活を形作る雑貨が地層のように重なったその家で、義理の両親よりかなり年上の口を開くたびに金歯の見える太った不動産屋と談笑している自分の生活を、杏子は自分の人生だとは思えなかった。
「子どもって大勢の大人が育てた方がいいと俺は思うんだけどな」
隆人の意見はまっとうだと思った。人のことなら杏子もそちらの意見に同意する。ネグレクトも暴力も、あるいは母娘の共依存だって、地域社会が崩壊したのち閉じられた狭い空間に親と子どもだけ取り残されて、一義的な責任をすべてまだ年端もいかない若い親に押し付けてきたからこそ生まれたと信じられた。かといって自分が日曜夕方に放送される家族アニメの主人公になりたいかというと、杏子の中ではそれは全く別の問題だった。
結局、乳児から保育園に入らないといざ仕事に復帰するときに途中からではとても入れないこと、親と同居して杏子が仕事を休んでいる状態では優先入園の条件を満たせず、遠い保育園まで通わなくてはいけないことなどを並べ立て、隆人の給料だけでなんとか借りられそうな古いマンションを探した。隆人の実家から徒歩圏内に限ることにしたのは、引っ越しと別居を攻撃的な意味にとってほしくないという杏子からのメッセージだった。それは穏やかなものではなく、母を失った杏子にとって、隆人の両親はすでに生命線なのだ。住み込みのナニーもメイドもいない東京近郊の砂漠は、外資系ホテルのレセプショニストにはエキサイティングでも、赤ん坊育成は無理ゲーすぎる。杏子の生まれ育った多摩川方面にあったカジュアルフレンチも溶岩ヨガもボタニカルショップもない江戸川沿いのマンションは現実的な選択だと思うしかなく、そう自己暗示をかけているうちに、桂太が生まれて、さらに柚希が生まれた。
マンションから私鉄の最寄り駅の方まで川沿いを行き、線路を渡って今度は川を背にして少し歩けば隆人の両親の暮らすにぎやかな家に着く。マコトさんと別れて李一と桂太が紙袋を交代で持ちながら、三男の乗るベビーカーとつかず離れずにゆらゆらとふざけながら進んでいると、川沿いには祭りのせいかいつもの倍以上の人出があった。浴衣を着た小学生が誰かの悪口で盛り上がり、犬を連れた夫婦が険悪な空気を醸し出している辺りを抜けると、この辺りの公立校ではない、おそらく川を渡った都心の私立高の制服を着た女子高生がすぐ近くを通った。女子高生を見ると杏子はついかつて若かった自分の視線を思い出し、その視線で今の自分を見るのを止められない。結局仕事は育休明けに退職したが、ネイリストの友人を自宅に呼んでまで今でもフットもハンドもネイルを完璧にしているのは、せめて始終自分の目につくところだけは、かつて自分がそうで、今失いつつある何かの片鱗を残しておくためだった。むしろ接客の仕事がなくなったことで、立体的なストーンも青やオレンジの派手な色も自由に使えるようになって、それは憧れの仕事を放棄して江戸川沿いにとどまっている杏子が勝ち得た、数少ない自由に思えた。
杏子が女子高生を目で追った後に自分の足元のネイルをわざわざ履いていたサンダルをずらしてまで確認するので、聡明な長男と敏感な次男は母の機嫌に若干の不穏な空気を感じ始めていた。杏子が爪を見ている時は、爪以外の現実を見たくない時なのだと、二人の兄たちはなんとなく知っている。自転車やベビーカーの通れるスロープの箇所で川沿いの遊歩道を降りて道路に戻り、浴衣をかついだ親子は踏切が開くのを待った。先ほどまで宙に浮いていた桂太は、また少しぎこちなく笑っている。
マークがついているだけでも効果はあるから、という李一の曽祖父にあたる故人の思いつきによって祖母の家の表門の枠には、テレビCMで流れる警備会社のステッカーが貼ってある。本来、警備の契約をした家にのみ提示が認められるものだが、地元で信用金庫の理事を務めた曽祖父には知り合いが多く、警備会社のOBに無理を言って契約をせずにシールだけもらったらしかった。曽祖父亡き後、隆人は、こんなに古びたシールでは意味がない、と剝がすことを何度か両親に提案したが、元来割といい加減な性格の隆人の母はそうねえと言うだけで、結局貼られたままになっている。そのような事情を知らない李一も、英語のロゴが描いてあるそのステッカーは古く重厚な木の門に不似合いな気がして、訪れるたびについじっと見てしまう。
警備シールの貼られた門をくぐり、旗竿型の敷地内に入ると、コンクリート造りのかつての二世帯住宅がすぐ見える。小さな庭に面した大きな窓から中の時計を見るとすでに長針と短針は直角になっておやつの時間を指していた。李一がハガたちと待ち合わせていたのが三時ごろだったので、遅刻は確定だが、どうせ最初のうちはなんとなくみんな遠慮してあまり大きな動きはない。ゲームや飲食が本格的に始まるのはもっと日が傾いてからだろう。庭は小さいながらもいつも丁寧に芝生が刈りこまれている。朝に祖父がシャワーホースで撒く水が蒸発しながら太陽の光を反射して、蛍光ペンのグリーンみたいな色に見えた。隣家との境にある壁の前に植えられた柚と金柑の木は年によっては大量の実がなるので、李一は何度か金柑をもいで食べた。誰も見ていないときに柚の実ももいで少しだけかじったことがあるが、皮が厚く、苦い気がしてこっそり木の陰に埋めた。母がアンズだから長男がスモモで三男がユズというのは納得がいくが、桂太の名前にあるカツラの木を李一はまだ見たことがない。ユズやスモモのように実がなる木なのかどうかも知らなかった。
「リイ兄、先に入ってドア開けて」
杏子がそう言ったとき、ちょうど桂太が紙袋を持っている番だったので、李一はすでに玄関扉の前の段差の上に立っていて、先にベビーカーが段差を越えるのを手伝ってから扉を開けようと考えていた。桂太が自分の背丈に不釣り合いな紙袋を腰の後ろに回し、担ぐようにして運ぶのが見えた手前、何も言わなかったが母の言葉に返事はしないでおいた。こういうとき、何か声を出すと鼻と目の奥がきゅっと締まって口の中にある舌の両脇が酸っぱくなるのを李一はよく知っている。声を出してからその酸っぱい唾を飲み込むよりは、まだ酸っぱくなる前に出そうになった声を飲み込む方がいいのだ。
玄関扉は数年前にリフォームされて新しく、ハンドルを軽く引くとカチャと独特のアルミの音がして、力を入れなくとも勝手に半開きになる。李一がハンドルに手をかけてアルミの音を鳴らしたのと、内側から祖母の声がしたのはほぼ同時だった。祖母は明るい声を出しながら汚れた男物のサンダルをひっかけて出てきて、よいしょよいしょと言いながらベビーカーを玄関の中に引き入れた。桂太は母の後ろで相変わらず腰を少し曲げて紙袋を背負っている。
出された麦茶の氷まですべて食べてしまったので、李一は仏壇のある部屋の方へ行って、祖母が出しておいてくれた浴衣の柄を見比べた。一つはほぼ無地の紺色で、一つは格子柄、動物の絵柄のものもあるが、どれもグレーや青みのある黒で、桂太の着ている甚平と見た目の雰囲気はそう大きく変わらない。廊下から覗いた祖母に、これがいいかな、と青みがかった黒地に細いグレーの縞模様が浮かぶ浴衣を見せた。
「いいね、リイ兄はやっぱり渋いね」
祖母は少しわざとらしく感心するような顔をして太い声で言った。
「いや、色が違うと、またケイタが」
「色?」
「甚平と色が似てる。だからこれがいい」
なんとなく分かったけれどその発想はなかった、というような顔の祖母が仏間に入り、浴衣の他に濃紺の兵児帯を手に取って、近くに出してあった李一にはやや大きいタンクトップ型の下着を見ながら、それ大きいから今着てるのの上に重ねちゃっていいね、と言った。李一は言われるがまま、下に着ていたハーフパンツだけ脱いで、Tシャツの上から浴衣を肩にかける。仏壇の上には李一が会ったことのない曽祖父、曽祖母の写真がそれぞれと、軍人のような格好をしただれかよくわからない割と若い男の写真が飾られている。綺麗な紫の枠に入った曽祖母の写真だけ明らかに新しく、背景が晴天の空のように水色に加工してある。畳にいくつも浴衣が広げてあるからか、いつもの井草と線香の匂いだけではない、やはりほのかな白檀の香りがする。
「リイ兄は優秀だから、学校でも頼りにされてるでしょう」
祖母は子ども用の浴衣を腰紐などを使わず瞬く間に着せてくれた。帯を結んでもらいながら李一は、いや別に普通だよ、と答えた。保育園のときと違って小学校の同じクラスには四月生まれや五月生まれの男児は李一の他にも何人かいたし、すでに学校とは別のお勉強教室に通って四年生の漢字まで書ける者もいる。委員長はいつでも最初に手を挙げる女子がなったし、ほかにもクラスの物事を最終的に自分が決めようと思っているのは大抵女子だ。余計な責任を負わされない点で、学校での自分の立ち位置に李一は概ね満足していた。
「ケイタは個性的だからね、勉強もできそうだけど、芸術家になりそうでもあるね」
桂太は祖母の家について早々風船を祖母に見せて絵が上手だと言われると、満足したのか居間のソファで母と柚希の向かいに座ったまま目を閉じてしまった。何も求められることのない保育園ですら苦痛に感じる桂太があと二年もしないうちに学校に上がると思うと李一はやや心配だった。心優しい者が生きやすいようには教室はできていない。
「ケイは変わってるって言われるけど、意外と俺の真似ばかりしたがる」
そもそも仏間で祖母に帯を巻かれているこの状況が、弟に甚平をかすめとられたからだということもあるのだが、祖母の言葉に限らず、なんとなく芸術家向きと言われる者の特権性について最近の李一は小さな違和感を持っている。それは桂太に対してというより、まだ形の定まらない小さな動物たちにそれぞれわかりやすい特徴を欲しがる大人たち全般に向けられたものだ。
「それはねえ、モモのパパに言ったら、ながーい苦労話が聞けるわよ、あんたのところのパパは末っ子だったでしょう、末っ子にも末っ子なりの苦労はあるみたいだけど。とにかく弟にとってお兄ちゃんってほんと、とにかくもう絶対的な存在なのよ、親より先生より好きな女の子より、とにかくお兄ちゃん」
祖母は何度もとにかく、と言いながら、簡単な結び方で帯を完成させ、李一に自分の方を向かせて襟やおはしょりを少し直した。モモのパパは李一の父の兄で、今はJRで二駅先の、川を越えて東京に入ってすぐの場所に住んでいるが、高校を出た後は、わざわざ北海道の大学を受験して、六年間もあちらに住んでいたらしい。李一は北海道に行ったことはないが、大学にあった牧場の写真なら見せてもらったことがある。北海道に行ったことと長男の苦労が関係しているのかどうかはわからないが、いずれにせよ柚希には、というか父の隆人にも、末っ子の苦労なんてものを感じる繊細さは備わっていない気がした。
「リイ兄はここ住んでたの覚えてないね。でもマンション、もうすぐ壊すから引っ越すってパパ言ってたでしょう、またここに住んだら家賃なんかいらないのにね」
祖母は単なる雑談の口調で言ったが、家庭内で徐々に発言権を得つつある李一に何かしらの期待をしているのがはっきりわかって、李一はあえて子どもらしい仕草で帯でしめられた腹をくねくねと曲げてあちいなぁと言った。襖の奥の廊下から、居間の扉を開ける音がしたので桂太が起きたのかと思ったら、柚希を足に纏わりつかせた母だった。
「ハガくん、あと五分くらいで一回寄ってくれるってよ」
祖母にお礼を言った杏子が李一の方を見て、学童の友人たちの到着を教えてくれた。祖母は母が柚希を持ち上げてまた居間に引っ込んだのを確認してから、李一の左手に五百円玉を握らせてくれた。
(つづく)
連載【ノー・アニマルズ】
毎月金曜日更新
鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部在学中にAVデビュー。その後はキャバクラなどに勤務しながら東京大学大学院社会情報学修士課程修了。修士論文はのちに『「AV女優」の社会学』として書籍化。2022年『ギフテッド』が第167回芥川賞候補作、23年『グレイスレス』が第168回芥川賞候補作に。他の著書に『身体を売ったらサヨウナラ』『娼婦の本棚』『8㎝ヒールのニュースショー』『浮き身』等多数。
Twitter:@Suzumixxx