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第8回 501号室 十七歳はこたつで美白に明け暮れたい〈後編〉 鈴木涼美「ノー・アニマルズ」

両親の離婚を機に、江戸川を渡った先にあるマンションで暮らすようになった17歳の羽衣。2017年の大晦日、離婚の原因を作った母は羽衣をひとり自宅に残して“友人”と旅行へ。羽衣は、その“友人”が、生理的嫌悪が膨れ上がる“あの男”だと気づいていて……。
2025年に取り壊しが決まっている老朽化マンションで暮らす住人たちの小さな破綻と孤独を描いた、鈴木涼美初の連作短篇小説。
[毎月金曜日更新 はじめから読む

©︎OKANOUE Toshiko「幻想」Courtesy of The Third Gallery Aya


 ゆっくり湯船に浸かった後に服を選ぶと何かと失敗することが多いので、羽衣はあえてタオルを身体に巻き付けた寒々しい格好のまま髪を乾かし、けばくならないよう細心の注意を払ってBBクリームとアイブロウとマスカラだけの簡単なメイクを済ませた。そうやって十分身体が冷えてからタイツやニットを着たにもかかわらず、駅までの道のりを歩くと脇や胸にじんわり汗が滲み、駅の階段を上ってホームに立つと今度は耐え難いほどの寒さに震えた。冬の朝風呂は今後よほどの特殊事情がない限り避けるべき、と心に誓って踵を上げたり下げたりしながらなんとか外気に耐えて電車を待った。
――サウナかこたつに入りたい。
 流木テーブルに折り畳み式の鏡を立ててメイクをしている最中、なんとなくつけていたYouTubeの動画では、整形顔の元読モがこたつに入ってコスメの解説をしながらメイクしていた。寒さを紛らわせようと、自分がこたつの中にいる姿をなんとか脳内でイメージしてみるが、想像すればするほど足先が凍るように冷たくなっていく気がして途中からはマフラーに顔を埋めて無心でいるようにした。
 イメージがうまくいかないのは考えてみれば当然で、羽衣がこたつに入った回数は十七年間の人生で十に満たない。覚えているのは家族で訪れた山形のひなびた温泉宿に掘りごたつがあったことと、中学の友人である千紗の部屋にやぐらタイプの簡易でおしゃれなものが置かれていたことくらいだ。たしか小学四年か五年の時に行ったその温泉宿のこたつがあまりに幸せ空間すぎて、羽衣はその後とりつかれたように母にこたつをねだった。中学に入り、掘りごたつを後から作るのは現実的でないことは分かったが、千紗が姉と共有する部屋に置いていたこたつを発見してから再び、今年のクリスマスプレゼントはおしゃれなこたつにして、と千紗の部屋の写真を見せながらねだってみたが、母は絶対に首を縦にふらなかった。
 そんな時母はいつも、妹の麻衣ちゃんが持っていたサンリオのキャラクターがついた学習机の話をする。母や麻衣ちゃんが小学生の頃、サンリオや任天堂のキャラクターのついた学習机が大流行して、麻衣ちゃんはそれがどうしても欲しいと言って買ってもらったものの、中学に上がるとその机が子どもっぽくて恥ずかしかったらしく、キャラクターのところにポスターを貼って隠していた、その点母は親に買い与えられた極めて普通の木目の机を使っていたので全く恥ずかしい思いをせずに長く愛用した、という話だ。母はいつも誇らしげにそれを語る。ただ、羽衣にはその話とこたつを置いてもらえないことが、どう重なるのかいまいち腑に落ちないでいる。こたつはキャラクター机とはむしろ真逆のもののように思えて仕方なかった。
 三が日の午前中の下り電車は比較的空いていて、羽衣はドアのすぐ横の座席に浅く座った。一つ隣のドアのところに、坊主頭の若い男の人が立っている以外、乗客は全員座っている。母は電車で立っているとインナーマッスルが鍛えられると信じているらしく、指定席がある長距離移動を除いて空いていてもほとんど座らない。坊主頭の人も何かスポーツのトレーニングをしているのかもしれないが、その割には姿勢悪くドアに寄りかかっている。ヒーターのきいた座席は温かく、ドアが閉まって外気が遮断されると、冷え切って硬直していた背筋や腰のあたりも徐々に柔らかくなっていく気がした。
 スマホを取り出して画面に触ると、二分前にメッセージが来たことを知らせる通知が表示されていた。琴美からの、もう駅ビルに着いたけれどちょっとだけ本屋に寄ってくる、という旨の連絡で、文章末尾に思わせぶりなハートマークがついているので、それが琴美の好きな塩顔俳優に関する用事なのだとすぐにわかった。琴美は一年の頃のオリンピック期間中は水泳選手について騒ぎ、M-1が盛り上がるとお笑いの人に熱をあげ、ドラマを見れば出演俳優の顔面に順位をつけるような素直なところがあるが、一貫してさっぱりした顔が好きなところだけはぶれない。羽衣も濃い顔や西洋風の顔より琴美の好きそうな塩顔の方が良いと思っていて、母の男について、耐えられないブサイクだと最初に同意してくれたのも琴美だった。日焼け肌のそのブサイクは世に色々いるブサイクの中でも目が大きく睫毛が長いタイプのブサイクなのだ。
 今電車もう乗ったから五分で着くし本屋まで行くよ、とメッセージを作っているうちに電車はすでに二つ目の駅に着きそうだったので、今電車もう乗ったから、の部分だけ削って送信した。ドアが開くたびに冷気が舞い込んできてやはり寒いが、窓から見える空は寒さに不釣り合いなほど青く澄んでいる。昨日保存したスクショのほかに、男が母の様子をストーリーに上げていないか確かめようとインスタのアプリを開いてみたが、母も男も新しく何か投稿している様子はなく、ハワイ旅行中の千紗のアイコンを触ると、エルヴィス・プレスリーの格好をした白人男性とのツーショットがアップされていた。

 息を止めるようにして改札を早歩きで通過し、階段を下りてJRの駅と一体化した駅ビルまで歩くと電車内で緩んでいた上半身が再び寒さで硬直していくのがわかった。本屋はカフェのあるフロアの一つ上の階に入っているので、階段を上りながらスマホを取り出すと、メッセージを送るまでもなくこちらに向かってくる琴美の姿が目に入った。少し底に厚みのあるブーツに分厚い黒いタイツを合わせて、ダブルボタンがついたワンピース風の赤いコートを着ている。迷った挙句にダウンではないフード付きのコートにしてよかった、と羽衣は思った。あの赤いコートの横に黒いダウンで並んだら、なんだかとても不釣り合いだ。
「もう本屋いいの?」
 階段を上りきらずに立ち止まり、羽衣がそう声をかけると、琴美は下唇を突き出して眉を八の字の形に下げた変な顔をしながら足早に駆け寄り、羽衣のすぐ横に来てから、まだなかった、と声を出した。
「発売日五日だからもうあると思ったんだよ」
 目当てはやはり好みの塩顔俳優が表紙に大きく載った映画雑誌だったらしい。羽衣は映画や動画を見て、かっこいいなと思う顔があっても、画像検索でいくらでも顔の出てくる俳優の写真が載っているという理由で雑誌を買う精神性はよくわからない。
「お正月だからまだ入荷する業者とか休みなんじゃない」
「でもものって絶対休みの日の方が売れるじゃん。なんなら年末に入荷してるのかと思ってた」
「それじゃあ発売日の意味ないじゃん。そもそも雑誌って、十月号が八月末に発売したりしない? あれ意味わかんない。じゃあ何月号ってつけなくてよくない」
「次の号が出るまで売り続けるわけだから、最後に買う人も古く感じないような仕組みになってるんだよ。そもそも服とかさ、八月末に八月っぽい夏の服買わないじゃん。先のもの買うわけだから、その頃のファッション載ってる号ってことでいいと思うけどな」
「でもなんか自分が置いてかれて、時間だけさっさと過ぎ去ったみたいな寂しい感じするな」
 琴美の解説になるほどと納得してしまったものの、なんとなく羽衣は最後まで反対の立場を保ちながら、今しがた一人で上ったばかりの階段を今度は二人でドスドスと下った。階段を下りながらしゃべるときの声は大きくなる。もともと割と大きい琴美の声は、上の階にも下の階にも響き渡っている気がした。
 自宅付近や駅周辺の道はまだ通常よりも人通りが少ない気がしたが、駅ビルは混んでいる。野菜や肉などを売るスーパーマーケットのエリアは特に混んでいて、周辺の和菓子屋や雑貨屋のテナントもつられてごった返している。レストランエリアに入るとさすがにまだ行列などができている店はなかったが、一番手前のカフェの中は午前中にしてはかなり人がいて、片側がソファになった一番良い席はすべてとられていたので、仕方なく羽衣たちは通常の小さなテーブルとあまり座り心地のよくない椅子二脚がセットされた席に上着を置いた。
「私アサイーのやつにしよ」
 注文カウンターで前にいた一人客の会計を待つために後ろに並ぶと琴美がそう言ったので、羽衣もメニュー表を見上げる。琴美の言う栄養価が高いのであろうドリンクはいかにも冷たそうで、羽衣は思わず寒くなりそう、と言った。
「ウイちゃま寒がりだよね、私冬でも夕飯の後はアイスだよ」
 琴美が先に注文してスマホの電子マネーで支払い、続いて羽衣がホットココアを頼んだ。コーヒーは牛乳が入っていようが豆乳やアーモンドミルクが入っていようがアイスクリームが載っていようがあまり好きではない。コーヒーゼリーも風味の付いたチョコレートや飴もあまり得意ではない。味が嫌いというより、ちょっと具合が悪くなったり後味が異様に気持ち悪かったりするので体質に合わないのかもしれないと思う。母は朝に一杯だけコーヒーを入れるが、昼を過ぎたら喫茶店に入っても飲まない。きっとこういうところでは、琴美が頼んだような美容系のドリンクを飲む。
「これお年賀代わりー」
 カウンターの近くで待ってからドリンクを受け取り、席に座ると琴美がトートバッグから小さな赤い紙袋を羽衣の目の前に出した。
「え、なに可愛い。私なんも持ってきてない、気が利かなくてすまん。コートと同じ色じゃん」
「このコート、ママの」
 光沢のあるぱきっとした赤の紙袋を開けてみるとイケアのジップ付きビニール袋の中に、さらに薄い紙で包んだアクセサリーらしきものが入っている。店内は席の間隔が狭く、飲み物を買っている間に隣の席が運よく空席になったのでとりあえず羽衣は自分の鞄をその席の椅子の上に置いた。混んできたらどかせばいい。母の知人がデザイナーをしているネット販売限定ブランドのバケツ型のバッグは、薄くて柔らかい革が使いやすい。高校生の娘さん用に、と夏にサンプル品を送ってくれたのだ。サーモンピンクは確かに年中日焼け肌の母よりも色白の羽衣に似合う。
「あ、もしや最近コトミン作ってるって言ってたやつ」
「そうだよ、一回貴和製作所の講座行って作り方習って。道具はママと共用だけど。というか母親が買って、今のところ私が使ってる。これくらいのものなら無限に作れるよ。なんかパーツとかそんな高くないんだよ、丸カンとか五十個入りで百円とかだし」
 薄い紙を開くと、タッセルのついた引っ掛けるタイプのピアスが一組と、コットンパールを繫げたキャッチで止めるピアスが一組入っていた。羽衣は中三になった頃、目黒の皮膚科で両耳に一つずつピアスホールを開けた。母親には、原宿にあるニードルで開けるピアッシングスタジオが良いと言われたが、すでにピアスを開けていた何人かの友人はみんな皮膚科で開けたと言っていたし、なんとなく針で突き刺すよりピアッサーの一瞬の痛みの方が怖くない気がした。
 琴美の母親は若い。羽衣を二十六で産んだ母も今時の母親の中では若い方だろうけど、琴美の母親はさらに若く、まだ三十代か、今年四十になるか、たしかそれくらいだと言っていた。父親は羽衣の父よりも年上で、なんとなく聞いた話ではバイトと店長のような間柄として出会ったらしかった。琴美は母親と仲が良い。羽衣が母や母の男の悪口を言うと、大抵の友人はなんとなく話を合わせて親の悪口を言うが、時折無理やり悪口を絞り出しているように見えることがある。そういう時、羽衣は別に合わせてくれなくていいのに、と感じる。離婚の話をした時も、両親の不仲や親族の離婚を持ち出して同じテンションで話してくる同級生は多かった。そんな中、琴美は家族の仲が良いことを一切悪びれない。羽衣は彼女のそういうところを、他のクラスメイトより少し信頼しているし、良い家族のもとで育った者独特のまっとうな正義感を眩しいとも思う。
 実際、何度か家に遊びに行ったが、琴美は特に母親とは姉妹のようにふざけ合っていて楽しそうだった。𠮟ることくらいはあるのだろうが、結婚式でブチギレる羽衣の母のような癇癪玉は持っていないだろう。別にそれは琴美と羽衣に根本的な違いがあるとか、二つの家庭の成り立ちがあまりに違うとかそういうことではなく、母親の性格と相性の運でしかないと羽衣は思っていた。相棒と仲の良い刑事もいれば、あくまでビジネスライクな刑事もいるし、前の相棒とは仲良かったけど配置換えで新しく相棒になった人とは全然ダメ、みたいな人もいる。多分。
「それでスクショってもしやえぐいツーショットとか?」
 よく見ると羽衣にくれたものと色違いのタッセル付きピアスをしている琴美が、太いストローでアサイーのなかなかえぐい色の飲み物を一口飲んでから聞いた。羽衣も自分のしていたシンプルな星形のピアスを外して、タッセルピアスをつけ、おそろい嬉しい、と言いながらカップのココアをすする。
「ううん、ブサイクが撮った母親の写真」
「げ、それを男の方がアップしてたの」
「そうだよ、キモイでしょ」
 羽衣が隣の席に置いたバッグに手を伸ばしてスマホを取り出し、カメラロールを開いて一番下に出てきた昨日のスクショを見せると、琴美がスマホを受け取りながら、ひえーともはあーとも聞こえる声を出した。
「いや、ウイちゃまのママは美人でスタイルいいと思うよ、でもこういうのアップする神経ってどんなだろ。略奪したぜ俺、ドヤ、みたいなことかな」
「誰に向けてなんだよ、ってのがほんと謎」
「ひーくんとアオイちゃんのインスタすらちょっと引くのに」
 琴美と羽衣の一年の時のクラスメイトで、入学後初めてできた同級生カップルである浩也ひろやあおいは、クリスマスにお揃いのバングルをアップしたり、二人で行ったらしいディズニーでの仲の良さそうな写真をアップしたりするが、自分で撮った恋人のワンショットを上げているのは見たことがない。浩也が撮ったらしい葵の写真は無数に葵のアカウントの方に並んでいる。
「うちの親の写真よりはマシだけど、全然。ひーくんキモくないし。でもあの二人も別れたら全部消すのかなとか思っちゃうな」
「それなー。でもあの二人、親同士も仲良いし結婚しそう」
「だとしたら子供とかにさー、ママとパパの高校時代のデート写真ーとかいって見せるのに使えるよね」
 コートを椅子にかけて座っていても店の中は別に寒くない。その割にココアは急速に冷めて、すでにごくごく飲める温度になっている。家で入れるココアはかなり時間を置かないと冷めないのに、それよりも濃くてドロドロしているはずのお店のココアがどうしてこんなに早く冷めてしまうのか、羽衣は不思議だった。
 何か通知が来たのか、琴美が自分のスマホに目を落としたので、なんとなく羽衣もつられてスマホのロックを外すと、先ほど表示して見せた母のモデル風ポーズが表示されて滅入った。急いでカメラロールを閉じた瞬間に、スマホが一瞬フリーズしたように止まった後、着信を知らせる黒い画面に切り替わる。大きく表示された「真美子氏」は母の名前だ。琴美の方を見ると琴美も顔を上げて、着信? と聞いてくる。
「母親からだけど。とりあえずいいや」
 羽衣はそう言って、隣の席のバッグを膝の上に引き上げてスマホをしまう。まだ何席か空いている席はあるものの、入ってきた時よりは少し人が増えたので誰かが席を使うかもしれない。スマホの入ったバッグを膝に抱えたままココアのカップを再び持ち上げると、先ほどまでじんわり温かった取っ手のまわりがすでにぬるいを通り越して冷たい。構わず口に運んだが、冷めたココアは一口がいつまでも口の中に残るほど甘かった。

「コトミンのとこ、こたつないよね?」
 カフェで二時間粘った上に、どこに行くかという話をさらに三十分ほどして、地下鉄のホームに降り立った時には一時を過ぎていた。新宿ならJRでも一本で行けるが、都営地下鉄の方が少し安い。階段を下りている最中に再度母親から着信があったので出ると、明日の朝ではなく、今晩帰ることにした、ということだった。布団だけは自分の部屋に放り投げてきたが、携帯の充電器や食べかすやタブレットはそのまま流木テーブルに置いてあるので、できれば自分の方が先に家に着くといいなと羽衣は思った。今日は琴美と買い物行ってくる、と言ったら、母はふーんとなぜか面白くなさそうな声を出して、戸締りだけ気をつけてね、あと火の元、とテンプレなことを言ってさっさと電話を切った。明らかに地下鉄の駅のアナウンスや車両が入ってくる音が聞こえているはずなのに、今から戸締りに気をつけるにはどうすればいいのかよくわからないし、そもそも羽衣は時々鍵やスマホを忘れて出かける母よりずっと戸締りや火の元について慎重だった。
「え、こたつ?」
 並んで座れた地下鉄の座席で、手袋を外しながら琴美が言った。内側のグレーのファーが手首の上に少し見えるデザインの手袋は、よく見ると黒い布地に黒い刺繍でバーニーズのロゴが描いてあるのでこれも多分母親のものなのだろう。
「こたつこたつ。テレビの前のテーブルとか、あれこたつじゃないよね」
「あ、そういえば前はあったわ。あのテーブルに替える前、たしか冬はこたつになるやつだった。今はもうない。なんでこたつ?」
「こたつ絶対最強にあったかくない?」
 琴美の家はそれほど古くない一軒家だが、四人で住むにはかなり狭い三角形のような作りで、たしか一階は狭いキッチンとトイレとお風呂のほかにはテレビと低いテーブル、それから座椅子みたいなソファがあるだけだった。二階に二つある部屋の片方を琴美と琴美の弟が使っている。でも弟の勉強机は一階の端っこ、みたいなかなり無理やりな配置だ。
「いや、あったかいけどそのぶんエアコンの温度低めにしてたからみんなこたつから出られなくなってたよ。それで次はこたつ機能なしのにしようってことになった気がする。こたつ買ったの?」
「ううん、欲しい」
「あ、猫飼ってたんだっけ」
「前にね。でも前の家もこたつなかった。人生で持ったことない。憧れ、こたつ」
「猫にはこたつだよね」
 琴美が横にいる羽衣の顔ではなく前をまっすぐ見て真顔で変なことを言うので、羽衣はなぜかそれが妙に可笑おかしくて、引きながらなるべく大声を出さないようにして笑った。
「え、変? こたつって猫とセットじゃない? あと蜜柑」
「蜜柑はわかるけど、猫はただのあの歌に出てくるからじゃん、完全に引っ張られてるって。ああ苦しいツボった」
「ご飯どうする? 新大久保でなんか食べればいいか」
 琴美は少しだけつられ笑いしてから気を取り直すように聞いた。アサイードリンクはドロッとしてボリュームがありそうだったし、羽衣も冷めたココアを一口ずつ口に入れ続けたので今のところ何か食べたいという気にはなっていなかった。そうだね、と言いあってしばらくしてから琴美は思い出したように、一人用のこたつ、前になんかで見たよ、と言った。

 新宿ではルミネを回り、琴美がスウェットのワンピースを試着したものの結局何も買わず、スニーカーを見たいという話になって寄ったABCマートでもさんざんあれこれ喋りながら回った割に、二人とも特に何も買わなかった。ルミネは各店が福袋や目玉のセール品を前面に出して、店員がいつも以上に増員され、忙しなく接客していたし、ABCマートでも鏡の前や試着用の椅子のところには絶えず人が動いていた。これ可愛い、たしかに、履いてみよっかな、という話にはなるのだが、履いてみると、でも結局白のコンバースで事足りそう、とか、去年そういえばエアマックス買ってまだあんまり履いてないや、と買わない理由が色々と口から出てしまう。その点については羽衣も琴美も似たような温度だった。
「クリスマスの時の話したっけ」
 歌舞伎町を通って新大久保の方へ坂を上りながら羽衣が半歩前を歩く琴美に話しかけると、琴美が覚えているような思い出しかけているような微妙な顔をしたので、アイシングクッキー、と付け加えようとすると、何かを思い出したのか琴美の顔がぱっと明確な色に変わり、あーうちらにくれたやつの話、とそれまでよりやや大きい声で言った。
「あれ美味しかったー、ディーンアンドデルーカだったよね」
「それを、母親に持ってかれた話」
「え、あれ、なんか間違えて捨てたのとは別の?」
「それはカナちんの誕生日の時」
 二学期の試験最終日、羽衣は琴美たち一年の時に同じクラスだった仲良しのメンバー七人でカラオケでクリスマス前夜祭と称して打ち上げを予定していた。一年の時はプレゼント交換をしたのだったが、プレゼントは人によって好きなものも欲しいものも違うから誕生日に統一しようということになって、今回からはお菓子とか配る系でいいよねという話になった。七人がそれぞれ、普段コンビニで買うよりちょっと洒落たチョコやディズニー土産のクッキーなどを、カラオケの店員に持ち込みがバレないように鞄や紙袋に忍ばせて持ち寄って、その場で食べたり持ち帰ったりした。羽衣は一枚一枚ビニールに入ってリボンが結ばれたアイシングのクッキーを人数分買っておいた。母親と麻衣ちゃんと八重洲で会った時に自分の分を含めて七枚買って、準備しておいたのだ。十種類以上あるアイシングの絵柄から、じっくり時間をかけてクリスマスっぽいものを選んだ。
「あれさ、アヤネがインフルになってなかったら自分の分なかったんだよね。母親といる時にちゃんと数確認して買ったのに、多分彼氏か、もしくは仕事の人に会うのにちょうどいい手土産みたいなの買うヒマがなかったんだと思うけど、母親が勝手に一枚持ってったの」
「マジか。聞かずに?」
「聞かずに。いなかったから、って、別に電話でもなんでもかけれるじゃんね。ほら、試験前の日曜うちとカナちん、コトミンの家で勉強してたじゃん。で、当日うちが学校行く直前に袋の中確認して、え、一枚減ってるって言ったら、あ、そうだこないだちょっと急ぎだったからもらった、とか言って」
「人数分なかったらダメなやつだもんなー。ちょっとひどいかも」
「そうだよ、旅行土産とかで、明らかに大入りで適当に入ってるやつじゃないじゃん。自分の分買ってたからまだよかったけど、もし六枚しか買ってなくて、その場で気づいたら超きまずいじゃん。いじめかよってなるよ」
「自分の部屋に置いてたの?」
「いや、キッチンの近く。涼しいとこって思って」
「今後は自分の部屋だな。でも万が一今後そういうことあったら、うちナシにしてもいいからね、代わりに翌日蜜柑でもくれればいいよ」
「なんで蜜柑」
「こたつの話からずっと蜜柑食べたいんだけど。あとでお店入ったら蜜柑のなんかあるかな」
 琴美がやや大げさに蜜柑、にアクセントを置いて喋るので、羽衣はまた引き笑いが止まらなくなった。
 アイシングクッキーの件もそうだし、一年で同じクラスだった夏南かなの誕生日もそうだ。誕生日は大抵、六人で相談して割り勘で一つのプレゼントを買って当事者に渡すことにしているが、夏南の時はそれぞれが化粧品を買おうということになった。夏南が部活の後に化粧をしているのを見るといつも試供品を使っていたから。ベース担当だった羽衣は韓国ブランドのBBクリームをネットで買って、あとでラッピングしようと思ってテーブルの上に置いておいたら、母がゴミと間違えて捨てたのだ。羽衣にだって父にだって、そういう凡ミスはある。クッキーだって、頼み込まれたら自分の分は今度買ってもらうっていう約束でいいよと言ったかもしれない。母が人と違うのは、責めると絶対に謝らないことだった。ああごめん、と最初に言ったとしても、その後になじると、色々言い訳を並べてすかした顔をしている。クッキーの時は、じゃあ今から買ってくればいいの? それで学校に届けるの? と逆ギレされた。羽衣は母を絶対に友達になりたくないタイプだと感じている。母は羽衣をなんか難しい子だと思っている。でも、もう慣れてはいるので、いつまでも引きずりはしない。あの男と別れてくれたら全部許してやる。

 行ったことのあるコスメ屋は遠いので、税務署通りから脇道に入ってすぐのところにあった割と大きい韓国化粧品のセレクトショップに入ると、ウユクリームは探すまでもなく一番目立つところにマカロンタワーのように大量に陳列されていた。行きの地下鉄の中で羽衣が騒ぐので、琴美もスマホでユーザーレビューや商品説明を読んでいた。ひとつだけあったテスターは中身がきれいになくなっていたが、羽衣は迷わず手に取った。
「試さないでいいの?」
 琴美は興味はありそうな、でも買うほどの情熱はなさそうな顔で箱を一つ手に取って成分表のような表示を見ようとするが、箱の裏の表示は全てハングルで何が書いてあるかわからない。そのかわり商品の近くに立ててある日本語のポップと、雑誌でとりあげられた時の切り抜きらしきものを熱心に読んでいるようだった。
「いい、これ絶対欲しかったの。容器もかわいくない?」
「容器は普通。あ、色はかわいいかも」
 羽衣はウユクリームを手に持ったまま、結局箱をもとに戻した琴美と店内をうろうろと見て回り、貼って剥がすと色がついているタイプのリップティントや、小さいパールが入って少しだけ肌が光る下地クリームをテスターで試し、途中でおばさんの店員に買い物かごを強制的に渡された。芸能に詳しい琴美があれは誰だこれは誰、と店内に貼ってあるポスターや広告記事のアイドルを指さして話し、後ろにいた大学生くらいのカップルの女の方に少し笑われていた。
 琴美はお年玉の、羽衣は母の置いて行った三万円のおかげで、今日はあまり値段を気にせず欲しいものが買えるはずだったが、欲しいものが詰まっているような場所も、足を踏み入れるとひとつひとつは何か欠点があって、見ていて楽しいが買うほどではない。結局、羽衣はウユクリームとビタミンと書かれたシートマスク五枚入りをワンセット、琴美はシアバターのシートマスクとアボカドの絵が描かれたボディクリームをひと瓶買っただけだった。でも、羽衣は満足だった。親の手を離れて友人と買い物に行くようになった中二の頃は、余計なものを買って、帰りにやっぱりいらないかもと思うことが多かった。今は前々から欲しかったものや本当に必要なものがもう少しちゃんと見分けられる。ウユクリームを早く試してみたくて、店を出た後も何度か袋の中の箱を触った。

 母から再度電話がしつこく鳴ったのは、割と何でもある韓国料理屋で最初に頼んだトッポギと韓国風のケーキみたいな卵焼きがなくなり、もう一品追加するか、カフェに移動して甘いものを食べるか相談している時だった。トッポギの量が思いのほか多く、羽衣はすでにメニューを見る情熱が残っていなかったが、琴美はキンパかスンドゥブのどちらを頼むか迷っているようで、隣のテーブルにスンドゥブが運ばれてきたのを見て結局同じものを頼んだ。椅子の背もたれに押し付けるように置いたバッグの中で、スマホが振動をやめるのを確認してから取り出したのに、ロックを外した途端に再び震え出した。真美子氏が連続でかけてくる時は大抵出るまで止まない。
 席に設置された端末でスンドゥブを注文してなお飲み物やデザートのタブを色々と押してメニューを見ている琴美に、ごめん母親だから出ていい、と言ってから通話ボタンを押すと、もしもし、も、自分が今どこかも言わずに母は、いまどこー? と聞いてきた。
「まだコトミンと一緒。ご飯食べてるの」
「新宿で?」
「新大久保だよ、化粧品見てた」
 羽衣がよく見ている美容系チャンネルのヨガ講師兼モデルの人は、紫外線は最大の敵、五万の美容液より日傘、と言っている。五万の美容液なんて本当にあるのかどうか知らないが、科学的にはそうなのだろう。そもそも小学生の頃に日焼けしてピースサインをする羽衣の写真は、父に似た少しだけ横広の鼻のせいもあってとても田舎臭い。ヨガモデルの肌はライトに照らさされているとはいえつるつるで真っ白でとても綺麗だし、紫外線がシワを作り、肌細胞を傷つけ、シミやそばかすを作るのは羽衣でも知っている。ただ、肌の手入れには時間をかけているとはいえSUPやボディボードばかりして日焼け肌が通常運転になっている母の肌は今のところ四十代には見えないほどハリがある。
「迎え行けるかも、と思って。何時までいる?」
「まだわかんないよ」
 トッポギも卵焼きも驚くほど早く運ばれてきたので、スンドゥブも多分すぐに出てきそうだが、それでもこの後、さらにデザートを食べるとかカフェに寄るとか、それを決めるためにきっと羽衣と琴美はまた三十分くらいは話し合う。
 羽衣が幼い頃、一時的に主婦業に専念していた頃の母は、モデル時代と同じく色白で、でも母の肌が綺麗なんて思ったことはなかった。だからと言って母のスタイルが衰えないのも、肌が輝いているのも、あのブサイクとの恋のおかげだなんて絶対に言わせない。現在では都内に店舗がなくなってしまったが、割と人気のあった小さなアパレルブランドでデザインをしていた頃の母は、仕事が忙しい時でもいきいきとして家族のことも手を抜かなかった。母の若い時のモデル仕事は何度か見たことがあったが、それでもSUPヨガを教えている姿が初めてアウトドア系雑誌のウェブ版に載った時は、羽衣も父もその肉体美を褒めた。もともとうっかり忘れものをしたり、時間に遅れたりする粗野さはあった母だが、生活があまりに雑になり、明らかに自分のミスが招いた事態について謝らなくなったのは、仕事のせいではなく多分男のせいだと思う。
 母は新宿ならあと一時間くらいで行けると言ったが、羽衣は残りの今日の予定が、母の車の到着場所と時間に縛られることになると案じてちょっと答えあぐねていた。
「コトミンと一緒だし」
 端末メニューのドリンク一覧を真剣に見ている友人を一瞥してそう言うと、グアバジュースを指でタッチした琴美は羽衣に、ほとんど声を出さずに口を大げさに動かして何かたのむ、と聞いてくる。羽衣のグラスには最初に頼んだとうもろこし茶がまだ半分残っていたので首を横に振った。
「コトミちゃんも送ってあげるよ、今ちょっとひとり友達乗ってるけど、」
「なんで、じゃあいいよ、いい、いい、いい、いい!」
 母の話を遮るように羽衣が大きな声を出したので、琴美も端末から手を放してちょっと気まずそうにほとんどなくなった自分のグラスを傾ける。氷をつたうように山ぶどうジュースが細い線となって琴美の唇に数滴届く。
「なに、ちょっと興奮しないで。友達と会えって言うんじゃなくて、友達いま乗ってるけど、目白で降りるからコトミちゃん乗れるよって意味だよ」
「ううん、いい、大丈夫、まだもうちょっとゆっくりするかもしれないし。コトミンと電車で帰るし」
 羽衣はまだ話を続けようとする母の制止を遮って、半ば強引に電話を切った。運転中であろう母が、イヤホンではなくスピーカーで電話しているのではないかという考えが頭をよぎって、先ほど変に声を荒らげたことを後悔し、最後は素っ気なく冷静な声を出した。琴美は運ばれてきたスンドゥブを真ん中に置き、店員に取り皿を要求して、机に備え付けられたカトラリーの籠から柄の長いスプーンを二本出して羽衣に渡してくれた。
「食べよ、ちょっと食べれるっしょ」
「食べる~。辛そうで美味しそう」
 店員はすぐに少し深さのある取り皿を持ってきて、続いてまたすぐ別の店員がグアバジュースを運んできた。店員は全員細身の若い男で、揃いの黒いTシャツを着ている。琴美が、ジュース持ってきた人カッコよい、とひそひそ声で言ったので、羽衣は短く声を出して笑い、歩き去る店員がこちらを向くのを待ったが、振り向いた店員は目尻が少し下がっている以外は特徴のない顔で、他の店員に比べてそれほど目立つ感じもしなかった。

 午前中に琴美と待ち合わせた駅までまた一緒に地下鉄に乗った。食べ過ぎたし歩こう、と言って新大久保から歩いて新宿三丁目の駅で乗ったせいか座席は微妙に埋まっていた。一人分のスペースが空いているところはところどころ目についたが、結局森下という駅で二人の立っていた扉近くのおばあさんとおばさんが降りるまではドアに寄りかかるように立ち、行きの電車ほどは饒舌に喋らず、扉が開いた時に寒いね、とか、向こうに座ってる人の髪の色すごいね、という短い会話をいくつかした。座席に座ってもそれは変わらず、あと二駅で降りるという時になって羽衣はスマホを取り出し、画面に表示されている通知は無視して、通販アプリを立ち上げた。
「ね、一人用こたつ、で出るかな」
 にやっとした笑顔で琴美を見ると、琴美はさらに元気そうな笑顔になって、出ると思う! と言って一緒に画面を覗き込んだ。
「何? 買っちゃう?」
 一緒に悪だくみをするような顔で琴美が楽しそうにするので、羽衣は次々に商品が表示される画面を勢いよくスクロールした。
「めっちゃ種類ある。この机型のやつとか、学校の机これにしてほしい」
「寒いよね教室。ヒーターの横の席のヤツ、うらやましすぎる。この小さいちゃぶ台みたいなのとか、どこでも置けそうだし収納できそうだよ。なんか私も欲しくなっちゃう」
 琴美はそう言ったが、きっと買わないだろうと羽衣は思った。弟と共有している部屋は狭いし、家族でご飯を食べているのであろうテレビの前のテーブルは端っこに落書きを消した痕が少し残る以外は、まだ新しくて丈夫そうだった。それに、羽衣の個人的な買い物に、結構気に入っていそうなスウェットワンピですら結局買うのをやめた琴美を付き合わせるのは申し訳ない。
「私、これ買うわ」
 かなり後ろの方までスクロールして見つけた、ピンク色の短い長方形のこたつテーブルを指して羽衣は言った。商品を指でタップしてページを開き、下までスクロールしていくと、ご丁寧に中綿の入ったピンクのこたつ布団や白いフリルのそれがおすすめとして表示される。テーブルと布団を合わせても、一万五千円で足りてしまう。
「あえての白、可愛いと思う」
 琴美が興味深そうにスマホを持つ羽衣の手首を少し触りながら少し大げさに画面を覗き込む。
「うちもそう思った。ベッドと机のあいだに置けるし、これなら一人暮らしする時も持ってけるよね。軽そう」
「いいじゃん。でも決めるの早っ」
 ひとまず商品をカートに入れ、代引きで購入してしまおうとも思ったが、あとでコンビニで専用のギフトカードを買うことにして一旦アプリを閉じた。今度は、直前でやめたり、一晩考えなおしたりせずに絶対買おう。羽衣は固く決意した。ウユクリームと食べたものの代金を入れても思ったよりお金は使っていないし、祖父母がハワイから帰ってきたらお年玉ももらえるだろうから今月は金銭的には相当余裕がある。試験期間中から休んでいた寿司チェーンでのバイトも新学期とともに再開する。
 琴美も羽衣も笑顔で、しかし一日中喋り倒して少し疲れていたので、残り一駅となってからは二人とも黙ったまま、羽衣はなんとなく父と協議離婚した直後の母のことを思い出していた。今の家への引っ越しの準備をしている時、手伝いに来てくれた妹の麻衣ちゃんに、母は「自分の人生」というような言葉を使って低いトーンで何か喋っていた。自分の部屋で持っていかない古い服などをゴミ袋に分ける作業をしていた羽衣は、真横のウォークインクロゼットでの二人の会話を、断片的にしか聞いていない。羽衣が大学に行くまで待てばいいのに、と言う麻衣ちゃんに、母は別に大学に行くって決まってないでしょ、高校出るまで、って言えばいいじゃん、となぜか少し苛々した様子で語っていた。最初は人の言葉尻を捉えて文句を言うところが母らしいなとしか思わなかったが、羽衣の人生をこうして当たり前、という型にはめないであげてほしいという意味でもあるような気が、あとからちょっとだけした。
 それは父にさんざん浮気をなじられて、仕事のことも若干ディスられて、自分の両親にはもっと責められていた母が、結婚の型を破った自分の選択を肯定する詭弁だったのかもしれない。でも結局羽衣は、悪いことをしていないのに家庭を壊された父より、一日三食食べなくても、眠くない時に寝なくても、テンプレで小言を言わない母と暮らすことに最後まで迷いはなかった。友達にはなりたくないタイプで、時々本当に人の気持ちをおろそかにするけれど、なんとなく一緒に暮らすのは母の方だと確信があったし、ブサイクと母がなるべくべったり一緒にいないように画策したくもあった。相手があのブサイクでなければ、母がしていることは、そこまで全ての人にに責められることなのかどうかもよくわからなかった。今のところ羽衣は結婚にも恋愛にもあまり現実感や興味が持てないが、それでもただでさえ味方の少ない母をあんまり孤立させて否定すると、自分の人生が限定されてしまうような恐怖も少しだけあった。母の自己中っぷりは、羽衣の最大の苛立ちポイントでもあったが、その自由さは自分の後の自由を保証するような予感も少しだけある。

 地下鉄を降りて私鉄に乗り換えるために一度地上に出ると、都心とは違う色の夜が駅前を覆っていた。琴美が私鉄の改札までお見送りする、と言った後、あ、と低い大きめの声で言って一瞬だけ立ち止まった。
「どっかで神社くらいよれば良かったよね、初詣」
 すぐにまた歩き出した琴美が、悔しそうな顔を作ってそう言った。羽衣は神社と寺の区別がいまだによくわからないほど神頼みと縁遠いが、おそらく家族でもう初詣くらいは行ったのであろう琴美が大晦日から引きこもっていた自分にそう言うのなら、ちょっと行っておいた方がいいような気分になった。
「学校始まる前、空いてる日ある?」
 改札のすぐ手前で羽衣がそう聞くと、琴美は、てか全部ヒマ! と言って、立ち止まって手をふった。羽衣はスマホを改札機にあてて中に入ってから、ありがと、連絡する、と言って、こちらが立ち去らない限り琴美が動かなそうなので背を向けてホームまで小走りで向かった。電車に乗ったら母から入っているであろうメッセージを確認し、急いで自宅マンションの下のコンビニでカードを買って帰ろう。すでに半分こたつを手に入れた羽衣は、高校の卒業式まで、あるいはもう少し今のマンションに住み、母とブサイクを別れさせるか、あるいは完全に切れないにしてもあまり時間を使わないよう目を光らせ、大事なものはキッチンや流木テーブルに放置せず、ウユクリームを使い切って美白肌を手に入れる暮らしの計画がようやく動き出したようなちょっと逞しい気分だった。
――とりあえず紅白の録画だけは一応言い訳しよう。一回だけ謝ろう。
 早くコンビニに着きたくて、私鉄の来る時間をホームの掲示板で確認すると、まだ八分も先で、羽衣はホームの自販機の周囲を、寒くないように早歩きでぐるぐる回った。

(つづく)

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連載【ノー・アニマルズ】
毎月金曜日更新

鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部在学中にAVデビュー。その後はキャバクラなどに勤務しながら東京大学大学院社会情報学修士課程修了。修士論文はのちに『「AV女優」の社会学』として書籍化。2022年『ギフテッド』が第167回芥川賞候補作、23年『グレイスレス』が第168回芥川賞候補作に。他の著書に『身体を売ったらサヨウナラ』『娼婦の本棚』『8㎝ヒールのニュースショー』浮き身等多数。
Twitter:@Suzumixxx


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