第7回 501号室 十七歳はこたつで美白に明け暮れたい〈前編〉 鈴木涼美「ノー・アニマルズ」
2025年に取り壊しが決まっている老朽化マンションで暮らす住人たちの小さな破綻と孤独を描いた、鈴木涼美初の連作短篇小説。
両親の離婚を機に、江戸川を渡った先にあるマンションで暮らすようになった17歳の羽衣。2017年の大晦日、離婚の原因を作った母は羽衣をひとり自宅に残して“友人”と温泉旅行へ。羽衣は、その“友人”が、生理的嫌悪が膨れ上がる“あの男”だと気づいていて……。
[毎月金曜日更新 はじめから読む]
©︎OKANOUE Toshiko「幻想」Courtesy of The Third Gallery Aya
一途で思い込みが激しくてしつこい女の歌のせいで世間の蠍座に対する印象が定着してしまったことを、羽衣は恨みがましく思っていた。大体ミカワさんは蠍座じゃないし、女でもないし、どうせ他人事だからあんな妖艶な声で、笑えばいいわ~なんて歌えるのだ。恋愛に興味のない本物の蠍座の女としては全然笑えない。ひとこと言ってやりたいのに、検索してみるとヤツの名前を冠したラーメン屋は二年前から閉まっているようで、ついでにウィキペディアページを開いたところ、彼が今年もう七十一歳になっていたことを知った。
――うっそ、五十くらいかと思った。
羽衣の母は四十三歳だが、よく三十代にしか見えないと言われることを、本人も当然のように受け取っている。実際、羽衣が高校に上がるタイミングで目黒区から今の家に引っ越した時、入学式で見た他の子の母親たちの老けっぷりは衝撃だった。もともとアパレルブランドでデザインの仕事をしていたこともある母は、最近ではSUPヨガを教えるようになってますます肉体美に磨きがかかっている。周りの四十代がラッシュガードにスパッツのような格好でしか行かない海やプールにも、平気でスポーツ系ブランドのビキニを着ていくし、日焼け止めを塗っても年中こんがり焼けている肌は今のところ目立つ皴もない。引っ越した年の夏に一緒に市民プールに行った時には警備員に臍ピアスを外すように注意されていた。大学生以上でプールの監視員に注意される人間を、羽衣は母のほかに見たことがない。
――それにしてもオバアより年上か。
羽衣はオバサン臭い溜息をついてスマホのウェブページを閉じ、そのまま画面も暗く落とした。もうすぐ年が明けるというのに無駄な時間を過ごしてしまった、と思い、ますますミカワ氏を嫌いになりそうだったが、たしか来年七十歳になるはずの祖母よりも高齢の人を嫌っては、なんか悪いことをしている気分になる。高齢者苛めはいけません。それにミレニアムベイビーの羽衣はつい先月十七になったばかりで、一の位と十の位を入れ替えると七十一だと思うと、少しだけ親近感を覚えなくもない。蠍座のイメージに迷惑する十七歳も大変だが、ヒット曲“さそり座の女”のイメージが強すぎる七十一歳にもそれなりの悩みはあるような気がする。
スマホをベッド脇の充電器に繫いで床に足を下ろし、特に意味もなく両腕を上に伸ばして左右に傾けるヨガのようなポーズをとった後、やはり充電用コードを外してスマホを手に持ち、母のいないリビングの方へ歩いた。リビングと言っても本来は小さな食卓を一つ置けば十分なキッチン一体型の狭い部屋だが、前の家にあった、流木にガラス板を載せたような低いテーブルをどうしても置きたかった母は、かつてそのテーブルの横にあった大きな白い革製ソファの代わりに、木と布でできたラブチェアを買ってきて、すぐ横の流し台やガス台とは高さもデザインもちぐはぐな、目黒区風のおしゃれな一角を作った。羽衣の部屋とリビングを隔てる壁際にはこれもやはり木製のやや不安定な棚が配置され、その上には母が海で見つけて自分で乾燥させた流木や貝殻が飾ってある。
中高一貫の女子校の受験に失敗した羽衣は、滑り止めに受けた少しランク下の私立には行かずに地元の公立中学を選んだため、ほとんどの友人は都心にある都立か、高校から募集のある私立の高校へ進んでいる。人によっては大学附属の女子高を受けて毎日神奈川県まで通学している例もあるようだったが、川を渡ったこちら側の県の、しかも県立高校に入学したのはもちろん羽衣だけだ。そういう意味で羽衣には抵抗する理由や父と暮らすことを選ぶ理由を並べようと思えばいくつでも並べられたのに、引っ越した後もダサくて古いマンションにいちいち文句をつけて、ダイニング・キッチンに流木を運び込むような稚拙な抵抗を続けているのは母の方だった。羽衣の唯一の希望だったペット可の条件を母が重視してくれることはなく、結局飼っていた猫のツムギは父がそのまま引き取った。
母はおしゃれな人だ。友人もおしゃれな人が多く、冬なのにデザイナーズホテルに併設されたカフェの温かくも美味しくもないヴィーガン・プレートを「Sunday Lunch」なんてキャプションをつけてインスタにアップしていたし、かつては家具をイタリアから取り寄せると言って、家族にテーブルなしの生活を二か月も強要していた。母の三つ年下の妹である麻衣ちゃんは、夏に一緒にディズニーに行った時、羽衣が着ていたステラ・マッカートニーのワンピを見て、「私より高い服着てる!」と驚いていたが、それらも全部母の趣味によるもので、羽衣は韓国の通販サイトの服の方が好きだ。
流木テーブルにスマホをリングで立てるようにして置き、何か見る当てがあるわけでもなくYouTubeを開いて、一番上に表示された動画をタイトルも見ずに再生する。違法にアップロードされたテレビ番組らしく映像が不安定で音も悪かったので、すぐにアプリごと落としてテレビをつけると女の演歌歌手がちょうど歌い終えたところで、羽衣は母に出かける直前に紅白の録画を頼まれていたのを思い出した。目黒の家で二階に置いてあったテレビには全録機能がなく、母は時折録画予約をしているようだが、羽衣は予約機能自体使ったことがない。前のリビングにあったものの方が色々な機能が充実していたはずだが、ここに持ってくるには大きすぎたので父が持って行ったはずだ。
今からでも録画して、一応努力はしたという記録を残した方がいいだろうか、と一瞬思ってリモコンの番組表のボタンを押したが、やはりあと五分もたたずに番組は終わるし、母が安室奈美恵の特別ステージ以外の場面に興味があるとは思えないし、そもそも正月にこんなに幼い娘を放って友人と温泉に行くような女には録画ボタンを押すコンマ数カロリーすら割きたくない気がしたのでやめた。本当は先ほどベッドで延々とミカワ氏について調べる直前、インスタのストーリーに何人かが純白の安室奈美恵の動画をあげていたのを見て、羽衣は録画のことを一度思い出していたのだった。しかし引退前に純白のドレスで登場した安室ちゃんだって、家庭を崩壊させた不倫オバサンに録画で消費されたくなんかないだろう。実際、何人もが感動のステージを十秒ほど切り取ってインスタにアップしているそのすぐ後には、母がアップした山梨らしき場所のおしゃれカフェのカプチーノとそれに添えられた黒糖が表示された。母は女友達といる時は馬鹿の一つ覚えのように集合自撮り写真をストーリーにアップする。テーブルの上の食べ物や景色だけがアップされている時は男といる時だ。
――蠍座より獅子座の方が余程恋に溺れる体質だよ。
テレビの中では司会者がくだらない視聴者投票の結果などを発表し出したので、羽衣は結局一度もリモコンを下に置かずにテレビを切って、キッチンの方を見ると電子レンジの上に、昼間探して見つからなかったスイスミスのココアの箱があることに気づいたので、一度立ってバルミューダのおしゃれケトルに水道水を入れてお湯が沸くのを立ったまま待った。注ぎ口が細いものじゃないと嫌だと言う母が選んだケトルは沸くのが遅い。羽衣は大抵湯気が出てきたところでケトルを持ち上げてしまう。ウォーターサーバーを置いてくれるように頼んでいるのに、「そんなの置く場所どこにある?」と母は冷たくあしらう。流木テーブルをシンプルな食卓に替えればウォーターサーバーどころか駅などにある自販機すら置ける気がするが、口げんかの嫌いな羽衣はそう口答えをしたことはない。
バルミューダがシュウッと音を立て始めたので羽衣は電源ボタンが戻っていないことは構わずにケトルを持ち上げ、スイスミスを入れた厚手のカップを手に持ったままお湯を注ぐと、人差し指の付け根に熱い水滴が跳ねた。熱いとは思ったが、そんなことくらいで羽衣はバランスを崩したりしない。適量のお湯を入れてカップをかき混ぜると、先ほどと同じラブチェアの左側に座り、リングで立てたまま画面が暗くなっているスマホを手に持った。カップに口を付けると、ゆっくりと少しだけカップを傾けて温度を確認しながらココアを唇に当てる。表面に浮かぶマシュマロの一つを吸い込むようにして一口飲み、満足してカップをガラスに置いた。母がいるとすかさず藁のような素材のコースターを差し出されるが、いない時にそんなものを使ったことはない。
スマホを手に持ったまま少しだけ固まったように動作を止め、やはり気になるので羽衣はもう一度インスタを開く。フォローはしていない、しかし何度も繰り返し見ているので検索画面にするだけで表示される男のアイコンを手で触る。プロフィールページが表示され、何かしらのストーリーがアップされているのを示す色が、SUPボードのアイコンを囲んでいた。母は羽衣がこの男を突き止めていることを知らない。最初に発見したのは中二になったばかりの頃で、目星をつけたこの男のアカウントを父に教えたのは他の誰でもない羽衣なのだ。母は、インスタのストーリーを頻繁に閲覧している、アイコンがイラストの鍵アカウントが羽衣だということすら気づいていない。ちなみに母のアイコンはわざとらしく顔を寄せ合って映っている母と高校に上がったばかりの羽衣のツーショットだが、羽衣はそこに母の愛情を感じるには十七で色々と知りすぎた。
男のプロフィールページに戻り、そのままチェアに胡坐をかくようにして上げた太腿の内側にスマホを置くと、羽衣はもう一度スイスミスを口に含み、カチンと音をたてて再度ガラステーブルにカップを戻した後、意を決してストーリーを表示させるためにSUPボードをタッチした。高速道路を走っている車から撮ったらしい流れる景色が十秒流れ、横文字で描かれたワイナリーの看板の静止画像が映し出された後、母があえて目線を外し、壁によりかかるようなファッション誌インスパイアなポーズでハットを押さえて立っている写真に切り替わった。男はどうやら車どころか車の免許も持っていないようで、二人で出かける時は母が運転している。助手席のポケットから、羽衣が買ったことのない外資系メーカーのミントの空き容器が出てきたことがあるのも、ここのところずっと助手席の足元のマットの端にビーチの砂がこびりついているのも、きっと母は知らないし、指摘したところで涼しい顔で無理のある嘘を並べるだろう。
羽衣がデジタルネイティブ世代特有の勘で男のアカウントを割り出した頃は、母も男も相手の写真こそ載せなかったものの、数日ずらして京都の南禅寺だと明らかにわかる写真を双方がアップしたり、時には共有したらしい同じ写真をストーリーに載せたりはしていた。父と離婚してからは男の方は平気で一緒にいる写真や母をモデル風に撮った写真を上げるようになり、母の方もより一層の匂わせ写真を投稿している。旅行に行くのも、人を愛するのもどうぞご勝手に、と羽衣は思っていたが、インスタは一体誰に向けてアップしているのだろう、と見るたびに苛々する。それでもただでさえ気に入らない男をもっと嫌いになりたくて、ついついチェックしてしまうのだった。
画面を指で押して母がハットを押さえた画像を止めて、じっくり見てみる。真冬なのに薄着で、麻素材のバッグなんか持って、おしゃれというよりもはやこれではハワイのロコかLAガールワナビーという感じだが、一六五センチ以上あるすらっとした体型で、なおかつお尻が小さいせいか、スニーカーを履いていても様になるのはLAガール並でさすがだとも思う。しかしやはり目線を外して足を片方だけ少し持ち上げたポーズは、プロのモデルとカメラマン以外が真似すると、少なくとも身内には滑稽に見える。先ほどから耳の内側で微かに鳴っていた“さそり座の女”のメロディが、歌詞を伴って耳鳴りのように流れてきた気がした。
気がすむまで笑えばいい、というような内容の歌詞を自分でも小さく口ずさんだ後、羽衣はお尻をずらして、大人二人がぎりぎり座れる程度の幅しかないラブチェアに丸くなるように横になった。足を折り曲げてクッションに横顔を埋めるこの体勢は、身体半分が布に埋もれるからか、古いマンションで寒い日にテレビ画面で映画を観る時には最適で、大きなソファで寝っ転がるよりも安定すらしている。スマホの画面をくるくると操作して、再びウェブブラウザを立ち上げ、ミカワ氏のウィキペディアページを無視して検索バーに「獅子座 性格」と打ち込んだ。検索をかけるといくつかそれらしいページ候補が表示されたが、「自信家」と「自由人」の二語が見られただけで満足したので、そのままページは開かずにスマホを股に挟んで、横になったまま目を閉じた。ココアが半分以上残っていることも、トイレを含めてすべての部屋の電気と暖房がつけ放しになっていることにも気づいていたが、フリースの部屋着はそこそこ暖かく、急速な眠気が襲ってきたので素直にそれに従うことにした。
三が日を過ぎるまで母がいないのをいいことに、大晦日の深夜を皮切りに、羽衣はその後もソファの上で多くの時間を過ごした。暖房の温度設定を高くしたままつけ放しにして、フリースの上下の上からさらに母が自分用に買ったタオルのような素材の丈の長いパーカーを着ていれば全く寒くはなかったが、眠る時用に一応布団は持ってきておいた。ベッドの脇のコンセントに差さっていたスマホの充電器はリビングにある明るさも高さも中途半端な見栄えだけいい電球スタンドのコードを引っこ抜いたところに移動させ、ついでに母と共有している主に動画を見るためだけの韓国製のタブレットも流木テーブルの上に設置した。それとテレビを合わせれば二十四時間退屈で死にそうになることはない。父の実家からは十月の終わりに正月の誘いがあったが、友人らと約束があるから、と言って断ると祖父母は結局グアム旅行に行くことにしたらしい。テレビの制作会社に勤める父はどうせ今年も仕事だ。
元日はテレビをつけていると思いのほか次から次にバラエティが始まって、いつもより多くある気がするCMのあいだはトイレに行って友人からのメッセージに返信するのにちょうど良い長さだったので、動画を漁る必要すらなかった。中学の友人たちも、こちらの高校の友人たちも、正月は暇を持て余している者が大半で、グループチャットはせわしなく通知を繰り返している。時々話題に上がる恋愛リアリティ番組に興味はなかったが、元日のテレビは友人たちの家でもついている場合が多いようで、何度か話題は同じ芸人のネタについてなどでリンクした。たしか年末の流行語にもノミネートされた黒髪ボブの女芸人が可愛いので、羽衣が中学の同窓五人のグループチャットで黒染めをして髪を切ろうかなと何気なく話すと、家族でハワイに行っているはずの中学時代の親友である千紗も含めて全員から反対された。千紗がチャットに登場したのは今のところその「ないない、てゆうか多分ブルゾンもカツラじゃない?」というひとことだけだ。
二日の昼になるとテレビが突然あまり面白くなくなったので、夕方までずっとタブレットでパズル系のゲーム・アプリをいじっていた。他のゲームはスマホに入っているのに、このゲームだけタブレットでダウンロードしてしまい、スマホに移行しないまま勝ち進めてしまったのだ。いつも以上に友人たちとのメッセージのやりとりが頻繁で、さらに母が突然電話を鳴らしてきたりするので、タブレットでやるゲームの方が都合がよい。ラブチェアの木の部分に頭を載せて時々身体の向きを変えてパズル対戦を続けていると、一ゲーム終わるごとに窓の外が薄暗くなっていくのだった。
一つのキャラクターを最高レベルまで育てたところで飽きてバッテリー残量が少なくなったタブレットをひとまず流木テーブルに戻し、少し眠ると外はすっかり真っ暗になっている。日が短くなったのかと思ったが充電器に繫いだスマホをそのまま持ち上げるともう九時だった。冷凍庫を開けると、あと一つあると思っていたケンミンの冷凍ビーフンが、外装袋だけ残してもうなくなっている。母はか弱い娘を放置する罪悪感を埋め合わせするつもりなのか、出かける前に三万も置いて行ったが、出前をとるにはもう時間が遅い気がしたし、そもそも三が日に世の飲食店が出前をしているのかどうか、羽衣は確信が持てなかった。羽衣は食べることにあまり興味がない。インスタ映えするスイーツや、母のようなおしゃれでナチュラルなイイ女フードにも興味がないが、かといって高カロリーのフレンチや松阪牛にも、焼肉食べ放題に行くとかいうことにも特に惹かれたことはない。出されればあまり好き嫌いはないし、千紗や高校で一番仲の良い琴美のように年がら年中ダイエットをしているわけでもないのだが、気づくと夕飯を食べそびれていることはよくある。母が時折、わざわざ地方から食材を取り寄せたり、新しくできたスイーツ店に一時間かけて出かけてさらに一時間並んで食べたりするのは、羽衣にとっては全く理解不能な行動だった。
そんなわけで出前を調べてみるほど切羽詰まって空腹を感じていない羽衣は、下のコンビニでサラダと肉まんでも買ってくることにして、仕方なく五十時間以上着たままだったフリースの上下を脱いだ。デニムとスウェット素材のトップスに着替え、髪のべたついたのが目立たないようキャップをかぶって、迷った挙句にダウンは羽織らずにスマホと現金の両方をポケットに入れて鍵をかける。部屋を出たところで共用廊下の柵から道路を見下ろすと、いつもなら帰宅中の人がまばらに歩いていそうな時間帯なのに、大型犬を散歩させるおじさんがひとり見えるだけだった。
――別に普通の街だけどな。
母は追い出されるように離婚した自分の責任は棚上げにしてよくこのマンションに悪態をついている。ぼろいとか住民の民度が低いとか一階のコンビニの品ぞろえが悪いとか言いたい放題で、稀に駅から一緒に歩いたりすることがあると、その悪口は町全体に波及していく。スーパーにパクチーやディルが売っていない、パチンコ屋に並んでいる人の顔がこの世の底辺って感じだ、犬猫までなんかダサい、私鉄の満員電車で会社に通う人の気が知れない、国産車しか走っていない、などなど。時には友人との電話で具体的に引っ越しの計画などを話している様子だが、その割には昨年、モデル時代の後輩だというライターのアユちゃんに同じマンションの空き部屋を紹介して呼び寄せていた。たまたまこの近くのビストロで再会したらしい。十年以内に取り壊される予定のこの賃貸マンションの家賃は破格で、母も知り合いの不動産屋に見つけてもらったのだった。
――人に教えてもらっておいて、しかも友達に紹介しといて悪口言うのはどうなんだろ。
マンションを紹介したこともそうだが、アユちゃんの彼氏はそのビストロのシェフだかオーナーだかなので、母が近所に冴えない店しかない、と文句を言う時、羽衣はいつも少しハラハラしている。アユちゃんが半年ちょっと前に引っ越してきた頃、一度だけ羽衣と母と三人で彼氏のビストロでご馳走になったことがあるが、目黒の家から一番近い似たような店よりも美味しかったし、アユちゃんの彼氏は去年見た男の中で一番美男子だった。その時とその後一回、アユちゃんは雑誌の編集部や取材先でもらう新発売の化粧品をごっそりくれて、羽衣はそれが今後も続くと思って気前よく琴美たちと山分けしたのだが、思えばそれ以来、あまり会う機会がなくなった。母と同じく、あまり地元にはいないようだった。それに、たまたま再会しただけで、もともと母と特別仲がよかったわけではないのだろう。
母の自己中で若干ヒステリーな性格は父との結婚式でのエピソードでよく知られているので、若い時から変わらないのだろう。友人の中でも一番乗りの二十四で結婚した母は結婚式ではしゃいでいた父の同僚に腹を立て、ホテルのチャペルから披露宴会場に移るタイミングで、お祝儀の入ったロック付きの箱からその同僚たちの名前のものを探し出し、父に「これ付き返して帰れって言ってこい!」とすごんだらしい。父は懐かしい話として笑って教えてくれたが、羽衣は子どもながらにドン引きした。私だったら絶対友達になれないタイプだなと感じている羽衣はいつも、母とそれなりに友人付き合いしてくれる人たちにインスタ越しにささやかな感謝の念を送っている。幼い頃は、母が時折気まぐれで褒めてくれたり、かわいいーと言ってくれたりするのが嬉しくて、母に対して媚びることをやめられなかった。中学に上がると、母の理不尽な気分の揺れが憎らしくなり、父が母に気を遣っていることが妙に腹立たしかった。急にSUPに目覚めた理由がどうやら男にあると女の勘が働いたのも、憎らしい母の弱点を見つけようと目を凝らしたからかもしれない。
そもそも結婚式でふざけた同僚たちというのも、前の方の席に座って、誓いのキスのタイミングで立ちあがって男同士で一斉にキスし出したというだけらしく、特に誰を傷つけたわけでもない。父と母の誓いのキスを邪魔したわけでもない。本当に全員ゲイで、感動して愛する人とキスしたくなっただけかもしれないし、同性婚が認められない日本でせめて友人の結婚に便乗してチャペルでキスしたかった可能性だってなくはない。羽衣が母の怒りを理不尽だと思うのは、大切なものを傷つけられたとか、大きな権力のせいで弱い者の命がないがしろにされたとかいう理由ではなく、単に自分自身の思い通りにいかなかった、という怒りだからだ。ただ、それらに対するいら立ちも、母が父と離婚し、羽衣自身も高校に上がると次第に収まった。母はこういう人なのだし、自分は友人でも恋人でもなく娘だから、成人するまでは刺激しない程度の会話で付き合い、あとは適当に距離をとればいい。新しい地元の高校の友人の母親たちにくらべれば、見栄えがよくフォロワー数も多く、お下がりでもらえるものが諸々おしゃれなものである分、利用はできる。イエベ日焼け肌の母に対して、ブルべ美白派の羽衣は冷めている。
コンビニに入るとレジのところに羽衣がこのマンションで唯一可愛いと思っている二十代の女の人がいたが、お正月だからかいつもより顔面偏差値が八ポイントほど落ちている気がした。それでも真っ白なつるつるの肌は健在で、羽衣は思わず彼女のカゴに入っていたのと同じカップの春雨スープを真っ先に自分のカゴに入れ、サラダのコーナーにはめぼしいものがなかったので、なんとなくオニギリを手に取り、やっぱり気分が乗らないのでビニールに入った蒸しパンだけカゴに入れてさっさとレジに持って行った。ホットスナックはそこそこ補充されているが、見かける店員の中で一番感じの悪い女の人だったので特に買わずにスープとパンのお金だけ払う。羽衣は平日の夜に見かける中国系の店員が一番仕事がデキる人だと思っていた。お正月だし実家のある国に帰っているのかもしれない、でも中国ってお正月がほかの国とずれてなかったっけ、と思いながら外に出ると、横断歩道の向こうに先ほど上から見えた、犬種の分からない黒っぽい犬が見えた。おじさんだと思っていた飼い主はジャンパーを着たおばさんだったので、羽衣はなんとなく気まずく思って下を向いて住居のエントランスの方へ歩いた。
琴美から上野のバーゲンに行こうとDMが来たのは、夜にコンビニで買った蒸しパンを、トースターで一瞬温めてココアと一緒に流木テーブルに運んでいる最中だった。
春雨スープを食べた後、タブレットの充電をしている間にスマホでインスタをなんとなく眺め、先ほどまでとは違うLINEのゲームをしていたらいつのまにかやはりラブチェアで眠っていた。丸まった体勢で三日連続眠ったせいかさすがに背中が痛くなって目が覚め、顔のすぐ近くにあったスマホを見ると早朝五時半、そこからなんとなく再び目を閉じたり、やはり首と背中が痛いので一度体勢を起こして伸びをしたり、数件未読があったグループのメッセージを読んだりして、ココアのためのお湯を沸かしに立ち上がった時も六時半になっていなかった。
パン皿とカップを流木テーブルに置き、音のしたスマホを見て「え、今日?」と返信すると、珍しく琴美が電話をかけてきた。
「驚き。起きてたの? まさか徹夜?」
早朝だからか少しトーンを落とした琴美の声はスピーカーではやや聞き取りづらい。
「いや、昨日の夕方から寝すぎて目が覚めたところー。今からパン食べる」
トースターから出したてのパンを触ると絶妙な温度だったので、スピーカーにしたままのスマホに大きめの声で喋りかけて、羽衣は両手で蒸しパンを二つに割った。
「今日だよ、今日。昨日からバーゲンやってる。上野じゃなくてもいいよ。そっちの駅からだと出やすいかなと思って上野って言っただけ」
琴美の家は羽衣の住んでいる場所より私鉄だと三駅分東京から離れているが、JRとの乗換駅でもあり、都営地下鉄の終点でもあるのでこのあたりだと一番交通の便がいい。
「いいよ、そっちまで一回出れるよ。なんでコトミも起きてんの」
「似たようなもん。田舎帰ったりしてるヤツが多いかなと思って暇してたけど、そういえばウイちゃまは留守番とか言ってたと思って。ママ旅行でしょ?」
羽衣からするとじゅうぶん田舎である地元で、「田舎に帰る」という表現には引っかかったが、祖父母の代から同じ場所に住んでいるはずの琴美にそれを突っ込むのは危険な気がして、そうだよ、とだけ返事した。
「もしかしたら例のブサイクと一緒かもって言ってたじゃん」
琴美が一層声を落としてそう言ったので食べながらだとさすがに聞きづらく、羽衣は仕方がないので一度ココアで口の中のパンかすを胃に流し込んでからスピーカー機能をオフにしてスマホを耳にあてた。
「ビンゴだったから。インスタスクショとった。あとで見せる」
「マジで。ちょっと早めに待ち合わせ希望」
入学当初、羽衣は親が最近離婚したことだけを友人グループには伝えていたが、一年の夏休み明けにはすでに母親の男の話をするようになり、二年に上がるタイミングのクラス替えで運よくまた同じクラスになった琴美を含む新たなグループには時折その男の映っている写真やインスタのスクリーンショットをグループチャットに送信していた。
フライング不倫ではあったものの、一応離婚が完了したいま、母に恋人がいることは仕方のないことだと思っている。羽衣の中学の友人にはもともと片親の家庭の子もいて、そういう場合は親に特別な恋人がいることは不思議ではない。それにニュースや漫画を見る限り、幼い女児と母親の男との悲惨な事件は悲惨も悲惨で悲惨すぎるので、今のところ父にはもちろん母にも母の男にも虐待されていない自分はマシなほうだ。しかし羽衣は、母が多くの時間を一緒に過ごし、どうやら新しく二人で会社を立ち上げようとさえしている男の顔が心の底から気に入らなかった。友人たちに見せても、誰もがブスとの評価をするので、別に母とどうこう以前にブサイクなのだと思う。ただブサイクならば全然いい。そもそも羽衣はキザなアイドルかブサイクな芸人かだったらブサイクを選ぶタイプだった。ただし、生理的に受け付けない顔というのはあって、今でしょ!の人とこの男だけは許せないのだった。しかも、今でしょ!の人のような才能や財力は全くなく、車もなければたしか高卒だし、おそらく年上の女に寄生するような人間だ。
母の二つ年上の羽衣の父は、少なくともやや下品な中学生女子に「ウイのパパとならパパ活したーい」と言われる顔で、長身で服装は高級志向、学歴こそないが順調に出世してそこそこの高収入だった。父と比べていいところが一つもない男に家庭を壊されただけでも恨む理由は十分なのに、さらに自慢するように母の写真をアップするなんて本当に許しがたい。羽衣の中でこの男への憎悪が膨らむと同時に、母の性格に対して持っていた不満や憎しみは和らいだのだが、それがブサイクや貧乏人と熱愛報道があって一気に好感度があがる女子アナやタレントに対するものと似た効果なのかどうかはよくわからなかった。母がこの男と別れてくれれば羽衣はどんな男を連れてきても受け入れるつもりですらいた。
琴美の家の近くの駅ビルに入っているカフェで十時に会う約束をして羽衣は電話を切った。いい加減お風呂に入るきっかけができたし、新宿方面に出るなら、去年から話題のウユクリームが買えるかもしれない。出かけるのを楽しみに少しだけ温くなったココアを口に含み、蒸しパンの残りの半分を口に入れると、中の方がやや冷たくて、羽衣にはそれがちぎって置いておいたからなのか、トースターに入れた時間が短かったからなのかはわからなかった。
(つづく)
連載【ノー・アニマルズ】
毎月金曜日更新
鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部在学中にAVデビュー。その後はキャバクラなどに勤務しながら東京大学大学院社会情報学修士課程修了。修士論文はのちに『「AV女優」の社会学』として書籍化。2022年『ギフテッド』が第167回芥川賞候補作、23年『グレイスレス』が第168回芥川賞候補作に。他の著書に『身体を売ったらサヨウナラ』『娼婦の本棚』『8㎝ヒールのニュースショー』『浮き身』等多数。
Twitter:@Suzumixxx