新劇俳優からの旅立ち。何もかも違う世界が、女優魂に火をつけた|吉行和子『そしていま、一人になった』(2)
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新劇俳優からの旅立ち。何もかも違う世界が、女優魂に火をつけた|吉行和子『そしていま、一人になった』(2)

吉行和子さんのエッセイ集『そしていま、一人になった』から、その人生の足跡を辿る第2回。劇団民藝に所属し、順調にキャリアを積んでいた吉行さんでしたが、折しも時代は1960年代末。唐十郎さんが旗揚げした「状況劇場」をはじめ、新劇の舞台とはまったく異なる表現が注目を集めるようになり、演劇界に新しい波が押し寄せていました。
これまでの環境を飛び出した、吉行さんの目の前に広がる世界とは……。

吉行和子
『そしていま、一人になった』

(第三章「劇団民藝からはじまった女優人生」より) 

小劇場に心奪われて

 唐十郎さんの戯曲「少女仮面」

 私の演劇生活に突然の変化が現われた。なんの疑いもなく新劇の世界にいたのに、 気がつくと周りの演劇がずいぶん変わってきていた。
 寺山修司さんは「天井棧敷」を創り、出演者は街に飛び出し、人々を巻き込んで芝居を続けたり、床下からお母さんが出てきたりといった斬新な演出で話題になった。
「状況劇場」のから十郎さんは新宿の花園神社に赤い大きなテントを張って、そのなかで芝居をしていた。「早稲田小劇場」の鈴木忠志ただしさんは、早稲田の小さな喫茶店の二階を劇場にしていて、連日床が抜けそうなくらいのお客さんが押しよせたり、「自由 劇場」はビルの地下で、串田和美さんを中心に次々に新作を発表していた。現在引く手あまたの俳優、小日向文世さんや笹野高史さんが、その頃は無名のまま、元気いっぱい飛び跳ねていた。
 同じ芝居の世界でも、まるで別世界だ。私はソロバンで数を数えているのに、なにか知らない機械ができていて、そういうのを使いこなす人達が現われだしているのだ、と恐いもの見たさに、ちょっと覗いてみたりした。
 そんなとき、鈴木忠志さんから、唐十郎さんの戯曲、「少女仮面」が送られてきた。 そこには「一緒にやりませんか」との言葉もあった。鈴木さんも唐さんも、新劇というものが君臨している以上、日本の演劇は変わらない、という発言を大新聞に書いている人達だ。簡単に言えば、「われわれは、新劇をぶっつぶすぞ」と叫んでいるのだ。  
 困った。
 困ることはない、そんな人達と一緒に仕事ができるわけがない、と思えば簡単にことが済む。しかし、私の常識はできが悪い。すぐ、ぐずぐずと崩れていくのだ。
「少女仮面」にひきつけられた私は、もう元には戻らなかった。
 どう読んでいいのか、わからなかった。 しかし、台本から目を離すことができない。 どこか懐かしいような感じがする。筋も把握できないまま、台本を握りしめていた。
 民藝から渡される台本は、表紙のついた立派なものだった。でもこれはペラペラの紙にガリ版で刷ってある、唐さんの手書きの台本だ。

 世界が違う、すべてが通じない

 私は、民藝のなかでいちばん好きで、尊敬もしていた宇野重吉さんに電話をした。
「お話があります」と言うと、「今夜でも来なさい」と言われ、夕方近く、近所でバラの花を買って出かけた。その花が小さくて粗末だったことがいま思い出しても恥ずかしい。迷ったが、やはり花は必要だと仕方なく買い、訪ねた。
 私の言うことに耳を傾けていた宇野さんは、「うーん」と唸り、座っていたソファ の上に胡坐あぐらをかいた。
「しかし、それはルンぺンになるってことじゃないか。せっかくここまで来たのに、 屋根がないようなところで生活するわけだよ」とおっしゃった。しかし私は、「それでもやりたいのです。この作品に出る以上、民藝にいるわけにはいかないので辞めます」と言い、そのまま宇野家を出た。
 帰り道、すっかり暗くなっている柿の木坂の道を駅まで歩きながら、私はどうなっていくのだろうと、いつまでも涙が止まらなかった。
 翌日、劇団は臨時総会を開いて、私の退団が宇野さんから報告された。
 周りは騒がしくなった。「その連中がどんな人間か知っているのか」と怒鳴った人 もいた。そのとき宇野さんは、「役者が、この役をりたいって思うのは、大切なことなんだ。それを見つけたんだから、喜んで送り出してやろうじゃないか」と、言ってくださった。
 当時は相当めずらしいことだったらしく、このことは新聞の社会面の記事になった。 大劇団の女優がアングラに移った、というような内容だった。いまでは考えられないことだ。ずいぶん昔の話だ。
 鈴木忠志さん率いる「早稲田小劇場」には、白石加代子さんがいた。 「少女仮面」は、宝塚にあこがれる「貝」という少女が、宝塚の大スター春日野八千代と思い込んで妄想のなかに生きる白石さんを相手に繰り広げる奇想天外な物語だ。 そのなかに唐さんの演劇論が含まれているのだが、当時の私には理解できなかった。
 稽古がはじまっても、さっぱりわからないままの私は、立ち往生。鈴木さんも、「困ったな、なにしろ育ちが違うからな」と頭を抱えていた。
 私も困っていた。いままで身に付けた演技はなに一つといっていいほど通用しない。どうしたものか。
 鈴木さんは怒って自分が座っていた椅子を投げて来た。民藝で大切に育てられていた私は、びっくりすると同時に、こんなことをされたんじゃ、ますますできなくなる、 と憤慨して科白も言えなくなった。そのとき白石さんは、その椅子を足でそっと別の場所に移し、何事もなかったかのように稽古を続けていった。
 衝撃だった。この世界でやっていくんだ、と腹をくくった。

 演劇魂の根っこを見つけた!

 鈴木さんの狂気に近い本気の稽古はいつまでも続いた。弾丸のようにぶつかって来る生身の肉体を、これほど近くで感じるのははじめてだった。その間、喘息の発作も出るし、自然気胸にはなるし、血は吐くし、熱は出るし、でもやるしかないではないか! 稽古に出掛けるとき、母が大声で「死んじゃうわよ」と言い、ふり返ったら仁王立ちになった母の目が、泣いているのか怒っているのか、飛び出すように私を見つめていた。でも、やるしかなかった。
 違う、違うと言われながらのマンツーマンのトレーニングにもかかわらずなかなか改造が難しく、鈴木さんは何度も「育ちが違うからな」と悩んでいた。自分が目指している演劇に、なんとしても結果を出したかった。諦めることなく続いた稽古も何十日目か何ヵ月目か忘れてしまったが、幕を開けるまでになった。
 待っていたお客さんが詰め掛けた。目の前に人の顔がある、これもはじめての経験だ。歌など大の苦手だが、ほんの少し歌わなくてはならない。小室等さんが、これ以上はムリというくらい簡単な曲を作ってくださった。その歌を歌い出した途端、客席 から、「ヘタダナ」と声が飛び、笑いが起こった。
 こんなのも初体験。新劇のお客さんは、いつも静かに観てくれていたのに。でも仕方ないから歌った。舞台が終わったとき、「最後まで歌ったのは偉い」と、鈴木さん はそこだけ褒めてくれた、
「少女仮面」は一カ月公演の予定が二カ月になり、毎日毎日下手な歌を歌っていた。 鈴木さんの演出の舞台はその後四本演り、私はまた別の舞台にも目がゆき、いろいろ演った。二十年の年月のあと、再び鈴木演出の舞台に戻った時期もある。空白の間も、 私の身体にはあのハードな演劇魂が定着し、どんなときにも慌てない根っこができた。
 鈴木演出にも、型は違うが「思えば出る」は生きていた。心を通らない演技は決して許してくれなかった。
 宇野重吉さん、鈴木忠志さん。まるで違うタイプの演劇人だが、その心のなかの演劇に対する純粋さに触れることができた私は、幸せだった。
 鈴木さんは東京を離れ、富山県のむらを拠点に演劇活動を続けている。四十年にもなるがその勢いはとどまるところを知らず、当時過疎地だった村は、演劇祭のある月には、何万人もの観客が押し寄せて来る。世界演劇祭も行うし、鈴木さんの劇団、「SCOT」の海外公演も常に行われている。
 二十代に出合ったパワーは、五十年以上たったいまも衰えることはない。「怪物」 だ、と私は密かに思い、尊敬の念を抱いている。

 自分で作品を決める醍醐味

 一人になった私の毎日は急に忙しくなった。次は何を演ろう、というのがいつも頭のなかにあり、希望がどんどんふくらんでいった。
 民藝では、まず配役表が出される。それを見て自分の方針が決まる。一本の芝居に出ると、稽古、東京公演、地方公演と、半年から一年近くその作品と共に過ごす。そうやって何年も生きてきた。
 これからは誰も決めてくれないから、自分で考えるしかない。鈴木忠志さんとの舞台が何本か終わったあとは、それこそ屋根のない部屋に放り込まれたみたいで、次なる宿を探さなければならない。
 私はイギリスの作家、シーラ・ディレーニーが十代のときに書いた戯曲、「蜜の味」 が演りたくなった。
 民藝時代、研究生発表で演ってみないかと演出家に言われた芝居だが、十八歳の女の子の役なんてムリ、と断っていた。それが読み返してみると、びたっと心にくいついた。三十過ぎている私なのに、この少女の心を演じられる、と思った。
 彼女は娼婦の母親と二人で暮らしている。男が変わるたびに引っ越す母親について、 今日も新しい家に入る。「気に入らないな」とその家を眺めまわして言う。最初の科白、「気に入らないな」というのが気に入ってしまったのだ。
 その頃の私は、周りが気に入らないことだらけだったのだ。だから、びったりと気持ちに入った。
 演出は英文学者で演劇評論家でもある小田島雄志おだしまゆうし氏にお願いした。小劇場のとき、 いつも観にいらしていて、楽しそうに芝居を語っていらした姿を見ていたので、そのかたと一緒に舞台を創れたらと思ったのだ。小田島先生は演出はやったことがないし、と躊躇なさったが、最後には自分が観たい芝居を創るのもいいかな、と引き受けてくださった。
 六本木の「劇場」とも言えないくらい小さい場所で公演したが、思わぬ好評のため、西武劇場(のちのパルコ劇場)でも再演した。
 がむしゃらにはじめた演劇生活は、よかったり、悪かったりの繰り返しではあったが、私はちっとも退屈せずに進んでいった。あとになって、あのメチャクチャな芝居がなければ、もっと女優としての評価が上がっていたのにね、と偉い劇評家に言われた。
「蜜の味」はオーケーだったとしても、まあ、そう言われてもしようがないか、という出し物もあったが、それでも私は、めいっぱい楽しく演じていたのだから後悔はない。

(第三章「劇団民藝からはじまった女優人生」より)


『そしていま、一人になった』目次より

はじめに そしていま、私は一人になった
第一章 母・あぐり、百七歳の静かな旅立ち
九十一歳の海外旅行/百歳のヒミツ/最後はくうをつかんで……/ ほか
第二章 私にとっての吉行家
父・エイスケ、三十四年の人生/母・あぐりの半生/妻・あぐりを夫はこう見ていた/ほか
第三章 劇団民藝からはじまった女優人生
幼い私を苦しめた喘息/私は女優になる!/小劇場に心奪われて/ほか
第四章 兄・淳之介、妹・理恵との日々
家族のなかの淳之介/四歳違いの妹、理恵/妹と過ごした最後の日々/ほか
第五章 人生の残り時間を楽しむ
女友達とインドへ、そしてスペインへ/山田洋次監督と奇跡の出会い/私の終活/ほか

個性派揃いだった家族との思い出、女優としての来し方とこれから。吉行和子が明かす、あふれる想い

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次回の更新は10月21日(木)です。

吉行和子(よしゆき・かずこ)
1935年東京生まれ。女優。父は作家・吉行エイスケ、母は美容師・吉行あぐり、兄は作家・吉行淳之介、妹は詩人/作家・吉行理恵。女子学院高等学校を卒業。在学中に劇団民藝付属の研究所に入り、1957年舞台「アンネの日記」でデビュー。59年 映画「にあんちゃん」などで毎日映画コンクール女優助演賞、79年映画「愛の亡霊」、2014年「東京家族」で日本アカデミー賞優秀主演女優賞。02年映画「折り梅」、「百合祭」で毎日映画コンクール田中絹代賞、その他テレビ、映画、舞台の出演作多数。

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