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第10回 309号室 三十三歳はコインロッカーを使わない〈後編〉 鈴木涼美「ノー・アニマルズ」

新宿歌舞伎町でホストとして生きる33歳の春樹。世間から乖離した街の中で、10年以上疑問を持つことなくこの場所の価値観だけを飲みこみ生きてきたが、最近は難しいことばかりが気になるようになった。そして半年前に勝手に家を出ていった女も、春樹の頭の中に居座り続けていて……。
2025年に取り壊しが決まっている老朽化マンションで暮らす住人たちの小さな破綻と孤独を描いた、鈴木涼美初の連作短篇小説。
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©︎OKANOUE Toshiko「幻想」Courtesy of The Third Gallery Aya


 キャッシャーの男の声に振り返ると、昼にコンビニで若手ホストと揉めていた身長の割に顔の面積が広い女が無表情で階段を降りてきた。昼間と同じサンダルに同じマイケル・コースの四角いハンドバッグを持っているが、服が替わっているところを見ると、あれから一度自分の家に帰ったらしい。よく見れば崩れていた化粧も絡まっていた髪も清潔に整えられている。
 春樹と出くわしてから小一時間ほどコンビニや横断歩道の前で揉めた後、すっきりしないまま自宅に帰って、もう離れた方が良いのか、ここで引き下がったら今まで頑張って彼に注いできた時間と労力とそれなりの金額が無駄になってしまわないか、そもそも離れることなんてできるのか、でもこれ以上自分のものにならないものを追いかけて若さと時間を浪費してもいいのか、という逡巡を一通り終えて寂しくなってきたタイミングで若いホストからツボを押さえた良いLINEが入ったというところだろうか。客に揉める体力があるうちはその客が切れる心配はない。女が男を切るときは、死に場所へ向かう猫のように小さな兆候のあとに何も言わずに静かに消える。
「ユウも今日誘ったんですけど、まだ予定がわからないらしくて。来れるようなら連絡するって言ってました」
 席まで内勤に案内されるマイケル・コースのバッグの女は、春樹の前で一度足を止めてそう言った。稀に春樹指名の友人を伴って店に来る彼女は、なぜか春樹にだけ敬語で喋る。従業員の若い男に敬語を使われると仕事と経験を重ねてきたという気分になるが、女に使われる敬語はただただ若くない年齢を感じさせるだけなのでできればやめてほしい。指名しているホストとの関係を中心にあらゆる物事を考える女が、担当ホストの上司に敬語を使いがちなのは、何か夫婦のシミュレーションに巻き込まれているようで若干気色が悪い。その日の夜を楽しもうと思って店に来るお客は、年上年下を気にせず水商売の人間にあまり敬語を使わない。
「ありがとう、俺からも連絡してみるよ」
 さらに何か言いたげな女は、春樹がそう言うと諦めたように内勤の案内する奥の席の方へ小走りで去って行った。ボルドー色の椅子と黒いテーブルで統一された明るい店内にはほかに、キャッシャーの裏へ回ったコの字形の席に同伴で入ってきた珍しいほど高齢の客と、入口から近い縦長の席に案内所の紹介で来た二人連れの初回客が座っている。顔の大きなマイケル・コース女の友人が来なければ今のところ春樹の予定はテレビ関係の仕事をする指名客だけだが、内勤の話によれば初回客の一人から写真指名が入っている。テレビの客は四人でやってくるようだから、それなりに長く席に着きたい。九時半頃と言えばきちんと九時半頃やってくる客だから一時間以内には来るはずだ。正直、初回の写真指名に湧き上がるような気合はもう春樹には残っていない。写真指名をした子が指名に切り替えて飲み直しをすると言ってきたりしたら、テレビの団体の席と行き来することになるため少々面倒だとすら思った。
 ホールからキッチンの方へ向かう廊下には比較的若いホストが手持ち無沙汰に並んでいる。一応歌舞伎町では老舗を名乗っているこの店は売り上げをたてられるようになるまではスーツ着用を義務付けているので、半分ほどの男は安物のスーツを身に着けている。店の幹部の出勤時間はまちまちで来客や同伴の予定があれば九時頃にやってくる者もいる。三年ほど前までは春樹も、なるべく遅くにやってきて誰より高い売り上げを打ち立てるような仕事の仕方をよしとしていたが、最近は新人の採用や教育の担当を押し付けられているため、開店前の七時頃には店に来ていることが多い。今は同伴や店外デートをして営業努力を重ねるよりも、新人の男の子の悩みを聞いたり他店からの移籍を希望する者の面接をしたりしているほうが気楽なのも事実で、早い出勤時間をそれほど苦痛とは思わなくなった。
 内勤に呼ばれたのでヘルプグラスを持って初回卓の方へ歩く。向かって右の少しウェーブがかかった長い髪の華奢な女が春樹の写真を選んだらしかった。四年も宣材写真を変えていないので写真指名が入るたびに微妙な罪悪感がある。自分の客が道を踏み外し精神を壊しても特別ごめんとは思わずに働いてきたが、まだ自分の客とは言えない初回客に思っていたより老けていると言われたら素直にすみませんと思う。そのあたりの自分の気持ちのからくりはよくわからない。
「ご一緒させていただきまーす」
 低く小さな声でそう言ってひとまず名刺を出しながらウェーブ髪の女の向かいの丸椅子に座る。女は直前まで覗き込んでいたスマホから顔を上げて、人の良さそうな笑顔を作った。二十代前半に見えるがそれにしては持ち物が比較的まとまりがあって扱いも雑ではない。隣に座る連れと同い年だとしたら、若く見えるアラサー女子かもしれない。最近は女の職業をパッと見て当てるのは難しく、水商売の女と風俗の女すら見分けがつかないことも多い。春樹がこの街で水商売を始めた頃は、爪と髪を見れば大体どちらかは言い当てられた。
「やっぱりかっこいい」
 ウェーブ髪は隣に座るストレートのボブ髪の女の肘を少し触ってそう言った。ひとまず写真との違いには失望されなかったらしい。ウェーブ髪より少しガタイのいいボブ女はこういった場所で遊び慣れているようで、電子タバコのボタンスイッチをいじりながら春樹を一瞥して、たしかにアキが好きそう、とコメントした。ボブの横にはブサイクな若いホストが座り、春樹の左横の丸椅子にはやはりブサイクなヘルプが座っているが、それに対して別に文句がある様子はない。
「アキちゃんって呼んでいいの?」
 春樹が聞くとウェーブ髪は、はい、アキです、とはきはきした声で言った。テーブルの上には初回客用の焼酎ミニボトルと割りもののデキャンタが二つ、おそらくボブ髪の方はアセロラ割り、ウェーブ髪の方はお茶割りを飲んでいるようだった。春樹が自分のグラスに氷を手早く三つ入れると、ブサイクなヘルプが作りますと言って半ば強引にグラスを奪った。
「一緒に飲んでいい?」
 春樹は形式的にウェーブ髪の女に聞いた。
「もちろんです、ホスホスでルイさんの写真見て来たんです」
 ホスト情報サイトの写真も春樹は店内の宣材写真と同様、四年前のものをそのまま使っている。
「なんかすごく敬語なのは俺がおじさんだから気遣ってくれてるの?」
「え、ぜんぜんおじさんじゃない。私と多分三つくらいしか違わないからルイさんおじさんだったら私もおばさんです」
 サイトに載せているのは春樹の実際の生年月日なので、女はやはり若く見える三十歳のようだ。
「じゃあ俺も若いってことで。だとしたらお前は中坊くらいか」
 ボブ髪の横の若いホストにそう言うと、ハイ自分かつて中坊でした、とノリの良い、しかも嘘が混じらない返しをしてきた。今年に入ってから春樹が面接をした茨城出身の二十一歳で、顔は平べったくいまいち華がないが、話に筋が通っているし酒も飲める。それに変なプライドをかざして機嫌が悪くなったりしない。春樹としてはこういう若い男が夢を見られる職場であってほしいと思うが、先輩ホストたちに好かれている以外、現在のところまだおいしい思いはしていないようだった。遊び慣れたボブ髪が彼を気に入ってくれると良いが、ヘルプとして気に入られるところに留まるような気もする。
 横の丸椅子に座った年季の入ったブサイクが春樹の酒を作って渡してきたので、春樹はそれを受け取り、隣いい? と言いながらウェーブ髪の隣に席を移って形ばかりの乾杯をして口をつける。身体の中から十年以上消えたことのないアルコールが、今日の最初の一口によって皮膚の内側で溶けだし、血液と一緒に循環を始める。起きてからずっと重くだるかった身体がわずかばかり軽くなって小さなエネルギーが湧いてくる。
「この辺で飲むこと結構あるの?」
 ウェーブ髪の身体にはまだ触れないように気を遣いながらソファの背もたれ部分に腕を回してそう言うと、女の首は見て分かるか分からないかという程度に紅潮した。こういう時、女を喜ばせるという意識以上に、うだつの上がらない後輩たちに手本を見せるという意識が強くなったのはいつ頃からだったか、春樹にはよく思い出せない。付き合いのまったくない他店のホストにまで名前が通っているほど有名にはなり損ねたが、ルイ様なんて呼ばれてグループ内ではそこそこ実績のあるカリスマ扱いされている春樹に何かしらのアドバイスを求める若手はいる。彼らの存在こそが、春樹がこの街に留まり続けるモチベーションの一つとなっているのは確かだった。
「そんなに知らないんですよ。でもずっと来たくてルミにお願いして連れてきてもらったの」
 ボブ髪はルミという名前らしい。春樹と視線が合うたびにさりげなく下を向いて目線を外すウェーブ髪女の様子を見て、育つ、と春樹は直感的に思った。そして何の罪もない多分昼職の結構綺麗な女を見てそういう判断をしてしまうこと自体をどこか申し訳なく思っている自分にも気づいた。
「可愛いから、日々こんなところで飲んでたら心配だよ」
 春樹は半分は反射的な社交辞令で、残り半分は嘘偽りない気持ちでそう言った。テーブルの下にちらっと見える女の靴はマルジェラのベルト付きサンダルで、やはり真っ当なお金の使い方をしている女に対する罪の意識は消えない。
 
 他のテーブルではあまり見ることのない麦焼酎のボトルを傾けて、一番下の氷がちょうど沈む高さまで注ぎ、一度マドラーで三、四回氷を回してからやはり滅多に注文されないソーダ水を注ぐ。炭酸が抜けずに焼酎が良く混ざるよう注意しながら再度二回だけマドラーを回して男性客に差し出す。酒以外の目的があって来る女たちと違って、男向けのグラスには細心の注意を払ってマニュアル通りの作り方をする。
「何人くらい働いてるの?」
 趣味の悪いシャツを着た四十代後半に見える業界人の男は春樹の目をちらっとだけ見てそう聞いた。
「今キャストは二十五人ですね。グループ全体だとあと歌舞伎町に四店舗あるんで百名超えますけど。最近はたまに他の仕事してるやつもいるので毎日全員いるわけではないんですよね」
「君は毎日いるの?」
「僕も、こいつも、今このテーブルにいるのはみんなレギュラーメンバーですね。週一休みで基本的に毎日います」
 丸椅子に座ったヘルプ二人と、それぞれ女性客の横についているホストたちの顔を見回して春樹は答えた。男性客のいるテーブルには色恋に強い顔の良い男や新人はつけない。ノリの良い若い奴とベテランのヘルプがいい。ホストクラブに来たがる男は例外なく、女たちに自分より身分の低い男に威張る自らの姿を見せたがる。
「女たちに綺麗と言ったりいちゃついたりするサービスと同じように、男はひたすら持ち上げて自分らを下げて盛り上げろ」
 今よりずっと男性客が多かった深夜営業の時代を生き抜いた先輩たちから、入店したばかりの頃にそう教わった。男性客の割合は年々少なくなっているものの、春樹は未だに男性客を満足させてこそ一流だという教えを新人たちにも伝えている。場を盛り上げるサパーに徹しろ。女を褒めるのは男性客が外しているタイミングのみ。あとはひたすら男性客を持ち上げろ。絶対に張り合うな。
「今一緒に情報系の番組やってるんだけど、もともと完全にバラエティ畑なんですよね。だからほんとに顔広くてびっくりしちゃうの」
 いつも春樹指名でやってくる女も春樹のリズムに合わせて不自然ではない程度にずっと男性客を盛り上げる。いつもパンツにヒールを合わせている彼女は今日も幅の広い薄手のベージュのパンツにノースリーブの白シャツ、つま先のあいたネイビーのパンプスを身に着けている。今日はルイ様~と黄色い声をあげるわけでもなく、春樹の隣にぴったりくっつくわけでもなく、ビジネスモードの顔を崩さない。彼女は詳しいことは説明しなかったが、もともとこの男のホストクラブを見てみたいという一言で四人の来店が実現したというのだから、立場的にも今日の支払いもこの男の比重が重いと見て間違いはない。女は男性客のほかに、彼女より少し年下の黒髪の一部をピンクに染めた背の低い女と、身長も体重もビッグサイズの三十代と思われるステラ・マッカートニーの大きなグリーンのバッグを持った女を連れてやってきた。酒を飲んで徐々に声が大きくなっていく男に比べるとこの二人のテンションは一定で、総じてそんなに興味がなさそうに見える。ひとまず今夜をそれなりに楽しんでもらい、見送り役に誰を指名しようとしつこい営業をかけないのが吉だろう。
「朝までやってんの?」
 悪趣味シャツの男がどのホストの顔を見るでもなくそう言った。春樹が作り直したソーダ割りをすでに半分近く飲み干して、耳の脇が紅潮している。
「ラストオーダーが一応十二時で、十二時半すぎたら徐々にお見送りしている感じですね。一時までに完全撤収しないと厳しいんですよ」
 春樹がさりげなく自分指名の女の膝に手を触れながら、その向こうに座る男性客の目を見て答えると、男性客はさりげなく自分の手首のブルガリのスポーツタイプの腕時計を覗き、ああそうなんだ、と言った。話題が豊富なわけでもなく、ホストたちに鋭い興味を向けるわけでもなく、周囲の自分への態度にはそれなりに満足している様子の男は、機嫌をとってもここで十万円以上を支払うことはないだろう。
 担当ホストのもとに通う女たちより収入が高かろうが信用があろうが、競う相手のいない状況で人が見栄のために使える金額はたかがしれている。女たちが借金してまで高額注文を繰り返すのは、そうしない限り自分らの女としての価値が失われるように錯覚するからだ。そのような錯覚を引き起こすシステムを、この類の店は巧妙に作り上げてきた。そもそも身体をお金に替えて金を稼ぐ客が多い以上、使える金額が彼女たちの容姿に左右されるのは仕方がないことで、高額を使うことは自らの女性としての値段を証明する契機にもなり得る。そこに色恋相手とその取り巻きや競争相手の女が加わるのだから、節度を守って遊べる女は余程この街の外で揺るぎない自信や立場がある者に限られる。かつて節度を守れない女子たちの相手こそ本領発揮の場だと感じていたこともあったが、最近の春樹の客はホスト以外に金の使い道と生きがいのある女が多い。半ば無意識的にそういう客を大切にするようになった。
 男性客の電子タバコの充電が切れたので、春樹は同じ機種を持っている後輩ホストを呼んでひとまず貸してくれるように頼み、その間に充電することを提案した。後輩ホストの機器にフィルターをはめた男はいつの間にか出身地である京都の自慢話を始めている。
「アサオカちゃんは東京だっけ」
「東京っていうか横浜ですね。横浜っていっても綱島だから別に何もないですけど」
 春樹指名の女がそう答えると、男の京都自慢が続く。自慢と言ってもとにかく観光客で最近えらく混んでいるとかホテルが高いとかいう以外にそれほど情報がない。女がいつも飲んでいる、店で一番よく出る安い焼酎のボトルは今日は飲まれないまま、「ハルカ×ルイ様♡」と女の手書きで書かれたネックタグをぶら下げて卓上にある。それより八千円高い麦焼酎は男の希望でオーダーされた。
「いや、自分は茨城っす」
 先ほど春樹と同じタイミングで初回卓についていたブサイクな若いホストが丸椅子に座り、左端のピンク髪のグラスに酒を注ぎながら、男のみんな割と東京の子が多いのかという質問にはきはきと答えた。
「茨城ね、納豆しかわかんねえな。実家帰るとどこで遊ぶの」
 悪趣味なシャツの業界人は相変わらずホストに借りた電子タバコをひっきりなしに吸いながら足を組み、背もたれに完全にもたれかかった背中の位置を微妙にずらしてそう聞く。ルーキーの割には視野が広い茨城出身のブサイクは男の灰皿に電子タバコフィルターが二本たまっていることに気づいて、グラスをピンク髪の女性客の前に置くとすぐに新しい灰皿と交換した。
「実家ないんすよ、中学の終わりにはほぼ完全に親がいなくなって、なんか姉ちゃんのところとか友達のところで泊まらしてもらって、十九まで地元いたんすけど、その後歌舞伎町出てきて、先輩が働いてたバーで働いてました」
「実家ないってどういうこと、家もないの?」
「なんかよくわからないうちにアパート出なきゃいけなくなって、そのアパートも今は取り壊されてるって聞いたんですけどね」
 男性客の飲むペースが少し落ちたのか、グラスが大量に汗をかいているので、春樹は自分指名の女の身体にわざと触れる角度で手を伸ばし、男がグラスを置いた隙を見計らって一度乾いたおしぼりで水滴を丁寧にふく。ついでにコースターの上にリング状にできた水滴の輪も拭った。
 ブサイク若手の身の上はすでに面接のときになんとなく聞いていた。よくある話ではないが、ない話でもない。春樹から見ると正直なところ、寄生虫のような親にいつまでも金をとられ続けるよりは身軽なようにも思えた。地元の風俗で働いていたという姉も今は連絡が途絶えているはずだ。幼い頃からお菓子ばかり食べていたせいか、野菜はジャガイモと枝豆しか食べられないことも聞いた。
 ピンク髪とビッグサイズもヘルプのホストや女性客同士の会話に終始せずに男性客とブサイクの会話に相槌や笑いを挟み込みながら参加している。一対一の親密な接客を基本とする店内は音楽が流れ、人の声はあえて響き渡らないようになっているので、テーブル全体が一つの会話で盛り上がるのはぶっちゃけて言えば結構難しい。ゲームでもしていない限り、五人以上の人間が囲む卓は会話が自ずと分裂していくのが普通だ。時折ピンク髪に質問をふるなどしている明るいブサイク若手の気配りが要となっているのは春樹の目には明らかだった。ヘルプのホストたちを含めた多くの人間が会話の中心を男性客だと思っていることも伝わってきたが、それすら若手のほどよい声の大きさと発言のタイミングがなせる業とも言える。
「苦労してんだぁ」
 業界人の男は若手の境遇について、唇の右端を下げて顔をいびつな台形のようにしてそう言った。ホストクラブに来たがった割には情報番組のために何かしらのネタを拾うそぶりは全くない。女が接客する店に行ったときの会話のちょっとした小ネタくらいは拾って帰るのかもしれない。それほど興味がなさそうなのに自分と若い男を差別化するための質問は続ける。
「今はなんだ、こっちで部屋借りてるのか」
「いや、自分はまだ全然売れてもいないので、寮に入らせてもらってます」
 寮あるのか、あるよな、と一人で勝手に納得した男性客の手前で、春樹は自分指名の女の手元のスマホで、時間を確認する。ラストオーダーまでまだ三十分近くある。
「寮ありがたいっすね、汚いけど。バーで働いてた最初の頃は家なくて、コインロッカーに荷物入れたりしてたんで」
 春樹と最も離れた席に座るピンク髪がえー大変と相槌をいれたタイミングで、内勤が春樹のすぐ横まできて腰をかがめて耳打ちをしてきた。どうやら先ほどの初回卓で春樹とブサイク若手に送り指名が入ったようだった。
 あの様子なら、初回指名のサービスボトルについて説明すれば閉店まで、指名に切り替えて飲むと言ってくれるだろう。永久指名制度をとるこういった店では初回の来店で指名に切り替えてもらえば、自分の客になるかどうか分からない女に無駄な営業をかけずに済むし、少額であっても売り上げにつながる。春樹ひとりであれば今日は男性客のテーブルに集中し、熱心に指名で飲み直すよう勧めたりはしなかっただろうが、仕事のできるブサイクの労働は報われてほしかったし、まだほとんど売り上げを作れずにいる彼に、まずは数字が積み重なっていく充実を感じてほしかった。
 痛風のベテランホストと社長のハルさんがこちらの席に近づいてくるのが横目に入ったので、春樹は男性客と自分の指名客に少し外す旨を丁寧にあいさつし、自分のグラスにペーパーナプキンを載せるとブサイクに目配せして席を立った。すかさずハルさんが異様に高いテンションで業界人に名刺を差し出したので、春樹は安心してブサイクとともに一旦店の裏に入った。
 
 虫刺されはすでに完治したのか、相当量のお酒を飲んでももう痒みが再発することはなかった。四人連れで来てくれた女が望めばアフターに行かざるを得ないと考えていたが、店を出る前にすでに男性客がタクシー券の確認をしだしたので春樹の方からは特に何も提案せずに男性客、続いて一緒に帰るというピンク髪とビッグサイズのためにチケットに記載がある会社のタクシーを止めた。ようやく案内役を終えた春樹指名の女も、自ら手を上げてタクシーを止めて、ルイ様ありがとー! と元気よく言ってさっさと乗り込んで帰った。今日の会計は彼女の伝票も含めて男性客がカードで支払ったため、今月はあと一度は来てくれるだろう。その時にゆっくり飯でも誘えばいい。
「お前ルミちゃん連絡してみ?」
 春樹はタクシーの通る大通りから店の入り口の方へ戻りながら、ブサイク若手の首をグーで軽くたたきながらそう言った。一緒に送り出しに出ていた団体客のその後がわからなかったために、先に送り出した飲み直しの初回客にはあまり積極的にこの後の予定を聞かなかったが、二人ともタクシーには乗らなかったため、まだ近くにいるはずだった。遊び慣れたボブ髪なら行きつけのアフターバーがあってもおかしくない。シャンパンオーダーがいくつも入ったわけではなく、ラストオーダーの後の店内は割と静かで、男性客の接客で春樹はいつもと違う疲れ方をしてはいたが、ブサイクのチャンスにはちゃんと付き合うつもりでいた。
「あ、なんかこの後会うことになりそうなんです、さっき一瞬LINEさしてもらって」
「お、そうなの、じゃあ一緒に行くか」
 ブサイクはかつて春樹が教えた基本動作をきちんと実行しているようで、すでにアフターの約束をとりつけていた。指名に切り替えた飲み直しの客にはサービスボトルがつくため会計は他のテーブルに比べればずっと安い。ただ、初回でアフターに誘えばああいった昼職の義理堅い女は最低一度は指名で再来店してくれる。それに売り上げがなく掃除組であるブサイクは指名のアフターがあればその日の掃除が免除される。
「いやなんか、アキちゃんの方が明日早いから帰らなくちゃいけなくて、もういないっぽいんですよ、ちょっと電話かけて確認しておきます」
「ああいいよ、俺一応LINE入れてみるわ、そしたらお前そのまま荷物もってすぐ出ていいよ、もし人数いた方が良ければ電話かけてきていいから言えよ」
 春樹の親切に対して礼儀正しいお辞儀をしてから小走りで店舗に降りて行った若手ホストの、靴紐が両方ほどけているのが気になったが、言おうと思った瞬間、そういう履き方なのかもしれないと思って黙った。一人だけいる春樹より年上の内勤は、仕事でLINE電話を使うのは失礼だと新人を叱って、裏でさんざん老害扱いをされていたのだった。店に降りる前に入口から最後の客と思われる、昼にコンビニで揉めていた女が出てきたので、軽く喋りかけると、今度はユウも連れてきますーとやはり敬語で返される。静かだった今日の営業で唯一コールを鳴らしていたのは八万のロゼを入れた彼女の卓だけだ。一晩かけた揉め事が翌日の小計八万に繋がる仕事がほかの世界にもあるのか、短いバイト以外は水商売だけで生きてきた春樹にはよくわからない。
 飲み直しをしてくれた初回のウェーブ髪にメッセージを送ると、やはりすでにタクシーで四谷の交差点を過ぎたところらしく、来週中の来店を自らわざわざ約束してくれた。若手のアフターに顔を出してあげるのは全くやぶさかではなかったが、あの様子だと二人きりで会う約束になっているような気もした。いきなりボブ髪の家に押し掛けているのかもしれない。接客に関して目に余る行動がなければそれぞれのやり方に任せるのが店の方針で、仕事のできる若手がホテルや家に行く判断をするならそれが今夜の正解なのだと思うしかない。
 男性客の相手を結構な時間担ってくれた社長に一言お礼を言って、春樹が店を出る時には、指名のない掃除組以外のほとんどのキャストがすでに出払っていた。ドラッグストアにもコンビニにも寄る用事が思いつかないのですぐに区役所通りまで出てタクシーに乗っても良かったが、人通りの多いこの時間、さらに人通りの多い通りに出るのも疲れる気がしてそのまま店の前の坂を新大久保方面へまっすぐ上る。顔見知りばかり増える街の中で、どの店も営業を終えたこの時間に歩く時は面倒を避けるために足元を見る癖がついた。別にどこかに借金があるわけでも、顔を見たくない女が多いわけでも、他店のホストと喧嘩中なわけでも何でもないが、知り合いと目が合った際の、言葉を交わすのか会釈だけするのかスルーして通り過ぎるのか、その判断が面倒なのだ。
 大通りに抜ける手前で右に折れ、道で寝ている男とその横でいまいちどうしたらよいのかよくわからないという顔をした女の脇をあまりじろじろ見ないようにして通ると、左手に飛び降りが多い白いビルが見えてくる。なんとなく人のいない右側を見ると、今まで意識したことのなかった比較的古いコインロッカーが並んでいる。そういえば昨年の夏前に、白いビルの近くのコインロッカーで赤ん坊の死体が見つかったというのがちょっとしたニュースになっていた。駅以外でコインロッカーのある場所などあまり思いつかなかったが、探してみれば街中にこういうロッカーは結構あるのかもしれない。若手のブサイクはきっと、春樹よりずっとそれらの場所については詳しいのだろう。
 鍵ではなくICカードと暗証番号で管理するタイプのロッカーは、横目でざっと見る限り、現在六カ所も使用中だった。歓楽街の裏通りのコインロッカーに誰が何を入れるのか、何年も通ってきた道のことだが皆目見当がつかない。一つくらいは今も、帰る家を持たない若いホストか誰かが寮に落ち着くまでの日々の荷物などを入れているのだろうか。さすがにこのあからさまな立地で薬物の売買をする人はいまい。記憶を多少丁寧に掘り起こしてみても、春樹には駅や街中のコインロッカーを使った記憶がなかった。ロッカーにコインを入れて鍵を回す感覚を手繰り寄せても、それらはすべて実家の近くにある市民プールの更衣室か、以前たまに後輩と行っていた古びたサウナのものだ。
 昨夜たまたま会った実家のあるマンションに住むツインテール女を思い出す。昨日の話ではマンションはあと五年もすればなくなってしまうということだった。歓楽街で摩耗した感性では、若手ホストの話を聞いても、えー⁈ というような反応が漏れることはなかったが、自分が実家のない男になるという実感は全く湧いてこない。親には妹の家や高齢者施設が用意されるとして、春樹の荷物はどうなるのか、小学校時代のアルバムなどが、女が出て行った中途半端に散らかった部屋に持ち込まれるのも、コインロッカーに仕舞われるのも想像ができない。レミがいたら、失った実家の代わりに現在の家、あるいは別の街に用意する新しい家が盤石な匂いを帯びたのだろうか。むしろ、ほとんど何も言わずに出て行った彼女がいた頃ならば、ツインテール女の話に変な動揺をしない程度には、賃貸の今の自宅にもう少し自分の帰る場所としての愛着を持っていたのかもしれなかった。
 左に曲がって裏通りよりはずっと明るい職安通りの照明の中で、飲み直しのウェーブ髪から新たなLINEが来ているのに気づいて横断歩道の前で立ち止まり、それを開く。エッグタルトの話題になった時に、ウェーブ髪がおすすめと言っていた店の名前とホームページのアドレスがご丁寧に貼り付けられた、素っ気ないメッセージだった。一週間の酒量が全盛期より少なくなった分、甘いものが嫌ではなくなった。だから純粋な興味でおすすめを聞いたのだが、LINEを見てなんとなく明後日の店休日にエッグタルトでも買ってから母親の顔を見に行こうかという気になった。マンションの取り壊しまでとその後に母はどのようなプランを考えているのか、なるべく早く聞いておかなくてはいけないような気がする。レミのようにいなくなることはないにせよ、春樹がもう長いこと母親のあらゆるプランに組み込まれていないことは確かなのだ。意外なことに春樹の漠然としたプランにはこの街を抜け出した先に母親や実家のことはふわっと含まれていた。それは母親を喜ばせるような気がするものの、レミの望んでいた関係が結局何も分かっていなかった自分のその予想は実は大きく的外れなのかもしれず、母の感触だけでもはっきりとさせておきたかった。十年以上女がどうしたらお金で埋め合わせをしようとするか、どうしたら満足しきらずにそこそこ喜んでくれるか、ということばかり考えていたはずが、女の重要な決断はいつも春樹を蚊帳の外に置く。
 大きな交差点を渡って夜の暗さが実感できる辺りまで歩いているうちに、すっかりその気になって、ついでにエッグタルトを思い浮かべて甘いものが食べたくなり、ひとまず昼に若手ホストと客が揉めていたコンビニで何か買って帰ろうと思いついたところで、店休日には二十九歳のソープ嬢とのディズニー行きが、二週間以上前から決まっていることを思い出した。なんとか、というぬいぐるみの限定バージョンがディズニーシー内でしか買えないから付き合ってほしいと言われたのだ。断ることができないわけではないが、万が一今年中に何か自分のイベントをしなくてはならなくなった場合に、春樹の今の手持ちの馴染み客のなかで高額なタワーを注文してくれるとしたらおそらく彼女が筆頭候補だった。失うことが決まっている実家と注文されるかどうかわからないタワーのどちらに人生の重みを載せるべきなのか、ボトルの麦焼酎を消費し切ろうと最後にハイペースで飲んで酔った頭では、どちらの何を何と比べて良いのか皆目わからず、すでに見えてきたコンビニまで、一気に春樹の足は重くなった。

(つづく)

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連載【ノー・アニマルズ】
毎月金曜日更新

鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部在学中にAVデビュー。その後はキャバクラなどに勤務しながら東京大学大学院社会情報学修士課程修了。修士論文はのちに『「AV女優」の社会学』として書籍化。2022年『ギフテッド』が第167回芥川賞候補作、23年『グレイスレス』が第168回芥川賞候補作に。他の著書に『身体を売ったらサヨウナラ』『娼婦の本棚』『8㎝ヒールのニュースショー』浮き身等多数。
Twitter:@Suzumixxx


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