橋本治『人工島戦記』#6 情けはトリのためならず
橋本治さんが生涯をかけて挑んだ小説『人工島戦記──あるいは、ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかのこども百科』が刊行されました。架空の地方都市を舞台に、戦後から平成に到るこの国の人々を描いた大長編は、未完ながら、A5判2段組みで1,376ページ。圧巻のボリュームです。
刊行後の反響のなかに、「興味はあるものの、読み通せるだろうか」という声が少なからずありました。その杞憂を晴らすべく、先行公開した第一章に続き、第二章から第八章まで、毎日一章ずつ試し読み公開します。(第一章から読む)
第いち部 低迷篇
第六章 情けはトリのためならず
テツオはもちろん、「あんたはこういうことどう思うの?」と、その約一年ばかり前に訊かれていた。「こういうこと」というのは、もちろん、「経済優先主義で、貴重な野生生物を絶滅に追いやること」だった。
お母さんにそう訊かれて、テツオは「やめりゃいいのに」と言った。
テツオはいろんなことをスッ飛ばして逃げたかっただけなのだけれども、自分の立場を守ることに慎重で論理の飛躍を許さない――というか、論理の飛躍がのみこめないお母さんのヨシミは、そう簡単にテツオの逃亡を許してくれなかった。
「やめりゃいいのに」と言ったテツオに対して、お母さんのヨシミは、「なにを?」と言った。自分のワケのワカンナイ息子が、「自然保護運動なんかやめりゃいいのに」と言ったのかと思って、一瞬身構えることまでしてしまった。
「なにを?」が、「なにおォ!」と聞こえてしまって、テツオはちょっと背筋の辺りをゾクッとさせて、「人工島なんてさ――」と言ったので、厳粛な面接担当官のような顔をしたお母さんは、「よし」と言わぬばかりの顔をしてうなずいた。うなずいてよそを向いて、ほとんどひとりごとのようなことを、声に出して言った。
「あんただってそれくらいのことを分かってんのにさァ、どうして盛り上がらないのかなァ。やっぱり、意識が低いのかなァ」
お母さんは、「言いたかないけど、やっぱり日本はまだまだ意識が低いから、自然保護運動は盛り上がらない」論者だったのでそう言ったが、しかしそういうことを他人ごとのように聞いていたテツオには、運動の盛り上がらない理由だけはよく分かった。
その理由は、「よく分かんないから」だ。もっとはっきり言えば、「ピンと来ないから」だ。
「経済優先主義で、貴重な野生生物を絶滅に追いやることをどう思う?」と言われたって、ボサーッとした大学生には、考えようがない。
経済とも野生動物とも全然関係ないところに生きているのが現代の大学生なんだから、そんなことをいきなり問われたって分からない。そういうことを環境保護派のお母さんから、毎日毎日訊かれたって、分からないことは分からない。別にヨシミの方だって、息子の思想を誘導して自分の思い通りの答を引き出してやろうと思っているわけではないのだが、それでも息子としては、「経済優先でいいじゃないか」とは言えない。
別にテツオが「経済優先主義者」だというわけでは全然ないのだけれども、「経済優先か自然保護か」という二者択一の問題を出されて、しかもその選択肢が「自然保護」にしかないことが分かっているような設問をぶっつけられてばかりいるのはやなもんだ。
テツオとしては、そういう誘導に従って「自然保護の意義」に目覚めるのはいやだから、そういうことは極力考えないようにしている。
経済優先主義が自分にとってリアリティを持たないのとおんなじように、「自然保護」というスローガンだって、自分にはピンと来ない。ピンと来ない息子に、「経済優先主義なんて古いよ」と言わせたってなんの意味もないだろうにと、それだけは分かっているテツオは、だからなんにも言わない。
「自然保護ってピンと来ないんだ」と言ってしまえば、お母さんが目を剝いて口を開いて、「どうしてあんたはそんなに意識が低いの?」と言うことだけは、目に見えている。
テツオのお母さんは、テツオが自分より二十六も若いことを、「息子は自分より二十六年分意識が低くて遅れている」と思い込んでいること濃厚な人なので、うかつなことはどう転んでも言えない。
自分の母親が、自分の意見をそうそうなんでもゴリ押しするような女じゃないことだけは、どうやらテツオも知っている。「環境保護派」とかなんとか、それこそいろいろいる自分の友達と話している時のヨシミは、他人の意見をよく聞いて、結構「そうかァ……」とかって考え込んでいたりもするんだから、「この人も外ではそうそうメチャクチャな人ではないな」ということぐらい、テツオにはよく分かる。よく分かるが、しかしテツオは、自分の母親が実はそういうことによく堪えられない性質の人間だということも、よく知っている。
「外で譲歩した分だけ、自分のとこには容赦のない言論攻勢になって表れるんだな」と、テツオはそのように理解しているから、うっかり自然保護に関しては、「よく分かんない」が言えないのだった。
言うと、どういうタタリがあるか分からない。
別に、自然保護に反対する理由もバカにする理由もないのだけれど、自分の母親を見ていると、「どうしてこの人は、見たこともないような、親近感が湧いてるのかどうかもよく分かんないような野生動物の保護に、そんなにも身を入れてのめり込まなきゃならないのか?」ということに関するリアリティが、まったく湧いてこないのだった。
身にしみないと言えば身にしみない。その身にしみなさは、恐らく、躍起になって人工島推進計画を推進しているであろう比良野市長辰巻竜一郎の説く「経済優先主義」とおんなじ程度のものだとしか思えないのだ。
テツオにとって唯一ピンと来るのは、「人工島? そんなのいらないじゃん」という、そのことだけだった。
なんでそうなのかということはよく分からないのだけれど、「海のかなりの部分を埋め立ててそこに人工島を作って地域の発展を促す」というような発想が、なんかすごくダサイということだけはピンと来る。
ピンと来るから、「そんなのやめりゃいいのに」ということだけは、簡単に言える。「ピンと来る」ということがそういうことだということだけは体で分かっているテツオには、しかし、「自然保護」というものが、そういう風にはピンと来ないものだということも分かっている。
「ピンと来ないことに身を乗り出すのはウソ臭いことだ」ということだけは分かるから、自分の母親がどう言おうと嘆こうと、テツオはその件に関してだけは、積極的な態度表明をしない。しないで逃げていて、時々はお母さんに怒られる。
「じゃ、あんたは、人工島建設のことをどう思ってんのよ!」と。
これに関する答だけは簡単だから、すぐ答える――「反対だよ」と。
そうするとお母さんは、「どうして?」と訊く。
そうするとテツオは、「だってダサイじゃん」と言う。
そうするとお母さんは、「そうなんだよ、ダサイんだよねェ。この程度の子だってそのくらいのことは分かるんだからさァ――」と言って、運動を盛り上げようとしない地域住民の意識の低さを嘆くひとりごとの方へ行ってしまうのだった。
そして、自分の口にした一言を抱えてどっかへ行ってしまった母親の様子を見ながら、テツオはぼんやりと思うのだった。
「ここにだって、環境や自然保護に対する意識の低い人間が一人いるんだからさァ、それをもうちょっとよく見て、〝意識の低さの実態〞っつーのを考えればいいのになァ」とか――。
がしかし、だからといって、テツオはそんなことは言わない。一ペンそれを言って、ひどい目にあったことがあるからだ。
「ここにちゃんと、意識の低い人間がいるんだからさ、それ見て、意識の低さの実態ぐらい考えればいいじゃない」と、テツオは言ったことがある。去年の夏のことだった。言って、
目の前にギラリと光る母親の目を見て、「しまった……」と思った。
思う間もなく、テツオの目の前七十センチのところに母ヨシミのギラつく視線があって、「どうして?」と言っていた。
「どうして?」
「なにを?」
「どうしてあんたは、そんなに意識が低いの? いいこと聞いた。教えてよ。どうしてあんたは、そんなに意識が低いのよ?」
目は、マジだった。
テツオは、「だって分かんないもん」と言った。
「なにが?」と、ない牙を光らせているように見えたのは、そのお母さんだった。
「つまりィ、どうして人工島を作ると自然が絶滅しちゃうかとか、そういうこと」
言ってからテツオは、しかし分からないのは、そういうことじゃないんだと思った。思ったがしかし、テツオのお母さんは許してくれなかった。
「絶滅しちゃうのは、自然じゃないの――」
舌なめずりするように、テツオのお母さんは言った。
「摺下干潟に渡来して、そこをエサ場にしたりしている野鳥がナンボか種類いて、その数はナンボか万羽いるわけ。それが、絶滅の危機にさらされちゃうの。知識は正確にして事態を認識しといてね。いい? 市が、志附子湾のナンボかヘクタールを埋め立てて、摺下地区の沖合に人工島を作ってしまうと、まず、志附子湾の潮流が変化してしまうわけよ。志附子湾は、埋め立てに次ぐ埋め立てで、水質というものはかなり悪化していて、ただでさえ海の浄化能力が低下しているの。そこに市が、更にナンボか億円の予算を計上して、ナンボかヘクタールの人工島を摺下地区の沖合に作ってしまうと、干潟と人工島の間の潮の流れが淀むのよ。これはもう明らかなの。市はそれを、〝そんなことない〞と言って否定するのだけどもさ、ここに潮流の変化が起こってしまうと、ここに生息する海生生物がナンボか種類いるわけだけどもさ、そのかなりの部分が死滅状態になってしまうわけよ。そうするとどうなる? そこの貝とかカニとかの海生生物をエサにしている野鳥達は食物を奪われて、死滅するしかなくなってくるのよ。そういう危険性にさらされるのよ。そのことは分かるでしょ?」
テツオは、「分かるよ」と言った。
「分かるでしょ?」
お母さんは言った。
「分かるけど、でもさ――」
テツオはうっかりと言ってしまった。
「そのことと、オレ達と、どういう関係があるの?」
たちまち、お母さんの髪が逆立った。その逆立つ髪を見るまでもなく、テツオは、「しまった」と思った。
「あんたは、自然というものの重要性を理解してないの?」
「あーあ、ついに出てしまった」と、テツオは思った。
「こうなるともうほとんど〝宗教〞だからなァ」と思って、テツオは、もう絶対うかつには口をきくまいと思った。
「自然というものの重要性を理解してないの?」と言われたテツオは、「してるよ! してるよ!」と言って、口をつぐんだ。
「あんたはねー、なんにも分かってないのよ」と言われて、「だからオレは、初めっから〝なんにも分かってない〞って言って、〝意識が低い〞と言っとうがー」と、覚えたての方言をまじえて独白したけれども、それを口に出そうとは思わなかった。
「そういう大切な自然を、市はナンボか億円の金をかけて、壊滅状態にしちゃおうとしてるわけなのよ!」
「分かってるよ」と、これだけは口に出して言って、それからテツオは、「なんでオレだけが怒られなきゃなんないのよ?」と、胸の中で口をとんがらかせた。
お母さんの話はエンエンと続いて、自分の息子という〝情けないほど意識の低い〞若者へのお説教を続けるお母さんは、その〝そもそもの初め〞である、「どうして情ないほどに意識の低い若者は意識が低いままなのか?」という疑問の解など、どこかへやってしまった。
お母さんがそうなったので、「どうして自分は〝意識が低い〞と言われるような存在に甘んじていなければならないのか?」という大問題を解明する役目は、テツオ自身が黙って請け負うことになった。
第六章 了
【橋本治『人工島戦記』試し読み】