第6回 402号室 八歳は権力を放棄したい〈後編〉 鈴木涼美「ノー・アニマルズ」
2025年に取り壊しが決まっている老朽化マンションで暮らす住人たちの小さな破綻と孤独を描いた、鈴木涼美初の連作短篇小説。
両親、ふたりの弟と暮らす小学二年生の李一。母親の機嫌や弟の気遣いで空気が揺れる家のなかで、聡明な長男が抱える思いとは……。
[毎月金曜日更新 はじめから読む]
©︎OKANOUE Toshiko「幻想」Courtesy of The Third Gallery Aya
神社の外に連なる縁日の比較的端の方にある宝釣りの屋台の前で、母の腰のあたりを摑んで歩く桂太に遭遇したのは、李一が祖母の家を出てから一時間半と少し経った頃だった。それまでに友人たちと目当てのボールすくいや型抜きをあらかた終えて、ハガの父親が李一が合流して六人になった子どもたちそれぞれ二人に一つずつ買ってくれた焼きそば以外に、小さめのクレープも平らげていた。とはいえ友人たちと遅くまで外で遊んでいられる夜は年に何回もあるわけではないので、できれば早くに切り上げたくはなかった。ただ一度友人たちの群れを離れて母の顔を覗き込むと、せっかくの浴衣に合わせたまとめ髪は少し崩れて、そのせいかひどく疲れて見える。リイ兄もう遊べた? と聞いた声には、李一に友人との時間を終わらせて桂太と柚希の相手をして欲しい母の本音が染み出ている気がして、それを振り切ってハガたちのもとに戻ることは、母にも自分にも、それから弟たちにとっても良くないことのように思えた。
母がハガの父と焼きそばの代金を払う、いらない、払う、いらない、の儀礼的なやりとりをしている間、ベビーカーと桂太を見ているよう頼まれた李一は先ほど一緒にいた友人の一人であるオガにあげると約束したスーパーボールを、自分のとった八個のうちから選んだ。ボールすくいで気に入った色のいくつかを大小問わずすくい続けた李一に対して、お調子者のオガは特大一点狙いで見事最も大きいボールを手に入れ、兄貴に見せるんだと張り切っていたのに、ボールすくいの屋台を離れたものの数分後に、地面に当てるはずのボールがビーチサンダルのつま先に当たって思わぬ方向に勢いよく転がっていってしまったのだ。得意げだったオガの顔は瞬時に曇り、一部始終を見ていた李一が見かねてあとで自分の取ったボールをあげると言ったのだった。
特大ではないが、どれもラメが入っていたり半透明だったりする一癖あるいいボールで、その中から一番のお気に入りではない、しかしいらないものを押し付けたと思われない程度には派手な、半透明オレンジのなかに粒の大きいラメが埋め込まれたものをとって、オガに渡す。他のボールはそのまま透明ビニールの巾着袋に入れて、その紐を手首にひっかけた。
「あのデカいの誰かに拾われたらムカつく」
まだ特大ボールへの未練を断ち切れないオガは、オレンジのボールを受けとってそう言い、性懲りもなくボールを足元のアスファルトに向かって投げた。今度はビーチサンダルに当たることなく、ボールは勢いよくオガの手元に戻ってくる。
「なくすなよ、学童に持ってくだろ」
李一は危なっかしいオガの手元を見つめてそう言った。焼きそばはみんなに振る舞ったものだからといって頑なにお金を受けとらないハガの父にお礼を言って、母の杏子は李一とオガの立っているベビーカーの脇に戻ってきた。オガが掌で転がすスーパーボールを見て、かっこいい色だね、と作り物の笑顔で言った母に、李一は自分の手首にひっかけたスーパーボールを見せる。
「俺がいっぱいとったからあげた」
「いっぱいとれたの、よかったね」
「俺はこれ全部足したのと同じくらいのでっかいのとれたのに、転がっちゃったんだ」
自分が一つもとれなかったわけではないことを李一の母に強調してからオガは、じゃあなデン、と言ってハガたちの群れに戻って行った。兄のお下がりなのか、オガの甚平はお尻のところが一度破けてしまったのを繕ったらしい箇所がある。ビーチサンダルも足の裏の当たるところがくっきりと色落ちしているが、それがぴったりとオガの足の形なのでそちらは別にお下がりではないのかもしれない。オガが後ろを向いたまま友人たちに何か言うと、ハガたちもそれぞれ、デンまたね、バイバイ、などと言ってまた子どもたち同士で完結するおしゃべりの中に戻って行った。李一の苗字に使う漢字の音読みを習ってから、ハガやオガは李一のことをデンと呼ぶようになった。先生は、新しい漢字を黒板に書く時、クラスの中にその漢字を使う苗字や名前の者がいれば前に出てこさせて、みんなを代表して書き順どおりに複写させる。デンという響きはそれほど気に入ってはいないが、それまでくん付けで呼ばれることの多かった李一は、漢字の練習のおかげであだ名ができたことはちょっと嬉しかった。
このあたりでは一番大きいお祭りとはいえ、縁日は狭い神社の境内とその周辺の商店の前、あとは川沿いの方に野球チームの母親らが出している食べ物の屋台があるくらいで、そのけして広くない範囲に三年ぶりの祭りに沸く近所の人々が集まっているため、ベビーカーを押しながらスムーズに歩き続けるのは困難だった。人込みの渋滞に巻き込まれてところどころで立ち止まったり、時には少しバックしたりして進むうちに、祖母の貸してくれた履きなれない下駄の鼻緒が李一の両足の親指付け根あたりに食い込んで鈍い痛みが広がっていく。先ほどまではなんともなかった帯も少しきついように感じた。ベビーカーに乗った柚希が特等席にいるように思えたが、柚希は柚希で言いたいことがあるらしく、狭いベビーカーの中で目いっぱいに身体をよじらせて時折ワァともアアとも聞こえる奇声をあげている。家を出る前に杏子が用意した動物の絵が描かれた野菜のゼリーのチューブは未開封のまま散々パッケージをしゃぶりつくされた様子で柚希の腰の横に放置され、手は小さくちぎって渡されたらしい綿あめでべたべたしている。
「ケイ兄はあの川沿いの絵のところ行きたいんだって」
綿あめの袋を李一が代わりに持ってやったことで少し髪を直してましな顔になった母が人込みを抜けた電信柱の裏にベビーカーを止めて李一に言った。昼過ぎに桂太が自分で描いた絵の風船はベビーカーの杏子の手のあたりにしっかり結びつけてある。
「さっき行ったんじゃないの、マコトさんと」
大好きな兄と合流した後もずっと母の腰あたりを摑んでいた桂太の顔を見て、李一は母にとも桂太にともとれる言い方でそう尋ねた。
「風船じゃないのもあった。綿あめの袋も」
先ほどまではまだ日が傾いている程度だったのに、屋台の連なりと逆の方向を見るといつの間にかしっかり夜らしい暗さになりつつある。小さいお祭りだからか、来ているのは高校生や若い大人たちよりも小学生と中学生が圧倒的に多く、だから反響する声は全体的に甲高い。音楽でもない、叫び声でもない音で埋め尽くされた空気の中で、気の小さい桂太の声はかき消されそうなほど細く、しかし李一には芸術家肌と言われる弟の確固たる意志が込められているのがわかった。
「ユズも絵かくか?」
ベビーカーの中で縦横無尽に動き回っている自由な三男を斜めから見下ろして長男は聞いた。母の杏子はこの止まっている時間を利用して髪に挿したピンを一本外し、崩れたおくれ毛をすくうようにしてもう一度挿しこんでいる。
「ユズ、ヨーヨーならできる気がするのよ、それか輪投げ。リイ兄どっちかもうやった?」
「どっちもやってないよ。川の方行くなら、ヨーヨーは途中にある」
祖母の家のすぐ前まで迎えに来てくれたとき、ハガの父に連れられた四人のうち一人が貯金箱になっているらしい虎の置物を、もう一人がアニメの絵が描いてあるチョコスナックの箱を持っていたので、李一は直感的に友人たちがすでに輪なげか射的をしばらく楽しんでいたのだと思った。スピードくじや宝釣りはどんなに景品が豪華でもそう面白いと思わないが、器用な李一の特性が生かされる射的や輪投げはできれば自分が合流するまで待っていてほしかった。ハガが言うには案の定李一以外のメンバーがそろったときにとりあえず近くにあった輪投げをしたらしいが、昼間よりも景品がつまらない子供っぽいものになっていて、やる気が出なかったらしい。確かに虎の貯金箱は欲しいと思えるような代物ではなかったが、今のところハガの手には何も握られておらず、自分が景品をとりそこねたからそう言っているような気もした。
ハガのケチがついた輪投げをわざわざみんなと別れてからやりにいく気にもならないが、やりそびれていた射的では、柚希も桂太もまだ楽しめそうにない。李一は髪を直し終えた母を先導するように、先ほど前を通ったヨーヨーすくいの屋台を目指した。桂太は相変わらず母の腰のあたりを摑んでついてくるが、視線は李一の手首からぶら下がった、カラフルなボールに向けられているのがわかった。
「ケイタ、風船以外になんか遊んだ?」
ヨーヨーの屋台が見えてきたので歩く速度を緩め、母の押すベビーカーに手をかけて李一は、暗闇と雑踏に緊張しているのか、無表情の次男に声をかけた。桂太は柚希よりずっと怖がりで、家族でショッピング・モールに昼食に行って、キッズパークなどで放し飼いにされても、周囲で見ている母からあまり離れない。図書館のお話の会で子どもたちだけ前に座らされる時も、五分とあけずに振り返り、杏子が李一と桂太を置いてどこかに行ってしまわないか確認するように後ろを向く。特に暗いのは苦手で、今年に入って一度同じ図書館で電気を消して「長くつ下のピッピ」を上映する会があったときには、周囲が暗くなるせいか後ろを振り向くだけでなく体育座りで観ていた李一の靴下をずっと引っ張っていた。左の靴下だけ異様に伸びているのに気づいた母に、リイ兄変な履き方したでしょう、と言われたときはさすがの李一も泣きそうな声で反論した。
「ソースせんべい」
桂太の声は二十センチの身長差の兄にようやく聞き取れるくらいのか細いものだったが、李一より近くを歩く母にも聞こえたらしく、あとは金魚見てたんだよね、と補足された。
「金魚とらなかったのか」
「飼えないから、かわいそう」
「とって、あとで返せる」
「すくうやつ、入れると金魚怖がって逃げてた。だからかわいそう」
怖がりの桂太が自分よりも怖がりの生き物への同情を口にしたところで、李一たち親子四人はヨーヨーの屋台の前についた。李一より小さい女の子四人が高い声をあげながら大きな水槽を占領していたが、ベビーカーを横に寄せた母が財布を出してから暴れる柚希を引っ張り出しているあいだに、気を遣ったのか飽きたのか、四人ともどこかへ行っていた。
ミドリやピンクの小さな風船のようなヨーヨーのほかにも、浮き輪のような素材の動物やアニメのキャラクターの顔が浮いている。母が三人分と言って水槽の向こうのおねえさんにお金を渡すと、その横で紙に何か書いていたおじさんもこちらに気づいて、李一と桂太に一つずつ、それから柚希の横にしゃがむ母に一つ、紐のついた釣り針を渡してくれた。李一は一度しゃがんで釣り針の形と、それぞれのヨーヨーに括りつけられた針を引っ掛けるための輪っかを確認し、どれをすくおうかと立ち上がったが、柚希がベビーカーの外に出たときにようやく母の浴衣から手を放した桂太が、今度は長男の帯の下あたりをしっかり摑んでいた。
「やりかたわかる? ケイタ」
李一は自分の浴衣を摑んだ桂太の手を強引に引きはがして自分の手でつなぐようにしてひっぱった。それから桂太に見せるように釣り針ですくうような動作をしながらそう言うと、相変わらず無表情の次男はちいさく頷いた。
「リイ兄先やって」
「ケイタとりたいのどれなの」
「リイ兄とるの見てから決める」
手をつないでいる状態では釣りに集中できないが、李一が仕方なくそのままヨーヨーを選ぼうと再び水槽全体を見渡すと、母の手を離れて水槽前に突進してきた柚希が、小学校高学年らしい女の子がそっと釣り針を垂らそうとしている横で、ひときわ目立っていた蛍光グリーンの大きなヨーヨーを、堂々と手でわし摑みにして満面の笑みで持ち上げた。
「おお、とれたね、じょうずだね」
一瞬戸惑った顔をした高学年の女の子や店のおねえさんも、おじさんがそう声をかけたからか一斉にじょうず、じょうずと拍手した。
「ユズ、だめでしょう、手でとっちゃ」
後ろから慌てた母が柚希の摑んだ緑色に光る玉を奪おうとすると、柚希はニャアアと猫のような奇声をあげてそれを拒否する。ごめんなさい、と謝る母におじさんは、いいよそれは一個サービス、と笑いながら言った。杏子は申し訳なさそうにしながらも全力笑顔の柚希がヨーヨーを両手で抱えるさまを携帯写真に収めた。
「釣り針、お母さんがつかって。どうぞ」
柚希が反則行為で誰より早く景品をゲットしたため、母の手元に残った釣り針を指して優しいおじさんは笑った。
「え、じゃあ一個頑張ってとってみよう。リイ兄まだやらないの」
母が横で水槽を覗き込んだので、李一は先ほどから目に留まっていた、他のよりも太い縞模様の入ったヨーヨーに狙いを定めて釣り針を垂らす。同時に近くのピンク色めがけて針を構えた杏子の指先を見て、店のおねえさんが、ネイル超かわいいですね、と言った。
スーパーボール七個、ヨーヨーが五つ、風船が二つにアンパンマンの綿あめ、それから柚希が絵を描いたシール、父へのお土産に買った野球チームのお母さんたちが作ったお好み焼きを持って李一たちが帰宅すると、帰ったばかりらしい父が作業着のままテレビの前で缶ビールを飲んでいた。李一は持っていたお好み焼きの入ったパックを桂太に渡し、父にあげるように伝えると、自分は母に言われた通り子ども三人が寝る布団を広げようと畳の部屋に入った。
部屋の隅に寄せてある小ぶりの敷布団を三枚並べ、押し入れから枕を引っ張り出し、引き戸の近くのカラーボックスにひっかけてあるタオルケットを適当に投げる。畳の部屋に子ども三人、ご飯の部屋の脇の小さな部屋に両親が寝る、というのがこのところ定まってきた家のルールだ。柚希が夜中にぐずることがほとんどなくなってむしろ家族の誰より長時間ぐっすり眠るので、母が畳の部屋で添い寝することは稀になった。最近昼間はトイレに取り付けるおまるを何度か使えたらしい柚希も、寝るときや出かけるときはおむつをする。たまに夜中にトイレに起きるのは桂太の方だ。怖がりの桂太のトイレにできる限り付き合うのは、柚希が生まれてしばらくしてから李一に正式に与えられた役割でもある。
三枚あるはずのタオルケットが一枚ないので、押し入れの中を探すと、本来の場所ではないところに丸めてくしゃくしゃに押し込まれた三枚目を見つけた。浴衣を出そうとした母が急いでそうしたのだろう。このマンションに引っ越してきたころの記憶はさすがに李一にはないが、なんとなく母と父と三人で畳の部屋で寝ていたことは覚えている。その頃はこの部屋で一番小さかった自分が、下から突き上げられるように今では一番大人になってしまった。だからといってアニメで見る昔のように子どもが稼ぎに出なければいけないわけでもないし、家事は基本的に母である杏子が一手に引き受けている。ただ、自分の成長とは全く関係なく部屋での立場が急変していくことに、李一はどこか不安な、何か忘れ物をして家を出てしまったときのような不思議な感覚を持っている。
「パパにスイカ切ったから食べていいよ」
いつの間にか寝ていたらしい柚希を抱えた母が、そう言いながら畳の部屋に入ってきた。どっこいしょと真ん中の布団に下ろされた野生の三男の、身力がすべて抜けたような気持ちよさそうな寝顔を確認して、李一がご飯の部屋を見ると、父はスマホをちゃぶ台の上に置いて何かの動画を見ながらお好み焼きをつついている。きっと、強い男同士が本気で戦う動画だ。浴衣を先に脱ごうか迷って、畳の部屋の柚希の寝姿の横で着替えだした母と父を廊下から見比べていると、父がこちらに気づいた。
「お、リイ兄は風船つくらなかったのか」
スイカあるよ、と付け加えた父に、俺はユズのシールの方手伝ったんだ、と答えた。
「ケイタもうまいけど、ユズも絵はうまい」
父にそう教えながら李一は布団を敷いている間も手首に下げたままだったスーパーボールの袋をようやく外した。一つ取り出して板張りの廊下の床に一バウンドさせてみると、中くらいの、中が透けないまだら模様の紺色のボールは李一の胸のあたりまで勢いよく戻ってきて、危うく取り損ねるところだった。父の横で自分が描いた、やや浮きがあまくなった風船二つと柚希の描いたシールを見比べていた桂太がこちらに興味を示したので、どれかひとつとっていいぞと言ってボールを袋ごと渡し、先ほど取り出した一つだけを手に持って、几帳面な長男は浴衣を脱ぐために一度母のもとに戻った。
いつもより早めに寝た李一が、桂太に揺さぶられて目を覚ましたのは日付の変わる少しだけ前だ。廊下のコンセントに挿した小さいランプ以外の電気が大体消えているので、両親もどうやらいつもより少し早く寝ることにしたらしい。眠りについてからそれほど時間がたっていないせいか、李一の視界はなかなかはっきりとしなかった。そもそも最近は徐々に黒板の文字が見えづらくなっているので、もしかしたらもうすぐ眼鏡が必要かもしれないと学校の保健師にも言われたばかりだった。
ようやくはっきりした視界で桂太を見ると、桂太が寝ていた布団の脇に、吐いたようなあとがあるのが目に入った。
「え、だいじょうぶ?」
一気に眠気が後退するのを感じながら、徐々に薄暗さに慣れていく目でもう一度桂太の顔を覗き込むと、なにやら顔が赤く、目は充血しているようだ。吐いた後に李一のほうへ回ってきたらしいが、真ん中の布団の柚希は枕を無視して床を抱きかかえるように盛大に脚を広げ、敷布団に押しつけた横顔は中途半端に口を開けて平和に眠っている。
「かあちゃん呼んでくる」
目をぱちぱちさせる桂太を布団の上に残し、李一は水色のパジャマのまま廊下の電気をつけ、両親の眠るご飯の部屋の奥の方へ歩いた。普段は音をたてない床が、李一の汗で少し湿った足を置くたびにぺちぺちと音をたてる。
一緒に寝ていると思っていた両親はばらばらで、母は先ほど隆人がビールを飲んでいたソファに、父の方は本来の寝床でありもともとは納戸だった小さなスペースのマットレスにいるのが見えた。母のいるソファは廊下の照明が漏れてよく見える場所にあるので、李一はご飯の部屋の電気はつけずに杏子のもとに寄った。とっくに浴衣は脱いでいた杏子だが、どうやら化粧をしたまま眠っていたらしく、瞳を閉じた目尻に黒い化粧品の汚れが滲み、寝息は母の飲んだ缶ジュースを続けて飲んだ時と同じほのかな口紅の匂いがする。
「かあちゃん」
李一は桂太が自分にしたように手を母の脇腹にあてて軽くゆすりながら声をかける。部屋と部屋を間仕切る壁が少なく、どの部屋も狭いマンションの中で、父と柚希に気をつかった低い声では力尽きた母の夢の中には届かないのか、杏子は手で鼻をこすったかと思うと再び寝息を立てだした。
「かあちゃん、ケイタが吐いた」
先ほどより喉の奥の方からはっきりした声を眠る顔のすぐ横で出すと母は即座に大きな目を見開き、何が起きたかを確認するように壁時計と李一の顔を数秒見比べて、ああともあれともとれる寝ぼけた声を出した。
「リイ兄、どうしたの」
「ケイタが具合悪いって。部屋で吐いた」
え、と声を出しながら母は機敏に上半身を起こして目を三回ギュッと瞑り、最後にしっかり見開いて、コンタクトしたままだった、と独り言をつぶやいてから立ち上がり、小走りで畳の部屋へ行った。李一が急いで後を追うと、桂太がまた少し、掌の上に嘔吐していた。
「ケイちゃん、どうしたの」
母は柚希が起きてもおかしくない普通の声でそう言いながら桂太を抱え、気持ち悪かったの? と聞きながら風呂場の方に連れて行く。追いかけようにも、脱衣場の入り口が狭くて三人では混雑すると判断した李一は、桂太の吐いた、少しピンクがかった黄色い液体を廊下の明かりがついた状態で再度確認する。最初に吐いたのは桂太の布団横の畳に二十センチほど広がり、布団カバーの端もその湖につかっている。李一を起こした後は李一の布団の上にいたから、掌からこぼれた透明の液体が、先ほどまで李一が頭をのせていた枕についていた。
柚希が生まれるまで、李一は小さい子供は年がら年中具合が悪いのだと思っていた。桂太は車に乗っては酔い、保育園に行こうとしては腹痛になり、昨年末の自分の誕生日の前夜は身体に発疹ができて病院の救急外来に行くことになった。柚希も赤ん坊の頃は毎日ミルクを戻したり、便秘になって苦い顔をして泣いたりしていたが、二歳の誕生日を過ぎてから身体の調子が悪くなったのをほとんど見たことがない。しょっちゅう畳の部屋と廊下の間の一センチもない高さの仕切りにつまずいて尻もちをついて泣いているほかは、ビー玉を飲み込んで母が慌てて病院に連れて行ったことがあるくらいだった。運よく一歳で入れた保育園でも怪我こそするが、病気で早退してきたという話は聞かない。今では、柚希の方が桂太よりずっと出かけている時間が長いくらいだ。
畳の嘔吐物はどうしていいかわからないので、濡れた枕カバーだけ剝がして、李一はそのまま自分の寝ていた布団に体育座りになって柚希の寝顔を見ていた。廊下の煌々とした灯りが漏れて、柚希のすぐそばに光と影の曖昧な境目をつくっている。風呂場からは何度か水を流す音と、桂太を心配する母の優しい声がした。今日母が外に干していた新しいTシャツで寝ていた桂太は、その白い、李一のお下がりではない安物のTシャツの肩口で口をぬぐったのか、着てから四時間ちょっとで洗う前よりも激しく汚した。母は再び乾燥機能のない旧式の洗濯機でそれを洗い、雨の降らなそうな日にベランダに干すだろう。
「お、リイ兄が気づいてくれたのか」
母に起こされたらしい父が腹のあたりを左手指でひっかきながら畳の部屋に身体を半分入れてそう言った。
「ケイタに起こされるまで寝てた。この枕汚れたから」
そう答えて父に剝がした枕カバーを渡すと、父はそれをつまむように持って、脱衣場で桂太を着替えさせている母に声をかけにいった。柚希は頑として起きない。もしかしたら、すでに起きているが、目を開けて見える汚物の世界よりも、目を閉じていれば作り出すことのできる世界の方が心地よいと、光と影の境目に横たわるこの野性的な小さい動物もなんとなく気づいているのかもしれなかった。
李一がこの畳の部屋で唯一の子どもであった頃、今では子どもの前で感情をぶつけ合うことのない両親、というよりは母が、ときどき感情を極まらせて半泣きで父に文句を言うことがあった。そういう時、李一は起きていても目を開けずに、できる限り音も聞こえないように枕に片耳を埋めていた。他のことは何一つ覚えていないが、その枕に顔を押し付けて、すぐ近くで起こっていることと自分を隔てていた感覚だけがところどころ身体に記憶されているのだった。今では何があっても最初に起こされるのは自分だ。杏子の祖母、つまり李一の曽祖母の容態が深夜に悪化し、母だけ東京の病院に向かわなくてはいけなくなったときも、母は畳の部屋で寝ている息子三人のうち、李一だけを起こして事情を説明した。その代わりに、父の休みに稀に計画される家族の外食の行先や、生協のカタログにあるヨーグルトの味の種類について母は李一にだけ選択権を与えてくれる。寝ているところを起こされることと、この選択の自由が実はセットになっていることに、近頃の李一はなんとなく気づいている。
母に渡されたらしい雑巾とウエットティッシュを手にした父が再び畳の部屋にやってきて、柚希の布団を踏まないように大股で桂太の布団の脇に足を下ろし、ウエットティッシュで畳を拭いながらあくびをした。
「そっかピンクなのはスイカで、血とかじゃないよな」
あまり何事にも動じない父が、やはり特に大きく動じずに大人が拭けばすぐに片付く程度の嘔吐物をみるみる綺麗にしていく。急にまた眠たくなった李一が手をついてカバーを外した枕に頭をつけると、少し酸っぱい匂いがした。
「リイ兄悪いけど、もしかしたら母ちゃんと病院に行ってもらうかもしれないんだ」
絞った雑巾を広げて概ね綺麗になった畳をさらに磨きながら父は申し訳なさそうに言った。
「病院行くの? 血じゃなくても?」
桂太の体調不良は今に始まったことではなく、特に胃腸の調子はいつも割と悪いといってよいほどだったので、畳や枕を綺麗にして、桂太に白湯を飲ませて着替えさせても夜が正常に戻らないのは意外だった。
「ただ疲れてるだけだろうけどな。ちょっと熱があるとまだ一応検査しないといけないだろう。コロナまた流行ってるから。母ちゃんが運転してるときリイ兄がケイタと後ろに乗ってくれるか。ユズと父ちゃんが留守番になりそうだ」
寝ている柚希の鼻が間の抜けた音をたてたので、李一は一瞬そちらを見て、呑気な寝顔を少し羨ましく思った。寝たふりができるほどまだ柚希は器用ではない。父の仕事用のライトバンを母が運転するのは大抵夜の緊急事態のときだけだ。父はビールを飲むが、母がお酒を飲んでいるのを李一は見たことがなかった。それどころかお酒を飲む店を経営するオガの母が、酔っぱらって帰ってくると聞くまで、女の人でお酒を飲む人がいるのを知らなかった。
自動ドアが背後で締まった瞬間に鼻をついたのは、学校でトイレを失敗した友人がいたときに保健師が持ってくるバケツや雑巾と同じ匂いだった。歯の検査をするときも似たような匂いがする。その匂いで自分がマスクをいまだポケットにしまったままであったのを思い出して、李一は慌ててそのくしゃくしゃの不織布で顔の下半分を覆った。桂太を抱っこしたまま救急窓口で人と話す母の少し後ろで、真っ黒で不気味な植え込みをガラス張りの入り口の内側から見つめる。学童の本棚にあるぼろぼろの絵本のかいじゅうたちにも見えるし、巨大な犬の形の木もある。何回か来たことのあるはずの病院でも、夜間の入り口はいつも人の往来がある正面から東側に随分離れたところにあるので、まったく知らない場所に来たような気分になった。
母に後ろから呼ばれたおかげで明るい病院の待合室に入ったが、そうでなければあの黒いかいじゅうたちの中に吸い込まれていた。李一はときどき、歩道橋の下の激しい車の往来やところどころホームドアのない私鉄の駅の線路、学校から学童に行く途中の道にある深くて大きいゴミ箱など、中に入ってはいけないところに吸い込まれてしまいそうになることがあった。我に返れば近づいたことすら怖いと感じるのに、車や電車の音、あるいは静寂の中で自分の意思とは関係なく足が浮いてよろけるような感覚になる。
「リイ兄、寝ててもいいからね」
母はそう言ったが、親切そうな看護師のおばさんが、おにいちゃんも入って平気よ、と言ったので李一も母の後ろに続いて殺風景な診察室に入った。ところどころに間仕切りのある広い待合室には、李一たちが到着する前からうつむいている若いおにいさんとその身体によりかかるおねえさん、それから李一より少し年上に見える女の子をつれた両親らしき大人の人がいたのに、最初に呼ばれてよいのか少し不安になって、ドアを閉める前にそのひとたちの表情を見ようとしたが、誰も李一たちの方を見てはいなかった。
「頭とかぶつけてないね?」
桂太を椅子に座らせるなりそう言った医者は若く、少し長めの髪の毛を全て後ろに流して眼鏡をかけた男で、家の近くの小さなクリニックのもう少しおじさんの医者と違って、子どもたちにだけでなく杏子にも敬語ではないなれなれしい話し方をする人だった。マスクをしているものの、医者が動くたびに煙草の匂いがする。李一が母の顔を覗き込むと、杏子もその匂いをかぎわけたようで、マスク越しに鼻でクンクンとかぐ音がするのが聞こえた。
ホテルに就職すると同時に煙草をやめた杏子は、桂太の授乳期間が終わればまた煙草を吸おうと思っていた。ホテルでは固く禁止されていた喫煙を、大きな川のこちら側では誰も酷く糾弾したり嫌悪したりしておらず、店によっては定食を食べている真横で煙草を吸っても怒られない。ホテルの仕事を辞めるかわりにそれくらいの自由は取り戻してもいい。派手なネイルで煙草を吸っていれば、堅苦しい仕事は過去へと遠ざかっていく気がした。
ただ、なんだかんだやめて十年以上たつ煙草を吸う習慣が戻らないまま柚希ができて、いつの間にか喫茶店で喫煙OKの表示がある店を臭いと思うようになった。息子たちを連れていればなおさら、喫煙所からはみ出して煙草を指に挟んでいる人が怖い。そう感じる自分は都会のホテルOLでもなければ派手ネイルの喫煙者でもない、どちらにも入りそびれて狭間に漂っている存在に思える。
検査の結果を待つ間、再び待合室の同じ席に座ったので、先ほど待っていたカップルや家族も検査結果や薬の処方を待っていただけかもしれないと李一は思った。母は横に伸びるビニール素材の長椅子にケイタを寝かせて、先ほどの親切なおばさんの貸してくれた、薄いビニールに入ったブランケットをビニールを破いてかけた。
「リイ兄も横になる?」
ひとまず診察を終えて安心したのか、眠気と疲れが見える母の顔を見て、李一はだいじょうぶ、と答えた。
「どれくらいまつ?」
「そんなに時間はかからないんだって。最初の頃の検査はもっと時間かかったよねえ」
杏子はバッグに入れっぱなしだった携帯を取り出して、周囲を少し確認してからパスワードを入れて画面をなでた。李一には、母が父に事務的な連絡をしようとしているようには思えなかった。
病院にむかうまさにその時、時計の針がてっぺんで重なってからさらに三十分近く経っていたが、すぐ近くにある月極駐車場に向かうためにマンション下の横断歩道の前に立つと、一階のコンビニから大きな声で話す女の声が聞こえ、声の主のすぐ後ろからその大声をたしなめるようなことを言うマコトさんが出てきた。話していたのははマコトさんの彼女で、いつも底の厚い靴を履いて、短いスカートやショートパンツから細い脚を出している若い女の人だった。マコトさんはすぐに杏子と李一に気づき、母におんぶされている桂太にも気づいたが、少し酔っていたからか、あるいは彼女といるからか、いつもより言葉少なめに挨拶と、何かあったんですか、というようなことだけを口にした。杏子はちょっと熱出したので念のため夜間外来まで、とあまりマコトさんや彼女を見ずに答えた。李一は母が、マコトさん一人と話すのと、マコトさんが彼女といるときにたまたま出くわすときとでは、声の高さが違うと感じている。コンビニの有料のビニール袋にパピコを数袋入れて振り回していたマコトさんの彼女は、別に変な顔はせずに会釈をしていたが、視線がサンダルを履いて出た母の足元に向けられていることが、付き添いの長男には不思議だった。挨拶は顔を見てするようにというのは遊びに行くといつも急いで玄関を出る李一に祖母が口を酸っぱくして言う小言の一つだ。
だからなんとなく携帯画面にうつっているのは、改めて桂太を心配するマコトさんからの連絡のような気がしたが、母のスマホの画面は横からは鈍く光っているようにしか見えない。李一はビーチサンダルを片方脱いで、下駄で擦れた親指の付け根あたりを人差し指で触る。押すと痛いが、血も出ていないし我慢できないほどではなかった。
「リイ兄は、来年引っ越しするとしたらどんなおうちに住みたい?」
携帯を触っていたと思っていた母が画面を再び暗くして、李一の後ろ髪を触りながらそう言った。桂太が無理に保育園に行かなくていいと決まってから、思えば母と静かな場所で二人で言葉を交わすことはとても少なくなった。むしろ、前に桂太にも柚希にも邪魔されない状況で母や父に小さな子どもとして扱われたのがいつだったか、李一には思い出せない。
「うーん、家は広いのがいいけど」
「うん、けど?」
「なんか言うのはいやだ」
夕方に浴衣を着せてくれた祖母の言葉がほんの少しだけ李一の頭の中に浮かんだが、それをそのまま母に伝えることはしないでおこうと思った。李一はいつも一定の温度で、庭に面した居間は外の空気を一杯吸い込んでいて、どんな洗濯機でも置けるくらい広いお風呂場と脱衣場がある祖母の家が好きだった。でも、自分が口にしては、母や桂太の思いがどうあろうと、瞬く間に現実のこととして実現してしまいそうなことを、あえて言葉にするのは嫌だった。夕飯にサイゼリヤを選ぶか商店街の方にある中華屋さんを選ぶか、それを聞かれることも最初は好きだったのに、最近は聞かれないほうが楽だと感じる。一度李一の意見でスパゲッティを食べて、もともと食欲がなさそうだった桂太がとりわけられたぶんをだいぶ残した上に、ちょうど今夜と同じように夜に胃の調子を悪くしたこともあった。
「なんでよう、教えてよ」
母は無邪気に、携帯を一度バッグにしまってから李一のおなかのあたりをくすぐった。李一はキャッと声をだして、その声が自分の思う自分の声よりもずっと高いのに少し驚いた。逃げるように身体をずらすと間仕切りで見えなかった一角から子連れの家族は消えている。うなだれたおにいさんの方は相変わらずほとんど動かずに下を向いていたが、おねえさんはトイレに行ったのか、あるいはお金でも払っているのか、姿が見えない。桂太はすっかり眠ってしまったようで、李一はこの広い広い待合室で自分が一番無力な子どもであると気づいた。
「ケイちゃんは二階のおにいさんに会えなくなったら悲しむね」
母はくすぐるのをやめて桂太の寝顔を一瞬見下ろすように確認してからそう口にする。先ほどまで母が触っていた後頭部やおなかのあたりがじんわりと温かいが、母はもうどこも触っておらず、目も李一の顔を見てはいなかった。
「超さびしがるよ、でも引っ越しても絵の教室行けば会えそうだよ」
「またご近所さんだったらね」
母もやはり寂しそうな顔でそうつぶやいた。マンションがなくなるのであれば、住民全員がマンション跡地の近くに引っ越すのが当然だと李一には思えたが、母の口ぶりからするとそうでもないのかもしれない。
「眠くなってきた」
李一はマコトさんについての会話を終わらせて小さな子どもがそうするように手の指をまるめて目をこすり、母の方を見上げて口を大きく開けてあくびをしてみた。待合室には窓がないのでそとのかいじゅうは見えない。
(つづく)
連載【ノー・アニマルズ】
毎月金曜日更新
鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部在学中にAVデビュー。その後はキャバクラなどに勤務しながら東京大学大学院社会情報学修士課程修了。修士論文はのちに『「AV女優」の社会学』として書籍化。2022年『ギフテッド』が第167回芥川賞候補作、23年『グレイスレス』が第168回芥川賞候補作に。他の著書に『身体を売ったらサヨウナラ』『娼婦の本棚』『8㎝ヒールのニュースショー』『浮き身』等多数。
Twitter:@Suzumixxx