第9回 309号室 三十三歳はコインロッカーを使わない〈前編〉 鈴木涼美「ノー・アニマルズ」
新宿歌舞伎町でホストとして生きる33歳の春樹。世間から乖離した街の中で、10年以上疑問を持つことなくこの場所の価値観だけを飲みこみ生きてきたが、最近は難しいことばかりが気になるようになった。そして半年前に勝手に家を出ていった女も、春樹の頭の中に居座り続けていて……。
2025年に取り壊しが決まっている老朽化マンションで暮らす住人たちの小さな破綻と孤独を描いた、鈴木涼美初の連作短篇小説。
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©︎OKANOUE Toshiko「幻想」Courtesy of The Third Gallery Aya
久しぶりに本名で呼ばれたことに気づいたのは、風林会館一階の薬屋で虫刺され用の塗り薬を選んでいる最中だった。とは言っても歌舞伎町でよく聞くその響きのせいで初めはどこか別の店のホストか誰かのことだろうと見向きもしなかったのだが、三回続けて名前を連呼する声が徐々に自分の方へ近づいていることに気づいて初めて春樹は新ウナコーワクールの箱から目を離して顔を上げた。先ほど見たウナコーワαとの成分の違いは結局よくわからない。先週買った液体ムヒSとは何が違うのか。そういうことを酔った頭で考えているので顔を上げても眉間に皴が寄ったままだった。
「ハルキさんだ、やっぱり」
見覚えのある、しかしどこで見たのかの記憶は薄い若い女の顔が春樹の手前一メートルを切った辺りで止まる。若い女だらけのこの時間でもかなり美形の童顔だが、黒髪ツインテールはやりすぎな感じがしてあまりそそられない。
「わかります? セリです」
春樹が虫刺されの成分について考えていた顔のまま、どこで会ったのか思い出そうと口を少しだけ開けて二秒ほど黙っていると、それを見かねたのかツインテールの女は自分から名を名乗った。職業柄女の名前を覚えるのは得意だが、本名で呼ばれる間柄にこんなに若い女がいるとは思えない。店の社長がハルさんと呼ばれている三つ年上の男なので、店の客で春樹を本名で呼ぶ女はいない。同棲までした元エースですら、ハルって言うとハルさんの顔思い出すし、と言って最後に売掛を残したまま姿を消すまで源氏名で呼んでいた。
「おお、一瞬わからんかったわ、いつぶりだっけ」
どこの誰かを思い出せないまま一つ二つヒントを引き出そうとなんとなく口を動かしてみる。手に持っていた新ウナコーワクールの箱が、クールの名に似合わず温まってきた気がして、一瞬女から目線を外して棚に戻した。どこかの女の家に忘れたのかまだ二回しか使っていない液体ムヒSが見当たらないのでどうせなら別のものを買ってみようかと思ったが、とりあえずそう急ぐわけではない。
「二年以上ぶりですよ。うちが大学の卒業式の直前だったから二〇一七年でしたよね、あれから実家帰ってないんですか」
客との関係性が思い出せない時に使うヒントを引き出すための口の運動が功を奏して、目の前の女のことをはっきり思い出した。父親の葬式で一度実家に戻った時にうっかり手を出した、春樹の実家と同じマンションに住む女子大生だ。それが分かればその時の会話や性感帯までするする思い出せるのはここ十年で鍛え磨き上げられた春樹の才能だ。とはいっても春樹ではない方のハルさんのように、女を見送ったタクシーのナンバーまで記憶するような芸当はできない。以前はこの街で天下を取るくらいの気概があったものだが、最近はそういうことのできる人との間に越えられない隔たりを感じるようになった。
「おお、無事卒業して今はOLさん?」
目の前の女にそう言ったものの、目の周りの不自然なピンク色も目尻が跳ねたアイラインも、会社員という感じはしない。店に来たらそれなりに金づるになりそうな匂いがするし、アイドルっぽい黒髪と眉毛のあたりで揃えたバングスはホスト受けが良さそうでもある。そもそも、もともと大した面識があったわけでもない、数年ぶりに里帰りした明らかに昼のまともな仕事をしている出で立ちではない男を、会ってすぐに部屋に入れてしまうのだから不用心なところがあるのだろう。そういう危なっかしさは川の向こう側にある実家周辺ではくすむが歓楽街深夜二時のドラッグストアでは眩い。
「会社、すぐ辞めちゃったんですよ、今またコンカフェで働いてて」
「マジで、コンカフェってこのへんの?」
「いや、上野の。そこ右に出てちょっと坂上がったところに系列店があって、今日ミーティングついでにヘルプで出てました」
セリと名乗る女の手には特に何の商品も握られていないので、何か買い物の用事があったというより始発までの長い時間をちょっとでも消費するための寄り道なのだろう。コンカフェだけで生活しているのかどうかは知らないが、タクシーで川を渡ってあのマンションに帰るのはそれなりに料金がかかる。
高校を出てカラオケ屋の呼び込みのバイトを始めるまで春樹が暮らしていたのは、住民の誰もが現状維持で満足しているような冴えない私鉄の駅周辺の、雨風を凌いで生活を営むという以外に何の狙いも感じられないつまらない集合住宅だ。生まれた時は都内の端のさらに小さいアパートにいたらしいが、そこの記憶はないので実家というと、あの、入居しているコンビニまで生活感に溢れた、住みたくて住んでいる人間が一人もいないようなマンションしか知らない。若い女の一人暮らしは少ないが、このコンカフェ嬢はマンションの持ち主の孫だか姪だかで安い家賃で住んでいると、確かベッドで春樹が射精した後にさっさと服を着ながら言っていた。
「始発まで時間潰すの? 変な人について行かないように」
春樹が冗談交じりで言うと、それってハルキさんのことじゃないですか、と女はコンカフェと聞けばいかにもコンカフェ風の、水商売の泥臭さとも風俗嬢の崇高さとも違う、現状に満足していないくせにやたらと周囲を見下すような笑顔を作った。手足が細く背は割と低いが胸は大きい。どうせこんな時間にこんな場所に現れるような生活なら、何かを欲しがればもっと大きく稼げるだろうが、おそらく何か特定の欲しいものがあるわけでもないのだろう。見るからに何かを得るより何も失わないことをよしとするタイプだ。そういえば下着をずらしてちょっと触っただけであからさまにイッたふりをされた気がする。あの時だって別に無理やり連れ込んだのではなく、むしろついて行ったのは春樹の方なのに、なぜか女の部屋を出るときには、食われちった、とこちらが積極的に食しに行ったことになっていた。
「サウナ行こうと思ってメイク落とし買いにきたんですよ、ああいうところにあるオイルだと私肌乾燥するから」
店でもらったらしいすぐ近くのラブホテルと隣接した女性専用サウナの割引券を斜めがけのディオールのバッグから出して見せて、コンカフェ嬢はその場に立ち止まったまま洗顔用品の棚の方にちらっと目線をやった。会話が途切れてもすぐに立ち去らないのは春樹が誘えば家まで来るつもりだからで、自分から泊めてと言わないのは言い訳を残しておきたいからというよりは本当に欲しいわけじゃないからだ。ホスト相手にその性質は致命傷になる。
「ああ、サウナいいね、俺も最近ハマってんだ」
そう告げると春樹は先ほど一度棚に戻した新ウナコーワクールを手に取りかけ、やっぱりウナコーワαに替えてレジの方に一歩踏み出しながら、また暇な時にでも連絡ちょうだいよ、と女の肩をくすぐるように右手指四本で数回撫でた。客として育てようと思えば結構簡単に育つ女だとわかったが、本名で呼ばれたせいか、寝たのが父親の葬式の前日だったせいか、なんとなく見逃してあげたい気分だった。
「って、実家には滅多に帰ってないけど。またカブキ来ることもあるっしょ」
春樹が思ったほど自分に食いつかなかったことをほんの少しだけ気にしているのであろうコンカフェ嬢は、そのほんの少しの不快を一切表に出さないよう注意深く表情を作って最後に言った。
「そういえばもう家族から聞いてるかもですけど、やっぱり取り壊し決まりましたよ、あと五年とちょっとです」
ああそう、と言って一瞬止まり、何か言おうかと思ったが何も思いつかなかったので虫刺されの薬を指でつまんで掲げ、買ってくるわ、と春樹はそのままレジに向かった。一か所しかないレジは先客が一人だけいる。仕方なくすぐ後ろに立ち、ツインテールに前髪パッツンのかなり可愛い女がいた方を振り向くと、プライドの高そうなコンカフェ嬢はすでにその場を立ち去っていた。前の客が度入りのコンタクトレンズなんて買って名前と電話番号を書かされているせいで時間がかかっている。
既に築五十年近いマンションが近く解体されるかもしれないということは、あの女とセックスするまで誰にも聞いたことがなかった。葬式が終わったあと、母親にちらっとそんな話をすると、まだ退去勧告や時期などの連絡はないが、そういう話になるかもしれないことは管理会社だかマンションオーナーだかからの封書で案内されていると言っていた。知らなかったよ、と母親にやや強い口調で告げると、あなたもう別にここ住んでないじゃないの、と言われた。毎月のように孫の顔を見せに寄っている妹と対極的に、十八で家を出てから正月も帰らず、余程収入が高い時にたまにお金を送る以外ロクに連絡もしなかった春樹は確かに、実家のある賃貸マンションの事情など知るわけもないのだった。それでも、物心ついてから一か所に住み続けていたからか、実家というのはいつまでもそこにある盤石なものだと勝手に思い込んでいた。
ようやく前の客の会計が終わり、店員に促されてウナコーワαを差し出し、パンツの後ろポケットから財布を出して現金で支払う。少しゆっくり小銭を探したがその間、コンカフェ嬢がメイク落としを持ってレジにやってくることはなかった。もともと買う気があったのかどうかもわからないし、気に入ったものが置いておらずドンキまで足を延ばすのかもしれないし、他にちょうど良い男を見つけてサウナに行かないかもしれない。レジ袋を断ってその場で箱を開け、プラスチックの容器を財布と逆側の後ろポケットに突っ込んで春樹はドラッグストアを後にした。なぜか店を出て左の角の所にあまり会いたくない筋の悪い男が立っていたので、見つかっていないのを確認しながらやや遠回りになる右回りのルートでその場から逃げ出す。春樹の勤めている店とは別系列のホストクラブグループの会長だが、線の細い見た目からは想像できないほど好戦的で、昔春樹の先輩が帽子を取らずに挨拶したという理由で監禁されかけたのだ。セリと名乗った女が話していたコンカフェのあたりを通るはずだが、そういえば店名は聞いていなかった。コンカフェは最近あやしげなものも含めれば無数にある。
買った薬と相性が良かったのか、昼過ぎに起きるとしつこく痒かったくるぶしの虫刺されは腫れも痒みもほとんど気にならないほどになっていた。それよりも、またソファで眠ってしまったために身体のあちこちが軋むように痛んだ。ソファ横の充電器に繫いだ携帯に軽く触れると、いくつかメッセージの通知がきているほか、天気を知らせる自動通知と、ゲームアプリのメンテナンス完了を知らせる通知も届いていて、画面が未整理の机の上のように散らかっている。それは部屋全体にも言えることで、それほどものが多いわけでもなく、絶望的に汚いわけでもないが、ガラスのローテーブルの上は、ゴミとも備品とも言えないもので常に雑然としているし、電子タバコ、携帯、ゲーム機、テレビなどの配線も計画性がなく部屋のどこの一角にも黒いケーブルが走っていて、緩慢な檻の中にいる気分になる。
半年前に同棲していた女が勝手に出て行った。客ではあるがもともと高額使っていたわけではなく、どちらかと言えば高額使ってくれる太客たちの接客の合間に、休憩卓になってくれる物わかりのいい女だった。レミという名前はたまに出勤していたらしいどこかの風俗店での源氏名で、普段は本名でクリニックの看護師をしていた。ホストなんかに高額をつぎ込む女は基本的に全員情緒不安定だが、最低料金で月に二、三回しか来ないのに細かく暴れる客も少なくない。他のテーブルで高額オーダーが入って担当ホストがかりだされ、ほんの五分と少しだけ卓にホストが一人もついていないオンリー状態になっただけで帰ると言い出したり、ヘルプの若い男に辛く当たったり、逆に当てつけのようにヘルプといちゃつきだしたり、安いシャンパンのコールでマイクを渡すと他の客を牽制するようなイタいことを喋り出したりするのはまだ序の口だ。五年以上前だが春樹の昇格イベントの真っ最中に、店のグラスを割って自分の腕を切りつけた客もいた。その日初めてシャンパンを入れただけの細客だった。
エースと呼ばれる一番の馴染み客と住んだこともあったが、独占欲が強く他の客のアフターや店外デートが思うようにできず、春樹の監視のために自分の出勤もさぼりがちになって売掛をもらすことが増えて、最後には未収金がある状態で夜逃げのように出て行った。金額は百万円以下で、他のもっと悲惨な未収の話が転がっている店の中では春樹の売上を考えれば大したことはないと誰もが思ったが、二年近く自分のためだけに生きていると思っていた女が簡単に音信不通になることは精神的にこたえるものだとわかった。女の家に転がり込んだ形だったのでどうしたらいいのかよくわからずそのまま一か月そこに住んだが、家賃が振り込まれていないことを管理人から聞いて巻き込まれないうちに今度はこちらが私物をまとめて急いで退去した。寮とは名ばかりの、店が借り上げて売れていないホストを何人も住まわせているタコ部屋に三か月近くいることになり、もう同棲はこりごりと思ったが、その翌年、レミと会った。
昨夜はドラッグストアにだけ寄って歩いて帰ったので大して酒は残っていないはずなのに、どうしても最近起きてからしばらくは身体が重い。ソファから立ち上がり、充電器から外した携帯と電子タバコを持って今度はベッドルームの方へ移動する。二十代の頃は出勤時間の三十分前まで寝ていても飛び起きて走ってヘアメイクへ行けた。最近はどんなに遅くまで飲んでいても夕方まで目覚めないなんてことがなくなった代わりに、起きて二時間くらいたたないと外出どころかシャワーを浴びる元気もない。血圧か何かの問題なのかとも思ったが、店で強制的に受けさせられた健康診断ではこんな仕事を十年以上続けている割にはあまり大きな問題がなく、血圧も正常値だった。唯一店に残っている同時期にホストを始めた男は数年前から痛風で時々店を休むようになったし、ハルさんはたしか三十歳くらいの時に一旦ドクターストップで酒を一切飲まない一年間があったはずだ。春樹にとっては身体がボロボロになっていない事実も、ここ十年ほどの自分の仕事に現実味がない理由のひとつだった。
虫刺されの薬に気を取られて電子用のタバコを買い忘れたことに気づき、残りの二本をしばらく眺めて、外出できるくらい身体が動くようになるまでもたない気がして気分がふさぎ込んだが、そういえば誕生月に十近く年上の客がカートンでくれた、以前吸っていた銘柄の紙タバコが残っているのを思い出し、いざとなったらそれを吸えると思って電子タバコにフィルターをセットして加熱ボタンを押した。紙タバコの頃は思わなかったが、電子にしてからどうもこの吸引が、栄養を効率よく補給されて生かされている人造人間の食餌のように思えてタバコを吸うたびに少しだけ凹む。客とディズニーに行く約束をしている日がすでに二日後に迫っていることもついでに思い出してそれについては大いに凹んだ。
二つある枕を重ねてもたれかかるように座り電子タバコをくわえていると、ベッドの上に置いた携帯が微かな振動音を立てだした。何かしらのメッセージの受信かと思ってすぐには反応しなかったが、連続して長く振動している様子から、誰かからの電話だとわかった。
「ルイさまごめん、起きてた?」
画面で名前を確認してから通話ボタンを押し、そのままスピーカーにした携帯を器用に膝の上に置いてもしもし、と言うと、思いのほか声が掠れていたので反射的に咳払いした。電話の向こうではまっとうな昼間の体調がうかがえる女が、こちらが寝起きであることを察したのか申し訳なさそうな声で店での春樹の名前を言った。
「いや、大丈夫、ちょうどさっき起きたところ」
すでに終了間近のランプが点灯している電子タバコのフィルターを噛んで、もう一度あまり音をたてずに咳払いしてから春樹がそう告げると女は再度短く急にごめんね、と言った。通話アプリに表示された名前は、ここ三か月ほど頻度的にはかなり熱心に通ってくれている昼職の女の本名だった。たしかテレビ制作の仕事をしていて、こちらの都合で呼べるほど暇ではないらしいが、それでも来ると言ったらちゃんと来るし、高額な注文はしないにせよ会計でけちけちすることもない、今のところまっとうな良客だ。春樹より二つ年上だが、連れ歩いても気まずいような老け方も若作りもしていない。不安や不足を埋めるためではなく、満足を得るために金を使いたがる女の相手は気楽だ。
「今夜、行くって言ってたでしょう。予定通り行けるんだけどね、ちょっと聞きたいんだけど、お店って男の人連れて行っても大丈夫なんだっけ」
今夜の来客予定が今のところ彼女一人だったので、急な予定変更だったら嫌だなと一瞬思ったが、どうやら来られなくなったわけではないらしい。
「ああ、一緒に来るってことでしょ、大丈夫だよ、もちろん」
「よかった、なんかどうしても行ってみたいって人がいて、前に男の入店だめな店あるって話聞いたことあったから」
「いや、女の人と一緒に来る人まで断るのは特殊っていうか、新しいグループだけだよ。接客に自信がないんだろ。普通は男がだめってことはないよ、同業じゃない男が一人で来るのは断るって店は結構あるけど、うちは特にその規定はない。もう長らくそんな客来たことはないけど」
「ふーん、そういえば昔『プリクラのメッカ』だっけ、プリクラだけのゲーセンみたいなところで、男は女と一緒じゃないと入れないってところあったけど」
プリクラ施設が男性一人の入店を制限していたのはおそらく痴漢や盗難防止の観点なのだろうが、一部のホスト店がゲイの一人客を嫌がるのは大した根拠のない苛めのように春樹には思えた。ごねたりトラブルを起こしたりする客がいた、というのが主な理由なのだろうが、そんなことを言ったらごねてトラブルを起こす女は無数にいる。明らかなマナー違反や金銭トラブルがあった場合にその客を締め出すことはあっても、一人二人女がトラブルを起こしたからと言って女全員を入店不可にするわけがない。母数が小さい者たちが一人の愚行で排除されることを認めるなら、それはこの街や春樹が働くような店の存在自体が危うい。ただ、そういう大きな矛盾に疑問を持たずに十年以上過ごしてきたからこそ、ここでそれなりの結果を残してやってこられたのも事実で、それなら最後まで何にも気づかずにいれば良いのに、最近はそういった難しいことばかり気になるようになった。
「全然、歓迎だよ、その人と二人で来てくれるの?」
「ううん、女の子が二人と男の人が一人。私以外は全員ホスト初めて。時間はいつもと同じくらいかな、遅くとも九時半には行けるはずよ」
了解、楽しみにしてると言って電話を切ると、起きた時に重力に負けてちっとも真っすぐ伸びなかった身体はかなり楽になっていた。電子タバコの吸い殻を抜いてベッド横の小さいカラーボックスの上に投げると、続けざまに最後の一本を差し込んで加熱ボタンを押す。空になった箱に先ほど投げた吸い殻をポンと入れて今度は投げずにボックスの上に立てた。
春樹が十代で今の仕事に就いた頃はどの店も今より物騒ではあったが、羽振りの良い男性客が女を連れて金を使いにくる光景はかなり頻繁にあった。男性客の接客ができてこそ一人前のホストと教えられたこともある。少なくとも女性同伴の男性客を断るなどあり得なかった。今は同業者以外の男性自体を断り、接客しやすいぬるい環境を整えないと若い男の子たちは簡単にやめてしまうのかもしれない。
カラオケ屋の客引きをサボって喫煙所にいるところをスカウトされ、最初に入店した地下にある店に二年半、今の店に移って十年以上、世間から乖離した街の中だけで、この場所の価値観だけを飲み、この場所で求められることだけをして、この場所でだけ威張れる姿を作って生きてきた。水商売を始めた時からSNSがあったような若い世代と違って、オンライン上の広がりを無条件で自分の世界の延長のようには思えない。半ば強制的にアカウントは作らされたものの、携帯はもっぱら顔を知っている客との通信手段と暇つぶし用のゲームにしか使っていない。
カラーボックスの上のタバコの空き箱を取って、ついでにいつ飲んだのかよくわからない空のペットボトルも蓋の部分を指で挟むように持ち、二度寝を諦めて未だに重力を感じる身体でソファのあるリビングの方へ移動すると、キッチンに置いてある大きいゴミ箱用の30Lのビニール袋が切れていることを思い出した。一昨日切れていることに気づき、ゴミをそのままプラスチック製のゴミ箱に入れるのが嫌でゴミ箱の横にいくつかペットボトルやコンビニの袋に入った細かいゴミを並べていたのだ。ドラッグストアで何かほかに買うものがあったような気がしたが、ツインテールの変な女に声をかけられたせいですっかり忘れていた。
仕方なくタバコの箱とペットボトルをもともと並べてあるゴミの横に丁寧に置き、ソファに脱ぎ捨てたパンツを穿いて、後ろポケットに財布があることを確認した。軽くなったと思った身体は再び伸ばすのも曲げるのも軋むように重い。絶対的なエースがいるときもあればいない時もあったが、春樹の売上は少なくとも今の店に入店してしばらくたってからは安定して高い。何も変わっていないはずなのに、ここのところ何か心のつかえがとれないような、小さな焦りと小さな失望が毎日飲むアルコールとともに常に血中に混じりこんでいるような妙な感覚の原因がよくわからない。むしろ何も変わっていないことこそが大きな問題なのかもしれないが、独立や経営側へのシフトチェンジにはあまり積極的ではなく、順調な現状維持を好んできたのは自分自身だった。着たまま寝たために胸元のロゴに妙な皴が走るジバンシイのTシャツを気休め程度に手で引っ張って伸ばし、玄関脇の造り付けの棚にある鍵を取って、コンビニに行くことにしか使わない、ビーチを歩いたことのないビーチサンダルを引っ掛けて外に出る。棚にはレミの置いて行ったルームフレグランスが、半分以上残ってそのまま置いてある。
いっそ雨が降ってくれた方がまだマシだと思えるような湿気をかいくぐってコンビニに入ると、今度は外のじっとりした暑さを一瞬で奪う冷気に思わず春樹は猫背になった。間の悪いことに、コピー機の前で同じ店の若いキャストが見覚えのある客と何か揉めている。女の服は昨日見たものと同じもののようだし、目の周りは化粧が落ちて桃色に腫れていることから、昨日から揉め続けて途中体力が尽きたあたりで仲直り、一緒に寝た後に体力回復のためにコンビニで栄養補給をしようとしてまた揉めている、というところだろうか。寮に女を連れ込んだわけではないだろうから、ホテルに泊まって寮の近くのコンビニまで女がついてきたのかもしれない。春樹が歓楽街の喧騒が少し和らぐこの辺りに越したときにはまだ店の寮はもっと西の方にあったのに、ここ二年ほど店がリクルートを強化して若いホストが増えたせいでこの近くにも新たに二部屋ほどマンションを借り上げたのだ。
「おつかれさまです」
明らかに機嫌の悪い若いホストが春樹の顔をほとんど見ずに顎だけで礼をして客を一瞥し、深いため息をついた。こちらは平和に寝ていただけなのに、思えば昨日と全く同じ格好をしているのはこちらも同じで、向こうから見れば客の家に泊まった帰りに見えなくもないだろう。どう見えていようと心底どうでもよいが、たまにしか来ないこの女の友人は春樹を指名している。
「おお、おつかれ。コンタクトしてないからよく見えないわ。ソファでテレビつけたまま寝ちゃったよ」
聞かれてもいないのに言い訳がましいことを言って春樹はさっさと20枚入りのゴミ袋とペットボトルの炭酸水を手に取り、惣菜やサンドイッチの並ぶ冷蔵棚の前を一往復して結局何も食べる気にならず、レジに行って電子用のタバコとコーヒーを注文した。店が終わった後にごく稀に客や若いホストと鮨屋や焼肉に行くことはあるが、それがない場合、春樹の食事は店に出る直前の一日一度だ。
コーヒーのカップを受け取ってから、ドリップマシンが客と揉める若いホストの立つすぐ後ろであることを思い出して、せっかく豆もコーヒーメーカーもあるのに家で入れることにしなかったことを反省したが、勿体ないので何も気にしない風を装って後輩ホストの真後ろに立ってホットのラージボタンを押す。午後二時のコンビニには春樹と例の二人以外に近くの営業所の職員らしき作業着の者が三人、タクシー運転手の制服を着た男が一人、ジャージの若い女が一人うろうろしていて、ちょうど昨日と今日の間にあるような空気が流れている。レミと住むことを決めた時、どちらにせよタクシーに乗るならばいっそ新宿の外に居を構えることも考えたが、昼過ぎに昨日の続きのような格好でコンビニに入っても何の罪悪感も劣等感も持たないでいい地域を離れられなかった。
「じゃあなんであの帽子の子と同棲してることになってんの」
マシンが大げさな音をたてて豆を挽くので、なるべくその音に集中しようとしても、どうしても後ろの二人の会話が聞こえてくる。ホストの方はこちらを気遣ってか声の音量を絞って話をまとめようとしているようだが、女の方はむしろこちらに聞かせようとしているのかと思うほど一音一音はっきり発音する。
「寮だって、ミカサも言ってただろ、ほかの誰にでも聞いてみろよ」
「店でグルになってるに決まってるじゃん、もし女と住んでたってそう言うワケない。うち別に店休日もアフターも何もしてくれなくても、稼ぐためにお客さんに時間使ってくれるならって何も文句言わなかったのに」
「だから昨日とか他の客もいたけどお前と過ごしてんじゃん、そうやってなるべくお前が不安にならないようにしても信じてもらえないならじゃあ何してほしいわけ? 月に何本指名とってると思ってる? 他の客がどれだけ金使ってると思ってる?」
マシンが小さな電子音と画面表示でコーヒーの出来上がりを知らせてきたので、春樹はカップの蓋をうまくはめられないままゴミ袋と炭酸水が入ったビニール袋を手首にかけ、片手で蓋をねじ込みながらコンビニの出口へ向かった。自動ドアの前で後輩ホストと客の方を一瞥したが、挨拶する余裕はなさそうだった。別に構わない。まだ若いが、昨年は二度も月の売上が一千万を超えた有望株で、店での肩書ももしかしたら今年中に春樹と並ぶかもしれない。客が若ければ簡単に寝るし好きとは言うけど彼女とか結婚とかそういう言葉を気軽に使うことはない、できるホストだ。付き合おうだの本気だのと言った後にちゃんと店に通う客は限られている。ほとんど手に入っているけれど最後のひとつだけ手に入らないような状態は最も客が育つが、相手を病ませて通わせていると、自分も消耗する。春樹は自分が徐々にそういう芸当ができなくなっていること自体には全く悲観的ではなかったが、最も伝統的で最も消耗が激しく最も金を生み出す正当な営業が全力でできる若者に対して敬意は持っていた。
冷気に包まれていた身体が再び湿気を含み、表面から徐々に温度が上がっていくのを不快に思いながら、春樹は弁財天を祀る神社の通称がついた交差点で信号の変わるのを待った。五月に春樹とは別のグループの知らないホストが刺されたマンションの前に一か月以上ぶりにマスコミが数社来ているようだった。めった刺しになったホストは死ななかったし、刺した方の結構可愛い女は拘留中だか裁判中だろうし、何か別の事件の容疑者でも住んでいるのだろう。女が現行犯で捕まり事件が報道された直後、すでに出て行って三か月以上音信不通だった女が連絡をよこした。場所がすぐ近くだったのと最初の報道ではホストの年齢などが公表されていなかったため、まさかと思ったけど、と純粋に心配する声だった。店に出る支度をしながら手元に置いた携帯で対戦中だったアプリの麻雀ゲームは、レミからの電話のせいで大きく負けた。
レミは本当は先ほどコンビニで揉めていた二人のような、あるいはとちくるってナイフで刺すような関係を求めていたのかもしれない。好きとも可愛いとも言うが付き合うとはなかなか言わない男と一緒に消耗したかったのかもしれない。春樹は他の客にするような店内やアフターでのサービスをしない代わりに、レミには店で金を使わないで良いと言ってあったし、付き合うとも一緒に住むとも将来的に一緒にどっか田舎で住むのもありかもなんてことまで言った。けれど思い返してみれば好きとも可愛いとも言った記憶がない。春樹がレミに与えたのは常識的に考えればホストに熱心に通う女が求める関係そのものだったはずだが、だからと言ってレミが望んでいたのがそれとは限らない。現に特に何か揉め事があったわけでも、他の客と寝たのがバレたとか金銭的な問題が起きたとかそういうきっかけがあったわけでもなく女は出て行った。三十五歳までプレーヤーをやったら店を辞め、そのうち取り壊しになる実家にレミを連れて行って母親とうまくやれるようなら母親をひきとって暮らしても良いと本気で思っていた。ただ確かにレミとの間にナイフで切りつけるような情熱を感じたことがない。
横断歩道を小走りで渡り切って、その勢いのまま、重い身体をマンションのエレベータに押し込み、それだけで若干息が上がる自分に慄きながら三階のボタンを押した。何の因果かこのマンションの部屋番号は、昨日会った女が住むマンションの春樹が育った部屋と同じである。玄関扉に鍵を差し込み、左に軽く回しても手ごたえがないので、鍵をかけずにコンビニまで行っていたことに気づく。一階のオートロックがしっかり機能しているので、もともと部屋の鍵をかける習慣があまりなかったのだが、レミはそのだらしなさを嫌っていた。
(つづく)
連載【ノー・アニマルズ】
毎月金曜日更新
鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部在学中にAVデビュー。その後はキャバクラなどに勤務しながら東京大学大学院社会情報学修士課程修了。修士論文はのちに『「AV女優」の社会学』として書籍化。2022年『ギフテッド』が第167回芥川賞候補作、23年『グレイスレス』が第168回芥川賞候補作に。他の著書に『身体を売ったらサヨウナラ』『娼婦の本棚』『8㎝ヒールのニュースショー』『浮き身』等多数。
Twitter:@Suzumixxx