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第9回 斎藤工、津川雅彦、山口百恵、らが競演。『春琴抄』ナンバーワン映画はこれ! 姫野カオルコ「顔を見る」

幼い頃から人の顔色を窺うと同時に、「顔」そのものをじーっと見続けてきた作家・姫野カオルコ。愛する昭和の映画を題材に、顔に関する恐るべき観察眼を発揮し、ユーモアあふれる独自理論を展開する。顔は世につれ、世は顔につれ……。『顔面放談』(集英社)につづく「顔×映画」エッセイを、マニアック&深掘り度を増して綴る!
[毎月第4金曜日更新 はじめから見る



 『春琴抄』を「偉いお坊さんのお説教」だと思っている人がいた。

 学校の教科書でチラッと字面を見かけたらしい『歎異抄』『十訓抄』あたりと混同したと思われる。

 とはいえ、まだマシな誤解である(後述の投稿に比べれば)。少なくとも『春琴抄』というタイトルを知っていてくださる。

 私などが「くださる」と感謝の念を抱くのはお門違いであろうが、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治に比して、谷崎潤一郎は、教科書会社から冷遇されているのを憤慨しているので、勝手に感謝するのである。

 TVに出る人、教科書に出てきた人が、〈「みんな」の知っている人〉なので、教科書に載らないといっても過言ではない谷崎潤一郎の『春琴抄』は、令和ともなるとタイトルすら見たことのない人もけっこういるのだ。

 『春琴抄』は、13歳の男子が初恋を貫き通す、いわばおとぎ話である。

 描かれるシーンは情念である。「虚実ぜ」をもじって情念と事実の綯い交ぜで物語られる。それが写実的な文体で描かれるという、凝ったフェアリーテールである。私見だが。

 主人公の名は佐助。滋賀県から大阪の薬種問屋にインターンシップに出てすぐ、雇用主の娘、琴に恋をし、当初の目的を放擲ほうてきして、一生を懸けて彼女に尽くす。

 佐助が親元を離れるのは、令和現在なら中学生になったばかりのころ。ちゆうぼうだ。滋賀の田舎から大阪の都会に出てきて、一人暮らし(住み込み)を始めた中坊が、近所でも評判の美少女を見たら? たちまち胸ドッキンになるのはしごく当然のなりゆき。

 美少女は中坊よりも4歳年下。「えー、小学生じゃん?」と思う人もいるかもしれないが、異性に対する胸のときめき、いや、このさい、おためごかし表現を剥いで、「色情エロスしよつかく」と言うが、これが動く対象は、15、20、30、40と、年齢を重ねていっても、原型のバリエーションにすぎない。

 色情の触覚は、ものごころつく6、7歳、遅くとも10歳あたりで発芽している感覚なのだから、佐助のドッキンもいたって道理に適っている。

 琴は盲目であったので、琴三絃の研鑚を積み、けんぎよう(盲人に与えられた最高の官名)となる。春琴というのは検校ネーム。

 かかる初恋一貫物語である『春琴抄』を、大谷崎が書いたのは、日中戦争の引き金となる蘆溝橋事件の4年前の、昭和8(1933)年だ。

 谷崎の小説が刊行されるやすぐに映画化され、その後もヴィジュアル化が、何度もなされてきた。

 劇場公開映画に6回、連続TVドラマにも3回、舞台にも幾度もされているし、アニメ化、漫画化もされている。

 というわけで、今回は、『春琴抄』フェアである。

 現時点では、過去の舞台や連続TVドラマなどは、見ることはできないので、審査員一人(筆者)が見た映画だけについて競うという、不公平でスケールの小さなフェアだ。

2008年・金田さとし・長澤奈央
1976年・西河克己・山口百恵
1972年・新藤兼人・渡辺督子(とく子)
1961年・衣笠貞之助・山本富士子
1954年・伊藤大輔・京マチ子
1935年・島津保次郎・田中絹代

 審査員が見たのは、この6作(公開年・監督名・春琴役女優名)である。

 最新2008年・金田敬監督版の『春琴抄』について、映画関連の大手ウェブサイトに、一般レビューが投稿されていた。

 《この映画が、谷崎潤一郎原作で、この人が耽美を得意とする小説家で、『春琴抄』はSMを映像化した作品だと知ってビックリ‼》

 この投稿者のほうにビックリするが、ビックリしない人のほうが、冒頭のとおり令和現在、多いのであろう。

 昭和の文化を背負う老年の私としては、『春琴抄』という物語のアクティヴさのほうにビックリしてほしいものだ。

 前回の一人フェアは『伊豆の踊子』であった。あちらは「叙情」のみで成立した、つまり主人公の学生の内省だけで成立した、非アクティヴな物語である。

 いっぽう、こちら『春琴抄』は、佐助と春琴のみならず、二人の周辺にいる人物たち(薬種問屋の主人夫婦・長女・使用人、雑穀商の道楽息子・利太郎、稽古通いの娘・その父親、等々)のそれぞれのキャラにメリハリがあり、アクティヴに動き、しゃべる。

 とくに利太郎はキーパーソンで、このチャラ男こそが、『春琴抄』のすじを展開していくといってもいいくらいなので、この役をだれがっているかも、『春琴抄』フェアでは見どころである。

 よって、歴代の映画化において、
《利太郎役で観る『春琴抄』》*
 をおこなったなら、すぐに(山口)百恵ちゃん版が上位に挙がる。
 *《万葉集でめぐる北九州の旅》とか《エリザベートでめぐるドイツの旅》とか、旅行社のプランによくあるじゃないですか*

 『伊豆の踊子』で踊り子を演った百恵ちゃんは、春琴も演っている。1976年・西河克己監督。佐助役はもちろん三浦友和。

 百恵版『春琴抄』の魅力は、画面の明るさだ。'70年代も半ばを過ぎての製作だから、フィルムやカメラやライトの性能もアップしたのか、萩原憲治の撮影がうまいのか、画面がすっきりとして見やすい。

 絶景ロケだとか、れんいっぱいの特撮だとか、凝ったアングルの撮影だとかはない。そこがよい。

 ホリプロの(当時の)「うちとこのイチオシが主演してまっせ」的な明朗な画面は、『陰翳礼讃』(谷崎著)には反しているかもしれないが、潤一郎先生のほとばしりすぎる女性への情熱を、文芸評論家ではなく、大阪市観光課職員さんに案内してもらうような、安心感のある撮影になっていて、清潔感がある。

百恵版『春琴抄』の山口百恵&三浦友和(Filmarksより)

 これで利太郎役が、野村正育まさいくNHKアナウンサー(まじめで清潔の権化のような)みたいな雰囲気の俳優だったら、清潔感がトゥマッチだったかもしれないが、チッチッチッ(ひとさし指を立てて横にふるアクション)、百恵版の利太郎は、津川雅彦だ。

NHKの野村正育アナウンサー(NHK公式HPより)

  この人が利太郎を演ってくれているので、百恵版は、清潔感トゥマッチになるのを補ってあまりある画面になっている。

 まったくもう津川雅彦という人は……と語りはじめると、自分(=審査員)の幼年期からのいんな性の嗜好の告白やら、それと同時なる正義と公正を求める廉潔主義の告白やら、母校の図書館司書に大津で2800円貸していまだ返してもらっていないことへの愚痴やら、小学校からの帰り道、故郷の田んぼを照らす秋の陽光のゆかしさやら、さまざまな感情感触を、宇野浩二ばりにあっちこっちに脱線しながら、たらたらだらだら語ってしまいそうになるのでやめて、ここでは「まったくもうエロ悪を演らせると天下一品」と、ひとことにとどめておこう。

 ただ、きわめて残念なことに、百恵版は、利太郎時の津川雅彦の年齢と春琴時の百恵ちゃんの年齢が開きすぎている。津川はぼんち●●●ではなく、すでに先代から雑穀商をいでいる主人に見える。

 なにより百恵版は、佐助がまったくフィットしていない。

 百恵・友和はゴールデンコンビと言われたが、このコンビは、『伊豆の踊子』『絶唱』のように、高等学校に通えるような学生、旧家のお坊っちゃまという陽(プラス)に友和、かわいそうな境遇という陰(マイナス)に百恵を配置してこそ、+-=金(ゴールデン)になるのではないか。

 百恵が女王様気質の金持ち娘(+)で、友和が丁稚(-)なのは、映画公開当時、このゴールデンコンビのファンの友人たちのあいだでも違和感が訴えられていた。

 ホリプロとしては、なんとしてでもゴールデンコンビで主演させたかったのだろうが、1976年公開なら、佐助役を同じホリプロの船越英一郎などがしていれば、マチ子版での利太郎(英一郎のお父さん、船越英二が演っている)との比較妙味で、もっと得点できたのに、惜しい。それに公開当時、船越ジュニアはデビュー前だ。

 同世代で公開当時にデビューしていた芸能人で、だれかいないかと検索したら、佐野史郎がいた。

 うん、21歳時の佐野史郎に、潤一郎先生描く情念の佐助を演ってもらったら、百恵版は、後述する第一位と競る『春琴抄』になったかもしれない。惜しい。

 富士子版は、1961年・大映。映画タイトルは『お琴と佐助』。

 《利太郎役で観る『春琴抄』》
 なら、富士子版の利太郎が第一位だ。
 川崎敬三が演っている。

 川崎敬三は、津川雅彦ほどの、エロびかりはないが、春琴の山本と年齢が開きすぎていないし、原作で描かれる利太郎の、好き者で半可通のぼんちぶりは、6作中、川崎がもっともフィットしている。

 じっさいには川崎市出身ながら大阪船場のぼんちが似合ったのは、色白でわいしゃべり方のせいか。

 このしゃべり方が、昭和の昼下がりに在宅環境にある女性層のTV前でのくつろぎタイムに向いたのか、長く『アフタヌーンショー』の司会を務めた。出演映画の記憶がなくても、現場リポーターに「そ~なんですよ、川崎さん」と応えられていたのをおぼえている人は、そこそこ多いのではないか。

川崎敬三(NHKアーカイブスより)

 川崎のふよふよしたしゃべり方は、滑舌のよい津川より「ぼんち」っぽいし、それに津川が利太郎だったりすると、女王様気質の春琴が、「あらま、この男、エッチでいいじゃないの。ちょっとヤりまひょ。佐助、あんた、そこでうちらのヤるのを見てなはれ」といったようなプレイを思いついて、ストーリーが変わってしまいかねない。

 富士子版での佐助は、本郷功次郎が演っている。これもよい。本郷の一本気な雰囲気は、佐助にフィットする。

 佐助役では6作中、第3位だが、富士子版は脇役の中村伸郎が何点か稼いだ。

 『秋刀魚の味』はじめ小津安二郎映画では、〈主要キャラの友人〉といった役どころが多い中村は、口の端にいつもつばがたまっているような発声をする。この発声が、狭量で意地悪な男を演ると、実に憎たらしく見えたり、また反対に、高潔で謹厳にも見えたりする。

 富士子版『春琴抄』では後者だ。厳しい春琴の師匠(しゅんしょう検校)役は、そう目立たないものの、映画全体になにげに引き締まりを与えている。

 ただ肝心の春琴役、山本富士子が、この映画では、得点を稼がない。
 山本の明朗に豪華●●●●●な顔と雰囲気は、陰翳美人(『陰翳礼讃』からの造語)の春琴にフィットしていない。これは京マチ子版も同じ。

 富士子版もマチ子版も、得点を稼いだのは二女優ではなく、二女優の着た衣裳●●●●(着物・帯・草履等々)である。それと美術(ガラス障子・ランプ・畳・引き戸・路地等々)。

 富士子版は、春琴の衣裳・小物はじめ、しようまちの大店の室内の調度品が、『春琴抄』映画初のカラーで披露された●●●●●。マチ子版はモノクロだが、両作ともに、「画面を眺めているのがたのしい」映画に仕上がっている。

富士子版『お琴と佐助』のカラー写真(allcinemaより)

 このたのしさは、高度経済成長期における、能・歌舞伎には行かない*が、安定した生活を送っている既婚女性層の、罪のない明朗なたのしさ、である。
 *鑑賞代金、時間的調整、内容への関心度、等々の理由による*

 当時流行った間取りの集合住宅で、あるいはローンで建てた一戸建で、子供が学校から帰ってきたら、パステルカラーの玉のれんをカチャリと分けて、「おかえり」と出迎え、ハウスのプリンミクスで手作りしたプリンを出してあげるようなママが、近所のママ友と、あるいは学校時代の仲よしの同級生と、「たまには銀座(的な街)で映画を見てお茶飲みましょうよ」と、ふだんよりはおしゃれしておでかけする……のと同質のたのしさである。

 富士子版・マチ子版のたのしみ方の例はこうだ。
「山本富士子はやっぱり美人ねえ。ほら、てんちやの梅見の場面の着物の柄、あれ、きれいだったわねえ」
「春琴さんのお家の、火鉢とか襖とか、レトロできれいだったわあ」
「ほんとー、細かい模様のついたガラス障子なんか、すごくきれいだったー」

 こんな会話をして、奥様たちはパーラーでお茶を飲まれたのであろう。富士子マチ子版の公開当時には。

 このようなたのしみ方もまた、映画のたのしみであるのだが、それはそれとして、富士子マチ子の大映2作は、「文豪・谷崎潤一郎の『春琴抄』」からは、ほど遠いハナシにしあがっている。

 とくに京マチ子版がよくない。
 6作中、審査員全員一致(一人だけど)でワースト1だ。

 京さんは『痴人の愛』の主演(ナオミ)もしているが、これときたら『春琴抄』よりひどい。歴代の『痴人の愛』のうち、ワースト1なことに、鐘が鳴って薬玉が割れる。

 いつも言うが、また言う。私は京マチ子が大好きだ。好きで好きで大好きだ。

 韓国映画『お嬢さん』で、主人公がお屋敷のお嬢さんをお風呂で洗っているうち、「本当になんてお可愛らしい」と感極まるシーンがあるのだが、あのシーンとこのセリフが、そのまま私の京さんに対する愛である。

 本当に本当になんてお可愛らしい!! だれにも渡したくない、いっしょの布団でいっしょに寝て、ずっとふたりきりで暮らしましょう、と夢みるように好きだ。

 春琴もナオミもコケットリーな魅力に満ちたキャラクターである。

 今さら私が言うまでもないが、谷崎潤一郎の、大谷崎と呼ぶのが慣例となるほどの、その筆力により、怠惰なくせにきようまんなだけの女性が、あれほどまでに魅力あふれるキャラクターに仕上がっているのである。

 しかし、その魅力的なキャラクターを演ずるにあたり、どれだけの演技力をもってしても、
「根本的に雰囲気が合わない」
 ということが、映画化では生じることがある。

 たとえば───。
 岸田今日子も市原悦子も、どちらも達者な女優だ。

 けれども、この二人が共演して、ヒッチコックの『レベッカ』の日本版に出たら?
◇レベッカ(今は亡きお屋敷の夫人)=岸田
◇ダンヴァース(お屋敷の家政婦長)=市原
 と、キャスティングされないと、観客は違和感でストレスになるはず。

 この二人が共演して『メリー・ポピンズ』の日本版に出たら? 
◇メリー(バンクス家のナニー子供世話係に応募してくる女性)=市原
◇ウィニフレッド(バンクス家夫人)=岸田
 であって、逆(世話係が岸田、夫人が市原)だとストレスになるはず。

 演技力を超えた「根本的な雰囲気」というものが、実写にはある。

 すなおでやさしくおおらかな京マチ子は「根本的な雰囲気」が、春琴やナオミとは、ミスマッチなのだ。

 潤一郎先生は京さんに、「理想のスタイルの持ち主です」「ぼくの小説を体現化したような外見です」みたいなことをおっしゃったらしいが、だってそれはさー、川端康成先生が『伊豆の踊子』の撮影現場で、原作の踊り子の境遇からかもしだされる雰囲気とはまるでミスマッチな吉永小百合に、「なつかしい親しみを感じた」なんて抽象的なことをおっしゃったのと同じで、そりゃさー、当代一の主役クラス女優男優とじかに会ったら、職業年齢性別問わず、ほぼ全員、うれしいし(その俳優のファンならもちろん、ファンでなくても、「非日常」という新鮮さがうれしいし)、なにかの理由あって、そんなにはうれしくなくとも、マスコミ取材時には褒めるのが社会人マナーというものでしょうが。

 マスコミの取材に「あの女優(男優)は、私の書いた主人公の雰囲気には合ってませんね、がっかりしました」なんて、紳士淑女だったら答えませんよ。自著原作の映画公開に際しての宣伝も兼ねた取材時に。

 であるから、潤一郎先生の、京さん主演へのコメントは既読スルーしてよい。

 『春琴抄』には、春琴の外見について、
《身の丈が五尺に充たず》
《(顔や手足の)道具が非常に小作りで》
《一つ一つ可愛い指で摘まみ上げたような小柄な今にも消えてなくなりそうな柔かな目鼻がついている》
《(足のサイズは佐助の)ちょうど此の手の上へ載る程であった》
 と書かれている。

 つまり原作『春琴抄』の春琴は、身長146㎝くらいで、手が小さくて、足も小さくて(靴サイズも21㎝くらい)、粘土で顔のベースをこねて、そこに、幼稚園くらいの子が弱い力でちょこんちょこんとつまみあげたような鼻や口や瞼がついているような、言うなれば地味な顔なのである。

 「背が高くて、脚が長くて、ボンキュッボンの体つきで、赤い口紅が映える目鼻だちの京マチ子とは、正反対といってよいヴィジュアルじゃん」と、原作を読んだ人は、だれしも急に横浜っ子口調になるだろう。

マチ子版、春琴の全身写真(映画ナタリーより)

 それになんといっても、京マチ子版の『春琴抄』(映画タイトルは『春琴物語』)は、『痴人の愛』と並んで、歴代の谷崎原作映画の中、もっとも「原作ねじまげ度」が高い。

 どんなふうに「ねじまげ」てあるか詳しく述べるのは、ネタバレになるので、
「ありゃまあ、これではまるで人情ドラマだのう」
 という一人審査員の感想だけにとどめておく。

 閑話休題。《利太郎で観る『春琴抄』》にもどる。

 マチ子版では、利太郎を演っているのは船越英二である。
 '50年代大映の主役組の代表だから妥当な(しかたのない?)キャスティングであるが、当フェア審査員からは、これくらいしかコメントすることがない。

 佐助ははなやぎよしあき。新派俳優である。マチ子版が公開される三か月前には、溝口健二監督の『山椒大夫』(森鴎外原作)で厨子王を演っている。

 溝口の『山椒大夫』は第15回ベネチア国際映画祭で銀獅子賞を獲ったので、ここをアピールしたい永田雅一まさいち(大映社長)としては、セールス・ポイントのキャスティングだったのであろうが、これまた、これくらいしかコメントすることがない。

 金田敬監督の『春琴抄』は6作中最新だ。

 春琴を長澤奈央が演じたのだから、他の5作にそろえて、奈央版『春琴抄』と称するべきなのだが、長澤の女優としての活躍は目立たず、佐助役の斎藤工の知名度のほうが圧倒的に高いので、斎藤版『春琴抄』とする。

 公開は2008年なのに、これをもって最新版なのが、谷崎潤一郎の読者にはさびしいかぎりである。

 斎藤版『春琴抄』は、新藤兼人監督の督子版『春琴抄』と並んで低予算での製作であったと思われる。それは見ていてわかる。

 低予算なのはわかってしまうが、それでも、その限られた予算内でがんばって撮影しているところがとてもよかった。

 脚本も、予算を念頭においたのか、しよるところは思い切って端折っており、端折り方も上手だった。

 文豪谷崎潤一郎だとか、日本文学史に残る作品だとか、さらにマゾヒズムの情念だとかは、思い切って後方にまわし、

 「ハーイ、女子たち。斎藤工主演だよ。そこいらの若手俳優とはひとあじ違ったセクシーさを発揮してくれるよ。どうだい、こんなふうに斎藤工から愛し抜かれたら幸せだと思わないかい」
 と、宣伝マンが呼び込みしたような仕上がりになっている。

 予算問題を工夫して乗り越えた、なかなかgoodな映画なのだが、決定的に惜しいのが、佐助のナイトぶり。

 斎藤ファンの女性観客にアピールするよう、「ステキなナイト」に造形されているのである。

斎藤版『春琴抄』のDVD。これが『春琴抄』映画の最新版でもある。

 しかし、こここそが、当フェア審査員の厳しい減点対象に。
 佐助はナイトに非ず。
 佐助は泣き虫でなければならない。

 子供のころに、ちょっとしたことですぐ泣く男の子というのがいなかったか?

 学齢(6、7歳)に達しているというのに、ちょっとお母さんに叱られるとすぐ泣く男の子。同級の大柄の女の子にきつい口調で何か言われるとすぐ泣く男の子。

 いじめられっこというのではなく、勉強はよくできたりするし、爪もきれいに切って、洗濯のいきとどいた身ぎれいなかっこうをしているし、それに泣くといっても、cryではなくweepというか、妙にウェットな泣き方をする男の子。

 そういう子には、そういう子なりの、ある種の法悦があるのだと、私は想うのである。

 次の譬えで、どれだけの人数の読者に共感を得られるか自信がないが──、健やかな両親のもと、健やかに育った女の子が、やがて年ごろになり、彼女の意中の男性と相思相愛になり、その男性から、キャミソールの肩紐をはらりと滑り落とされるだとか、スカートの裾をさっとまくられるだとかの、その瞬間の法悦──、このような、とは言わないが、これに似たような法悦が、泣き虫の男の子にはあるのではなかろうか。

 涙が目からあふれるときというのは、下瞼の肉がキュウンと収縮し、収縮し続けられなくなり、緩み、緩むやツッと体液(涙)が出る。縮んで、次に緩めた、その瞬間のツッと出る法悦を、泣き虫の男の子というのは、得ているのではないか。

 そんな泣き虫の男の子が、やがて中坊になって、生家から薬種問屋にインターンシップに行った、それが佐助なのであるから、この男は、決してナイトではないんだよ。

 斎藤版『春琴抄』には、斎藤工演ずる佐助が、春琴の手を引いて歩き、歩く先に水たまりあらば、そこに自分の白いハンカチを被せるシーンがあったりする。

 だめだよ、こういうナイトなことをしては。

 水たまりがあろうとも、春琴が行きたいほうに、我が身はただ杖となって歩かせ、それで春琴の足が濡れたなら(無意識に、濡れることになるヘマをわざとしてでも)、春琴に叱られ、「いそいそときつきゆうじよとして」というアンビバレンツな挙措で、《「済まんことでござりました」と》《声をふるわせながら》泣き、泣くときの法悦に、またうちふるえる、それが佐助なのである。
 *《 》部、『春琴抄』(新潮文庫)より*

 斎藤版『春琴抄』は、斎藤のナイトぶりがファンにはすてきかもしれないが、ナイトになってしまってるがゆえに、大量減点。

 そこで高田浩吉の佐助だ。
 実に泣き虫だ。いい。

 《佐助で観る『春琴抄』》であれば、高田浩吉の佐助が6作中もっとも「原作から抜け出てきたよう」である。ばっちりフィットしている。

 島津保次郎監督『春琴抄』(映画タイトルは『春琴抄・お琴と佐助』)は、1935年公開だから、谷崎の原作の発表('33)後すぐ映画化作業に入ったと思われる。

 春琴役は田中絹代。これまた、原作の描写に6作中もっともフィットしている。春琴を演るにはちょっと年をとりすぎていた難はあるが、これは百恵版以外はすべてそうだし、「日本を代表する美人女優の地位を確立していた存在」としての威厳と、春琴の女王様気質の威厳とがフィットしている。

 現役時代の(生存中の)田中絹代が、女優として演技をしている映像作品を、リアルタイムで見た人は、今の日本には、還暦超えでないと、もういないかもしれない。

 そのリアルタイムで見た人でさえ、『前略おふくろ様』だとか『楢山節考』だとか、歯を抜いた、お婆さんのようになってからの彼女であろう。

 いっぽうで、動画配信が定着した令和以降に、古典ムービー(戦前)の中の、「美人女優」時代の絹代を見た若い人も増えている。

 が、そうなると今度は、現代(令和)の審美眼で、絹代を眺めることになり、「フーン、この人がそんなに美人だったの?」みたいな感想を抱く人も少なくないのではないか。

 〈お婆さんの顔をした田中絹代のリアルタイムしか知らない還暦超えの人〉も〈昔の映画を動画配信で見て、今の審美眼で若いころの田中絹代の顔を見た人〉も、いましばらく、時代による審美の差を想像してほしい。

 久月や吉德大光の雛人形のような外見が美しいと、人の目に映った時代もあったのである。

 久月や吉德大光の「雛人形」が美しいと映った時代ではない。久月や吉德大光の雛人形「のような外見●●●●●」が美しいと映った時代である。

 久月や吉德大光の人形そのものは、現在でもちゃんと美しく映る。なまみの女ではなく、オブジェとして美しく映る(大人なら。子供だとまだアニメふうの人形に惹かれる)。

 人形ではなく、なまみの女のルックスとして、久月や吉德大光の人形の「ような」、ちんまりとした目や鼻や唇を、顔面に配置した、背の低い、骨組みの脆そうな、婦人が「美女の典型」だと、多くの人が感じた時代もあった*のだ。
 *いちおう過去形にしておくが、このセンスは、令和現在にあっても、日本人の中に充分残っている*

 この見地からすると、田中絹代はじつに美女である。整人でもある。それが証拠に、似顔絵が描けない。

 このように、絹代版『春琴抄』は、春琴も佐助も、主人公二人がそろって、谷崎の原作から抜け出てきたようにキマっているのである。

整人・田中絹代の春琴の顔(Filmarksより)

 ところが、
《利太郎で観る『春琴抄』》
 となると、絹代版は大幅減点される。

 利太郎を、あの斎藤達雄が演っているのだ!

 古典ムービー+オールドムービー(戦後から'80年代前半まで)にノータッチの方には、なぜ「あの」と「!」が付くのか、さっぱりわからないだろうが、'80年代後半から新作(ここ10年以内の作品)、ぜんぶ合わせても、スマートという点で、斎藤達雄に勝つ俳優はいない。

 このページで初めて名前を御覧になった方におかれては、この機会にスマホにメモしておいて、ぜったい損はない。

 The smartest actor of Japanese film.
 それが斎藤達雄。

 ただしスマホで画像検索しても、スマートさはわからない。市川の名前を初めて聞く人が、画像検索してもファッショナブルさがわからないのと同じ。

 市川実日子は、顔が整っている、美人、巨乳、ナイスバディ、名演技、等々で説明できる芸能人ではない。

 モデル体型、といってしまえばそれまでだが、そんな芸能人ならほかに大勢いる。

 たんにモデル体型というのを超えている。「あの人、きれいね」と中高時代から言われてきたような人が、大金はたいて学習塾に通って高偏差値大学に入って、美容整形して、高価な服靴鞄アクセサリーを身につけて、TVに毎日出るような仕事に就いても、彼女と比較されると足元にも及ばずではないが、足首くらいで、「神様は不公平です……」とくずおれるしかないのが、市川実日子である。

 そして、ここまで人間が絶讃しても、AIだと「すみません、なぜですか?」とフリーズしてしまうのが、市川実日子である。

 古い映画を見たことのない方のために、ここでは、てっとり早く、斎藤達雄というのは、「男の市川実日子」「しかも、戦前なのに市川実日子」だと説明しておく。

 で、この斎藤達雄に利太郎を演らしたのが、絹代版『春琴抄』の減点ポイントなのである。

 斎藤達雄の最大の魅力は、飄々ひょうひょうとしているところである(ファッショナブルさはこの次)。

 すると、斎藤扮する利太郎は、春琴が美女だと近所で評判になっていたところで、
「機会あったら見てみまひょ」
 でオワリ。

 見たら見たで、
「評判どおりのべっぴんでしたわ」
 でオワリ。
 執着しないかんじがする。

 絹代版は戦前の映画なので、カツラの技術が現代とは比較にならない。現代人が見ると、小学校の学芸会のカツラのようなカツラをかぶった斎藤の利太郎は、脚長く、すらりとした長身で、カツラをかぶってふざけて軽やかに動いているようなので、春琴にばちでぶたれたところで、「おぼえてけつかれ」といったような恨みを抱く迫力がない。

 今回のフェアでは、絹代版と督子版が、第一位の座をめぐって接戦だったのだが、
《利太郎で観る『春琴抄』》
 の点では、絹代版は、督子版にリードされた。

 督子版は、1972年公開、新藤兼人監督。映画タイトルとしては『讃歌』。
 利太郎は、原田大二郎が演っている。

 津川雅彦のエロアピールの粘度・あぶら度がトリモチ鳥黐レベルだとすると、原田のそれはずいぶん低くなるが、ゼロなわけでなく、与えられた役によっては、なかなかソフィスティケイテッドされた粘度をスクリーン上に出せる俳優だった(過去形・若いころは)。

 ただ、風味が雪印北海道バターなので、このポピュラーな口あたりにより、若いころは、青春スターとして売り出されたのであろう。

 そんな原田大二郎だから、利太郎にフィットしてるかと言えば、さしてしていない。

 だけれども、前述のとおり、「与えられた役によっては粘度を出せる」ので、「一見、健康的なのに、(ファムファタル的な女の影響を受けて)一歩間違うと、変態性欲プレイも(懇願されれば)応じるような、性的精力の強さ(ありていに言えば、一晩に複数回射精可能なような)」を感じさせる雰囲気があるので、「ぼんち」たる利太郎を演ずるとしたら、斎藤達雄よりはフィットしている。
 *なにも利太郎が、一晩4回射精しそうなキャラ、だと言っているわけではない*

 さて、督子版『春琴抄』は、実質は、信子版『春琴抄』である。
 監督の新藤兼人の妻である乙羽信子が、薬種問屋のもずに長く使える女中役で出演し、春琴と佐助についてを語る構成になっている。

 乙羽扮する女中は、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』におけるネリーである。ネリーが、キャシーとヒースクリフについて長々と語るように、信子の女中も、春琴と佐助についてを語る。重要な役だ。

 乙羽の語りが、そのまま新藤兼人が解釈した『春琴抄』なわけで、この解釈に同意するか否かはともかく、また、映画として好きか嫌いかもともかく、一見の価値は大いにある。

 谷崎の原作では、鳥道楽なのは春琴なのであるが、督子版『春琴抄』では、鵙屋の先々代がそうであったことにしてある。
 ここがポイントだ。

 原作で描かれる時代には、水洗トイレは日本に普及していない。人家から出る糞尿は便槽に溜められていた。

 先々代の鵙屋主人は、大工に「臭くないかわやを作れ」と命じて、桂離宮を真似たという噂のある特別なトイレを作らせた。

 便槽の代わりにうやうやしい箱を置き、そこに飼い鳥から抜けるおびただしい羽根を詰めておく。

 トイレを使うごとに下働きの者が、羽根の中に落ちるために処理しやすい汚物を、箱とともに取り出し、ぱさりと土中に埋める。

 「せやから、厠はちっとも臭いことなんかおへん」
 との旨、信子ネリーが言うのである。
 こう語らせたのは(私には)圧巻だった。

 原作には、トイレについての細かい描写はない。春琴のしもの世話も、奉公に上がったころから佐助は黙々とこなしてきたていどに書かれて終わっている。

 なのに、映画での、この、ディテール描写! ここに、私は新藤に対し、どこか自分に似た神経質さを嗅ぎつけ、感心した。

 督子版(=信子版)『春琴抄』での佐助は、河原崎次郎である。

 岩下志麻のいとこである河原崎三兄弟。その二番目。三兄弟は、長男・次男・三男ともに、「与えられた役をちゃんとこなす」俳優であるが、当作でも、次男(次郎)は、佐助役を、ヒロインを喰うことなく、スクリーン画面から突出することなく、佐助を演じている。いつも突出することだけに欲を出す柄本明とは大違いだ。見習ってほしい。

 そして春琴役の渡辺督子が、これがまたいいのである。
 ちんまりした目鼻だちではないし、極端な小柄でもないが、全編において、目を閉じた顔のかたちが美しい。

 現代とちがい、シリコンバッグを入れる豊胸整形が普及していない時代の乳房は、ナチュラルで、乳頭の色素が薄く、白桃のようである(白桃のような乳房、は柴田錬三郎が用いた形容であるが)。どこかに硬さの残る後ろ姿の裸身も少女っぽさに通じて、たいへんよい。

渡辺督子の春琴(Filmarksより)

 第一位にしてもいいくらい、督子の春琴には惹かれたが、僅差で、第一位は、やはり絹代版に決まった。

 なぜ?
 6作中、絹代版だけが、
「なんとか江戸時代に見える」
 からである。
 ここが大量得点だった。

 えーとですね、わりと多くの人が、『春琴抄』という物語の時代背景を、大正のハイカラ時代だとイメージされてません? 大和和紀先生の『はいからさんが通る』くらいの時代に。

 そのイメージはまちがいなんですよ。

 たしかに谷崎が、この小説を発表したのは昭和8年で、まだ大正ロマンの香り漂うころであるが、作品自体が背景としているのは、幕末の気配が色濃く残る明治初期なのである。

 春琴は1829年生まれである。
 この前年にあった現実のできごとといえばシーボルト事件。

 佐助は1825年生まれである。
 この年にあった現実のできごとといえば異国船打ち払い令。

 すなわち、江戸幕府が政権をとっていた日本に暮らしていた二人なのである。

 春琴が丁稚の佐助に手を引かせて、春松検校のお家にお稽古に通っていたころは、水野忠邦が天保の改革をおこなって、国定忠治が赤城の山でブイブイいわせてたのである。二人は坂本龍馬より十歳以上、年上、なのである。

 6作中、画面がなんとか江戸時代に見えるのは、絹代版だけなのだ。

 この点で、大量点を獲得し、絹代版『春琴抄』が、今回のフェアでグランプリに輝いたのであった。めでたしめでたし。

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毎月第4金曜日更新

姫野カオルコ(ひめの・かおるこ)
作家。姫野嘉兵衛の表記もあり(「嘉兵衛」の読みはカオルコ)。1958年滋賀県甲賀市生れ。『昭和の犬』で第150回直木賞を受賞。『彼女は頭が悪いから』で第32回柴田錬三郎賞を受賞。他の著書に『ツ、イ、ラ、ク』『結婚は人生の墓場か?』『リアル・シンデレラ』『謎の毒親』『青春とは、』『悪口と幸せ』『顔面放談』などがある。
公式サイトhttps://himenoshiki.com/index.html

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