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第13回(最終回) 1階 二十六歳にコンビニは広すぎる 鈴木涼美「ノー・アニマルズ」

マンション一階に入っているコンビニで、7年に渡りアルバイトを続けているジュン。彼の目に映る住人たちの姿は、まるで目前に迫る森林伐採を恐れながらひっそりと生きる動物のようで――。
2025年に取り壊しが決まっている老朽化マンションで暮らす住人たちの小さな破綻と孤独を描いた、鈴木涼美初の連作短篇小説がついに完結。
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©︎OKANOUE Toshiko「幻想」Courtesy of The Third Gallery Aya


 昨夜見た不可解な夢の結末がどのようなものだったか、そもそも寝ている間に結末までたどり着いたのか否かさえ、思い出そうにも思い出せないので、ジュンは辛うじて覚えている佳境の場面に連なる展開を勝手に創作しながら、レジ横の揚げ物補充の作業を淡々とこなしていた。夢ではなぜかこのコンビニのオーナー店長がジュンの父親と懇意で、二人してジュンをとある食品会社に就職させようとあれこれ裏工作をしているという設定だった。
 バイト先のオーナーと父の悪だくみに気づいたジュンが何も知らないふりをして逆に一杯食わせてやろうとバンド仲間に協力を求めるところまでは簡単に思いつくものの、一杯食わせるための計画がまるっきり思いつかない。何かいい案が出そうになると店内に人が入って来たり、揚げ物が揚げ上がったりするものだから想像力がいまいち発展していかないのだ。中学時代の将来の夢は漫画家だったが、その道を本気で志さなくてよかった、とジュンは自分の想像力の限界を嚙みしめながら思った。
 実際はジュンの父親がこのコンビニを訪れたことはないし、ましてオーナーと会ったことがあるわけもない。今も大阪にどっしりと根を下ろして不動産屋を営み、何か多少悪いことでもしていないと買えないのではないかと思えるような腕時計なんかをたまに買い、しかしその腕時計の全く似合わないポロシャツにジャケットみたいなちぐはぐな格好で在日コリアン仲間の店や厚化粧のホステスのいる店を飲み歩いている。独善的な喋り方をすることもあるが、総じてそんなに悪い人間ではなく、仲間や顧客、ホステスには結構好かれている。母にはあまり好かれている感じはしないが別に邪険に扱われてもいない。
 だからオーナーと結託するという設定は非現実的だが、食品会社に裏口入社させようとする、というのはいかにもありそうな話だ。ジュンの兄が東京の広告代理店に入社してからというもの、父はジュンに家業を継げとは一切言わなくなり、やっぱり会社員だ、という即席の持論をかざし、大手企業への就職を勧めるようになった。兄の勤める会社は確かに給料がいいが、それは昔から優秀で有名私大の法学部に入り、カナダ留学までした兄が、日本有数の給料のいい会社を選んで就職したからであって、中堅私大でバンド活動に明け暮れていたジュンが新卒で就活したところで兄ほどの好条件はもちろん望めない。そのあたりを父はあまり理解していない気がする。昨年は父方の従妹の美蘭みらんがやはり好条件のマスコミに就職したのも父の会社員志向を加速させる悪因になったのだろう。今年成人を迎えたジュンの妹は音大に進んだが、コンクールに出たり演奏家を目指したりするタイプでもないだろうから、安定した音楽教師を志すに違いない。
――三人産んで二人が好条件の案定職に就くのだから悪くないじゃないか。
 ジュンは誰に向かってでもなく、強いて言えば揚げたてのジャンボメンチカツに向かって声にならない声で言った。直近で父に会ったのはたしか正月明けに時期をずらして帰省した時だし、別に日々口うるさく就職を勧められているわけではないものの、夢にまで出てくる父に対してそれなりの鬱陶しさを感じていた。オーナーと談合した設定は謎だが、年が明けてしばらくすればいよいよなくなってしまうこの愛しの職場への未練と、いい加減音楽活動に見切りをつけて会社員になれという父親の圧力が脳内でマリアージュしたというところだろう。
 入口の扉が開くチャイムが鳴り、引っ越し業者の制服を着た男二人に続いて、ジュンがこのコンビニで働き始めて以来、シフトに入るたびにほぼ毎回見かけるピンクのアイシャドウの童顔の女がいつも通り色付きのマスクをつけて入ってきた。ついに彼女も引っ越しか、とも思ったが、どうやら業者とは全く関係はなく、単にたまたまコンビニに入りたいと思ったタイミングが秒単位で一致しただけのようだ。言葉を交わさないどころか水切りマットを踏んで店内に入るやいなや、業者二人の間に強引に割り込んで、ジュンの位置から見て左奥の雑誌コーナーの方へ消えて行った。引っ越し屋たちはさして気にする様子もなく、むしろ彼女の短いスカートから伸びた細い脚と整った童顔に下世話な興味を示すように、ちらちらと気にしながら店内をそのまままっすぐ、おにぎりや紙パックのジュースが並んだ冷蔵庫の方へ進む。時間的に、積み荷を終えて次の目的地に向かう前に小腹を満たすといったところか。
 男の一人が直持ちしているスマホケースに貼られたステッカーが、ジュンがかつて入れあげていた渋めのブルースバンドのロゴに見えたので何となく目で追っていると、ゴッという不穏な音がして気づけばレジの正面に童顔ピンクシャドウが立っている。いつも買いがちな紙パック入りのお茶やカップ春雨の類には目もくれず、今日の彼女はまっすぐ雑誌コーナーに向かい、まっすぐ目当ての分厚い雑誌を手に取り、勢いを崩さずまっすぐレジに持ってきたようだった。いつもならタバコ一箱買いに来ただけでも最低二周はぶらぶらとほっつき歩く童顔にしてみればかなりの異常行動だ。
「パスモで」
 揚げ物のケースの前に立っていたジュンがレジの前に戻りきるより先に機嫌の悪そうな声でピンクシャドウがスマホをかざした。ジュンは急いでレジの台に裏返しで置かれたゼクシィのバーコードを読み取り、値段を言ってから交通系ICカードの支払いボタンを押す。
「袋おつけしますか」
 何かを買ったらしい紙袋を手に提げてきちんと化粧している童顔はどこかへ買い物にでも行った帰りなのだろうし、だとしたらこのコンビニと同じ建物の自宅に帰るのに雑誌一冊くらい手で持てよとも思うが、買った雑誌が結婚情報誌であれば抱えている姿が過剰な意味を持ってしまうこともあろうかという親切心でジュンは一応聞いた。
「いらない」
 ピンクシャドウは相変わらず思いきり機嫌の悪い声色でそう言い、おつりトレイに載せたレシートにも当然目もくれず、十センチ以上の厚みのある雑誌を片手で乱暴に持ち、ヒールの高いブーティのバランスをやや崩しながら足早に店を出て行った。おそらく彼女を接客した回数は三百を下らないはずだが、メントール入りの細いタバコを買わずに会計をしたのは片手で数えるほどで、それほど切羽詰まった勢いで機嫌悪く結婚情報誌を買い、それを素手で持ってやはり勢いよく店を出ていく状況とは一体何だと想像力がそれほど豊かとは言えないジュンでも好奇心が湧く。
 というかマンション一階のコンビニ店員なんてやっていると、どうしたってそのマンションの住民とは顔見知りになるし、その生活や人間関係、最近の様子などが気になってしまうのは宿命のようなものなのだ。なんなら、おそらく母と二人暮らしをしていた、それでもって今年の夏、母より一足先に~と言って都内に引っ越して行った女の生理周期は女子高生時代からほぼ正確に把握している。ちなみに娘が出て行ってから変な男としょっちゅう店に来るようになり、先週もその男とともに大きな旅行用のスーツケースを抱えて帰ってきた、今のところ引っ越した様子のない母親の方の生理周期も大体わかる。
 気持ち悪いと言われればそうだが、そもそも同じバイトを学生時代から七年も続けていることが気持ち悪いと言えば気持ち悪いのだから仕方ない。格安で使わせてもらっているバンドの練習スタジオが近く、先輩の黒田さんが就職する時に紹介してもらった。それ以外に別にこのバイト先に居続ける理由はないが、それと同じくらいにここを辞める理由もない。新しいバイトで仕事を覚えるのは大変だし、オーナーはいい人でほとんど食費がかからないほど廃棄の食料をもらっている。
 引っ越し屋二人の会計が終わり、忙しなくタバコだけ買っていった会社員風の若い男が出ていったので、ジュンは再度ピンクシャドウの状況を勝手に想像した。彼女を最初に見たのは七年前、つまりジュンがこのコンビニでバイトを始めた時に彼女はすでにここに住んでいた。ただ、今現在おそらく同棲か半同棲中の気のよさそうな男と付き合い始めたのは途中からで、最初の内は時折男と一緒のところは見かけても、特定の誰かと付き合っている様子はなかった。最初に見かけた時には、いかにもホストという風貌のヤツと一緒だった。店内に十分以上滞在した上、揉めているのかいちゃついているのかよくわからない距離でぶつぶつ喋り続け、挙句店を出た瞬間にものすごい濃厚なキスをし出したのでよく覚えている。かなり可愛いのにこんなところに住んでいるのは、水商売かパパ活かのお金を全部ホストにつぎ込んでいるせいか、と当時は思ったが、その後も美容師風や学生風など毎回趣の違う男といるところを何度か見かけたので、別に特別ホストが好きなわけではないようだった。
 そして驚くことにそのホスト風男とおそらく同一人物の男を、なぜかここ一、二年この店で時折見かけるようになった。七年も前に見た男を見分けられたのは、一つにはあのキスの勢いが印象的だったからだが、もう一つにはその男が七年前と全く同じ、ドルチェアンドガッバーナのグレーのスウェット上下を着ていたから。さらにもう一つ、あまり見かけない首の低い位置に太陽なのか人面なのかよくわからないタトゥーが入っていたのを覚えていたからだ。ジュンはその結構よい記憶力と貧困な想像力で、すでに別の男と同棲中のはずのピンクシャドウとの関係を不審に思っていたのだが、先月彼が、以前からよく見かけるやや高齢の女性住民と引っ越しの作業の合間に話しているのが聞こえて謎が解けた。どうやらあのホスト風の男の実家がこの上のマンションにあったのだ。ピンクシャドウとは幼馴染なのか、付き合っていたのかはよくわからない。ただ、母を気遣う様子から、見かけによらず親孝行ではありそうだった。
 童顔ピンク目の方はコロナ禍になってからは今の男と安定して一緒にいるはずで、男は優しそうだし危険な匂いは一切ないが、乱暴にゼクシィを掴んで帰るシチュエーションはほんわか穏やかという感じはしない。何年も同棲しているのに煮え切らない彼にキレて結婚するか別れるかを迫ったのか、あるいは住む場所ももうすぐなくなるというのに収入のおぼつかない彼が気軽に結婚しようとか言ってきたことに苛立って結婚のお値段を情報誌によって見せつけようとしているのか。
 そういえばたしか今年の初め頃、マンションに住む三人兄弟の三男がふざけて雑誌コーナーに激突し、分厚い雑誌をくくっているゴムが外れてゼクシィ二冊のおまけや別冊付録が床にばらまかれたことがあった。拾いながらちらっと別冊付録のレストランウェディング特集を見たジュンは、「気軽」「カジュアル」「お手頃」なんて書いてあるパーティーの費用に目玉が飛び出そうになったのであった。ジュンには当然無縁の世界だが、あの、ピンクシャドウの同棲相手のいつも似たようなTシャツで暇そうにしている穏やかな男にも割と無縁そうだ。
――だから何だ。
 ジュンには愛する人やセックスする人を決めた際に高額な儀式を必要とする慣習がよくわからない。
――甲斐性と金がなさそうだけど、優しい男との安定した生活の何がそんなに不満なんだ。
 ジュンは一瞬レジから離れ、やや乱れたおにぎりのコーナーの方へ歩きながら思った。思えばあの童顔彼女はいつもいつも何かしら不満そうな、こんなはずじゃないのにと言わんばかりの表情をしている。ジュンのバンドのファンにもそんな女が多いからよくわかる。今あるものでは何もかもが満たされない。かといって自分の欲しいものがよくわからない。すべてに一度は文句を言うが、ではどういう変化が望ましいのかと問われれば黙り込むしかない、そういう顔だ。そういう顔の女は、バンドのボーカルである飛鳥馬あすまが書く、やや抽象的で決して正直ではなく、わざと病んでいるような思わせぶりな歌詞に涙を流して共感する。正直、ジュンにとって飛鳥馬の声やベーシックな歌い方は魅力的でも、歌詞はさっぱり理解できない。言語は理解できるが、星座がどうの、古びた靴がどうの、という歌詞に涙して課金して共感するような気持ちは一切わからない。それがわからないのだから、バンドのファンの女やピンクシャドウの、こぞって何かに不満を抱える表情の真意もやはりジュンにはよくわからない。
 コンビニで好きなものが買えて、雨風しのいで寝る場所があるだけでなく、性欲を満たす相手までいるような人間たちが、どうして現状に満足できないのか。ジュンは自分の現状を冷静に顧みながら甚だ疑問に思う。音楽だけで食っていくのは心もとないが、バンドはそれなりにファンも多く、最近では割と大きなライブハウスのイベントにも出られた。YouTubeの登録者数はぎりぎり千というところだが、大学の同級生のダンサー集団に協力してもらって一番バズッたオリジナルPVは五万再生を超えた。深夜シフトに自由に入れるからかコンビニバイトの時給はそんなに悪くないし、食料は豊富だ。最も古株で上司のような存在だった李さんがコロナ禍の途中でついに辞めてしまってからしばらくは仕事量が増えたが、そのうち慣れた。なんというか、幸福とわざわざ名前をつけて呼ぶほどではないが、満足ではある。紅白に出たいとは思わないし何億も稼ぐようなバンドは生活が窮屈そうだし飛行機で全世界飛び回るのもよくよく考えれば結構煩わしい。現状維持でこのまま何年も過ごせるのであればぜひお願いしたい。
 だから立退料の交渉で結局かなり折れたオーナーよりも、この店がなくなって最も辛いのはもしかしたら自分かもしれないとは思う。それでもどこかのコンビニのバイトはできるだろうし、学生時代に一時期だけ掛け持ちをしたコールセンターのバイトであれば明日にだってねじ込めるだろう。コンビニとマンション側の関係が悪くなったときはたかがバイトの身とは言え何となく肩身が狭いような気がしていたが、話し合いがこじれてマンションとコンビニが延命するようなことがないかと期待する気持ちも少しだけあった。結局オーナーがかなり折れる形で折り合いはつき、ジュンとしても、まあそうだよなというやや残念な気分と、立退料目当てで居座る悪のコンビニの一員のようにならなくて済んだという安堵の気分で、別に意外でもなかったし絶望的に悲しかったわけでもない。

 夕方六時でバイトを上がるはずの石田さんが商品補充に手間取っているようなのでジュンは陳列棚の間を抜けて仕事を代わり、ATM機の真横から外の様子を見るといつかゼクシィに激突した三兄弟とその母親がコンビニ前に停めた車から降り、店の中へ入ってくるところだった。かつての激突劇を気にしてか、小学生の長男が幼い三男の首根っこを掴んでいる。車の中の様子から、今日の引っ越しはこの一家だったのだとわかる。夏が過ぎ、いよいよ来年の年明けに迫る立ち退きのリミットを嫌でも意識するほど引っ越しは増えた。もうマンションの六割の部屋は空き部屋になっており、コンビニの出勤時間が遅い時間だと、原付で近づくたびに建物の放つ光が少なくなったのを実感する。空き部屋の多い建物は昼間に見てもどこか鬱蒼とした森のようでもの悲しい。ところどころの部屋に残った住民は、まるで暗い森に隠れる不気味な動物で、きたる森林伐採を恐れてひっそりと暮らしている。
「三十分くらいだからそんなのいらないよ」
 今まさに迫りくる開発を逃れて森から逃げていく最中の母熊が大きなボトルのスポーツドリンクを取ろうとした長男熊に向かって言った。長男熊は恐ろしいほど素直に、そしてちょっとバツが悪そうにそのボトルを冷蔵庫に戻し、五百ミリのサイダーを手に取る。不安定な足取りで長男の後ろに張り付くゼクシィばらまき幼年熊は、俺も、とも、それも、とも聞こえる奇声を発して手を伸ばし、長男はそれを適当にいなしながら同じシリーズの別の味のサイダーをもう一本冷蔵庫から出すと、今度は幼年熊の首根っこではなく手を取って母熊の方へ歩いていった。
「ばぁばんとこ寄っていくんでしょ」
「それねぇ、意外と遅くなっちゃったから、今度また改めて行こうって話になったの。今よりは遠いけど別に車でいつだって会いに行ける距離なんだから、お別れってほどでもないのよ」
「そうなんだ」
 熊にしては少し複雑な長男と母親の会話をよそに、三男はお菓子コーナーの手前にあるアニメのキャラが描かれたラムネやいくつも連なったボーロなどを指でつんつんと刺したり、両足を不自然な幅まで開いたりと落ち着きがない。昔ジュンの実家にいた犬が散歩の途中で興奮した時の様子にも似ている。そんな兄と弟を特に気にする様子もなく母の手を握ったまま微動だにしない次男は動物というより植物のようだ。
 母熊が代表して持っていたカゴの中の商品をレジに通していると、車通りが少ないのもあって、車のハザードをたいたまま父熊が中へ入ってきて横から抽出器で出すコーヒーを注文したものだから、ペットボトルのコーヒーをカゴに入れていた母熊とひと悶着した挙句、結局ペットボトルをやめてカップのものを二つ注文するという形に落ち着いた。やや面倒なレジの取り消しと修正の作業となったが、ジュンはそれを難なくこなす。
 誰もが焦っているようなオフィス街のコンビニであればそういった作業に混乱しそうなものだが、この店ではレジの取り消しやカゴをレジに置いたまま追加商品を探しに行く客なんていうのは割と多く、ジュンもまたそうした客に対応することに慣れている。近くで大規模な公共事業の工事や建設作業などがあるときの昼食時にはさすがに長蛇の列ができることがあるが、列ができたところでそれほど店にも客にも焦燥感がない。正確に言えば、オフィス街より根深く深刻な焦燥感を持っているからこそ、昼食の時間ごときに焦らない人が多いのかもしれない。
 推定される家賃にしては住民の客層はいいと思う。三匹の子熊も清潔な身なりをして前髪も切りそろえてあるし、母熊のネイルも整っている。ピンクシャドウもあのホストも育ちは悪くなさそうな顔つきをしている。ただ、全員が何か不満、あるいは焦りの根のようなものを持っているようにジュンの目には見えた。別に何か激しい活動をしているわけでもがむしゃらにここから抜け出そうとしているわけでもないのに、何か変則的なことが起こって今の生活が劇的に変わればラッキーだと思っている感じ。思えばコロナ禍の折にはここの住民はなぜかちっとも嫌そうではなかった。そういう変化への期待はきっと日常への落胆と背中合わせのようになっているのだろう。
 四年ほど前だったか、ジュンに稀に話しかけてくる割と綺麗なおばさんが、ペット禁止を理由に引っ越しを決めたのだと言って大量のガムテープを買って行ったことがあった。その時の彼女の顔は、この街で見ることの少ないものだったのをジュンはよく覚えている。不安と期待と、何もしない焦燥感とは対極にある、今にも走り出しそうな前のめりの焦り。それはジュンがやや苦手に感じるオーラでもあった。なんというか、自分はここにいたいのに、勝手に手を引っ張られて一緒に走らされそうな気がして怖いのだ。バンドのライブに来る者も、このコンビニにやって来る者も、けして走り出すことのない、何かの行動に結びつくことのない不満が強固で半ば無意識の諦めとなって地面に根を張っている。何が不満なのかは理解できないジュンでも、慣れているからか、そちらの方が居心地はいい。
 オーナーの話ではかつて上のマンションではペットを飼っている家庭がちらほらと居て、だからペットフードのコーナーはそれなりに充実させていたらしかった。しかしジュンが働き出したときにはすでにコンビニの入口とは反対側にあるマンションのエントランスの掲示板に大きく「NO!ペット・動物!NO」と書かれたものすごく高圧的な貼り紙が貼られていた。おそらくペット関連のトラブルが相次いだのだろうが、途中からペット禁止になったのだとしたら、すでにいた動物はどうなったのだろうと思う。あるいは動物に限りなく近いような人間は。もしくは動物のようでありたいのに、単純な欲求の充足を幸福と思えないで悩む人間たちは……。
「あ、マコトさん」
 母熊のケツにしがみついたままの子熊が店に入ってきて初めて口を開いたと思ったら、入口が再び開いて、童顔ピンクシャドウと同棲しているはずの気の良さそうな長袖Tシャツの男が紙袋を持って現れた。ジュンは一瞬、自分の鼓動が少し高まるのを感じる。「一匹の雌ライオンを巡って古株の雄と新入りの雄が死闘!」というサバンナあたりを映した番組のテロップが脳内に浮かんだが、コーヒーを頼んだ父熊も、熊というよりアライグマといった感じのロンT男もおよそ死闘のイメージとは遠い。どちらもにやにやとしたままぺこぺこと頭を下げて、日本に生息する人間の雄としか言いようのない生態をさらけ出している。
「ケイタの作品と、あとはちょっとしたお土産です」
 できた人間らしいロンTのアライグマは紙袋を父親の方へ手渡し、母の足元の次男坊に目線を合わせるようにかがんだ。
「また粘土やろうな」
 次男に、ほらケイちゃんと挨拶を促し、急に人らしい顔になった母親はありがとうございますとロンTの顔を見ずに短く言った。
「ありがとう」
 とこの世で一番小さい声で言った子熊は今にも泣きそうで、それを見た母親も寂しそうで複雑な表情をする。ジュンが雄ライオンなんかの不穏な想像をしたことに、何の根拠もないわけではなかった。ロンTの「マコトさん」は子ども好きなようで、大して近所づきあいもなさそうな賃貸マンションにしては珍しく、三匹の熊、特にこの大人しそうな次男熊をかわいがっているのは以前から何となく目に入っていたし、恥ずかしがり屋の次男がそれでもおにいさんに懐いて、すれ違いざまに一言二言言葉をかわすだけでちょっと顔がほころぶのと同じくらいはネイルの綺麗な母親もおにいさんとの言葉の掛け合いを楽しみにしているように見えた。三匹の雄を連れて歩く際は気を張った母熊の顔をしているのに、「マコトさん」に挨拶するときははにかんだ人間の女になる。
「ケイちゃん、またおにいさんの教室は行けるもんね」
 寂しそうな次男熊に言っているのか、寂しさを隠す自分自身に言っているのか、どちらともとれるような言い方で母親は少し顔を緩ませた。ロンTの方は縮こまった次男熊と何やら指切りなどした後、長男の肩をぽんと叩いて三男の頭をくしゃっと撫でた。とても先ほどまで上階で、素手で掴まれたゼクシィを投げつけられ、その経済力や出世欲のなさをなじられ、人間にしかない窮屈な制度への決断を迫られていたとは思えない。ジュンは勝手な想像を付けたしながらロンTを着た優しそうなアライグマに穏やかな夜が来ることを何となく祈った。

 家族の乗った車が去り、石田さんが夜番のキムと交代してしばらく裏の休憩室でテレビを見た後に、じゃあ私あと一週間なので頑張りますぅと言って帰っていくと、一気に店は無風のようになった。石田さんはコンビニバイトには比較的珍しい三十代後半の女性で、JRの駅の方にある不動産屋の娘だ。祖父の作った不動産屋を父がそのまま継いで、今は石田さんの弟も家業を手伝っている。ジュンの親が似たような商売をしているので、何となくそんな話をしたのだった。
「サザエさんに出てくる不動産屋の娘いるじゃん、まさにあのこの家って感じ」
 石田さんはサザエさんに出てくるやや気の強そうな女に自分を喩えたが、実際はもっと控えめで、かといって暗い感じはしない、ひょうひょうとした嫌味のない雰囲気が、ジュンとは相性がよかった。ただ、文句を言わずに淡々と仕事をこなす割に、そういう人には珍しく仕事があまりできないのが同僚としては何とも褒め難いところだった。彼女と二人で店を回すとなるとバイト歴の長いジュンの負担は自ずと大きくなる。若い時に作った中学生の子どもがいると聞いた時には結構驚いた。一度も結婚はしておらず、実家で特に不自由なく子育てをしているが、子どもに手がかからなくなってきたのを機にバイトを始めたというところだろう。
 夜にしかシフトに入らない弱冠二十一歳のキムは、昼食時など多忙な時に仕事をすることはないが、それにしても最初から仕事の覚えがよく、かつていた李さんを彷彿とさせる、めちゃくちゃシステマティックなスーパー外国人バイトだ。コンビニバイトにはそれなりの適性がいる。飲食店なら愛嬌で誤魔化せてしまうような細かいミスはただのミスでしかなく、誤魔化しがきかない。石田さんはたとえばファミレスでバイトしていたらたまに食器を割ったり客に水をかけたりしながらも特に誰にも嫌われないで続けられそうだが、コンビニでは不愛想でガタイのいい男であるキムの方に軍配が上がる。
 ジュンはその中間というか、日本生まれであるという有利条件と七年も同じ店にいることで嫌でも慣れた仕事ぶりで、特に誰にも迷惑をかけていないが、もともとは面倒くさがりで臨機応変な対応力もないので李さんやキムほど素早い仕事はできない。ジュンの家族は通名を使っていないが、ジュンはバイト中の名札だけ苗字を崩して「木下」と表記している。ややこしいチケットの発券などをする客の中には露骨に日本人店員を選んで質問してくる者がいる、というのは面接でオーナーが言っていたことで、たしかにこれだけ外国人の増えた職種では外国風の名前を表記すればハーフや在日ではなく外国人労働者だと思われるのはそれはそうだろうと思った。日本に来ている韓国人の中にはやけに在日コリアンと距離をとろうとする者もいないではないが、キムは特に何も感想がなさそうに、日々システマティックに、誰に対しても不愛想にすごいスピードで品出しや掃除を進めている。
 住民の少なくなったマンションの一階は近隣住民からもなんとなくうら寂しく見えるのか、日に日に夜間帯の客の入りは悪くなりつつある。ジュンはやや暇になった手を止めてしばしキムを眺めていた。三匹の熊のあとに見るキムは、動物っぽさのかけらもない、人間を通り越して機械のようですらある。人間を通り越してというのも変な言い方だ、と自分でぼやいておいてジュンは思った。動物の上に人間がいて、その上に機械があるわけでもないのに、動物っぽさを手放した人間はどこか機械のようにもなる。
 夜間はほぼ調理の業務がないため、ものすごい勢いで搬入直後の商品を陳列し、生鮮の廃棄時間を確認していくキムを横目に、ジュンもレジを離れて品出しと棚の整理をした。バンドのボーカルから歌詞よりはわかりやすい、しかしやはりどこか鼻につく変な文章の長いLINEが入っていたのが気になるが、キムの仕事ぶりを見ているとちょっとサボって裏に引っ込む気にもならない。どうせボーカルのLINEはクラウド・ファンディングへの意気込みと、医大の大学院に通いながら時折ライブに参加する助っ人キーボードのスケジュール管理の悪さへの愚痴だろう。
 来客を告げる扉のチャイムに振り返ると、酔った男二人連れの客が入ってくるところだった。ブレスケアとレッドブルを乱暴に手に取り、べらべら喋りながら店内を幾周か徘徊し、結局最初に手に取った二つだけを買って出ていくと、ちょうどすれ違いざまに見覚えのある女二人が、いかにも部屋着のまま下まで買い出しに来たという出で立ちで高笑いしながら入ってきた。キムは相変わらず品出しを続けている。
「今日絶対あのチビたちのおうちが引っ越しだったよね」
 やや年上に見える、少し落ち着いた顔立ちのボブの女がそう言うと、すでに夜は冷え込むというのにフリースの下にショートパンツを合わせた女の方が、私も引っ越し屋さん見たよぉと語尾を伸ばして遮った。酔っているのか、二人ともろれつが回っていない。コロナ禍に、ほとんど毎日順番に、あるいは二人同時に店に来ていたので、二人が姉妹や親戚ではなく、友人同士で一緒に暮らしている、かといって性的なパートナーではない、という情報はすでにジュンはインプット済みだ。
「あの長男は人間的に大きいね、絶対」
「うん、人格者にはなりそうだけど、マジで苦労しそう」
「一番ちっちゃいのは何か、ワイルド」
 と、おそらくあの三匹の子熊のことを好き勝手評しながら時々あまり可笑しくないところで笑う。やはり二人とも相当酔っているのだろう。まだレジの方へ足が向かなそうなので、動向を気にしつつジュンはレジ前のお菓子の陳列を直していた。
「なんかさ、ここの強烈な貼り紙あるじゃん、動物NO絶対、みたいな、薬物啓発みたいなやつ」
 ショーパンの方の女が落ち着きボブの背中に寄りかかるような変な絡み方をしながら話し続ける。ボブが持ったカゴにはチーズやグミやお酒やヨーグルトが脈絡なく放り込まれていく。
「人間の子どもより大人しくって手のかからない動物なんていっぱいいるのにね」
「そんなこと言ったらあんた、人間だって動物だしね」
 ジュンはこの、来年には取り壊されるマンションの退去が最も遅くなるのはこの二人の住む部屋のような気がした。別にジュンには一切関係のないことだが、何となくそう思った。

(了)

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連載【ノー・アニマルズ】
長い間、ご愛読ありがとうございました。

本連載は弊社より単行本として刊行される予定です。

鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部在学中にAVデビュー。その後はキャバクラなどに勤務しながら東京大学大学院社会情報学修士課程修了。修士論文はのちに『「AV女優」の社会学』として書籍化。2022年『ギフテッド』が第167回芥川賞候補作、23年『グレイスレス』が第168回芥川賞候補作に。他の著書に『身体を売ったらサヨウナラ』『娼婦の本棚』『8㎝ヒールのニュースショー』浮き身『トラディション』『YUKARI』等多数。
Twitter:@Suzumixxx

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