第12回 403号室 三十九歳は冷たい手が欲しい〈後編〉 鈴木涼美「ノー・アニマルズ」
前の住人である鮎美が引っ越した後、403号室に入居した有希子は、かつて仕事仲間だった絵里奈とルームシェアをしながら暮らしている。ステイホームが推奨されるコロナ禍、「子どものいない人生を今選択しないで済む最良の方法」として、卵子凍結をすることを決めたのだが……。
2025年に取り壊しが決まっている老朽化マンションで暮らす住人たちの小さな破綻と孤独を描いた、鈴木涼美初の連作短篇小説。
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©︎OKANOUE Toshiko「幻想」Courtesy of The Third Gallery Aya
久しぶりに入ったすしざんまいの注文方法が特にデジタル化されていなかったことに逞しさと心強さを感じながら、有希子はボタンを押すタイプの自動ドアを開けて外へ出た。とりあえず酢飯欲は満たされたものの、身体の奥の普段誰にも触れられないところから、全く使ったことはないがとりあえず大事にしまっておいた何かを強引に取られた微妙な違和感が消えず、あまり長居はしないことにした。そもそも無理してタマゴを増やした二週間、身体の調子は重だるく、もともと大してない体力が夕方には完全になくなってすぐに眠くなるようになった。
妊娠したらさらに体力が奪われ、一日中眠くなり、女優時代とほぼ変わらないサイズを維持している身体は醜く太り、煙草もお酒も我慢して生魚を使った鮨も我慢して仏頂面で過ごさなくてはいけないのだろうか。そう考えるとやはり有希子は全く妊娠したいとは思えない。別に鬼ではないので人の子どもを見たら可愛いと思うし貧困で飢える子どもがいなくなればいいと思うし子どもの多い店に喫煙スペースがなくても仕方ないと思うし、なんならたまには子どもを育ててみたいと思わないわけでもないが、現在の生活から清廉潔白な妊婦生活と自分の都合より優先すべき生き物との同居生活への変化はどうも突拍子もなさ過ぎて想像ができない。
三十過ぎるまではとにかく避妊を主にピルによって完璧にして、うっかり妊娠してしまうようなことがないように気を付けていたのに、迫りくる四十歳にビビッて具体的には欲しいかどうかもよくわからない子どものためにお股に異物を突っ込まれて何十万も支払うなんて、なんとなく本末転倒のような気すらする。そもそも生物学的あるいは医学的には、四六時中避妊に気を付けていた若い頃の方がよほど妊娠には適していたのだろう。なんとなくまだ多少痛みが疼く気がする下腹部を少し気にしながら区役所通りを早歩きで下って歌舞伎町を突っ切っていく。
あるいは妊娠している人はそんな眠気とか差し引いてもすぐ先に迫る大きな幸福とかいうものに気を取られて割と平気なものなのだろうか。そう思った直後、いや、そんなことあるかい、と昨日か一昨日あたりに吐かれたゲロらしきもの、を誰かが掃除したと思われる痕に気を取られながら有希子は思い直した。そういう世間の浅はかな考えがきっと世の妊婦なり子どもを産んで強制的に幸福を押し付けられた女なりを追い詰めるに違いない。ただ、思えば有希子は煙草もお酒も本来的な味が好きというよりそれを嗜好することで参加できる若い頃のある種のコミュニティに属していたかっただけで、後に残ったのは単にやめられなくなった悪癖と、商売としての飲酒ですっかりしゃがれた声で、それをやめてもいいと思えるほどの優先事項を人生に取り入れてみたいという微かで正直な欲望がないわけではない。
ゲロらしき痕はうまく避けて歩いたが、正直これ以上日数が経てば痕はほとんど不可視になるのだろうし、この街で誰の排泄物も血液も吸収していない路面を探すのは無理があるのだろう。有希子は昔から歌舞伎町の乱雑さが嫌いだった。水商売のバイトを探したときにも、最初から新宿は排除して選んだ。年齢を重ねるにつけ、さらにこの街のがさつで遠慮のない残酷さは身に染みる。銀座や、少なくとも西麻布あたりでは何かしら別の些細な付加価値で区別される他の女と自分は、新宿の歓楽街では平気で年齢によって同じゴミ箱に放り込まれるのだ。この街で価値を持つのは、有り余る若さを棒に振り、タマゴや精子を無意味なことにだけ使って平気でどぶに捨てるような態度であって、少なくとも姑息にタマゴを増やし、それを何十万もかけて保存するような貧乏くさい真似ではない。
信号まで下り坂だった通りは今度は急な登り坂になる。有希子は自分を待ち構えたようにスムーズに青になった信号をさっさと渡りきるとさらに足を速め、まだ人影のほとんどないカラオケ屋の前を一気に過ぎて区役所の方を目指した。区役所の脇から大通りへ出れば、そこはすでにあらゆる目的の人間が交差する大都市の大通りであり、歓楽街の内側ほど露骨に値付けされることはない。
信号を過ぎたあたりから目の前を自分と全く同じ歩幅で歩く、自分より歌舞伎町の内側での価値が高く、歌舞伎町の外側での価値はやや低いであろう二十代のストレートヘアの女の安物の靴が、一定のリズムで不快な金属音をたてている。踵のゴムが削れてしまうのは仕方ないし、安物の靴は頻繁にメンテナンスに出すと元々の価格をメンテ費用が余裕で超えるのでできればお金をかけずに履き続けたい気持ちもわかる。すぐにマウントを取り合う女同士も、踵一つで連帯できるのだから男と分かり合うよりはよほど容易い。有希子は出がけに寝ぼけた絵里奈と交わした会話を思い出していた。
タマゴ頑張ってね、という寝起きの絵里奈の適当な挨拶に、有希子はナニソレと笑いつつ、たしかに自分がすっかり古びているはずのタマゴについて頑張れることなどもうないし頑張るとしたら採卵する医者でしかないが、タマゴが頑張って凍結に耐え、いつになるか分からない受精にやる気を出してくれるのならば、有希子は選んだはずのない産まない人生みたいなもののレールを歩かないで済む。そう考えると頑張るのは一に医者、二にタマゴなので、ユキユキユキちゃん頑張ってねではなくタマゴ頑張ってね、と言った絵里奈は本質的に正しい。絵里奈はいつも本能っぽいもので割と正しい選択をする。
「もし子ども出来たら私一緒に頑張って育てるー」
大きなペットボトルから直でトマトジュースを飲みながら絵里奈はそう言い、直後に冷蔵庫の中に入っているアルコール度数がやや低めの缶酎ハイを手に取った。コロナ禍の前から絵里奈の飲酒は唐突で脈絡がなく、基本的に夕飯時以降しか飲まない有希子とは対照的に朝だろうがランチ中だろうが急に始まり、逆に深夜には大パックの豆乳や梅昆布茶ばかり飲んでいることもある。そういうところを有希子は女優としての才能とも関連性のある、ふりきれた自由人だと感じているのだが、夜に飲酒するより朝から飲酒する方が変人だなんていうのは一体どこから来る思い込みなのだろうとも思う。
「なんで私が独身で子どもつくる前提なのよ。そもそもタマゴ凍結したって勝手に子どもできるわけじゃないんだってば。お守りみたいなもんだよ、保険保険」
「えーでもユキユキユキちゃん結婚しないでしょ。独り身で子育てしたいから不妊治療じゃなくてタマゴ凍結するんだと思ってた」
「日本だと凍結した卵子で体外受精したいなら結婚か事実婚しないとムズイと思う」
わかりきっていたことを改めて自分で口に出すと余計何のために早起きしてけして安くはない金額を納めに行くのかよくわからなくなった。子どもが欲しいかどうかなんてよくわからないし、この先結婚してもいいと思うような男と出会うかどうかはさらにわからない上に、出会ったところで何のトラブルもなく本当に結婚し、体外受精に励むかどうかなんて全くわからない。可能性としてはいくつものハードルの先のほんのちょっとした点のようなものでしかない気がした。
「考えてみればそっか。なんか変なの。そういう、リプロダクティブナントカっていうんだっけ? 生殖医療みたいなのをさ、めちゃくちゃ必要としてんのって、どちらかと言えば異性とつがいになってない人じゃんね」
「私もそう思うよ」
絵里奈が全く正しいことを言うので有希子はすでに履き終えている靴をあえてぐりぐりと土間に擦りつけながら、玄関ドアを開けるよりも同意することを優先した。
「うちら子ども作るとしたらどっちかがアクシデント的に自然妊娠するしかないってことじゃん、頑張るよ私もそういう事故起こせるよう」
「うん、私も頑張るわ。とりあえずうちら食べ過ぎだから来週あたりファスティングでもするわ」
有希子はコロナ禍と絵里奈との同居で油断しきっていた食生活を思い返して言った。ここ数日だけでもカレーやお寿司の出前や絵里奈の買ってくるスナック菓子など余計なものを胃に入れすぎている。
「何言ってんの、しっかり食べないと丈夫な子が育たん」
「アクシデント的に自然妊娠するならそこそこ見た目を綺麗にしてないとそういうこと起きないでしょう」
「いや、嫁になる目的なら綺麗な方がいいかもだけど、精子だけ欲しいうちらは綺麗じゃない方がいい気がする。ユキユキユキちゃんが売ってるような安い服着て変な化粧してれば、精子だけ乱暴に出されて捨ててもらえるよ、きっと」
会話が明らかに変な趣旨になってきたところで、有希子はハハハと乾いた高い笑い声を出しながらいってきますと言って玄関を出たのだった。そもそもマンションが壊されるまでの一時のルームシェアを提案した相手が、なぜか自分らを子育て共同体「うちら」に括っていることも可笑しいし、夫を排除して精子だけ搾取しようとしているのも可笑しかった。可笑しかったが、そういう妄想で笑い合うのは悪くない時間だった。少なくとも、子宮に変なものを突っ込まれてタマゴを取られたり精子を出されたりするよりは尊い時間だ。そういう冗談だけ言い合って年齢を重ねていけないだろうか。相手が絵里奈であれば、それは割と現実的でもある生活のような気もする。
しかし自分の相手は自由を怖がらない絵里奈でも、絵里奈の相手は有希子である。絵里奈のように過去や未来に縛られない奔放さを持たない、不自由な女だ。そう考えるとそんな年の取り方は、全く現実的には思えないのだった。大通りに出ると昼の歓楽街とはうってかわって世間はずっと忙しそうで、有希子はなんとなく自分もきちんと目的地を持って歩いているふりをしなくてはならない気がして、後ろよりだった重心を少し前に傾けた。
「いや、シルバーのチェーンじゃあ違うのよ、それ前も確認したよね」
「ゴールドの方をメーン画像に出すにせよ、シルバーバージョンも発注した方が絶対いいと思います」
「いや、それだとコンセプトが揺らぐ。我が社のアイデンティティが揺らぐと言ってもいいくらい」
「でも前にも金色だと下品だって意見もあったし、実際ジュエリーはホワイトゴールドとかシルバー派の方が多いんだから、シルバー選ぶ人多いと思いますよ」
「カットソー自体が白と黒で選べるんだから、選択の余地はそれで十分なわけよ、シルバーチェーンに白Tシャツって、それじゃあクロムハーツ好きのギャル男じゃん」
年季の入った営業担当のギャル社員とそこそこ生真面目な若手社員とのやりとりを聞きながら、有希子はまだ女優として芸能事務所に所属していた頃の担当マネージャーが、いつもクロムハーツの長財布にウォレットチェーンを付けていたのを思い出した。ダメージデニムや細身の黒パンツなどならまだしもマネージャーの仕事上、ほぼ毎日安いスーツを着ているので、ごついウォレットチェーンは服との相性も悪く、そもそも十年以上前のその頃でもじゅうぶんに流行遅れ感というか、いい大人が若かった頃のやんちゃ武勇伝を引きずっている感というか、そういうものがにじみ出ていた。それでも今思えば、移ろいゆく年月の中で知らぬ間に失い続けるものへの郷愁と、何かひとつくらい変わらないものを握っておきたいという彼の不安があのギャル男チェーンに詰まっていたのかもしれない。それくらい嫌味を言わずに放っておいてあげればよかった。そうすれば現役時代、転機となるようなおいしい役を一回くらいもらえたかもしれない。今になって振り返ればそういうことはよくわかるのだが、現役時代には女優とマネージャーだろうがプロデューサーだろうが、結局人と人との関わり合いであるということがよくわかっていなかった。会えばギャル男を引きずったダサいセンスに必ず文句を言っていた。
「ジュエリーにイエローゴールド派が少ないってのは確かに、な指摘だね。指輪もピアスもシルバー系だったら、ゴールドチェーン付きのカットソーは手が伸びにくいと思う?」
最も若い社員にやや加担するような社長の一言に、一瞬ズーム画面に映る有希子を含めた彩以外の全員がフリーズしたように見えたが、社員の中では陳さんと並んでギャルDNAの強い、絵里奈と同い年の営業ギャルは主張に一貫性が見える。社長である彩の意図はともかくとして、ギャル男マネージャーの郷愁を嚙みしめていた有希子は、なんとなくそのギャルに肩入れしながら経過を見守る。移りゆく時代と流行の中で韓国ファッションやカジュアル化の波に押されて変化していかざるを得なかったギャルたちの郷愁が、イエローゴールドのチェーンに詰まっているなら、それくらい放っておいてあげたい。
「このカットソーに惹かれる人種はそんなことないと思いますよ。それに、もしそうだとしたら、我が社がするべきは、シンプルなプラチナが増えるジュエリー市場にアッパーを食らわせるような、派手なイエローゴールドの強めジュエリー特集と大量入荷です」
ズーム越しでもすっぴんとわかるほどの露骨なすっぴんの営業ギャルは社長相手に一応敬語に切り替えながらそう言い放ち、手元のスマホですでにゴールド系ジュエリーの商品を探しているのか、ああこういうのならすごい似合うわとかなんとか独り言をぶつぶつ言いながら指を忙しく動かしている。コロナ禍のせいか根元が随分黒くなったダブルブリーチのグラデーション髪はワニクリップで半分ほど留め、残り半分は汚くうなじのあたりに垂らされている。有希子は自分のパソコン画面であえて彼女を拡大してスウェットの胸元から見えるタトゥーに何と描いてあるのか見ようとしたが、さすがにズーム越しでは筆記体の文字は読めなかった。
「私も、似合うアクセサリーとかが一緒に選べるような展開だったら、ゴールド一択も少しありかなとは思います」
「いいね、二人ともその心意気。というか私は市場に合わせるのではなく市場を動かそうとしている二人がとても嬉しいよ」
シルバーバージョンの発注にこだわっていた若手社員も髪を振り乱して主張しているように見える営業ギャルの熱意にあてられ、完全にトーンダウンし、さっきまで良識的な若手社員を援護しているのかと思われた社長の彩までなぜかギャルスピリットに感染して野球ドラマの熱血教師のような口調になっている。
話題となっているカットソーは脇や胸元、裾ちょい上それぞれの微妙なカットアウト部分に、きっと肌にあたればひんやりしそうなチェーンがあしらわれており、この季節には絶対に手は伸びないし、そもそも素肌に着る以外には活用方法はなさそうなのに一体どうやって洗濯してよいのか不明な、要は機能性や一般的な皮膚感覚を持っている大人が買うことはない、布の面積が極めて少ないという点ではちょっぴりエシカルコンシャスと言えなくもない、しかし寿命がものすごく短そうだしチェーン部分はどう見ても再生不可能な安いメッキでできているのでやはりエコとは対極にある服だ。そんな服に対してギャルはまだしもそこそこカジュアル化の流れ以降に青春を送ったであろう若手社員や、いまやドルガバだってバレンシアガだって買えるであろう実業家の彩までがどうしてそこまで熱くなれるのか、有希子には謎だった。
丸一日有給申請をしていたものの、タマゴ採取は一瞬で終わり、すしざんまいに長居してついでに買い物に足を延ばすほど元気ではなかった有希子はまだ明るいうちにとっくに自宅付近の駅まで戻って来てしまった。一階に入るコンビニで無駄なコスメやアニメとコラボ中のティッシュなどを買って時間をつぶしてもまだ昼間と呼んでよい時間帯で、仕方なく普段はあまり顔を出さない新商品の発注に関するミーティングのズームにうっかりログインしたせいで、思いがけない熱きギャル議論に巻き込まれることとなった。
女子高生時代、有希子は時代に迎合する形で多少の日焼けや派手な化粧をしているだけの、ヴィトンの三つ折り財布とグッチのバンブーバッグだけ使っておけばいいでしょ的な態度の、とりたてて何の思想もないギャル系女子であった。当時時代を席巻しつつあった女子高生の中でも、世間や世界にはっきりとNOを突き付けるようなギャル的精神性の持ち主はごく一部で、とりたてて何の精神性も持たない者でも、多少の財力と若い肉体を持っていると自ずとギャルっぽい女子高生になってゆく時代だった。むしろ何の精神性も持たないからこそギャルっぽいファッションになりがちだった時代であって、今、モテあざとカジュアルの波に逆らって黒ギャルをまっとうしようとする強い女たちのような選択はそこに存在していない。「オリーブ」を読むほどの選民意識がなく、「キューティ」を買うほど自意識過剰でなかっただけだ。だからやや年齢不詳の古株営業ギャルはもちろん、この時代のギャルである若手社員や、かつて稀有なギャル魂を持っていたのであろう彩とは同じ温度を共有できないでいる。
有給申請をしておきながらズーム画面に顔を出してしまった以上、次のミーティングなどを理由に退出するわけにもいかず、有希子は画面に映らないよう注意しながら朝クリニックで落としたネイルを改めて整え、マニキュアを塗る作業を始めた。甘皮を切り、やすりで先端を整えた後、すぐに乾くベースコートと、薄付きのukaのカラーを塗って、大体乾いたら爪の付け根にやはりukaのネイルオイルをちょんちょんと付けていく。コロナ禍にこのマンションへ引っ越し、長年通っていた都心のネイルサロンに行かなくなって定着しつつある自分ネイルは、長いこと使わないうちにものすごく進化していたネイル関連商品のおかげでサロン通いの頃に比べてものすごく見劣りするわけでもなく、思考停止的に通い続けたネイルサロン代がちょっと惜しく感じるほどだ。ネイルに関しても有希子に何かしら強い思想があったことはない。スカルプネイルの流行していたハタチ頃まではフレンチのスカルプなどにしていて、その後女優として急に仕事が入っても対応できるよう、無難な色のジェルネイルばかりするようになって、女優やホステスを辞めて派手ネイルが多い会社に就職したのを機に以前より少しデザイン性のあるジェルネイルにすることが増えていた。
「カットソーに関しては今週中に発注して月が変わってすぐに発売したいので、ジュエリーの展開までは待てないけど、今在庫のあるゴールドジュエリーをページ下にコーディネート提案として貼り付けるようにしつつ、今後ジュエリーの担当者とも連携しながらより充実させていこうと思います」
営業ギャルがかなり現実的なところと見せかけてほぼ当初の自分の提案通りとなるところに落としどころを持ってきて綺麗に話をまとめにかかっていたので、最初から特に異存のない有希子はそろそろこの会議が終了するであろうことにひたすら安堵した。この寒い疫病禍にどこに向かったのか、有希子が帰宅してから家の中に絵里奈のいる気配はなく、だから有希子も遠慮なく共有リビングでイヤホンもせずにパソコンを開いているのだが、そろそろ彼女の行方も気になった。そして何よりここのところの可笑しな注射や点鼻薬で、とにかく眠い。
「ええと、あと何かもう一個確認したいことあったんだよな」
彩が手元の紙の手帳らしきものをパラパラめくりながらズーム画面越しに地獄のような言葉を吐くので、有希子は一瞬元ホステス兼売れない女優の就職弱者である自分を拾ってくれた恩人を呪いそうになったが、その直後に社長は、ああこれは個別にあとで電話するわ、と簡潔に述べてさっさとじゃあねーと会議を退出していった。
彩に続いて退出ボタンを押した後、座椅子の温めスイッチを切って普段は絵里奈が寝ていることの多いソファに横たわると、大袈裟な睡魔とともに子宮だか卵巣だか何かしらの奥に鈍い痛みが蘇ってきた。その痛みのせいですんなり入眠する感じでもなくなり、仕方なく有希子は横たわった姿勢のまま不自然な角度に腕を伸ばし、充電器に繫いでパソコンの横に置いていた携帯をケーブルを引っ張って引き寄せた。すしざんまいで食べたものはどれも期待通りの味で、そもそも酢飯が食べたいという唐突な欲求を満たすために入ったアラフォー女の芽ネギ四貫玉子二貫おしんこ細巻き汁物という舐め腐った注文に店員は嫌な顔一つせず笑顔で対応してくれたのだが、なんとなく鮨への欲求がおさまりきらない。
昔から酸っぱいものは好きだった。冷ややっこも餃子も醤油より味ぽんを付けて食べていたし、バナナや桃より蜜柑や葡萄が好きだし、下のコンビニにもずく酢が入荷していると買い占めているし、辛味ではタバスコが好きだし、最近見つけたレモスコはさらに好きだ。コロナ禍になって全く興味のなかった料理に少しずつ興味が湧き出しているのも事実で、それは世界中のステイホーム民全員の平均くらいの興味上昇率でしかないことはなんとなくわかってはいるが、宅配ピザや鮨の出前を除くと都心に比べていまいちなウーバーしかないこの場所に引っ越したせいか、もう少し料理器具をそろえて、もう少し大きな冷蔵庫に替え、料理に精を出してもいいと本気で思い始めている。インスタなんかをスクロールしているとたまにえらく凝った料理をアップしている女子なんかもいて、要はみんな家で暇なのだろうけど、しかも丁寧に料理手順を載せてくれているので、割と手先が器用な有希子は勝手に腕がなる。
なんとなく開いたインスタを閉じて、ウェブブラウザを立ち上げ、「女 寿司職人」と入れて検索してみると、寿司職人の専門学校のページなんかが出てきて、卒業生の女性をフィーチャーしたインタビューなんかも読める。それでもやはり女で鮨を握るというのは超レアなケースなのか、話題の人物が一人二人何度も出てくる。
今の仕事を続けているよりは、多少はある蓄えを使って飲食店でもやろうかというのはコロナ禍になる前に何度か思ったことだった。水商売を上がった理由だって、いつまでも一ホステスでは未来が見えないと思っただけで、接客や飲酒に嫌気がさしたわけではない。ホステス時代のお客や今の会社の面々、女優時代に多少は付き合いのあった華やか系の業界の人々を呼べば、スナックくらいはすぐに成立しそうな気もしていた。コロナで最も打撃を受けた職種の一つだという印象が強く、ここ一年近くそんな自分の漠然とした想像はすっかり忘れていたが、逆にこの長いステイホーム期間が明けた後、疲弊した飲食店が再開していく中で、ぴちぴちに元気な新店にはそこそこチャンスが訪れるのではないか。酸っぱいものが好きで元女優で元ホステスで、未だにものすごく少数の寿司職人になれば、そんな彼女のいる飲み屋は結構流行るんじゃないだろうか。
有希子はなんとなくその気になり、寿司職人の専門学校のカリキュラムのページなどを開いていると、さすがに子宮の僅かな痛みでは抗えない眠気が襲ってきて、そのままソファで眠りに落ちた。
何やら動物の声のような音で目が覚めた時には外はすっかり暗くなり、どこから湧いて出たのか目の前では絵里奈が有希子愛用の座椅子に座ってお気に入りのアングラ系ユーチューバーが孤独死現場の片付けを手伝う動画を見ていた。孤独死された老人がどうやら猫をたくさん飼っていたらしく、有希子の夢に侵食してきたのはどうやらその猫たちの悲痛なレクイエムのようだ。絵里奈は冷蔵庫に残り三本あった魚肉ソーセージをすでに二本食べたらしく、それらのビニール包装を散らかしたまま最後の一本に食らいついている。
有希子がむっくりと起き上がると、それを見た絵里奈が悪だくみするような微妙な笑みを浮かべたので、嫌な予感がして寝起きの硬い背中を曲げて足を下ろし、さっさと立ち上がった。どうせまた額に「肉」とか頰に渦巻とかいたずら書きをされているのだろう。天井に向かって思いきり伸びをしてから洗面所の鏡の前に立つと落書きは想像以上で、鼻に「鼻」、耳に「耳」、顎に「チン」、頰に「ほっぺ」、額には「おでこ」とそれぞれ名称が書かれており、よく見れば首には「うなじ」、手の甲には「おてて」なんて顔以外の部位もご丁寧な解説がついている。
「ちょっとあんた、なんで顎だけ英語なのよ」
水性ではあるが、メイクペンシルを使うような細やかな気遣いは絵里奈にはなく、紙に情報を書きつけるためのペンで顔に不要な情報が書きつけられている。その時点であらゆるつっこみが浮かぶものの、どうしても気になった「チン」の件を口に出す。
「え、だって漢字わかんなかった」
「ほっぺとかおでことかおててとか書いてるんだからひらがなも選択肢にあったでしょ」
筒型のウエットティッシュの容器が部屋の隅に見つかったので歩いて行って手に取り、とりあえず二枚出して顔以外の部位を拭きながら有希子は言った。袖やパンツの裾を捲ってみるとご丁寧に服の内側にも結構文字がある。それでもこういうくだらない時間をなるべく延長したくて、一人でぱっとしない人生を悔んだり未来に不安になったりするだけの毎日が怖すぎてこのマンションに絵里奈を召喚したのは自分で、こういうくだらないことを永遠に続けてくれそうな彼女といることで、すべりこみで使うかどうかわからないタマゴを凍結するような行為でいちいち自問自答せずに済んでいる。
「あごってなんか出汁の名前みたいじゃん。それにうちの兄ちゃんって若干しゃくれてて、そのせいで高校の時に女子たちにアゴって呼ばれてたからなんかそれ思い出して心が痛いわけよ」
絵里奈の口から出た、思いのほか重たいような言葉に有希子は特に返す台詞が思い浮かばず、しばらく「おてて」や「肘」の文字を消すのに集中した。顎は書けなくとも肘や膝が書けることには素直に感心する。そういえば絵里奈の実家はたしか個人学習塾を経営していたと聞いたことがあるような気もする。
「ねえ、寿司バーを経営するのってどう思う」
鏡を覗かなくとも見える箇所の文字を大体消し終わってからそう言うと、そのまま動画を見続けていた絵里奈はいかにも絵里奈らしい、効果音をつけるならキラーンという感じの顔をして、え、なになに楽しそう、と有希子が起きてから初めて動画を一時停止した。手元から放されたタブレットをちらっと覗くと、不気味なシミのできた畳のアップで画像が止まっている。
「え、なに寿司バーってなに、バーで鮨が出るの、それともカクテルの代わりに鮨を出すバー風の寿司屋なの」
「いや、寿司バーってのは今適当につけた業態の名前だけど、なんか鮨が握れる女もかっこいいかなと思うんだよね、で、私ら飲み屋では働き慣れてるじゃん、そこでちょっと鮨も出したら、なんかいい感じの商売になると思う」
「カラオケ付けてカラオケ付けて。で、90年代縛りナイトとか、いけすかない男のラブソング縛りナイトとかやろうよ」
「それじゃいかにもスナックじゃん」
「いいじゃん、最近昭和とかバブルとか平成とか、若者がとにかく懐古趣味らしいから、スナックみたいな昭和の場末感あるもの絶対うけるし。で、そこでギャル服も売ったらいいじゃん、で、私は二か月働いたら二か月休んで、また二か月働くスタイルとかでよろしく」
「勝手だなぁ、あんたがいない間だけ都合よく入ってくれるバイト探さなきゃいけないわけか」
「その代わり、いいお客呼ぶからぁ。呪物コレクターとかアングラジャーナリストとか」
「お金使ってくれなそう~」
ひとしきり盛り上がると有希子はすっかり道が開けたような、少し明るい未来が描けたような気分になり、先ほど途中まで見た寿司職人学校の卒業生インタビューを再び携帯で表示してみる。未だ全体の一割にも満たないと言われるような女性職人も、実力のある人はしっかり切り盛りしているようだ。
「お鮨をさ、女が握れないのは手が温かいからっていうあれ、なんかただの迷信だったっぽいよ」
手元のメモ帳なのかノートなのかよくわからない紙に、スナックの内装を描き出している絵里奈に向かってなんとなくそう言うと、絵里奈は一瞬手を止め、しかしすぐにまた鉛筆を動かしながらしゃべった。
「男の既得権益を守るために作ったのかな、なんで料理人って男が多くて、でも家で料理してんのって圧倒的に女が多いんだろうね」
「それもまたなんか昔の女性差別とかと関係あるんじゃない」
「でも迷信かどうかはさておき、ユキユキユキちゃんは手はめっちゃ温かいよね。そんで、汗ばみ子ちゃんじゃん」
「いやだから男でも温かい人はいるし女の方が温かいわけじゃないみたいよ、てゆうか、なにそのちびまる子ちゃんみたいなの」
「だって昔、男と歩くとき手繫ぐかどうかみたいな話したときに、汗でぬるぬるするから繫ぎたくないって言ってたし」
絵里奈の言う通り、有希子の手は普通より温度が高い気がする。平熱も三十六度以上あるし、そもそも割と体温が高いのだ。体温の高い女は妙な色気がある、とはホステス時代の上客のひとりで交通系の会社の取締役のつまらない男が言っていたことだが、それはこの際、結構どうでもいい。
「たしかに汗ばむ。足も、ブーツとか蒸れやすいんだよね」
「だから男女にかかわらず手の温度が高い人がいて、そういう人が寿司職人向かないってだけじゃない」
残酷なことを言いながらものすごく適当な内装デザイン画と店のロゴを描く手を止めない絵里奈は、有希子のかわりに寿司職人学校へ通って鮨を握ってはくれないだろう。一瞬明るく開けたように見えた未来が、次の瞬間、絵里奈の描くスケッチの内側の絵空事に終わったような気分だった。魚肉ソーセージ三本を食べつくした絵里奈は、テーブルに置いた時の金属の音からどうやらすでに空になりつつあるとわかる発泡酒のロング缶に口をつけた。
窓の外が暗いのでカーテンを閉めて回ろうと有希子は再度ソファから立ち上がり、まずは奥の自分の寝ている部屋の窓の方へ向かう。
「てかさー、スナックってここの部屋でやるわけじゃないよね?」
有希子がベッドルームに引き上げたと勘違いしたのか、絵里奈がこちらの方は見ず、手元に視線を落としたまま不自然に大きな声で言った。
「そんなわけないでしょ、ここじゃカラオケ付けられないよ」
「じゃあここの近く?」
「ええ、こんな場所じゃほんとに場末のスナックじゃん。レトロ感じゃなくてほんとにレトロ」
「でもここもったいないじゃん。四年後から始めるの」
「どっちにしろ、鮨握れるようになるまでそれくらいかかりそうだしな」
普段はふわっとした予定でしか生きていない絵里奈がやけに現実的なことを言うので、有希子は自分の部屋のカーテンだけ閉めてなんとなくそのまままた絵里奈の向かいのソファに座った。
「じゃあさ、凍らせたタマゴはまだ使わないってこと? 赤ちゃんいたら飲み屋やりづらくない?」
絵里奈の尋問がやまない。こんな現実的な提案をしてくるようなタイプではないので、あのままソファで夢でも見ているのではないかという気分にすらなった。たしかに、四年間ここで絵里奈とゆるゆると安い家賃で暮らし、ちょっとお金を貯めて専門学校で学び、その後に資金集めて内装頼んでお店のオープンとなったら自分は四十三歳になっているかもしれない。そこからお店の開業などすれば一、二年は恋愛結婚出産なんて無理に決まってる。別に子どもが欲しいわけじゃないけど、四十五まで使わないとしたら一生使わない可能性だって高いのに、一体タマゴはどこに向かって凍結されたというのだろう。
「まあどうにでもなるか、そういうのって」
絵里奈が強引な楽観主義で今度はどこから出してきたのか三色だけある色鉛筆でスナックの看板らしきもののデザインを始めた。有希子はその自由さを愛しながら、できてもいない子どもと、現実味のない店舗運営の間で身動きがとれないような感覚に陥っていた。こうなってくるとギャル服を売り、気ままに独身を謳歌し続けるのも悪くないような気はしてしまう。それにしても、うっかりしてしまった妊娠で行動が制限されることなんかは容易に想像がついたけれど、たんに冷凍保存しただけのタマゴに縛られるような感覚は想像していなかった。
(つづく)
連載【ノー・アニマルズ】
毎月金曜日更新
鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部在学中にAVデビュー。その後はキャバクラなどに勤務しながら東京大学大学院社会情報学修士課程修了。修士論文はのちに『「AV女優」の社会学』として書籍化。2022年『ギフテッド』が第167回芥川賞候補作、23年『グレイスレス』が第168回芥川賞候補作に。他の著書に『身体を売ったらサヨウナラ』『娼婦の本棚』『8㎝ヒールのニュースショー』『浮き身』『トラディション』『YUKARI』等多数。
Twitter:@Suzumixxx