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トロフィードーナツ 千早茜「なみまの わるい食べもの」#17

[第2・4水曜日更新 はじめから読む
illustration:北澤平祐


 憧れていたのに、食べてみたらなんか違う。そう感じた食べものは少なくない。担当T嬢はそんな私のことを「(食べものに対する)想像力が現実をはるかに上まわるのでしょうね」と評する。どうせならその能力を本職である小説で発揮したいところだ。そして、想像力というよりは期待なのだと思う。食べもの、特に菓子に対する期待値が高い。

「なんか違う」には種類がある。「味がイメージと違う」なら、もう手をだすことはほぼない。しかし、「なんか違う」と思いながら懲りずに何度も挑戦してしまう菓子がある。
 ドーナツである。SNSに箱にずらりと詰められたミスタードーナツの写真があがったり、子供が口のまわりを粉だらけにしてドーナツをぱくついているイラストを見かけたり、新しくできたドーナツ屋の行列を目にするたびに、無性に食べたくなる。しかも、一個ではない。最低でも三個は食べたい。できたら箱をいっぱいにしたい。両手に持って、なおかつ皿に残っているくらい腕白にドーナツを食したい。先月も、朝ごはんはドーナツにしよう、と意気込んで、代々木上原の人気ドーナツ店でプレーン、チョコ、オレンジピール入りの三個を買ったが、チョコのひとつで手がとまってしまった。二個は知人が平らげた。ドーナツを投げたり、ドンとつみあげたりする、ドーナツに特化したLINEスタンプを使っているというのにとんだ体たらくである。

 十代の頃、読んでいた村上春樹の小説にはダンキンドーナツがよく登場する。主人公はコーヒーを合わせていたが、コーヒーが飲めない私には遠い憧れだった。ダンキンドーナツも食べる前に日本から撤退してしまった。オノ・ナツメの漫画『COPPERS』でもNYの警官がテイクアウトのコーヒーを片手にドーナツをぱくついている。敬愛する小川洋子さんの『シュガータイム』にもドーナツがでてくる。深夜に焼くパウンドケーキやアイスクリーム・ロイヤルなど魅力的な食べものがたくさんでてくる物語なのだが、ドーナツが印象的だった。
 ――例えば、ドーナツ七個。わたしはそれをほとんど無意識に飲み込んだ。ドーナツは喉の奥を、シャボン玉のようにふんわりと落ちていった。
 この後、空になったパッケージや食べたドーナツの描写が続くのだが、私は空で唱えられるくらいこのシーンを何度も読んだし、テーブルに散らばった油で幾分しっとりした粉砂糖(妄想)はもう心の風景といってもいいものになっている。ああ、シャボン玉のようにふんわりとドーナツの山を制覇してみたい。

 そんな渇望とはうらはらに私の身体はどうも揚げ菓子を好まないようだ。黒糖は好きなのにかりんとうは数本で満足するし、沖縄土産でサーターアンダギーをもらってもさんぴん茶ばかり飲んでしまう。市販の油の匂いが嫌なのかもしれないと、生地を発酵させ、新品の油でマラサダを作ってみたが、友人や恋人のほうがたくさん食べて敗北感を味わった。胃腸が絶好調!というタイミングでドーナツに挑んでは肩を落とし続けている。どうも自分の身体と気持ちの折り合いがつかない。それが、ドーナツ。

 先日、とあるパーティーに行った。出版業界以外のパーティーに参加することはまれで、私は所在なくうろついていた。ふと、ある男性に目がいった。周りと同じような、会社員らしいシンプルなシャツにスラックス、身長も目立つほど高くも低くもない。でも、なんだか違った。ややあって、厚みだと気づいた。肥えているわけではない。動くたび、肩や背中、尻の肉がぎゅっぎゅっと服を押している。ほんとうに肉なのか、肉は肉でも、はちきれそうな肉だ。
 あれは筋肉だ、とわかった瞬間、平松洋子さんの『ルポ 筋肉と脂肪 アスリートに訊け』を思いだしていた。食エッセイの名手がアスリートやスポーツ栄養士などに綿密な取材をして書いた身体と食の本である。その中に、プロレスラーの章があった。リングに現れただけで観客に「凄い肉体」だと思わせる身体になるための、食の努力がつづられていた。そこに書かれていたのはただ漫然と美味を求める私の食とは違い、明確な目的のある食だった。こんな食があるのか、と圧倒されながら読んだ記憶があった。

 パーティー会場にいた男性は趣味でボディビルをやっているとのことだった。大会にも出ているそうで、やはり食生活には気を遣っていて、一日に数回タンパク質を中心にした食事を摂らなくてはいけないから茹でササミとブロッコリーを会社に持参して、仕事中も食べているらしい。
 アスリートに出会ったら訊いてみたいことがあった。食事制限を解除するチートデーについてである。平松洋子さんの本にはそんなに具体例は書かれていなかったのだ。「大会のあとに食べたくなるものはなんですか」と訊くと、「ドーナツですかね」と返ってきた。「ドーナツ」「はい、ドーナツ。差し入れでも多いんですよ。ボディビルをはじめて甘党になっていく人はけっこういます。僕自身も昔は甘いものはあまり好きじゃなかったけど今は欲しくなります」清潔感のある笑顔だった。手元を見ると、爪もジェルネイルできれいに整えられていた。身体に対する高い意識が感じられた。

 御礼を言って別れて、会場を後にし、タクシーに乗った。パーティーの食事は華やかで美味しくてどことなく空虚で、めずらしくラーメンを食べにいきたくなった。家とは違う行き先を運転手に告げ、ドーナツをぱくつくボディビルダーを想像した。そのドーナツは白い粉砂糖にまぶされたものでも、チョコがかかったものでも、クリームがつまったものでもなかった。黄金の油で濡れ光る、トロフィーのようなドーナツだった。
 素晴らしい肉体に目を奪われても、理想の身体のための食を選ぶことは、私の人生ではきっとないだろう。失敗しても幻滅しても、食そのものが目的の生き方を愛しているのだ。なんだか、ようやくドーナツを諦められそうだ。

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【なみまの わるい食べもの】
毎月第2・4水曜日更新

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千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で09年に泉鏡花文学賞、13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞、22年『しろがねの葉』で直木賞を受賞。小説に『赤い月の香り』『マリエ』『グリフィスの傷』など、エッセイ集に『わるい食べもの』『しつこく わるい食べもの』『こりずに わるい食べもの』などがある。
X: @chihacenti

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