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初めての 千早茜「なみまの わるい食べもの」#16

[第2・4水曜日更新 はじめから読む
illustration:北澤平祐


 子供の頃から好きで、いまや愛しているといっても過言ではない食べものはたくさんある。チョコレート、ケーキ、焼き菓子、パフェ、餅……挙げればきりがない。無数の美味を知っているのは恵まれたことだ。しかし、それらを初めて体験したときのことを私はほぼ覚えていない。食べるたびに美味しさに打ち震えるほど愛しているのだから、初めて食べたときは間違いなく感動したはずなのに、まったく記憶がない。美味に慣れ過ぎてはいまいか、と己を叱責したくなる。

 ただ、初体験が幼過ぎたせいかもしれないとも思う。小学一年生から、当時は菓子の少なかったアフリカで暮らしだしたが、いま好物になっている甘味類は日本にいるあいだにもう味わっていた。六歳以下の記憶はおぼろだ。
 先日、幼少期に鶏卵アレルギーで誕生会はいつもゼリーだったという人に会った。中学にあがったくらいにアレルギーが落ち着き、初めてケーキを食べたという。よく洋菓子情報を交換する大変に甘党な方なので、さぞや嬉しかっただろうと思い、初めてケーキを食べたときの感動を鼻息荒く訊いたが、嬉しかったという記憶はあるが味や詳細は忘れてしまった、という返事だった。うなだれた。やはり、この飽食の現代日本では、初の美味体験も薄れていってしまうのかもしれない。

 なぜ、そんなにも「初めて」に執着しているかというと、漫画の『うちのちいさな女中さん』を読んだからだ。大正時代を舞台にした『煙と蜜』や英国ヴィクトリア朝時代の貴族とメイドの物語『エマ』といった、現代日本ではない場所の日常の衣食住が描かれている漫画が好きでたまらない。『うちのちいさな女中さん』は昭和初期の東京が舞台で、若くして夫に先立たれた翻訳家の蓮見令子のもとに、十四歳の女中・野中ハナが山梨から草履をはいてやってくる。女中はかつての日本女性の代表的な職業のひとつ。日常の中にある存在だ。当時の暮らしや四季折々の家事が丁寧に描かれている。
 十四歳とはいえ、野中ハナはしっかり挨拶もでき、言葉遣いもきちんとした、折り目正しい子だ。通された洋風の応接間でも床に正座するくらい真面目である。女中としての腕も確かで、料理もうまく、掃除も完璧、手間のかかる洗濯もこなし(洗濯機はなくたらいと洗濯板で洗う)、着物もひとりで仕立て直せ(その工程の美しさといったら!)、一日の終わりには必ず布巾を煮沸消毒して、家も台所も整然と維持する。いささか真面目すぎるきらいのある彼女を、女主人の蓮見令子は「ハナちゃん」と呼んで愛おしむ。

 昭和初期は、一般の生活に西洋文化が入ってきて、炊事、洗濯、掃除等が煩雑化、高度化した時期で、女中は欠かせない存在だったという。確かに、ハナちゃんは初めて見る「乳バンド」に驚き、瓦斯ガスコンロにおびえつつもその便利さに感動し、氷屋で購入した氷を入れる冷蔵庫の使い方も知らない。家事だけでなく、東京での暮らしは彼女にとっての初めてがあふれている。映画を観て、百貨店に行き、海で泳ぐ。現代の私たちには当たり前のことが、すべて真新しい感動につながる。
 家庭に洋食が入ってきた頃なので、料理本を参考にして、牛肉ライスカレーや豚肉コロッケやフルーツゼリーをこしらえたりもする。彼女にとっては未知の料理だ。初めて食べるものへの反応がいい。表情があまりなく、笑わない子なのだが、食べると顔が輝く。初めてのクリームソーダでは、炭酸を飲んで目が丸くなり、震えながらもアイスクリームを黙々と食し、「夢のような味でした…!」と帰りの電車で恍惚こうこつとする。茶店で、冷やし珈琲に甘いミルクを入れてもらい、「お子さん洋食」と「カスタープリン」を食べて、あまりの贅沢さに恐れを覚える。紅茶とクッキーのティータイムで昇天し、夢心地になる。

 目をきらきらさせるハナちゃんを見るたびに羨ましくなる。彼女が口にするどの初めても、私は体験済みで、それを初めて食べたときの記憶はない。もう知っているという感覚だけが在る。たとえ記憶喪失になったとしても身体は覚えていそうだから、ハナちゃんの感動を追体験することは今生こんじょうではないだろう。切ない気持ちになりながら、それでも知らない時代をリアルに想像させてくれるフィクションがあることに感謝もする。

 そういえば、この漫画を読んで、小さい頃に憧れていた飲みものを思いだした。それはカクテルのブルーハワイで、一体どこで知ったのかはわからないが、花飾りのついた青い飲みものというだけで惹かれた。我が家では着色された飲みものも菓子も禁止だったのだ。成人し、バーに行ったりするようになり、そうなるとブルーハワイはなんだか子供っぽく思えた。何年も経ってから、どこかのホテルのラウンジで飲んだ。ラムは好きなのだが、ブルーキュラソーの味が好みではなく、その一度きりだった。

 妖精の名前のついたスプライトという炭酸飲料もわくわくと期待しながら飲んだ記憶がある。しかし、炭酸は私にとっては痛い飲みものだった。込みあげるゲップも痛くて恥ずかしい。とても飲めないと思った。敗北感を覚えながら、ふつふつと気泡をたちのぼらせる透明な液体をじっと見つめていた。
 なぜ、がっかりした記憶ばかりなのか。よろこびや感動は消えてしまうのに。それとも、これは私だけなのか。思えば、私は新しいものには馴染みにくい性分なのだった。未知のものは脅威といってもいい。十四歳のハナちゃんが楽しめた炭酸も珈琲も、私はいまだに飲めないままだ。まずは、初めてを楽しめる寛容性を身につけなくてはいけない。

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【なみまの わるい食べもの】
毎月第2・4水曜日更新

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千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で09年に泉鏡花文学賞、13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞、22年『しろがねの葉』で直木賞を受賞。小説に『赤い月の香り』『マリエ』『グリフィスの傷』など、エッセイ集に『わるい食べもの』『しつこく わるい食べもの』『こりずに わるい食べもの』などがある。
X: @chihacenti

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