初舞台は予想外の代役デビュー|吉行和子『そしていま、一人になった』(1)
今読んでいただきたい既刊を紹介する「ホーム社の本棚から」。今回は芸術の秋にふさわしく、多くの映画や舞台、テレビなどで活躍されている女優・吉行和子さんのエッセイ集『そしていま、一人になった』(2019年)を取り上げます。
華やかな女優としての姿だけでなく、その生き方が、世の女性たちから憧れと共感を呼んでいる吉行さん。
著名な家族との思い出や、自らの想いを綴った本書から、その足跡を伝える箇所を抜粋してお届けします。
まずは、女優として舞台デビューしたときのこと。子どもの頃から喘息に苦しめられ、将来の夢など抱けなかった吉行さんですが、新劇と出合い、高校生で劇団民藝の研究生になります。ある日、舞台『アンネの日記』の稽古に参加するように言われ……。
吉行和子
『そしていま、一人になった』
(第三章「劇団民藝からはじまった女優人生」より)
私は女優になる!
稽古に時間をかけて芝居を創り上げる
いまでこそオーディションは当たり前になってきたが、六十年以上前、それは日本ではめずらしいことだった。しかも、民藝という堅い劇団が主役を一般から募集する というので、大騒ぎになった。
「アンネの日記」を上演するに当たって、主役のアンネ役のオーディションが行われたのだ。全国から大変な数の応募者が集まり、劇団の周りが華やかになっているのを私達研究所の生徒も感じていた。別世界の出来事だった。
「アンネの日記」の稽古がはじまった。驚いたことに、私も稽古場に来て、どのように芝居ができ上がっていくのかを見ていなさい、と言われた。
これも勉強か、と思ったがなんという居心地の悪さ。大変な数のなかから選ばれたアンネ役の、どこから見ても西洋人形のような美少女の隣に座らされて、「本読み」という、台本を声を出して読む稽古に参加した。トップクラスの役者さん達が集まって科白を言い合っているのだから、うっとりするくらいいい時間だ。美少女も可愛い声で上手に読んでいる。大したものだと感心した。
劇団では稽古に時間をかけてしっかりやる。二十日近く本読みが続き、その科白の解釈や表現のしかたなど、細かく細かく話し合う。演出家だけでなく、各々の役者も、 自分の役について語ったり、質問したりしている。アンネ・フランクはユダヤ系ドイツ人なので、その知識も必要だ。ヒットラー、ゲシュタポ、ホロコースト、と学校では学ばなかった勉強も続く。
アンネは五歳でナチスの迫害を逃れドイツからオランダのアムステルダムに移住したユダヤ系ドイツ人の少女だ。しかしオランダもドイツ軍に占領されたため、十三歳のとき知人の家に逃げ込む。そこは屋根裏で、父、母、姉の他、知らない家族達もまじって八人の生活がひっそりと行われた。
大きな音もたてられない、話し声も気をつけなくてはならない。そんな窮屈な生活のなかでアンネは日記を書く。日記だけが友達だ。自分の思いをありったけ日記に書き綴る。二年間の隠れ家生活のなかで書いた日記がもとになって、この「アンネの日記」という戯曲ができ上がった。アメリカをはじめ何カ国かで上演され、映画にもなった。
『アンネの日記』は、世界中の言葉に翻訳され、いまでも世界で最も読まれている十冊の本のなかに入っている。日本でも一九五二(昭和二十七)年に『光ほのかに アンネ・フランクの日記』として出版されて、私も高校生のとき読んでいた。
その戯曲を日本でも上演する。しかも主役のアンネ役は一般募集で決まった美少女。 いやがうえにも世間の関心は盛り上がっていた。本読みの期間が終わり、立ち稽古がはじまった。その段階でほとんどの人は科白を覚えているので、台本を持たずに動きの稽古になる。
突然の代役で舞台デビュー
なるほど、こうして芝居というものはでき上がって行くのだな、と感心して見てい た。本読みも一回読んでみなさいと言われたり、立ち稽古もほんの少し経験させてもらった。でも、まさかそんなことが起こるなんて、夢にも思わなかった。
初日が開き、一週間くらいしたときだった。朝、家に電話があり、劇団に来なさい、と言う。主役のアンネ役の人が風邪をひき声が出ない、代わりにやりなさい、という信じられない言葉だった。共演の先輩方はもうみんな稽古場にいらして、そのなかで稽古がはじまる。あまりに突然のことで思考が止まっている。しかし、やるしかない。 不思議なことに科白がどんどん言える。その段階で劇団でも、これで休演しないで舞台が続けられると思ったそうだ。
そんなことも知らず、ただ稽古を続け、夕方になってしまった。動きは覚えきれていなかったが、開演時間になった。普通芝居は、初日前に舞台稽古というものがあり、 二、三回は本番と同じようにやり、いよいよ観客の前で初日を迎える。私の場合、突然、大勢のお客様の前に飛び出していった、という珍事としか言えない状態で初舞台 をふんだ。一九五七(昭和三十二)年、私は二十二歳になっていた。
いま考えても、なぜ、あんなにたくさんの科白を一度もつかえることなく言えたのか、本当にそんなことがあったのだろうか、と不思議だ。これが若さというものなのか。
その後、もともとのアンネ役が元気になって戻ってきたのに、ダブルキャストということで、私もそのまま舞台に出続けることになってしまった。そして、この公演は 二年近く続いたのだ。
ここでまた喘息の話になるのだが、なんと、自分が出演する日はなんともないのに、 休みの日には酷い発作が起きる。自分が出なくても、他の人の演技を観て勉強しなさい、と言われているのに、ゼーゼー息が苦しく、咳もひどくて、とても客席に座っていられない。まだ喘息は認知度が低く、病気だと信じてもらえないまま、勉強熱心じゃないと言われてしまった。
東京公演が終わり、地方公演が続いた。一日中みんなと一緒、その頃はビジネスホテルもなく、旅館の一部屋に五、六人が寝泊まりする生活だったので、私が夜中に苦しみ出すと、妙な病気があるものだとやっと少しはわかってもらえた。
ある夜、目を覚ましたとき、先輩達が、こんなに体が弱くちゃ続けられないわよ、 この公演で終わりでしょ、と話し合っている声を暗闇のなかで聞いた。そのとき、はじめて、「やめるものか」、という闘志が湧いた。「私は女優になる」と決心した。
舞台が楽しかったことは一度もない。ただ責任感だけだった。芝居が終わってのカーテンコールも、客席の拍手に応えておじぎをするのだが、一度も顔を上げることができなかった。
なにか申し訳ない気がしていた。私なんかですみません、という感じだ。
オーディションで受かった子のアンネが観たかったのにと、がっかりしたお客さんもたくさんいたことは耳に人ってきていた。そりゃそうだろう、と思った。でも、やるっきゃないのだ。
一般募集で決まった「アンネの日記」の主役がダウン。 代役として22歳で初舞台をふみ、無事に大役をこなした。
「あなたの東京公演は全部観たわ」
ところで、この「アンネの日記」に絡んで、後年また母の不思議さがわかった。
初舞台から何十年かのち、指揮者の岩城宏之さんからシュバルツ作曲の「アンネの 日記」をフルオーケストラで演奏するから、日記のなかのいくつかの言葉を読んでほしい、との申し出があった。
アンネに関しては、懐かしさはあったが、苦い思い出もたくさんある。しかも、もうこんなトシなのだから、十三歳の女の子の日記を読むのはやはり若い女優さんにお願いしたほうが、とお断りしたところ、こんな風に説得された。
いやいや、この交響楽は、オードリー・ヘップバーンが晩年に作曲家に依頼して作ったもので、朗読もヘップバーンがやっている。彼女は若い頃、アンネ役で映画に出るように言われたが、日記を読んでとても自分にはできない、と断ったそうだ。
しかしアンネが日記の最後に書いた、「私が大人になったら平和を愛せる人になりたい」という言葉は、ヘップバーンにとって忘れられない言葉となった。世界中から愛された大スターは六十歳のときユニセフの親善大使に就任、残りの人生を貧しい子どものために捧げた。
そのコンサートもチャリティで、集まったお金を寄付するためのものだった。
「ですから、年齢からいっても、ちょうどいいのです」との岩城さんからの励ましの言葉に、私は出演を決めた。
コンサートは京都で行われた。
その話をしたところ、母が「私も行く」、と言う。
「だって京都だし、私は忙しいから付き合ってあげられないし、やめといてよ」と言っ たところ、「私は『アンネの日記』の公演は全部観たのだから、今度も行かなきゃ」、 と強い口調。
「観たって、そんなこと一度も言わなかったじゃない」、と言うと、「いいじゃない、 あなたが出かけたあと、公演のはじまる頃に行って、終わって帰ってきたら、少ししてからあなたは帰って来たのよ、チケットも自分で買って東京公演は全部観たわ、遠い所は行けなかったけれど、東京の近くには行ったのよ」。
三十年ぶりに聞く驚く話。あぐりさんはホント変わっている人だ。
娘に役がつくと、菓子折など持って劇団に挨拶にみえる親だっているのに、母は一度も現われなかった。子どもの頃のカラシの湿布が頭をよぎった。やるべきことはちゃっちゃっとやって、あとは仕事。そんな感じだったのだろうか。
仕事はまだ続けているとはいえ、だいぶ時間に余裕ができたから、京都にも足をのばしてみたくなったのかな、と思った。
何十年もあとにそんなおまけもついて、初舞台「アンネの日記」は、私にとってはさらに忘れられない公演となった。
この公演のあと、私は研究生から劇団員という身分になった。いよいよか、と重い気持ちになった。いま思えば、バチ当たりだ。有難いことではないか。私の性格もやっぱり親に似て、かなりゆがんでいるようだ。
高校生のときから33歳で退団するまで所属した劇団民藝。新劇で過ごした日々は青春そのものだった。
(第三章「劇団民藝からはじまった女優人生」より)
『そしていま、一人になった』目次より
はじめに そしていま、私は一人になった
第一章 母・あぐり、百七歳の静かな旅立ち
九十一歳の海外旅行/百歳のヒミツ/最後は空をつかんで……/ ほか
第二章 私にとっての吉行家
父・エイスケ、三十四年の人生/母・あぐりの半生/妻・あぐりを夫はこう見ていた/ほか
第三章 劇団民藝からはじまった女優人生
幼い私を苦しめた喘息/私は女優になる!/小劇場に心奪われて/ほか
第四章 兄・淳之介、妹・理恵との日々
家族のなかの淳之介/四歳違いの妹、理恵/妹と過ごした最後の日々/ほか
第五章 人生の残り時間を楽しむ
女友達とインドへ、そしてスペインへ/山田洋次監督と奇跡の出会い/私の終活/ほか
個性派揃いだった家族との思い出、女優としての来し方とこれから。吉行和子が明かす、あふれる想い。
【ホーム社の本棚から】
次回の更新は10月14日(木)です。
吉行和子(よしゆき・かずこ)
1935年東京生まれ。女優。父は作家・吉行エイスケ、母は美容師・吉行あぐり、兄は作家・吉行淳之介、妹は詩人/作家・吉行理恵。女子学院高等学校を卒業。在学中に劇団民藝付属の研究所に入り、1957年舞台「アンネの日記」でデビュー。59年 映画「にあんちゃん」などで毎日映画コンクール女優助演賞、79年映画「愛の亡霊」、2014年「東京家族」で日本アカデミー賞優秀主演女優賞。02年映画「折り梅」、「百合祭」で毎日映画コンクール田中絹代賞、その他テレビ、映画、舞台の出演作多数。