第8回 役所広司、緒形拳、寺島しのぶ等々、実際にあった犯罪ベース映画の「顔を見る」 姫野カオルコ
幼い頃から人の顔色を窺うと同時に、「顔」そのものをじーっと見続けてきた作家・姫野カオルコ。愛する昭和の映画を題材に、顔に関する恐るべき観察眼を発揮し、ユーモアあふれる独自理論を展開する。顔は世につれ、世は顔につれ……。『顔面放談』(集英社)につづく「顔×映画」エッセイを、マニアック&深掘り度を増して綴る!
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佐木隆三の『身分帳』は、殺人罪等で十三年の投獄後に出所してきた田村明義をモデルにした男の話である。
一時期、絶版状態になっていたが、西川美和監督で映画化されたのを機に復刊された。
映画化タイトルは『すばらしき世界』。主演は役所広司。好演、秀作、ヒット、その上文庫カバーも新しく映画化仕様になり、巻末には西川監督の《復刊にあたって*》のプレゼントまで付いた。
*解説、あとがき、的なページ*
それには、佐木による田村との回想も紹介されている。
自分のことが書かれた小説がもし映画になったら、自分の役はあの人がよいと、〈大照れに照れて〉ある〈苦みばしった〉スターの名前を、田村は佐木に告げたという。
そのスターが誰であったのか佐木は伏せていたが、気になった西川監督が講談社の佐木担当編集者に訊いたところ高倉健だったそうだ。
佐木・田村の存命中に映画化はならず、ともに没後の令和二年になって西川監督により実現したわけであるが、令和二年の日本映画界において、「男の主役の代名詞」である役所広司に演ってもらったのだから、田村明義も本望であろう。
令和六年の今日、田村明義について検索したら、佐木と、文化放送の女性社員(当時)と、田村、の三人がいっしょに映った写真がインターネット上に出ていた。
その写真を見た(私の知人ら)数人も、映っている元文化放送女性社員も、田村を「横山やすし似」と言うのであるが、では、私(姫野)は田村明義に似ているのか。それなら、私からも「よかったねえ、役所広司に演ってもらえて」と言うよ(※1)。
◎
田村明義が役所広司に演ってもらえたのなら、緒形拳に演ってもらえたのが、五人を殺した西口彰だ。
この男をモデルにしたのが榎津巌。『復讐するは我にあり』の主人公である。これぞ佐木隆三の代表作(※2)。
映画化時もタイトルは同じ。1979年公開。監督は今村昌平、脚本は馬場当・池端俊策。
原作もヒットしたが、刊行された1975年当時(直木賞受賞年)と現在(受賞から49年経過)を比較すれば、映画のほうが格段に知名度が高いのではないか。つまり、じっさいに原作を読んだ人より、映画だけを見た人の数のほうが格段に多いのではないか、という意味だが。
そこで、声を大にして言う。映画は原作とはまるでちがうものになっている。
映画『すばらしき世界』はたしかに、なるほど原作『身分帳』をヴィジュアル表現にするとこうなるのか、という秀作だった。
が、今村監督の『復讐するは我にあり』は、世界観が原作とちがう。榎津は、映画ではあくまでも「今村映画の男」になっており、原作の榎津とは雰囲気が全然ちがう。
文章による表現物とヴィジュアルによる表現物は別物だと、つねづね私は思っている。
が、こと『復讐するは我にあり』については、原作の内容ではなく、「直木賞受賞作」のほうだけをエサに製作資金を集めたのではないかという気さえするほど、原作と映画が根本的にちがう。出身地や殺しの手口といった細々したことは原作の「すじ」のとおりであったとしても。
だからといって、映画『復讐するは我にあり』が駄作だというのではない。
今村監督の蘇った粘着力に魅せられた観客は多かったろう。あの映画では小川真由美が実にイイ。これで日本アカデミー賞最優秀助演女優賞は大いに大いに納得する(※3)。
ただ、原作とはちがうものになっている、というのである。
こう感じるのは、たんに、主演俳優の雰囲気が、原作とはちがいすぎる、というだけのことかもしれない。'75なら、森本レオなどに演らせるとよかったのではないか(※4)。
『顔面放談』の最終回が今村昌平であったように、私は今村映画や、今村映画に常連の俳優のファンであることも、あらためてここに付け加えておく。
その上で告白するが、〈今村の復我〉については、作品の出来ではなく、ごく個人的嗜好として、どうも緒形拳という俳優に、あまりおもしろみを感じない。嫌いだとかヘタだと文句をつけるのではないのだが、なんだかつまらないのはなぜなんだろう(※5)。
「ザ・いい俳優」というか、「いい俳優のお手本」というか、あの人を苦手だと映画ファンの前では言いづらいような、万人から好かれる彼の温かさを持ってこられると、「はい、さようでございます」とシュンとして終わってしまうんである。
むろん、こうした要素が塡まる役を緒形が演っているときは、たしかに見せる。西口彰は、全然塡まっていなかった(注意・感想には個人差があります)。
とはいえ、緒形拳は日本映画史に残る主役俳優。その彼に、自分を演ってもらえたのだから、やはり西口彰も本望であろう。
◎
佐木には『悪女の涙 福田和子の逃亡十五年』という著作もあるが、映画『顔』の原作ではない。
阪本順治監督、阪本+宇野イサム脚本『顔』は、いくつもの映画コンクールでいくつもの賞を受けた秀作で、福田和子をモデルにした役は、藤山直美が演った。
福田和子の顔写真は、長く交番に貼りだされていた。その写真と、藤山直美や、ほかに大竹しのぶ、寺島しのぶ、など福田を演じた女優の写真とを見比べて、「演ってもらえた」と思ったかどうかは、本人のみぞ知る……、ということで、阿部定に移る。
◎
阿部定を題材にしたものは佐木にはないが、人の好奇を集めてやまない事件のせいで、映画・舞台は多く作られている。
賀川雪絵(ゆき絵)、宮下順子、松田暎子、川島なお美、黒木瞳、杉本彩、麻美ゆま等が、定を演じた。賀川雪絵版は、その映画(石井輝男監督『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』)に、本人も出演してインタビューに答えているくらいだから、確実に見たであろう。
死没地も没年も不明ながら、1992(平成4)年には存命だったらしいので、ほかの女優たちが、自分を演じている映画も見ていたかもしれない。
だが、「演ってもらえた」とは思わなかった、と私は確信する。
彼女は、《「美人だねえ」と会った人から言われる女》であっただろう。
阿部定から一旦逸れるが、どういう外見が「美人」なのかなど、定義できない。
大学生のころ('80代前半)、「楠田枝里子こそ美人だ」と言ったら、二十人くらいの人から「あんたの目はおかしい」と異論を唱えられたが、「そのとおりだ」と賛成した人も六人くらいはいた。
「美人」だと人が判定する顔は、その顔を見る人間によって、その顔を見る人間が属する場所(家庭や地域や組織等)や受けてきた教育等によって、大きく変わる。さらに言うなら、多くの場合、人は、顔よりも、顔の所有者を見ていることのほうが、実は多い。所有者の挙措や話し方や声を。
このことを『リアル・シンデレラ』という小説に書いたのだが、ある賞のある選考委員から「主人公は不美人だったはずなのに、美人になっていて構成が破綻している」と評されたのは、ものすごく理不尽であった。
阿部定にもどる。彼女が《「美人だねえ」と会った人から言われる女》であったのは、自分のルックスを肯定していた(と想像する)からである。
自分のルックスを肯定している女に色気を感じる男は多い。
自分のルックスを肯定している女。これは「ワタシはきれいだわと鼻にかけてるいる高飛車な女」という意味では断じてない。
自分のルックスについて、さして考えたことのない人こそが、自分のルックスを肯定している人の頂点であるとも言える(※6)。
男は、自分のルックスを肯定している女に色気を感じるが、自分が色気を感知したとは気づかずにいるため、「きれいだな」「かわいらしいな」と、意識の表面では、思うことが圧倒的に多い。
下半身で色気を感知していることに気づかないので、上半身で形容詞を選ぶわけだが、日本においては、「あなたは美人です」の意のことばを本人に明言する男はきわめて少ない。
「口に出して相手を褒める男」、それも容姿を褒める男は、よくないor軽薄or非知的等々だと判定する文化が、日本においては長くあったのだ。
戦前は、いや国連加盟以前は、いや日中平和友好条約調印以前は、男の大半は、相手を美人だと思った(正確には、色気を感知した)としても、ことばにして相手を褒めず、いきなり黙る、いきなり立ち止まる、いきなり自分の手(相手の手ではなく)をぎゅっと握りこぶしにする等の行動をとっていた。
こうした行動について、「俺は不器用ですから」「心で語りたいので」等といった説明をした。
言わば自分が無傷でいられる卑怯な説明だが、戦前の、いや国連加盟以前の、いや日中平和友好条約調印以前には、こうした行動をする男を「かっこいい」と感じるセンスの男が一定数存在した。
「かっこいい」とまでは感じずとも、「落ち着いていていいのではないか」と感じるセンスの男なら、もっと存在した。
こうした日本の状況において、「美人だ」と人から言われるには?
門を開けておくとよい。常に全開にしておくとなおよい。せめて、閂がかかっていないことくらいは見えるようにするとよい。
自分を肯定できない人というのは、どんなにおしゃべりにふるまっていたとしても、どんなに挨拶をこまめにしていたとしても、門が閉まっているのである。
常に自分が恥ずかしいので、常に他者に気後れしている。
ストレートに気後れしているのなら、この人は気後れしていると、まだ他者にわかる(閂がかかっていないことが見える)が、おおかたの場合、「いけないわ、気後れしていると相手に気をつかわせてしまうわ」と先回りして(しなくてもよい先回り)、ペラペラペーラとおしゃべりし、ドーモ、ドモドモとこまめな挨拶をする。
しかし、これはすべて門越しにおしゃべりをし、門越しに挨拶をしているのである(※7)。
こうした空気は目には見えないが、カンカク的に相手に容易に伝わってしまう。
ただでさえ、先述のとおり、ルックスを褒める男は軽薄であるという日本文化であるのに、閉まった門の向こうにいる人に、「美人だねえ」と声に出して言えるだろうか。
門がすこし開いていれば、声はかけやすい。半分開いていれば、もっとかけやすい。全開なら、もっともっとかけやすい。
門を開けるとよいのだ。すなわち、自己を肯定するとよいのだ。そうするには?
すでに世間で、ことあるごとに助言されている。見わたしてみよ。
〈いつもポジティヴなあの人がすてき〉〈もっと前向きになろう〉〈あなたらしく生きて〉とかなんとか。
ポジティヴ・ファシズムなくらいポジティヴになれという助言が、自分に自信を持てという助言が、世の中には、なんといっぱい示されていることか。そばかすなんか気にするな、鼻ぺちゃだってだって気に入れ、かけっこ大好きってなもんだ。
これだ。これだよ。これですよ。このとおりですよ。わかりやした、親方、自分に自信を持つんですね。コツコツ、コツコツ(←努力する擬音)。
「できるかい、ってんだ!」
でしょ?
もっと自分に自信を持てって? そりゃ、旦那、日本生まれの日本育ちの人に、もっとフランス人(上海人、ベトナム人、バスク人)のような発音でフランス語(上海語、ベトナム語、バスク語)をしゃべりましょう、って教えてるのと同じですたい。
阿部定は、幼少期から、父母や、年の離れた兄姉から「おまえは器量よしだ」と、ルックスを、肯定に次ぐ肯定に次ぐ肯定をされて成長した。
そういう人が、フランス生まれのフランス育ちの人がフランス語を、上海生まれの上海育ちの人が上海語を、バスク生まれのバスク育ちの人がバスク語を、生粋にネイティヴに流暢にしゃべるように、自分のルックスを肯定できるのである。
というわけで、定は《「美人だねえ」と会った人から言われる女》であったので、どんな有名な女優が自分を演ったとしても、「演ってもらった」とはきっと思わなかっただろうと、私は思う。
◎
では、小林カウは?
戦後初めて死刑を執行された女性死刑囚であるこの人も、定と同じく、明治の終わりの生まれ。定より三歳年下だ。
定の生家は神田で畳屋を営む裕福な商家であったが、カウが生まれたのは埼玉県の玉井村(現熊谷市)の、子だくさんの貧しい農家であった。
現在とちがい、かつて「子供」は、子供という時期の特権を謳歌することはさしてなく、「家」の中の「(体格がまだ)小さい労働者」であった。家が貧しいほど、「労働者」としての役割は大きかった。
尋常小学校へ、幼い妹をおぶって通ったりしたカウのような「小さい労働者」は、そう珍しい存在ではなかったろう。
「おまえはむじっけえなあ(かわいいなあ)」(※8)
と、小さいころから、ルックスを肯定され続けてカウが育ったようには、あまり思われない。だが、否定もされなかったろう。たくましく生き抜かんとする根性も早いうちから身についたかもしれない。
夫の死後、単身玉井村を出て、漬物の行商をしながら各地を旅して(樽や重石は玉井村から持って出たとしても、具となる野菜や塩をどうやってゲットしていったのだろう?※9)いたのだから、他人に頼るメソメソした性格ではあるまい。じっさい、写真はたくましそうな風貌である。
カウの画像は、検索すればインターネットでもすぐ、いくつか見られる。検索キーワードは《「日本閣」殺人事件》。
カウの罪状もすぐに出てくるので、詳しく知りたい方は、画像検索のついでに、各自で調べていただくとして、今回は「演じてもらった」という心情に焦点を当てている。
小林カウをモデルにした映画も、あるのである。
監督は出目昌伸(※10)。生家は医院で、その医院の近くの家に、幼い一時期、私は預かってもらっていたことがあり、一度だけ監督のお父さんに診察してもらったことがある。おっとつまらぬ情報で煩くした、御免。
脚本は、ドラマ『七人の刑事』『三匹の侍』『泣いてたまるか』『天下堂々』『オリンポスの果実』、それに『夢千代日記』も手がけた早坂暁。
*早坂は名作ドラマを数多く手がけているので、とりあえず自分が熱心に見た作品を列記*
共演は、白石加代子、西田敏行、三浦友和、津川雅彦、中村嘉葎雄らの豪華陣。公開は1984年。カラー、133分。タイトルは『天国の駅』という。
もうこれでおわかりかと存ずる。主演は、吉永小百合様だ!
この随筆で初めて小林カウという人物を知った方、画像検索した方、また以前より彼女の犯罪ならびに写真を見ていた方、いま一度、カウのルックスを見つめてください。
この人を吉永小百合が演ったんである!
吉永小百合は、どの映画でもきれいだが、中でも『夢千代日記』と『天国の駅』は、彼女の美しさの特質を最大限に活かして見せた映画であった。それで小林カウを演ったのだ。
カウが、じっさいにどういう人間であったか、私が得ている文字情報では、知らないに等しいのであるが、いやもう、ここは全面的に個人感情で言い切る。
「あんた、よかったねえ。吉永小百合様に演ってもらえたんだよ」
と。死刑になっても本望ではないか?
※1
顔面相似──田村明義は、横山やすしには似ていない。写真を見て、彼がやすしに似ていると思う(思ってしまう)のは、
《ほとんどの人は、他人を見るとき、髪形と眼鏡しか見ていない》
という、かねてよりの諦念の例をまたしても増やすものである。やすしに似ているのは姫野カオルコのほうだ。
あるとき、産経新聞に、マイナーな作風であるのに、大きな写真が出て、「誰かに似ている? 誰かに? 誰だっけ……」と考え、「アッ、横山やすしだ」と気づいた。
やすし似の筆者の顔見では、田村明義が似ているのは、うじきつよし。
※2
『復讐するは我にあり』――1975年、第74回直木賞受賞。講談社文庫版と文春文庫版があるが、親本刊行後からずいぶんたって推敲したという文春文庫版のほうがおもしろい。著者が小説家としてのキャリアを重ねて、語彙の選択が手際よくなっているためだと僣越ながら想像するが、単純に自分が読んだ時の年の差かもしれない。
※3
日本アカデミー賞――「なぜこの映画での受賞? この人なら、あの映画では?」「なぜこの人がこれを受賞? この賞なら今年はあの人では?」という事態が頻繁にある。
※4
森本レオ――現在60歳以下の読者には、声や発声から、「やさしいおじさん」のイメージだけがあるかもしれないが、彼はもともと、酷薄でドライな現代青年役でピカッと光る俳優であった。
※5
おもしろみ――だから緒形拳は「大作の主役」を張れるわけだけどね……。小池朝雄、加藤嘉、戸浦六宏、浜村純(関西の司会者じゃないほう)では張れないからね……。
※6
顔についてあまり考えない――「彼女って、飾らなくて明るいよね」などと言われたりする。拙著『悪口と幸せ』の「モデル anti ミリセント・ロバーツ」の聖ちゃんはこの例。姫野本の中では珍しい、「始めから背負っていないキャラ」。
※7
コンパなどで無口な人というのは、自分に、基本的な自信がある人、ではないだろうか。
※8
むじっけえ――埼玉方言で、かわいい、の意と検索したら出ていたので……。
※9
小林カウの漬物材料入手手段――米、炭、牛乳、電気、野菜等はセックスで支払っていたと『実録戦後 女性犯罪史』(コアマガジン)にはある。
※10
出目昌伸監督――新撰組映画のベスト1は、出目監督の『沖田総司』。この映画の公開年以来、いまだに一人フェアでの順位は変わらない。
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連載【顔を見る】
毎月第4金曜日更新
姫野カオルコ(ひめの・かおるこ)
作家。姫野嘉兵衛の表記もあり(「嘉兵衛」の読みはカオルコ)。1958年滋賀県甲賀市生れ。『昭和の犬』で第150回直木賞を受賞。『彼女は頭が悪いから』で第32回柴田錬三郎賞を受賞。他の著書に『ツ、イ、ラ、ク』『結婚は人生の墓場か?』『リアル・シンデレラ』『謎の毒親』『青春とは、』『悪口と幸せ』『顔面放談』などがある。
公式サイトhttps://himenoshiki.com/index.html