橋本治『人工島戦記』#18 なんで?
2021年の話題作の一つである、橋本治『人工島戦記──あるいは、ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかのこども百科』。その試し読み連載を再開します。12月20日から大晦日をまたいで1月5日まで、毎日一章ずつ公開していきます。題して「年越し『人工島戦記』祭り」!(連載TOPへ)
イベント情報
2022年1月5日(水)、編集者・文筆家の仲俣暁生さんと、物語評論家・ライターのさやわかさんが『人工島戦記』をめぐる対談イベントを開催します。詳しいお知らせは、主催ゲンロンカフェのウェブサイトでご確認ください。
第いち部 低迷篇
第十八章 なんで?
図書館を出たキイチは、学生会館の二階の談話室に行って、政治学の講義が終わったら出て来るはずのテツオがやって来るのを待っていた。
図書館の雑誌類は貸し出し禁止だから、『千州エコノミクス』のコピーはしっかり取って、手に持っている。
人工島を作るのに必要な予算は、最終的には一兆円で、当面いるのは四千六百億円。億の単位の金の感覚が分からないことに変わりはないが、その四千六百億円の中身が一々解説されているもんだから、金にうといキイチにもなんとなく分かるような気がした。
「これを見せれば、テツもなんとか言うだろう」と思って、キイチは、悪徳商人暗殺計画を練る闇の仕事人のような顔をして、テツオがやって来るのを待っていた。
テツオはすぐにやって来た。テツオは、キイチの顔を見るなり、「なんか分かった?」と言って寄って来た。
「分かったっていうかな、これ見りゃ多分分かるよ」と言ってコピーを取り出すところが、いかにもキイチらしい。
「なにこれ?」と言って、テツオは見る。
それがなんのコピーであるかを訊きながら、テツオはもうコピーのページをめくっていた。
テツオが読んで行くそばで、キイチは、「ひょっとしたらなァ」の前置きつきで、結論を語る。語るといっても、その〝結論〞というのは、「辰巻はなァ、なんか、〝一番になりたい〞らしいぞ」という、よく分かんないそれだけだ。
そんな一行をいきなり聞かされたって、なにがなにやらで、普通の人間には分かるはずがない。それを、「なんだよ、いきなり」とも言わずに「ふーん」と聞き流して、テツオは、「人工島なんていらない‼」という『千州エコノミクス』の特集コピーを読み進めていた。
結論は後まわしだ。
「過剰設備投資の不思議なスピード」の部分を「なるほど」と言って読み終わると、テツオはコピーのページをペロリとめくった。めくって「え?」と言うと、その後をろくに読みもせずに、ハラホロヒレハレと、パラパラめくった。
「なんで?」と言うテツオの声に対して、キイチは、「いやー、もういいかと思ったんだけど、ついでというか念のためと思って」と、弁解じみた声を出した。
そこには、「死滅のおそれか? 摺下海域」と題された、環境問題から見た人工島への疑問と、「比良野市の環境アセスに問題はないか?」という、比良野市の出した環境アセスメント報告に関する疑問が続いていた。
テツオが「なんで?」と言ったのは、その「人工島なんていらない!!」という特集記事が、環境問題によってしめくくられていることを確認したからだ。
キイチは、「環境問題のレポートなんて今更だとテツオは思うだろうけど、ともかく一応、ちゃんとまとまっているから」と思って、その部分のコピーを取ったのだ。
「自分がそこの部分までコピーしちゃったことを、テツオは〝バカでー〞と思っているのかな」と思ったからこそ、それを説明するキイチの声は、弁解の色を濃厚に見せていた。
しかしテツオの声の先は、キイチの方に向けられていたのではなかった。
「なんで?」と言ったテツオは、改めて自分の手の中にあるコピーをひっくり返した。
「人工島なんていらない!!」という特集タイトルが大書きしてあるコピーの表紙を見たテツオは、「これ、なんのコピー?」と、改めてというか今更というか、テツオに訊いた。
「『千州エコノミクス』って知ってる? オヤジ雑誌なんだけどさ、経済の雑誌で人工島の特集やってたからさ──」
「経済雑誌が、なんで環境問題やるの?」
テツオの言ったことは、「経済雑誌が、なんで人工島やるの?」ではなかった。
「知らないよ」と、それに答えてキイチは言うけれども、テツオの質問する声の方向は、相変わらずキイチの方を向いていない。
母親のヨシミのように、宙を見据えて、「なんで環境問題やるの?」と言ったテツオは、そのまま黙って、「死滅のおそれか? 摺下海域」と「比良野市の環境アセスに問題はないか?」の部分を読み始めた。
読み終わって、しかしテツオは、再びおんなじことを言った。「なんで?」と。
その言葉は同じだったけれども、その口調は明らかに、自分自身に向けられたひとりごとだった。
「なんで経済雑誌なのに、環境問題でしめるのかなァ」と、テツオは言った。
言われてキイチは、やっとテツオのその声が自分の〝失策〞に向けられていたのではなかったということに気がついた。
態勢を立て直したキイチは、ひとりごとになってしまったテツオに向かって、「どうして?」と訊いた。
「どうしてって、経済雑誌なんだから、別に環境問題なんかでしめなくたっていいじゃん。市長は、発想としては大東亜共栄圏とおんなじなんだしさ、ムダ金使って大損するのに決まってる人工島作って、自分が日本で一番の市長だって自慢したがってるだけだろう? そんなの危険だよなァ」
テツオの、若干アブナイ断定に対して、キイチは「そういう考え方もあるのか」と思ったので、「そうかァ」と言った。
「だって、そうだろう?」と、テツオの発言は続く。
「港作ったって、売れないわけだろう? 志附子が国際貿易港で一流になったってさ、港としては余っちゃう可能性ノーコーなわけだろう? 宅地作って売り出すわけじゃん? 人工島に宅地作って、そんなのいるかいらないかで議論してたけど、よく考えたらこれって、売るんじゃないか。市って、それ売って商売するつもりなんだろう? そりゃ分かるけどさ、出来た宅地売って人工島作る建設費用を出そうとかっていう考えって、少し甘いんじゃないのォ?」
テツオの声に、キイチは引きずられるようにして、「そう思うけど……」という、かなり情ない調子の相槌を打つ。
「えーと、なんだっけ? 総予算は四千六百億円だろう? その内、国が補助金みたいにして五百億円出して、それから、なんだこれ? 国が別口の補助金を市に出すってことか? その、国から市に出て来る別口の補助金が二百二十億で、市が税金から出す金が二百八十億で、残りの三千六百億円の半分が借金で、その残りの三分の一が港の使用料で、残りは人工島の土地売った金になってるじゃない。これで土地が売れなかったらどうすんだよ? 人工島が出来たって、借金がバカみたいに残るだけじゃないか!」
突然金の計算に詳しくなったテツオは、来年からの専攻が経済学部だから、具体的な数字を見せつけられた途端に、パチパチと頭の中で電卓を叩いてしまっても当然なのかもしれないが、しかしだったら、同じ専攻に進むキイチの頭はどうなるのだろう?
要するに、キイチはノンビリ屋さんでテツオはチャッカリ屋さんという、それだけの違いだった。
それはともかく、テツオの言った計算を、読者のためにもう一ぺん並べ直しておいてあげよう。
第十八章 了
【橋本治『人工島戦記』試し読み】