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眠る人 千早茜「なみまの わるい食べもの」#12

[第2・4水曜日更新 はじめから読む
illustration:北澤平祐


 七、八年ほど前のことだ。眠る人を見た。
 家の寝室でも、通勤電車でも、公園の日当たりの良いベンチでもない。その人と私の間には、焼かれた分厚い肉があった。もう焼きたてではなかったが、カットされた断面はまだうっすらと赤く、皿では肉汁と脂が光っていた。

 当時、流行っていた熟成肉の専門店だった。それも、わりと高級めの。壁の一面は冷蔵庫になっていて、まんべんなく脂肪のさした、一抱えほどもある肉塊がごんごんと置かれている。ワインも豊富で、まさに酒池肉林。なぜ、このような心躍る場所で眠れるのかと驚いた。大学生のときなど飲み会や家飲みで酔い潰れて寝てしまう人はいた。小さい頃、二歳半下の妹は食事中によくうとうとしては食べものの残った皿に顔を突っ伏していた。どれも、私は驚きをもって眺めた。

 私は食事中に寝たことがない。そもそも過度の疲労状態のときは胃が受けつけなくなるので食事の場にいかない。酔いで眠くなることもあるが、目の前に料理を盛った皿がある限り、寝てしまうことはない。友人とまったり茶をして「眠くなってきたねえ」と言うことはあるが、茶菓子や芳しい茶を前に惰眠を貪るわけがない。貪るべきものは目の前にあるのだから。おそらく私の欲スイッチはひとつしか入らないようになっていて、食欲スイッチがONのときは、睡眠欲をはじめとする他の欲はOFFになるのだ。

 ゆえに、食べ終えてしまうと眠気のセーブがきかなくなってくる。そういうときは隣のテーブルの料理を眺めるか、デザートを追加する。食欲スイッチON。靄が晴れるように頭も視界もクリアになり睡眠欲はどこかにいってしまう。仕事中に眠くなると、おやつ棚から菓子を取ってくる。家に菓子がなくても(そんなことはほぼないが)茶を淹れれば眠気は吹っ飛ぶ。

 幼い頃からそうだった。我が家では好き嫌いによる食べ残しは許されていなかったので、自分の皿のものを平らげるまで食卓を離れてはいけなかった。偏食で頑固な私はしょっちゅう食卓に取り残された。親も意地になり、日付が変わってしまうまで座っていたこともある。こんなとき妹のように皿に突っ伏して寝てしまうことができれば、親は不憫がって許してくれるのに、と切実に思った。でも、私は食べものの匂いがする場所ではどうしても眠れないのだ。今も、マンションの隣の部屋からお弁当を作る匂いがしてくると目覚めてしまう。

 熟成肉の前で眠った人とは、それからも何度か食事を共にした。二人きりということはなく、いつもその人の仕事仲間や共通の知人がいた。その人は、中華料理店の円卓でも、なんとか予約が取れた人気のイタリアンでも、懐石料理のカウンターでも眠った。テーブルに突っ伏してしまうわけではなく、上半身を起こした姿勢のまま静かに眠りに落ち、やがて何事もなかったかのようにすうっと話題と食事に戻ってくる。食に興味がないわけではなく、私よりたくさんの美味なる店を知っている人なのだ。周りは慣れているようでなにも言わない。一度、その人のパートナーの方が「いつも寝ちゃうの」と言っていたので、二人きりでも寝てしまうのだろう。パートナーの方はその人が起きてもなにも言わなかった。もしかしたら、本人は自分が寝ていたことに気づいていないのかもしれない。そう考えてしまうほど、なめらかに眠りに移行し戻ってくる。もちろん、店の人もなにも言わない。出来立ての艶めく料理が並ぶ場に、皆が見ないふりをする空間がぽっかりでき、そこで人が眠っている。眺めていると、一瞬、料理の味も香りも遠のくような、不思議な感覚になった。

 睡眠欲にどうしても抗えない人はいる、と担当T嬢は言う。一緒に演劇を観にいくと、開幕前に「私、寝てしまうかもしれません」とT嬢は弁解するようにささやく。寝てしまったとしても面白くないわけではないですからね、と伝えておきたいようだ。出会ったばかりの頃、私が誘ったコンテンポラリーダンスの公演で寝て以来、必ずといっていいほど言ってくる。T嬢は必死でチケットを手に入れた歌舞伎でも、大学入学試験でも、寝てしまったそうだ。大事なときに限って奴(眠気)がやってくるんです、と災害に遭ったかのような顔でため息をついていた。

 私は映画で寝たことがない。演劇でも、ダンスでも、ない。これを言うとけっこう疑われるが、本当にない。ただただ食品工場の機械たちを映しつづけるドキュメンタリー映画でも、趣味にまったく合わないストーリーでも、誰かの意図によってつくられた物語性のある作品を眺めていると眠気が遠のく。創作欲みたいなもののスイッチが強固にONになるためだと思っている。ビデオテープで映画を借りなくてはいけなかった学生時代は、一泊のレンタルで何本も借りて一晩中観ていたことがよくあった。友人たちが次々に眠りに倒れていく中、一人膝を抱えて光る画面を眺めていた。

 夫もT嬢と同じく眠りに抗えない体質で、家で映画を観るとけっこうな頻度で寝てしまう。大好きな作品で寝られると、つまらないと言われているようで、つい機嫌が悪くなってしまう。そういうわけではないのだ、と夫は言うが、こちらの面白くない気持ちは完全には消えない。

 食事中に寝るのも、失礼だと感じる人もいるだろう。けれど、こちらに関しては面白くない気持ちにはならない。むしろ食欲を超越した眠りに仙人めいた崇高さを感じてしまう。私はどうしても食に貪欲になってしまうから。自らの食欲を恥じることはない、好きなものを好きに食べるために生きている、と声を大にして言い募っているが、食欲に支配されていない存在に憧れがあるのかもしれない。

 ときどき、テーブルを埋め尽くす美味の前でのうたた寝を想像する。肉の焼ける匂い、汁ものや蒸しものの湯気、スパイスの香り、炊きたての白米、はぜる油……そんな中で眠りに揺蕩たゆたうのはどんな気分だろう。目をひらけば、美味たちが待っている。幸せは約束されている。この上ない安心かもしれない。でも、きっと私は「冷める!」と叫びながら腹の音と共に覚醒するだろう。

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【なみまの わるい食べもの】
毎月第2・4水曜日更新

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千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で09年に泉鏡花文学賞、13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞、22年『しろがねの葉』で直木賞を受賞。小説に『赤い月の香り』『マリエ』『グリフィスの傷』など、エッセイ集に『わるい食べもの』『しつこく わるい食べもの』『こりずに わるい食べもの』などがある。
X: @chihacenti

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