橋本治『人工島戦記』#9 敵はオヤジだ!
2021年の話題作の一つである、橋本治『人工島戦記──あるいは、ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかのこども百科』。その試し読み連載を再開します。12月20日から大晦日をまたいで1月5日まで、毎日一章ずつ公開していきます。題して「年越し『人工島戦記』祭り」!(第一章から読む)
イベント情報
2022年1月5日(水)、編集者・文筆家の仲俣暁生さんと、物語評論家・ライターのさやわかさんが『人工島戦記』をめぐる対談イベントを開催します。詳しいお知らせは、主催ゲンロンカフェのウェブサイトでご確認ください。
第いち部 低迷篇
第九章 敵はオヤジだ!
キイチは、いろんなことを知っていた。たとえば志附子湾の水深は浅いとか、比良野市が大学の誘致を考えていて、でもそれにノッて来る大学はないとか、志附子湾の東側の、摺下干潟とは反対側の手捏海岸を埋め立てて作った「マリンゾーンてこね」のウォーターフロントはバブルで、そこに作った高層マンションはボロクソに売れ残っているとか、それから辰巻市長は、人工島の建設が成功した後には、やっぱり志附子湾を埋め立てて、広い「新比良野国際空港」を海の上に作りたがっているらしいとか、「結局、辰巻は、志附子湾を全部埋めるつもりなんだろ」とかいう、更に先のことまでも。
自然保護のことは敢えて避けたくて、今まではそんな話を全然したことのなかったテツオは、いきなりボロボロ出て来るキイチの〝ヘンな知識〞を耳にして、びっくりした。
「キーポン、なんでお前はそんなこと知ってんだよ?」
「そんなことを知ってる人間は〝自然保護〞という危険思想に毒されている人間だけだ」と思うテツオは言うが、それに対して返って来たキイチの答は、「オレって、世界史好きだからなァ」という、ワケの分からないものだった。
どうやらそういうことらしい。
「世界史の知識というのはくだらないことばっかりで、試験にはそういうことが出ないから世間のやつは知らないでいるけど、現実というのは、やっぱり世界史とおんなじものなんじゃないか」というのが、キイチの喝破した〝本質〞というものだった。
「玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスは有名だけど、もとはといえば、楊貴妃は玄宗の息子の嫁だったんだから、それを奪っちゃった玄宗は、ただのスケベオヤジなんじゃねーのか?」とか。
だから、それがどう人工島とつながるのかということになるのかというと、現役で千大に入ってまだ二十歳になっていないテツオと、一浪して千大に入ってもう二十歳にはなっているけれどもまだそれだけのキイチには、よく分かんなかった。分かんなかったが、息子の嫁を奪っちゃった玄宗皇帝も、エラソーな顔をして人工島建設を企む比良野市長・辰巻竜一郎も、どっちも結局は〝オヤジ〞であるということだけは確かだった。
つまりは、〝オヤジ〞だった。今まで隠されていた、まだ二十歳になっていないテツオの胸にピンと来る一言──ピンと来る人間の言葉による一言が〝オヤジ〞で、それが遂に発見されたということだけは、確かだった。
「敵はオヤジだ」
キイチのメチャクチャな世界史論を聞かされたテツオは思った。テツオはまだ辰巻竜一郎がステテコを穿いているとは思わなかったが、〝ナンボか万羽の野鳥〞と〝自分〞とをつなぐはずのミッシングリングが遂に浮上して来たことを知って、十九歳のコマドメ・テツオは、胸を躍らせた。敵は〝オヤジ〞なのだ。
それを見ていたのは、「敵はオヤジだ」ということぐらいはずーっと前から知っていた、悪魔のような知性の持ち主、キーポンのイワイ・キイチだった。
キイチは、テツオのいる前で胸を張った。
敵は、とんでもないオヤジなのだ。
自然保護派が、「野鳥を絶滅から守るために、摺下干潟を守れ!」の一本調子であるのに対して、この辰巻竜一郎というオヤジは、「自然保護を言うのなら、干潟をなくした方がいい。あの干潟は、現在に残された、残すに値しないイビツな自然なのだ」という論を張って来るオヤジなのだった。しかもその証拠に、摺下干潟は臭い! これはとっても、自然保護派にしてみれば、衝かれたくない盲点だったのである。
「敵はオヤジだ!」と知って、テツオとキイチの心は震えた。「世界史に出て来る有名人は、みんなオヤジだ!」ということを知っているキイチなんかは、「ウフ、ウフ、ウフ」ものの興奮だった。なにしろ、伊集院光のように肥っていたあのオカモト・タローの母・岡本かの子は、肥った人妻でありながら、年下のやせた早稲田の大学生と不倫をして、その早稲田の大学生を、自分の家に住まわせちゃったのだ。それにショックを受けた有名マンガ家の夫・岡本一平は、そのショックを紛らわせるために、当時の有名芸能人だった豊年斎梅坊主についてカッポレを習ったのだから──。
「伊集院光のように肥った妻が浮気して、その夫がカッポレを習って踊っているというのはどういうことなんだろう? これが果して、日本の文学史に残っている事実であっていいもんだろうか?」
有名文学者岡本かの子の作品を一つも読んでいなくて「豊年斎梅坊主」がなんだかもよく知らないまんまのイワイ・キイチは、その昔に首をひねったのだが、「結局、世の中というものはそういうもんだ」ということにして、ゲラゲラ笑って寝転んでしまった。
結局、世の中はそういうものなのだ。
オカモト・タローの母親が、有名だったらしい女流文学者だというのは分かるが、あのオカモト・タローのオヤジが「マンガ家」だったなんてことがあってもいいのだろうか? 「豊年斎梅坊主」などというオチャラケた人間の名前があっていいものだろうか? がしかし、それは事実で、かつてこの世
に実在したものなのである!
世の中は、真面目そうな顔をしていて、人には真面目な思考を強いるくせに、平気で一筋縄ではいかないオチャラケたものなのだ!
その事実を知っていたキイチは「ニヤリ」と笑って、その事実を知ったテツオは、感動に震えた。
「そうだ! 世の中というものは、やっぱりうかつに手を出していいものではなかったのだ!」と。
環境保護派の母親をキリキリ舞いさせる比良野市のイケイケ市長・辰巻竜一郎は、ひょっとしたら今頃、スケベで金ピカな着物を着て、悪い越前屋とか相模屋なんかと一緒に酒でも飲んでいるのではないかと自然に思えてしまう、テツオとキイチなのではあった。
「敵はオヤジだ!」
「敵は一筋縄ではいかない!」
「しかし遂に、敵の正体は見えたぞ!」
とは思うテツオとキイチなのであったが、しかし、だからそれでどうしたらいいのかということになると、未だにさっぱり分からない、テツオとキイチの二人なのであった。
第九章 了
【橋本治『人工島戦記』試し読み】