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海賊の胃袋日記をひもといてみると──黄金より大事なトウモロコシ|湯澤規子「食べる歴史地理学」第4話

食べながら歩く歴史地理学者・湯澤先生、今回のテーマは漫画『ONE PIECE』や映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』でおなじみの海賊です。かたまりの肉を食らいながら豪快に酒を飲む……といったイメージが強い海賊たちですが、実際はどんなものを食べていたのでしょうか? イギリスの海賊・ダンピアが記した『最新世界周航記』をもとに、海賊たちの食事情をひもときます。
※前回の話を読む:第3話「ボストンのロブスターが肥料から高級食材になるまで」

大航海時代、船乗りたちは何を食べていたのか?

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 少し前に、ある研究会で聞いた、オランダ東インド会社についての研究報告が忘れられない。
 それは、東インド会社を支えた「船乗りたちの食」という思いがけないテーマだったから、きっと私でなくとも、好奇心をくすぐられる人は少なくないはずだ。
 大航海時代、スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダなどのヨーロッパ列強が未知の大海原へ漕ぎ出し、スパイス、カカオ、コーヒー、紅茶、銀、そして奴隷たちを運ぶ航路を拓(ひら)き、それらを盛んに取り引きして巨万の富を築き上げたことはよく知られている。

 しかし、その一方で、「その船に乗っていた人びとがいったい何を食べていたのか」ということについては、不思議なほど知られていない。ディズニー映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』の人気で、東インド会社(映画の中では「東インド貿易会社」として登場する)は海賊の敵(かたき)で、両者は対立していること、会社側のいわゆる従業員船乗りたちの食事シーンはほとんど描かれていないが、海賊たちはいつもラム酒やワインを飲んで酔っ払っていることなどが、せいぜい私たちの単純なイメージを形づくっているにすぎない。
 しかし、大航海時代の「船乗りたちの食」を知るための史料はじつは豊富に残されているのだという。たとえば、17世紀から18世紀末まで約200年間続いたオランダ東インド会社の経営史料は、断片的ながら、オランダ国立公文書館に所蔵されており、そこには航海のために船に積み込まれた「食料品リスト」、その「配給規定」などが含まれているらしい。聞いただけでもワクワクしてくる。航海日誌、営業日誌、旅行記、そして地図などを合わせることで、彼らが世界のどこで何を食べていたのかを、おおよそ知ることができるのだ。
 確かにワインは大量に積み込まれていたが、それは船のバラスト(船底に積んで、船を安定させるための重量物)として不可欠だったこと、調味料のビネガー(酢)は消毒用としても用いられていたこと、長期間保存できるようにアルコール度数が高い蒸留酒が重宝されたが、夜間にこっそり飲もうと蝋燭(ろうそく)を片手に船底に降りた船員の不注意で引火し、船が燃える事故が絶えなかったことなど、興味深いエピソード満載の報告を、私は身を乗り出すように聞いていた。

 大航海時代というのは、物資を運ぶ船が「長距離航海」を実現したことと、そこに乗船する「大量人員の移動」が伴っていたということが、じつは重要なポイントである。船乗りたちはもれなく「胃袋」を持っていたから、彼らが食べる「食料」をどうするかは、間違いなく避けて通れない大問題だったにちがいない。

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ダンピアの『最新世界周航記』(岩波文庫)の上下巻。この表紙の地図は、ダンピアの航路を示す世界地図。

 研究会の帰り道、居酒屋がひしめく池袋の路地を歩きながら、大海原を行き交う大きなガレオン船やバーク船を思い浮かべていると、もう一つの疑問がわいてきた。

 海賊たちはいったい何を食べていたのだろう……。

世界中の黄金より大事なトウモロコシ――ダンピア『最新世界周航記』から

 いや、でも海賊たちの食事が記録されているなんて、きっとあり得ない、と一旦はその素朴な疑問を打ち消した。ところが後日、そんな私の先入観を打ち砕く本が見つかったのである。作者の名前はウィリアム・ダンピア。17世紀のイギリス私掠船(しりゃくせん)の船長である。「私掠船」Privateer(プライヴェティア)とは、王室に奉仕した海賊船を意味し、後世の歴史家が、王室が関与した海賊行為を合法化する過程で紡ぎ出した言葉である。つまりダンピアはイギリスの海賊の一人ということになる。

 1679年初頭、26歳のダンピアはロンドンを発ってジャマイカ島へ向かった。そして1691年9月16日、39歳で「世界周航」を果たして再びイギリスに帰ってくるまでのほぼ12年半にわたる航海について、詳細な記録を残している。この驚くべき記録は、1697年にA New Voyage Round the Worldとして刊行され、好評を博した。その一部の日本語訳は『最新世界周航記(上・下)』(平野敬一訳、岩波文庫、2007年)で読むことができる。

 読み始めてすぐに気がついたのは、ダンピアの航海記録には、海上や訪れる先の様々な自然、風土、民俗、動植物などの特徴が克明に記されているということだった。帆に受ける「風」や錨を下ろす「海底」や「砂」の特徴、日々見渡す「海」や「波」の表情、そこで見かける「生物」の多様性、そして、上陸先の「地形」の特徴や「川」の水質、先住民たちの「暮らしぶり」など。その生き生きとした描写を読むと、豪快で荒々しい、いわゆる「海賊」というイメージとはほど遠い、優れた「自然観察者」としての姿に驚かされる。地理学者も顔負けの精緻な筆致である。

 その中でも群を抜いて詳細に記録されているのが、「食べもの」の話なのである。その真意は、ダンピア自身の次の一言に端的に表れている。

「(トウモロコシは)食糧に欠乏を来していた我々にとって世界中の黄金よりも貴重なものだった」(上・433頁)

 海賊にとって、世界中の黄金よりもトウモロコシが貴重である、というこの言葉は、長距離航海をするためには、何よりもまず食料の蓄えを万全にしておくことが大切であるということを意味している。そして、もちろん本書の随所に登場する「水」と「塩」と燃料の「薪」の確保も。ダンピアによれば、船乗りたちが空腹になると、士気が上がらないどころか、栄養失調で病気になったり、時には航海の途中で反乱が起こるリスクが高まるのだという。航海記録が詳細な「食日記」になっているのは、ダンピアの趣味というよりもむしろ、食べること自体が航海を支える重要な条件だったからにほかならない。少なくとも、ダンピアはそう考えていた。

イグアナ、フラミンゴ、トド、ペンギン……驚くべき種類の多さ

 では、海賊は何を食べていたのか?
 ダンピアの航海記録から、できる限りピックアップしてみよう。

 まず海では、魚(ジューフィッシュ、コバンザメ、フカ、トビウオ、スナッパー、ロックフィッシュ、キャットフィッシュ、カツオ、アカメ、アジ、タイ、ボラ、イワシ)、カメ、マナティー(海牛)、ロブスター、アザラシ、トド、貝(真珠貝、カキ、ムラサキイガイ、クラム、カサガイ)など。

 陸では、鳥(ニワトリ、ペンギン、フラミンゴ、グンカンドリ、クワム、鳩、オウム、キジバト、ブービー、クロアジサシ、ネッタイチョウ、グアノ)、ペッカリー(イノシシの一種)、猿、鹿、豚、牛、ヤギ、ヘイタイガニ、卵(ニワトリ、ペンギン、ダチョウ)、イグアナ、果実(サパディリ、カカオ、マミー、サパジロ、アボカドナシ、ホシリンゴ、プリックリー・ペア、グアバ、オレンジ、ライム、パンの木)、メロン、トウモロコシ、砂糖、サトウキビ、ヤムイモ、ジャガイモ、イネ、プランテイン(調理用バナナ)、バナナ、マコーヤシの実、ココヤシ、キャベツヤシ、スイカ、塩など。

 上陸した町や先住民の村では、パイン・ドリンク(パイナップル酒)、チチャ(トウモロコシ酒)、蜂蜜、砂糖、チーズ、塩漬けの魚、トディー(ココヤシの樹液から作るワイン)、アラック(トディーから作る酒)、マンゴー、麦粉のパン、ミシュロー(プランテインの発酵飲料)など。

 そして、拿捕(だほ)した船では、ブドウ酒、ブランデー、ライムジュース、麦粉、マーマレード、塩漬け牛肉、ニワトリ、糖蜜、カカオなど。

 驚くべき種類の多さである。
 一見してわかるように、これらはほとんどイギリスから積んでいったものではなく、ダンピアたちは、狩猟や先住民からの買い取り、上陸先の町との取引、時には物々交換で食料を手に入れていた。海賊だから略奪していたのだろう、という安易なイメージは覆される。とはいえ、拿捕した船から略奪するもの、難破船からこぼれ落ちたワイン樽やウイスキー樽を抜け目なく頂戴したものも多分に含まれてはいるが。

 いずれにしても、この一つひとつの食べものについて、その入手方法や場所、入手した量、調理方法、食べた時の味と香り、歯ごたえ、栄養、保存期間などが克明に記録されているのだから、読者はダンピアたち海賊の日々の食卓に加わっているような気さえする、そんな臨場感がある。
 それはたとえば、こんな具合に描かれている。

「ノディーというのは、色の黒い小型の鳥で、イギリスのクロウタドリくらいの大きさで、その肉は、まあまあ食える程度。(中略)ネッタイチョウはハトほどの大きさだが、体型はヤマウズラのようにふっくらしている。薄灰色の羽が左右の翼にそれぞれ二、三本まじっているだけで、全身白色である。嘴(くちばし)は太くて短く、黄色っぽい。(中略)肉は非常に美味である」(上・107-108頁)

「イグアナは、大方の水陸両生類と同じく、卵を産むが、その卵は非常に美味である。イグアナの肉も私掠船員たちの間では大変珍重され、仲間に病人が出たりすると、病人のためにこれを調理するのが習わしである。栄養満点の肉汁になるからである」(上・114頁)

「(フラミンゴは)成鳥も幼鳥も、その肉は黒味を帯び脂肪が少ないが、生臭さも嫌な臭いもなく、上乗の食肉である。特にフラミンゴの舌は大きく、根元のところに大きい脂肪の固まりがあって、珍味である。この舌の料理は、まことに王侯の食卓にふさわしいものである」(上・134-135頁)

「フカを捕らえると、まず煮てから、圧力を加えて水分をしぼり出し、次いで酢、胡椒などを加えてゆっくりシチューにしてから食用に供する、という段取りだった」(上・146頁)

「一頭のトドを切り刻んで煮詰めると、大樽(ホッグスヘッド)一杯分〔ほぼ二百四十リットル〕の油が優に採れる。これで肉を焼くと、味は引き立つし、栄養も申し分ない。トドの肉の脂肪の少ない部分は黒くて、きめも荒いが、まあまあ食べられる」(上・164頁)

「アボカドの実自体には味がなく、通常、砂糖とかライムジュースを加え、皿に入れてつぶし、かきまわしてから食べる。これはすばらしい食料になる。塩を少々加え、焼きプランテインの実に添えて食べるのが普通である。おなかをすかせていたら、これだけで充分食事になる」(上・338頁)

 またある時には、拿捕した船に積み込まれていたカカオを頂戴した際に、砂糖と銅の大釜を先住民の村でなんとか手に入れることに奔走し、チョコレートを作っていたりもする。船上に竈(かまど)が据え付けられていること、入手した魚や牛を自分たちで何十樽も塩漬けにすること、水瓶が空にならないように常に気を配ること、食料調達に夢中になりすぎて標的の船を見失ったこと、フランスの艦隊と私掠船が同じ場所で難破した時、難破に慣れっこだった海賊たちは流れてくるワイン樽や食料で豪遊したような気持ちで生き延びた一方で、フランス船の船乗りたちは次々と弱って死んでしまったことなども興味深いエピソードである。

海賊船の食事は身分にかかわらず平等――東インド会社との興味深い比較

 しかし、最も印象に残ったのは次の言葉である。

「我々は、食物を一部で独占することをせず、必ずみんなで共有した。隊の中で、他のものより楽な思いをするものがいたり、逆に必要以上につらい思いをするものがいては、ならないからだった」(上・41頁)

 オランダ東インド会社の船では、船員と軍人という身分によって、食事の量や質は区別されていたことがわかっているので、海賊船で食べものが平等に配分されていたことは意外な発見であった。海賊船の船長だけが豪遊しているというのもまた、いつの間にか流布したイメージなのだろう。

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日本では果物としての甘いバナナしかないが、調理用バナナであるプランテインの世界は広い。焼いたり、煮たり、塩味で食べたり、主食にもなる。(池口明子さん提供の写真)

 ところで、『世界史をつくった海賊』(竹田いさみ、ちくま新書、2011年)によれば、イギリス私掠船の歴史は、大きな世界史のうねりの中に置いて初めてその意味が明らかになる。ダンピアが活躍するおよそ100年前、16世紀の海で活躍した大海賊フランシス・ドレークは、貧しい二流国であったイギリスへ富をもたらした「英雄」として、歴史にその名を刻んでいる。
 彼らは「海賊」という顔のほかに、「冒険商人」、「探検家」としての顔を持っていた。豊富な海賊マネーを投資して、イギリス「東インド会社」を設立したのは、じつは彼ら、女王陛下の「海賊」チームだったのである。事実は小説より奇なり、とはよく言ったもので、東インド会社の船と私掠船とが表裏一体ということになると、その両者が敵同士という『パイレーツ・オブ・カリビアン』のイメージはさらに崩れていくことになる。両者の関係は私たちが想像するよりもずっと複雑なのである。そして、ダンピアの記録を読んでいると、会社と海賊という対立構造ではなく、スペインやポルトガルとイギリスという国と国との対立構造、政治的思惑の絡み合いが鮮明に見えてくる。
 イギリス東インド会社と海賊の関係の多くは謎に包まれたままだが、大英博物館資料室にその歴史の断片が残っているのだという。大航海時代の「船乗りたちの食」の世界は、まだ氷山の一角が顔を出したに過ぎないのかもしれない。

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第3火曜日更新予定
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湯澤規子(ゆざわ・のりこ)
食べながら歩く歴史地理学者。1974年大阪府生まれ。筑波大学歴史・人類学研究科満期退学。博士(文学)。法政大学人間環境学部教授。著書に『7袋のポテトチップス―食べるを語る、胃袋の戦後史』(晶文社)、『胃袋の近代―食と人びとの日常史』(名古屋大学出版会)、『在来産業と家族の地域史―ライフヒストリーからみた小規模家族経営と結城紬生産』(古今書院)など。

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