第10回 アトム、ハレンチ、ゴルゴ、ワル……男性キャラの「眉」の変遷と、献血ポスター炎上について 姫野カオルコ「顔を見る」
幼い頃から人の顔色を窺うと同時に、「顔」そのものをじーっと見続けてきた作家・姫野カオルコ。愛する昭和の映画を題材に、顔に関する恐るべき観察眼を発揮し、ユーモアあふれる独自理論を展開する。顔は世につれ、世は顔につれ……。『顔面放談』(集英社)につづく「顔×映画」エッセイを、マニアック&深掘り度を増して綴る!
[毎月第4金曜日更新 はじめから見る]
令和の『鬼滅の刃』は、とくに目立たない。
平成の『新世紀エヴァンゲリオン』も、とくに目立たない。
何が?
メイン男性キャラの眉が。
大正~東京オリンピックが終ったころ*までの古い名作ならどうだろう。
*開催年ではなく、開催後数年の意*
『正チャンの冒険』『フクちゃん』『鉄腕アトム』を見てみる。
「おや、細い」
こんなに細かったのか。
戦後に手塚治虫が登場して、漫画は日本文化の王者となるのであるが、手塚登場までの間に、紙芝居からの流れをくむ絵物語人気の期間がある。『黄金バット』『少年王者』の主要男性キャラの眉は、どうだろう。見てみる。
「これも、細かったのか」
正、フク、アトムほどのツルッと描いただけの線ではないものの、平成~現代と同じく、とくに目立たない眉だ。
今回、男性キャラの眉を気にしだしたのは、地下鉄車内で隣席になった人が電子コミックで『ドーベルマン刑事』を読んでいたからである。
横目で隣の人の手にある画面をチラ見して、唸ったのだ。
「ううむ、太い……」
主人公の眉が太い。原画制作時にはアシスタントがさぞやべったりと墨を塗ったことだろう。
帰宅後、さらに眉が気になり、『巨人の星』を点検した。
「みんなが太い」
野球をするメイン男キャラのみならず、その父たちも、知り合いも、一回かぎりしか出ないような新聞記者、ラーメン屋店主まで太い。
ただし、『ドーベルマン刑事』とちがい、眉だけでなく目も大きい。とくに主要キャラの目は、大きくして中に炎が描けるスペースをとってある。
『巨人の星』の連載スタートは1966年(昭和41年)だから、『鉄腕アトム』のTVアニメ放映が終ったころにスタートし、細い眉のアトムに代わって「人気ナンバーワン」の座におさまった太い眉だったのである。
「この漫画のどこがおもしろいのか、ぼくに説明して!」と漫画の神様は、たいへんな剣幕でアシスタントに叫んだそうだが(伝説)、戦後から復興をとげ、東京オリンピックも終っていて、次なる目標に進まんとする日本の子供若者人に、スポ根漫画は嵌まったのだろう。
スポーツが嵌まったというより、「根性」「がむしゃら」「一直線」の作風が嵌まったというか。
大阪万博という次の目標がはっきり決まった3年後に連載が始まる『男一匹ガキ大将』のアニメ化時の主題歌歌詞にも、「見せてやれ、ど根性」というフレーズがある。日本人が西欧からエコノミックアニマルと呼ばれた時期でもあった。
眉が太い男キャラが活躍する前に人気だった、眉の細い『正チャンの冒険』『フクちゃん』『鉄腕アトム』などには、絵柄だけでも*、「健全なご家庭の坊や」感が漂ってくる。
*作品を読んだことのない人が画像検索で表紙を見ただけで、の意*
正チャンもアトムも、だれかに対して〈きみ〉〈きみたち〉と呼びかけ、〈~したまえ〉〈~なのかね〉〈~かしら〉などという言葉づかいをする。フクちゃんは〈お待ちよ〉などと相手から言われたりする。
明治に出た、時事風刺を主とするポンチ絵とは別に、ストーリーをともなった漫画が大正のころに生まれて発展していくのであるが、東京オリンピックのころまでは、漫画は、児童向け絵本の一種であったのであろう。
だから、メインの男キャラの眉は細かった。あの眉の細さは、まだ声変わりする前の少年のイメージである。描き手が意識していたか無意識かはともかく、ウィーン少年合唱団に入れる年齢のイメージ。
それにしては、その眉の細い少年たちが、〈きみ~したまえ〉〈~かしら〉などという大人びた言葉づかいなのは、いいとこのお坊ちゃんのセンス。戦後発表の、未来社会が舞台のアトムだって、そのセンスはまだ尋常小学校生が手本にせよと教えられた少年の、戦前の良俗を引き摺るそれではあった。
だが、敗戦からがんばって東京オリンピックを目指し、ぶじ閉幕させたあと、大阪万博に向けて少年たちは声変わりするのである。眉がいきなり太くなるのである。第二次性徴だ。
男キャラの眉が太くなると、別の場所にも変化がおきる。女キャラのおっぱいとお尻がふくらむ。
東京オリンピックが終ったころまでの、眉の細い男の漫画に出てくる女キャラは、例外はあるとしてもだいたいが、お母さん、姉妹、ねえや、ばあや、学校の先生等々、細眉男とは性が介在しない人物。
介在する女キャラが出てきたとしても、介在の度合いは、せいぜい、いっしょに下校するとか、動物を助けるとか、悪者と戦う・悪者から逃げるといったていどの、隣家の少女や同じクラスの同級生である。
*悪者と戦ったり逃げたりするのは、行動としては「せいぜい」ではないが、ともに危険に対処するのが主なので、性の介在度は低い*
それが、男の眉が太くなると、女キャラはメイン男キャラと、男女交際しはじめる。
彼女たちの足首とウエストは細くなり、スカートにヒップラインが浮かぶようになり、洋服の胸に「し」みたいな線が入る。
「し」みたいな線とは?
文字で説明するのは苦しい。「かっこ」=「(」でもいいんだが──。
セーラー服やワンピースを着た女キャラが、やや斜めに描かれたコマがあるとする。読者から見て、向かって左に斜めに向いているとしよう。と、左側の胸は「く」のラインで描かれる。つまり、乳房のふくらみが表現されている。右側の乳房はふくらみを表現しづらい。そこで、胸のあたりに「し」みたいな、「(」みたいな線をサッと入れることによって、左右ともに乳房のふくらみを表現するわけである。
となれば、『ハレンチ学園』を点検しないとならない。日本漫画史上最大の、いや日本風俗文化史上最大の問題作といっていい。
いかにこの漫画に影響を受けたかを『少年ジャンプがぼくをだめにした*』において語った者としては、またここで、滔々と語りたくなるが、
*タイトルを額面どおりに受け取るような野暮は、相構えてなさせ給ふな*
今回はロッテガムをごくりと呑み込み、もっぱら眉を点検する。
「アッ、太くなってる」
メインキャラ男子は、『巨人の星』『男一匹ガキ大将』ほどではないが、そこそこ太い。トラ皮の服を着た男の先生、ふんどし姿の男の先生の眉は生徒より太い。メインキャラの子分的生徒は、これは前髪で見えない。
『キューティーハニー』の解説を書いた者としては、また鱧の小骨を呑み込んで、ここはもっぱら当時の読者の真実を言う。『ハレンチ学園』の売りは、女キャラたちのハダカであり、スカートがまくれて見えるパンティだった。
大傑作の威を借りる。大傑作『サルでも描けるまんが教室』にこうある。
────
「『愛』は(少年漫画の)ヒロインの2次的役割に過ぎーん」
「な、なにっ!?」
「ヒロインの真の役割……それは……」
「ゴクッ」
「パンチラだーっ!!」
────
大名シーンである。ただし『ハレンチ学園』におけるパンティやハダカは、「チラ」ていどではなかった。
ゆえに「オー!モーレツ!!」だったのだが、そう感じたのは、「この漫画が先駆けだったこと+先駆けた時代の日本の道徳観念のスタンダード+その時代での自分の年齢」により、1000倍は強まっていたことが、歳月を経て、経験を積んだ目で絵柄を点検すればわかる。
経験を積んだ目とは、「この漫画の登場以降に巷に増え、今では横溢している女のハダカ+この漫画以降に変化した現代の道徳ないし社会通念のスタンダード+現在の自分の枯れた性欲」の目である。
無住の庭で風に吹かれる笹のごとくのこの目で、みつ子やアユちゃん(作中のメイン女子生徒名)を見る。
「あれェ?」
なんのことはない、へなへなのラインである。ウエストのくびれもさしてなく、おっぱいもお尻もへれっと、実に頼りなく平板に描かれているのみで、パンティは襁褓のよう。
「じゃあ……」
『ゴルゴ13』も点検する。ゴルゴの眉が太いことは周知だが、『ハレンチ学園』と同じころに連載開始したので、あらためて。
「おう、太い」
眉のタテ幅のほうが、目のタテ幅より太い。眉と目の幅の比率からすれば、ゴルゴ13は、『巨人の星』『男一匹ガキ大将』中の男キャラたちより太い。極太だ。
細い眉の少年は、第二次性徴期を終え、堂々たる成人男性になった。
成人男性の相手になる女キャラのおっぱいとお尻も大きくなっている。
▼
眉が極太の『ゴルゴ13』は1968年の秋に出た、号としては1969年1月号の『ビッグコミック』にて連載をスタートした。
少年少女漫画誌の形態は平綴じ(ノドを糊付)であるが、『ビッグコミック』は中央でホチキス止めした中綴じだ。
これが1968年時には目をひいた。この綴じ方は、日本の大人が、なじんできた週刊誌、と同じ綴じ方なのである。
この綴じ方で、『ビッグコミック』が大人(大学生以上)向きなのだと、客(読者)に、パッと、即座に感じさせる効果があった。
「大人向き」という印象を即座に与え得たことで、少年誌では遠慮していたバイオレンスシーン、セックスシーンが描けた。
「大人が読む週刊誌」において剣豪小説が人気があったのは、バイオレンス&セックスシーンが巧みに鏤められていたからである。『ビッグコミック』は、剣豪小説のその方面の要素をビジュアル化してとりこめたわけである。
ところが、眉の太い男たちは、少年誌にも棲息地(領域)を広げてくる。
『ビッグコミック』創刊号発売年の2年後に、大阪万博が開催されたのだが、この年、『週刊少年マガジン』で、『ワル』が連載を開始しているのである。
『ワル』の男キャラたちの眉の幅は、『巨人の星』『男一匹ガキ大将』より細いものの、目の幅との対比からすれば、太い。
よく人間の俳優が、それも(鏤められたセックス&バイオレンス要素が人気だったと先に例にあげた)剣豪映画ドラマの俳優が、「目の演技がいい」「目力」などと評されたりするが、眉で感情表現が描写されているような、眉力のある眉なので、極太の眉に感じられる。
『ワル』の、眉の太いキャラは、女性トイレに入り、おしっこしようとしている女生徒の個室に押し入ったり、女性教諭をレイプしたりする。
中綴じの青年漫画誌ではなく、少年誌に、この漫画は掲載されていた。まったくもってサイケの時代だった。
東京オリンピックをぶじ閉幕させ、大阪万博に向かい、男キャラの眉は一気に太くなり、女キャラのおっぱいとお尻が大きくなり……、では沖縄海洋博のころには?
地下鉄で隣の乗客が読んでいた『ドーベルマン刑事』が、『週刊少年ジャンプ』で連載を開始したのは、大阪万博の5年後の沖縄海洋博開幕の年だった。
女キャラのおっぱいとお尻は、『ワル』よりやや大きい。フィクションとしてのバイオレンスシーンはあっても、『ワル』に漂う陰惨はなく、『ワル』を読んだ直後に読むと、ほっと一息つけたくらいだ。
『ドーベルマン刑事』の眉の太い男は、病院にて治療中に、女キャラ(看護師)に明るく話しかけ、大阪万博から大きく描かれるようになったお尻をいきなりさわる。
女キャラは「キャーッ、エッチ」と言う。セリフ発言時の顔は、当時のモラル通念を享受した表情に描かれている。
隣の乗客が読んでいたシーンが、ここだった。
▼
大阪万博は、お祭り広場でのイベントが夜のニュースで毎日報道されるほどの入りだったが、沖縄海洋博は不入りだった。
不入りだった沖縄海洋博の後、眉がまた細くなる。
すると、女キャラも細くなる。ミニスカートや水着の類の衣服をまとっての登場は増えるが、おっぱいとお尻は、大きいというよりは「スタイルがいい」という形状になる。
ただし、少年誌では。
眉の太い男の相手をしていた女キャラたちは、沖縄海洋博後に別の場所に移動するのである。
中綴じの青年漫画誌が増えて、彼女たちの棲息領域が増えたのだ。『少年○○』の『少年』の部分を『ヤング○○』『ビジネス○○』とした漫画誌群である。
一誌につき一カ所ないし二カ所、彼女たちの棲息区がある。
移動後の彼女たちは、そこで、ガラパゴス諸島の生物のような独自変化をしていく。
中綴じの移動先では、おっぱい描写面積だけが広大化していくのである。
つくば博くらいまでは、いわゆるハリウッドふうグラマー女優の配分だったが、徐々に体における部位の面積描写の配分に、「思い切った気合」が入り込む。
国際花と緑の博覧会から世界都市博覧会の中止決定にかけて、おっぱいだけが、思い切った気合で、大きな面積をとって描かれるようになる。
国際園芸博の淡路花博(ジャパンフローラ)が2002年に開催されるころには、電子コミックという形態が常態化し始める。
漫画に関心がない人でもカンタンに手にとってパラパラと繰れる書店販売での紙媒体コミックとはちがう。閲覧する「道具」が必要になる。胸部面積の拡大化が進む。
ウェブのみで発表されるウェブコミックが登場するとさらに、一人の女キャラの肉体における胸部描写面積は、ハプスブルク帝国の領地のごとく増える。
「漫画にとくに関心がない人でもふと手にとってパラパラ見られる」度合からすればウェブコミックは、ガラパゴス諸島はガラパゴス諸島でも、大陸からアクセスできる空港がなく、他の島からも離れたダーウィン島やウォルフ島のようなもの。
電子コミックというサン・クリストバル島、ウェブコミックというダーウィン島がデジタルネイティブ読者に定着すると、この地に彼女たちも定着し、そのおっぱい面積は大陸ではありえない拡大(体の他の部位の描写面積を侵掠)をとげる。
大阪万博のころ、永井豪先生は「漫画も批判されたし、ぼくもいろんな場所にひっぱり出されて、どれだけ叱られたかしれません」と言っていらした(直に伺った)が、永井先生が批判され叱られた時代は、どの漫画も紙に印刷されて巷間に在った。だれもがすぐに手にとり、どれどれと開けた。
電子コミック、ウェブコミックだって、すぐ開けるじゃないかと思うのはデジタル機器常時ユーザーの感覚で、飲食店のQRコードでの注文が煙たい人はまだまだ多い。
サン・クリストバル島コミックやダーウィン島コミックは、だれもがすぐに手にとり開ける場所ではないのが、まだまだ「現状」である。
その領域にて、破竹の勢いで拡大した彼女たちの胸部描写面積の大きさは非常(まさに、常に非ず)なので、デジタルネイティブの男は、小学生くらいからこの面積で助平心を育む。
と、彼らはセックスする年齢になって、相手の人間の女性のおっぱいを見て、たとえ、その女性が人間界C、Dカップであっても、
「うそっ、小さ」
とショックを受けることが、笑い話ではなく、あるという。
受験テクニック習得一直線で、高名な幼稚園から大学まで歩み、高額収入の社会人になって初めて、容姿端麗な人間界女性とセックスするだんになり、それまで自分の性処理の相手をしてくれたCG駆使の漫画のノー体毛のヴァギナでないことが恐怖で勃起できず通院に至るケースも、笑い話ではない。
ダーウィン島コミック地に棲息する女キャラは、人間界の下着に換算すればJカップが平均。点検にあたり、私も見慣れるとJカップが「ふつう」になってゆくから、慣れとはほんとに恐ろしい。彼女たちの平均カップは、M、N、O……と、面積拡大は現在も進行中だ。
では眉は?
彼女たちの棲息領域には、もう眉の太い男キャラは出てこない。
既述のとおり、細い眉は少年である。少年は非力である。だが、胸部面積の大きな女キャラの相手となる男の年齢は決して少年ではない。ウィーン少年合唱団の入団を書類選考段階ではじかれる年齢の、高校生大学生以上である。
であるなら、その年齢で、眉を細く描かれた男は、「大人の非力な男」とも見える。相手女の広大な胸部面積が、見る(読むではなく)男性からの自儘なファンタジーであるのなら。
非力な男とは、自儘な女からすれば(外見と経済力が)モテない男のことだ。
第二次性徴期から年齢を重ねて成人になった男の眉の太さが、ここにきてまた細くなったのは、
「これは少女漫画化……」
であろうか?
ふたたび大傑作の威を借りる。大傑作『サルでも描けるまんが教室』にこうある。
───
「少女まんがにおける、ウケる主人公(ヒロイン)それは……」
「ごく……」
「ドジだーっ!!」
───
大名言だ。
大阪万博のころ、紙媒体の少年漫画誌では男の眉が一気に太くなったが、そのころ少女漫画誌では、「実のお母さんを探すヒロイン」が一気に消え、「そそっかしい」「ドジ」がマストアイテムとなった。
「そそっかしい」「ドジ」は糖衣である。バカ高いカバンや靴を買うときや、ケーキ食べ放題に行くさいに「自分へのご褒美」と言うのと同じ糖衣。
能力的に欠点が多く、ルックスに欠点が多々ある女性を「kawaii換言」したものが「そそっかしい」「ドジ」だ(亜種に「天然」)。
これと同トリックで、モテない(外見と経済力)の男の糖衣が、非力な男だ。
淡路花博を経て、男漫画が少女漫画化し、眉が細くなった。
───
「今の男漫画における、ウケる主人公それは……」
「ごく……」
「非力だーっ‼」
元ネタ『サルでも描けるまんが教室』
───
あるアニメの歌のふしで、
♪収入なんて気にしないよ、チビAGAだってだってだってお気に入り♪
と歌われ、「あなたは今のままでステキなんだから」という糖衣で眉を細くした男、ヒリキィは、笑って笑って笑ってヒリキィと励まされる。
ヒロインをドジに設定した少女漫画は、ロキソニンだった。
〈わかってる、わたしがブスだってこと。わたしに王子様なんか来ないわ。そんなこと、よくわかってる。だからよ! だから、せめて読んでいるあいだだけ、それを忘れさせてもらえるの〉なロキソニンだった。
ロキソニンで眉を細くしたヒリキィは、もうTSUTAYAの黒いカーテンで仕切られたコーナーにこそこそ入り、若い女性スタッフに自分が選んだヴィデオやDVDを見せる必要はない。そんな時代は、国際花と緑の博覧会とともに去っているのだ。
タップ一つで、他人に見られず、Jカップ女キャラたちの棲息地で、「感情移入」して、彼女たちと遊べる(彼女たち「を」遊べる?)。
タップすれば出てくるダーウィン島では、コマは、彼女たちのおっぱいを描くためだけに使われているといっても過言ではない。
ヒリキィの好みはおっぱいが大きく、そしてマストで身長が低く骨格が幼いこと。若い女はもう老けている。幼女でないとだめだ。
というのも、体の中に占めるおっぱいの面積が大きくなって、ともに面積の大きくなった部位がもう一カ所あるのである。目。
目の大きさは年齢と反比例するのが、漫画表現の習俗なので、彼女たちは低年齢化しているわけである(たとえ作中では成人の年齢に設定されていても)。また、彼女たちの多くが、身長148cmとか149cmとかの小柄という設定になっている。
幼い絵柄(もとい、幼い幼い絵柄)に描かれた、小柄という設定の彼女たちの頭部と2乳房の配分は、〈ソフトボール1に、バレーボール2〉や〈ゴルフボール1に、バスケットボール2〉のようである。
彼女たちは、「バスケットボール2状態」の部位を、眉の細い男たちから揉まれたり、掴まれたりする。そのさいの顔の表情は、沖縄海洋博のころと殆ど変化がない。
彼女たちの眉は「八」の字。目は「⌒」を太くした線に描かれる。頬にはスラッシュ「/」が何本かひかれる。漫画における「いや~ん」の習俗的記号。
ここで思い出す。
『のうりん』を起用した美濃加茂市観光協会のポスターが性的だと非難されたことを。
『宇崎ちゃんは遊びたい!』を起用した赤十字の献血のポスターが性的だと非難されたことを。
『月曜日のたわわ』の日経新聞での広告が性的だと非難されたことを。
思い出した今日、ある人を想定してみる。「ラムや日向ヒナタくらいまでは見たことがあったような人」を。
この人は、「ラムやヒナタくらいは、どこかで、何かで見た」が、それ以降は、仕事の忙しさのせいか、雑誌TVで漫画アニメを見る子供が家の中にいないせいか、デジタルコミックになじんでいないせいか等々、日常生活で、男向けとされる一般漫画をまったく見なかった人。こういう人を想定してみる。
この人は、『ガイシューイッショク!』『チチチチ』『異世界不倫』『ラストギアス』『美龍艶笑譚』(これらすべて、ポルノコミックではなく、一般漫画)などを、いっさい見たことがなかった。
そんなある日、駅のホームで、ビルの廊下で、開いた新聞で、〈のうりん〉の胡蝶のすがたを見る。〈遊びたい〉の宇崎花のすがたを見る。〈月曜日〉のたわわのすがたを見る。
そしたら?
物体として、
「うへぇ!」
と、まず「反射」するのが、ごく自然ではないだろうか。
しばし、4歳時の私の「反射」実体験を語る──。
4歳の私は大人が漕ぐ自転車の後ろに乗せてもらっていた。田舎町の四番館の前を通りかかった。ポスターが貼ってあった。それを見るべく、大人は足を地面について漕ぐのをやめた。
『双頭の殺人鬼』。暗い中から頭が二つある何かがこちらを見ている。4歳の私はギャーッとつんのめり、漕ぎ手の大人の胴体にしがみついて、危機一髪で落車を逃れ、ぎゅっと目を閉じ殺人鬼ポスターからも逃れた。
後年、ホラー映画に詳しい人に『双頭の殺人鬼』について聞くと、日米合作の珍作だという。大人になってから見れば、内容の珍妙さを愉しめたかもしれない。
が、4歳では、ジャングルの繁みのような暗闇に立つ、頭が二つあるトルソーのビジュアルが、とにかく恐ろしくて、自転車から落ちそうになったというのは大袈裟な表現ではない──。
これと同じ性質ではないかもしれないが、感情というよりは「反射」を、胡蝶、宇崎、たわわのビジュアルにおこした人がいたとしても、ごく自然なことではないかと思うのである。
今の男漫画のビジュアルに慣れている人(=『ガイシューイッショク!』『チチチチ』『異世界不倫』『ラストギアス』『美龍艶笑譚』を、よくある一般漫画と受け止めている人)が、『のうりん』『宇崎ちゃんは遊びたい!』『月曜日のたたわ』の感想として、「農林業をがんばる子たちの話だよ」とか「ほのぼのした日常漫画だよ」とか「明るい話だよ」だとか言ったとしても、それは、『双頭の殺人鬼』についてレクチャーしてくれたホラー映画に詳しい知人からの「珍作で笑えるよ」という感想と同じだ。
その感想を4歳児に言ったところで、4歳児が、恐怖にぎゃーっと震える「反射」をするのは自然なように、男漫画(ほぼ)未経験の人が、胡蝶、宇崎、たわわを初めて見て、「うへぇ!」と「反射」するのは、自然ではないか?
岐阜県への旅行を考えて訪れた旅行社の壁で、勤務先ビルの昼休みの廊下で、子供に弁当を持たせた後に開いた朝刊で、大きく描かれた胡蝶が、宇崎が、たわわが、いきなり現れる。
「うへぇ!」
「ぎゃっ」
と、人体における乳房が占める面積の異様さにびっくりするという「反射」が出た人は、少なくなかったと想像するのである。
『プレイボーイ』(アメリカ版)を毎月買っていた私でも、この「反射」をしたのだから。
公序良俗に悖るとか、女性の肉体だけを商品化している云々といった「考え」より、その前の「嫌悪感」という「感情」より、それにさえ至る前の「反射」。
ところが。
淡路花博以降の、男漫画における女キャラのおっぱいの大きさを見慣れた人たちには、この「反射」がわからない。
作品を読んだ経験により、作品自体の雰囲気を知っているがために、「怒るほど大きいか?」「怒るほど性的か?」と感じられ、こうした「反射」をした人を、
「こんなことで騒ぐとはヒステリックなやつだ」
と感じることになる。
ここで、またしても、「ドラマや漫画で笑われキャラに配置される女性の社会学者(ほかに私立学園の教頭、PTAの着物を着た会長など)」のできあがりだ(よくブタ鼻にメガネをかけている)。
だからまたしても、せっかくの機会、すなわち、
「えっ、これが異様に見える反応もあるのか」
「えっ、これは異様じゃないの?」
という、今まで自分が気づかなかった視点の存在を初めて知り、その反応は何に基づくのだろうという、これまで知らなかったことを探求する機会、が、吹き飛ばされてしまう。
論点がごちゃまぜになると、問題はいつも残念な結果になり、新たな視点を知る前に霧散する。
私はちょうどよく、ブタ鼻にメガネをかけている。遅ればせながら、笑われキャラのヒステリーを引き受ける。言うよ♡
「はい。〈のうりん〉胡蝶の絵は性的です。〈遊びたい〉宇崎花の絵は性的です。〈月曜日〉たわわの絵も性的です」
見りゃわかるだろが、こんなこと。事実は事実だ。
「明るくて天真爛漫な胡蝶(宇崎、たわわ)は性的ではありません。胸の豊かな女の子に元気をもらう漫画です。そんな目で見ないでください」などと、どうか言ってくれるな。
エロい、と言いたいところを、こっちはおしゃべり言葉に過ぎるかなと遠慮して、性的、にしているのに、「胸が豊か」だなんて糖衣が厚塗りすぎて、もはや、おためごかしにムカつく。豊は阪神タイガースじゃ。
胡蝶・宇崎・たわわのファンだってわかってるだろが、絵が性的なことは。
描いている人も、売っている出版社も、わかってるだろが。
「はい、性的な絵です」でいいじゃないか。だめなのか。
性的な絵が描かれている商品には需要があるだよ。よろこぶ人がいるんだよ。
『水戸黄門』の由美かおる入浴シーンに、「イヨッ、待ってました」とよろこんでも、入浴シーンくらいじゃすまない、もっとえげつないエログイシーンのある(一般向きではないポルノ商品扱いの)漫画や映画や小説を見て読んでオナニーするのも、いいじゃないか。だめなのか。
そりゃ、1日100回したら体によくないだろうし、フィクションのエログイを実行に移せば犯罪だが、自宅の個室でコソコソ愉しんでもらうため用に作られた商品に、コソコソ愉しんでも、罰はあたらない。
自分がノーベル物理学賞を受賞した空想をしてよろこぶのと、本当に受賞するのとはまったく違うであろう。
もし姦淫を思ったなら、それは姦淫を犯したのであるなんて聖書の言うことは、お正月に初詣に行ってお葬式で南無阿弥陀仏と焼香して風水の良い方角に鏡を置いたりしてるなら聞き流しとけば?
こんなことより、問題があるとしたら、作者と担当編集者が、性的な絵を描くこと、描かせることがうれしくない場合と、あと一つである。
作者が性的な絵を描きたくなかったり、担当編集者が性的な絵を描かせて漫画を売りたくない場合は、問題だ。
この場合は、性的な絵を描きたくないのに、描かせたくないのに、性的な絵を多くの読者が求めるので、涙をこらえ、歯を食いしばり、性的に描き、売っていることになる。
こういう場合は辛い。辛いよ。その辛さを想うと心臓のへんが圧迫されるよ。こっちまで泣けるよ。こういう場合は、「涙をこらえて描いているのです」と、公の場で言ったほうがいい。わかってくれる人はわかってくれる。
しかし、こういう苦しい場合でないのなら、「どうです、このおっぱい、グッと来るでしょう」と言えばよい。
TOTOやLIXILは、ゆゆしき会社なのか? だれでも助平心があるように、だれでもうんこしておしっこする。その処理器を商品として売っている。需要があるから売っているのではないのか。
社会的不快が生じるのは、TOTOやLIXILの製品などを用いず、山手線車内でおしっこするのを見せたり、スーパーの刺身売り場の棚にうんこしたりする人に遭遇した場合である。するとこ、まちがえてるよね。
「問題があるとしたら、作者と担当編集者が、性的な絵を描くこと、描かせることがうれしくない場合と、あと一つである」と先に言った。あと一つが下記である。
性的な絵を見たくない場所で見せられる場合。
いきなりのポスター、いきなりの全面広告は、このケースだったと思う。
ウェブ検索していると、いきなり出てくる鼻の毛穴の画像におぼえはないか? 鼻の毛穴から皮脂がどんどん抜けるとの旨のCMが出てくることがある。見たくないのに頻繁に表示され、嫌悪感を催す。
この化粧品だか何だか(目の端に入っただけでもオエーッとなるので、正視できず、何のCMなのかよくわからないまま)が、いくら優れた商品であっても、また、たとえ自分の皮膚がその商品を求めているような状態であったとしても、「今、見たくないとき」に、いきなり鼻の毛穴をアップにした画像を見せられれば、ものすごく不快である。
胡蝶と宇崎とたわわのポスターや新聞全面広告へおこった嫌悪感も、同質だと思うのである。
▼
嫌悪感。これは感情である。
「反射」ではなく、「感情」について思うとき、ここで私はパピコを思い出す。
パピコというのは、『GIGANT』のメイン女キャラだ。おっぱいが大きい。
ウエストがくびれているぶん、露出度の高い衣服をよく着ているぶん、胡蝶、宇崎、たわわよりおっぱいは大きく見える。
「もしパピコがポスターや全面広告に起用されていたら?」
次に述べることは、まさに「それって、あなたの感想ですよね」と言われれば、そのとおり、私だけの感情だ。感情だけを明かすことがヒステリックであるのなら、ヒステリックな意見と言われてもいたしかたない。ヒステリックに言う。
3女キャラのポスターや全面広告を、いきなり見た人は「うへェ!」と、「4歳児が『双頭の殺人鬼』ポスターに出くわした的反射」をした。それから、抜かした腰を、やっとこさ持ち上げ、落ち着いて絵を見た。
そして、落ち着いて、「反射」ではなく、嫌悪感という感情を抱いた……のではないかと想像するのだ。
そして嫌悪感についてなら、実はおっぱいに対してではなかったのではないかと想像するのだ。嫌悪感を抱いた人も気づいていないままではないかと想像するのだ。
おっぱいに対してではなく、実は嫌悪感は、ポーズや顔やタイトル文字に対して抱いたのではなかったかと。
ポスターでの胡蝶の眉は「八」の字、頬は、うっすらとピンク。ポーズは両手でおっぱいを、持ち上げて誇示。宇崎の顔も、眉が「八」の字、目は「⌒」を太くした放物線カーブ、口は「0」。頬には複数の「/」はひかれていないかわりに胡蝶と同様うっすらとピンク。男漫画における習俗的記号「いや~ん」に描かれている。
繰り返す、頼むから「明るい笑顔じゃないか」などと言わんでくれ。
たわわが立つ全面広告は、右下に『月曜日のたわわ』というタイトルがあり、「たわわ」の「わ」の字に「))」の線が付けられている。漫画における、揺れる状態を表す習俗的記号。
そもそも「たわわ」というのは【たわむほどのさま】*のことで、「つぶら」が「つぶらな瞳」と定番で用いられるごとく、「たわわなおっぱい」と定番で用いられる。
*広辞苑*
胡蝶のポーズ、宇崎の顔、「たわわ」の文字に加えられた揺れている描写線。
これらすべてに漂っているものは? はっきりとではなく、うっすらと。
それは、黄ばんだような不潔感。
かねてよりの持論であるが、うっすらと黄ばんだような、あえかな不潔感こそ、お色気の正体なのである。だから、これらポスターと広告の絵は性的だと、私は言うのである。イイなあと、だから異性は感じるのだと、私は言うのである。
ゆえに、パピコを考えるのだ。
もし、ポスターが(新聞広告が)パピコだったら、批判は、胡蝶・宇崎・たわわより、ずっと少なかったのではないか。とくに女性からは。もしかしたらなかったのではないかとさえ思う。
だって、パピコには不潔感がないもん。はい。それって私の感想でしょ、であるが。
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ここで、ふたたびの大阪万博開催を来年に控え、最後に、『ドヤ顔有益情報提供おじさん』という「一般漫画」を、知らない人のためにおしらせする。
ついに一般漫画の女キャラの、胸部面積はここまで拡大した例として。太陽の沈まぬ帝国状態の例として。
作中のメイン女キャラは、女子高校生である。彼女たちの外見描写における、頭部と胸部の配分は、パチンコ玉1に、いや、印象としては山椒の実1に、ラグビーボール2である。
大半のシーンにおいて、彼女たちは、学校に通う制服を着ている。その制服のトップスに着用するネクタイは、地面と平行である。胸部が肋骨から突出しているからである。
ボトムスはプリーツスカートなのだろうが、ウエストベルトから裾までは、ヤマハ楽器が販売している子供用電子キーボード、Remie PSS-E30 の鍵盤部分くらいの丈である。
私は『ドヤ顔有益情報提供おじさん』を初めて見たとき、ショックを受けた。
初代大阪万博の前だったはずだが、小学生のとき、美術全集でピカソの『泣く女』を見たときくらいショックを受けた。
『泣く女』は、泣いている女のようすを描いているが、絵には描かれていないのにもかかわらず、泣く女の前にいる男が強く感じられる衝撃の絵画だった。
『ドヤ顔有益情報提供おじさん』に描かれる女子高校生の絵。それは女子高校生ではなく、女子高校生を見ている男の絵だった。
女子高校生をただただ性的に見ている男の目が、「なるほど、ここだけを見ているのですね」であることが、如実に伝わってきた。たとえ、目をつけた女子高校生がツイッギー(初代大阪万博のころ話題になったモデル)のようなスリムな体型であっても、彼はあの部分だけを「見てしまい」、あんなふうな形状に「見えてしまう」ことがゲージュツ的にひしひしと発振されていた。
同時に、作中に描かれる「おじさん」からは、女子高校生には、40歳以上の男が「なるほど、こう見えているんだね」という彼女たちの目が、如実に伝わってきた。
『ドヤ顔有益情報提供おじさん』における若い女体への男の視点を、若い女体を所持する側の彼らへの見下しを抽象化した力は、ピカソの『泣く女』に匹敵した。
このような絵に描いておいて、トマトの上手な切り方、道で踏んづけてしまったガムの取り方など、実用的な情報を入れるという、とってつけたような作戦がショックだった。その巧みさはデ・ヘーム父息子に匹敵するではないか。
「なにをおっしゃいますやら。ほんとに役立つ情報を読者におしらせしようとしている漫画ですよ」
なのなら、ぜひ、単行本新発売時には全面広告を新聞に出してほしい。
美濃加茂市観光協会も、赤十字も、ポスターに使ってください。
「やはり野におけ蓮華草」はヒステリーのクレームにすぎないでしょうから。
※ドーベルマンといえばギャング
還暦以下の世代は、ドーベルマン犬が大活躍の映画『ドーベルマン・ギャング』を知らないまま、ドーベルマンといえば刑事、と反応する人のほうが多いか。
※『少年ジャンプがぼくをだめにした』
集英社文庫『サイケ』収録。
※ラムやヒナタ
ラム 『うる星やつら』のキャラクター。地球侵略のためにやってきた鬼型宇宙人の娘。
ヒナタ 日向ヒナタ。『NARUTO ナルト』のキャラクターで木ノ葉の名門日向一族のくノ一。
※双頭の殺人鬼
この映画だったかどうか不明。頭が二つある怪物が大きくポスターになっていた。あまりに恐くて、題名を聞くのもいやで、この映画館のある道を通るときは、自転車に乗せてもらっているときは後ろでギュッと目をつぶり、乗せてもらっていないときは、顔を地面に向けて全速力で駆け抜けた。田舎町の四番館(封切り後、すこし遅れてかかるのが二番館、もっと遅れるのが三番館、さらに遅れるのが四番館)だったので、日本公開時すぐに見たのではないはず。
後年、『双頭の殺人鬼』のポスターについて調べたところ、このタイトルで検索してすぐに出てくるポスターだけでなく、いくつか種類があったようだ。
※ユタカ(豊)
ユタカの日本四天王といえば、阪神タイガースから、江夏豊、和田豊。芸能界から竹野内豊、原沢侑高。
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毎月第4金曜日更新
姫野カオルコ(ひめの・かおるこ)
作家。姫野嘉兵衛の表記もあり(「嘉兵衛」の読みはカオルコ)。1958年滋賀県甲賀市生れ。『昭和の犬』で第150回直木賞を受賞。『彼女は頭が悪いから』で第32回柴田錬三郎賞を受賞。他の著書に『ツ、イ、ラ、ク』『結婚は人生の墓場か?』『リアル・シンデレラ』『謎の毒親』『青春とは、』『悪口と幸せ』『顔面放談』などがある。
公式サイトhttps://himenoshiki.com/index.html