橋本治『人工島戦記』#8 悪魔が来たりて知恵を出す
橋本治さんが生涯をかけて挑んだ小説『人工島戦記──あるいは、ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかのこども百科』が刊行されました。架空の地方都市を舞台に、戦後から平成に到るこの国の人々を描いた大長編は、未完ながら、A5判2段組みで1,376ページ。圧巻のボリュームです。
刊行後の反響のなかに、「興味はあるものの、読み通せるだろうか」という声が少なからずありました。その杞憂を晴らすべく、先行公開した第一章に続き、第二章から第八章まで、毎日一章ずつ試し読み公開します。(第一章から読む)
第いち部 低迷篇
第八章 悪魔が来たりて知恵を出す
二度目にテツオが「こんなのいらねーよなー」と言った一九九三年の五月、キイチの部屋のテレビでは、「市がさまざまな反対運動を押し切って、遂に、県の環境整備局に対して、埋め立て免許の出願をしてしまった」というニュースをやっていたのだった。「だからなんだ?」ということなどテツオには全然分からなかったけれども、事態が「遂に」と言われるような段階に来てしまっていたことだけは分かった。
「〝遂に〞が来たら、きっとウチのオカーサンも騒ぐだろう。〝これに反対する市民団体は――〞なんてとこで、ビラまいてるウチのオカーチャンが映っちゃったら恥ずかしいなァ」と思って、テツオは、ボサーッとテレビを見ているキイチの注意をかわすために、「なァ、キーポン」などと言ったのである。
坊主頭でヘビメタのTシャツを着ていたけど、つきあってみれば、イワイ・キイチはいいやつだった。今までテツオがつきあった人間の中で、一番ノーマルな知性を持ったやつだと言ってもいいほどだった。
だからキイチは、クラスの女の子から「イワイくんてユニーク」と言われていた。自分の分からないものはなんでも「ユニーク」と処理してしまう点で、世間ズレのした女子大生はオヤジと同じなのだった。
同じクラスになって、初めの二週間ぐらいは「イワイくん」と言っていて、それから後は「イワイ」になって、気がついたら「キイチー」とテツオは呼んでいた。
「〝イッポン〞なんていうエグイあだ名の持ち主だから、どっかヘンなとこがあるのかなァ」と思っていたけれど、そういうのがなかったので、「イワイー」はすぐに「キイチー」になった。なって、一度インプリンティングされてしまった知識は恐ろしくて、テツオの頭の中では、「キイチは生一で生一本に続くんだなー」という記憶が、「キイチー」と呼ぶたびに蠢くのだった。
「キイチは生一本」で、そう思うとテツオの口は、勝手に「キーポン」と呼んでいた。呼んで、「イッポンよかキーポンのがずっと恥ずかしいよなァ」という発想は浮かばずに、「イッポンよかキーポンのが、ずーっと発想としてはノーマルだよなァ」と思うのだから、テツオの頭の中もかなり身勝手だ。
身勝手だが、母親がますますああいう人で、息子の意識はそのまんま長期低落傾向を引きずって低いまんまのものだから、テツオとしては、どうしても自分の正当性を認めてくれるノーマルな知性をキープしておきたくなって、それでついついキーポンのアパートの部屋に入りびたりになってしまう結果なのだった。
さて――。
テツオが「こんなのいらねーよなー」と言った時、寝っ転がったまんまテレビを見ていたキイチは、意外なことを言った。
「摺下干潟って、臭いんだってよー」
キイチは、一年たっても相変わらずの伸びかけた坊主頭で、テレビの画面を見たまんま、テツオの方を振り返らずに言った。
「なにそれ?」
だからテツオは言った。
「隣りのクラスの、マン研に入ってる和田っているだろう?」
「うん」
「あいつン家って摺下にあるんだって、そんで、こないだ会誌の〆切りがあるけど、〝家に帰ると臭いから〞って、仲原ンとこに泊まって、そんでマンガ描いてたんだってよー」
キイチが言って、テツオは「へー」と言った。
キイチは振り返ると、ニヤッと笑ってテツオに言った。
「自然派のやつらは干潟を保護しろって言うけど、あそこら辺に住んでるやつは、臭くて臭くてしょーがねーって言うんだって。犬なんかクソしに来てなー、それから、夜なんか、平気で野グソするやつもいっぱいいるんだってよー」
「なんで?」
「知らね。臭いからだろ」
言われてテツオは、去年の冬、シベリアやアジア大陸からやって来る野鳥の素晴らしさを見るために、摺下干潟に行った時のことを思い出して言った。
「オレ、去年の冬行ったけど、別に臭くなかったぜ」
もちろんテツオは、自然派のみんなと一緒のライトバンに乗ってそこにお母さんに連れられて行ったというような、幼稚園児のような事実は言えなかった。
「冬だったからだろう」と、キイチは言った。
「冬は臭くねーんだよ。暑くなると臭ェんだよ。先週ぐらい暑かっただろう。そんで、急に臭くなったんだよ」
キイチは別にサークルとかをやってるわけじゃないけど、人間情報には詳しかった。
「それも、人徳というものだろう」と、骨太でかなりゴッツイ体つきをしているくせに平気で寝っ転がって、しかもかなりシャープな頭脳をしているキイチの顔を見て、テツオは思った。
「そんでよー」と、キイチはムックリと起き上がった。
「市長がよー、ケッコーおもしろいこと言ってるんだぜー」
「市長って、辰巻か?」
テツオは、半分白髪で眉が太くて、金のかかってそうな眼鏡をかけた、いかにも「権力悪の権化」のようなブ厚い唇の市長辰巻竜一郎の陰険そうなギョロ目を思い浮かべて言った。
「辰巻って、イケイケなんだろ?」
「おゥさ」
キイチの反応は、時々時代劇っぽくなる。
「辰巻がなに言ったんだよ?」
「あいつが悪いやつでよー、〝昔の志附子湾はもっときれいで、ハマグリも取れた〞って言ったんだよ」
「で?」
テツオは、正義漢でありたい分だけ、ひょっとすると、キイチよりも頭が悪かったのかもしれない。
キイチは、人の悪口を言う時に特徴的な、冷静かつ沈着な表情を見せて、それを動かさずに言った。
「〝干潟の保護を言いますが、干潟は、海の汚染で出来たと言えるようなもので、昔の、海がきれいだった時分には干潟もなく、従って、野鳥もあんなにいなかったわけですな〞ってさー」
テツオは言われて、「うーん……」と、息を吞んだ。
「スゲェだろ」と言って、キイチは、ニンマリと笑った。
「スゲェ……」と、所詮は市民家庭のお坊っちゃんであるテツオは、ちょっと感動した。
「そんで、市長は言うわけよな、〝ここで水をきれいにしてしまうと、かえって野鳥は、減ってしまうわけですな〞ってさー」
テツオは、座っている両膝をバンバン叩いて、「スゲェ!」と笑った。
もちろんテツオもキイチも、「自然保護か経済発展か」とかいう議論を抜きにした、一挙に「人工島なんかいらねーよなー」派だったのだが、それと同時に、この生意気盛りの年頃少年二人は、「〝悪の魅力〞も捨てがたい」論者だったのである。
「キーポン、なんでそんなこと知ってんだよ?」
「キーポン」と言われると急に子供っぽい表情を見せるキイチは、「新聞にも書いてあったよ」と言った。
「いつの?」
テツオに言われて、キイチは、「昨日じゃねーなー、一昨日かなー」とか言った。「そこら辺にあるよ」とか。
キイチの部屋は、散らかっていると言えば散らかっているし、そんなに散らかってないと言えば散らかってない部屋で、隅に新聞紙が積み上げてある1DK六畳の部屋は、どうあっても『メンズ・ノンノ』を読んでない大学生の部屋だった。
テツオは部屋の隅に行って、新聞をゴソゴソとやった。キイチはノソノソとやって来て、その辰巻市長の発言の載っている古新聞を探した。
「これこれ」と、キイチの差し出したところを見ると、「人工島 わたしも一言」という連載企画の一回目で、エラソーなイケイケ市長の顔写真の横には、「物流拠点としての港湾整備 渋滞解消と宅地確保の切札に」の見出しが躍っていた。
「どこにそんなこと書いてあんだよォ?」と、〝自然〞とか〝野鳥〞とかのカケラもない見出しを見たテツオが、キイチに言った。
「ここ」
キイチが指し示すところには、果して、「昔の志附子湾はきれいだった――」に始まる、市長の発言が載っていた。
それを黙って読んで、テツオは言った。
「よく、こんなの見つけるなー、お前」
答えてキイチは、ただ「ヘッヘッヘッ」とだけ言った。
テツオは黙ってその新聞の囲み記事を読んで、それが、この一年で初めてブチ当たった、人工島建設に関する〝人間の声〞だということを知った。
第八章 了
続きは本書でお楽しみください。
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