第2回 あのころの芸能人は何が命? 姫野カオルコ「顔を見る」
幼い頃から人の顔色を窺うと同時に、「顔」そのものをじーっと見続けてきた作家・姫野カオルコ。愛する昭和の映画を題材に、顔に関する恐るべき観察眼を発揮し、ユーモアあふれる独自理論を展開する。顔は世につれ、世は顔につれ……。『顔面放談』(集英社)につづく「顔×映画」エッセイを、マニアック&深掘り度を増して綴る!
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アベサダ。
202X年現在、俳優の阿部サダヲだけを頭に浮かべる人のほうが多いだろうか。
198X年には、ナベサダのまちがいじゃないのかと、サックス奏者の渡辺貞夫だけを頭に浮かべる人のほうが多かった。
「ほうが」と言うからには比較をしている。
ある人物との比較。だれ? 阿部定、だ。
阿部サダヲは、この女性の名をもじった芸名である。ナベサダも、この女性がいたから姓名短縮の愛称が普及した(と思う)。
では、アベサダの四文字で、彼女だけを頭に浮かべ、ムクムク関心をおこしてくれた人には、申しわけありません。今回のテーマは、有名なあの事件とは関係ありません。
テーマは「時代差」です。時代によって「気にする」ことに、大きな差があるというテーマ。時代的着目点差。
この差の典型的な例は、日本では、「顔が大きい/小さい」がございます。安土桃山・江戸・明治のころ、ここに着目し、価値を決める民衆はほとんどいませんでした。ほかには?
それを語るために、昭和11年の阿部定事件から始めております。
阿部定は、妻帯者と熱愛になり、添い遂げられぬのならと、相手男性(名は吉蔵)を絞殺して、ペニスを切断して持ち去った。
5年で出所し、敗戦を経て、大阪万博を待つ昭和44年に、彼女がインタビューに答える東映のカラー映画が公開された。『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』。石井輝男監督が自らインタビューしている。映画は92分だが、インタビュー部分は短い。
よって以下の事項は、この映画ではなく、事件当時か、もしくは出所後の、新聞か雑誌の記事のコピーを読んで知ったことである。
定さんには、吉蔵さんと熱愛になる前から、何かと世話をしてもらっている「パパ」がいた。吉蔵さんの切り取ったペニスをハトロン紙に包んで帯の下にしまい、定さんは、パパさんに会いに行き、会うなり、適当な理由をつけて、帯は解かずに、着物を着たままセックスをした。
ここで着目点差の鐘がチンと鳴る。
「エッ、シャワーもなしで?」
令和人の大半はヒくだろう? バス電車の吊り革を持ったら駅のトイレで必ず流水で手を1分間洗う※私など、ヒヒヒヒヒヒいた。
※ラジオで、医師のおおたわ史絵先生が、アルコール噴射より、流水で30秒以上手を洗うほうがはるかに消毒効果が高いとおっしゃっていたので。※
記事を読み進めれば、さらに着目点差の鐘がジャンと鳴る。
帯を解かぬままのセックスの最中だか事後だかに、パパさんは定さんに言うのだ。「きみは、今日はなんだかにおうね」
令和人の大半は、ここであきれる。
「鼻がのんきすぎだろ、おっさん」
切り取ったペニスをハトロン紙で包んで帯の下に隠しているだけでなく、そのペニスの元持ち主との幾日にもわたるセックス後に入浴せずにいて、そのままの体で、別の町に移動し、シャワーなしでセックスしたら、その女性からは、「なんだかにおうね」などという、レベルではない臭いがするはず。
アベサダ事件関連の記事を、若いころに読んだ時、その時はまだ昭和人であった私は、パパさんののんきな嗅覚にあきれた。
しかし、平成人になったころに考え直した。
「鎌倉でも室町でもない、明治大正どころか、つい昭和でさえ、現在とは、生活環境がぜんぜんちがったのだ」
と。
昭和11年あたりは、民家はもちろん、病院もホテルも駅もレストランも、トイレは汲み取りだった(例外中の例外はのぞき)。窓枠は木製だったから、埃は室内につねに舞い込んだ。
鼠、ムカデ、蛇なども容易に室内に入ってきた。それらの糞も室内に散らばった。暖房は練炭、石炭だったから、煤や煙が室内につねに漂っていた。
成人男性の喫煙は多いどころか常識だった。道路は土で、道路脇のドブに蓋はなく、汚水がつねにたまっていた。
それでいて鎌倉室町のころより人口はずっと多く、都市部では建築もたて込んできていた昭和初期には、ありとあらゆる臭いが、室内に漂っていたのである。
そのような環境の時代に、こそこそと入館するような性交専門の旅館は、目立たぬように日当たり悪く、布団もろくに干されず、前の客が使用したままの寝具を使うこともあたりまえではなかったか。淫猥な臭いの集積が室内には濃く漂っていたであろう。
となれば、定さんよりはだいぶ年長で、嗅覚※が衰えてきているパパさんの、「なんだかにおうね」という感想も、とくにのんきなわけではないのではないか。
※加齢による嗅覚の衰えは高い確率で生じる。※
アベサダ事件の前年(昭和10)に、『妻よ薔薇のやうに』という映画が公開されている。しみじみ佳作である。監督は成瀬巳喜男。
今回のテーマ、時代差に着目して鑑賞するなら、金脈を見つけに行くと、ふらりと家を出てしまった父を訪ねて、丸の内のOLをしている主人公が、長野県に行くシーンが見もの。戦前の信州の山村も(景色として見ているぶんには)美しいが、着目点差の鐘がガンと鳴るのは、妾宅内シーン。
セットではなく、山村の民家で撮影させてもらったと思われる。「昭和」の映画でありながら、台所、階段、窓、それに妾の娘と息子の服と髪形等々、とても昭和に見えない。江戸時代である。
妾の美容院風景など、式亭三馬『浮世床』の映画化で通る。岡田准一主演『燃えよ剣』の江戸時代より、はるかに江戸時代に見える。
岡田准一版『燃えよ剣』の出来が悪いと言っているのではない。念のため(世の中には猛スピードの飲酒運転のように、あらぬ方向へ誤読する人が少なくないので)。令和の映画品だ、と言っている。
現代の映画であるため、作中の台所、階段、窓などは、最先端の材質でセットが組まれ、クリーンでスムーズでシャイニー。
出演者の髪ときたら、佐幕派も勤皇派も、彼らに係わる女性たちも、みな、井戸から水を汲んで来てではなく、どこか魔法のカランからふんだんに出てくるお湯で、朝シャンしてそうだ。
髪を毎日洗う、という習慣も「時代差」の一つである。
黒船が浦賀に来た時代ではなく、郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎の(徳川御三家にあらず)新御三家が人気絶頂だったころでもまだ、「髪を毎日洗うのは傷むからよくない」と、おしゃれ盛りの娘たちだけでなく、一般的にそう思われていた。
だからこそ、やがて黒澤明監督の長男の嫁になる林寛子(ハッ、この人も丸顔※)が、洗い髪(ワンレングスのロング)で、新発売の花王の『エッセンシャルシャンプー』を手に、にっこり笑って言うひとことが《キャッチフレーズ》として成立したのである。
※黒澤明と松田優作は、強度の丸顔女好み。黒澤監督長男も、その嗜好を受け継いだのかという「ハッ」。詳しくは発売中の『顔面放談』を。※
キャッチフレーズは、
《(この商品なら)毎日シャンプーしてもいいくらい》
だ。
令和人には、「してますけど、なにか?」であろう。
しかも《毎日シャンプーしてもいい》ではなく、《いいくらい》と、まだ遠慮が漂う昭和50年代であった。
29時間ほど髪を洗っていない人の頭に顔を寄せると、たとえセット剤やヘアコロンを使っていても、洗っていないにおいが、ツと鼻孔に入ってくるのを、令和人の鼻ならすぐに感知するが、林寛子のCMより40年前には、そんなもん、あたりにわんさと漂う、ありとあらゆるにおいにまじって、警察犬くらいしか感知できなかった。
固形や粉状ではなく液体の洗髪剤が、「シャンプー」という名で、初めて日本で発売されたのは、アベサダ事件のわずか4年前である。出したのは花王。
すると令和人の皆さんなら、「じゃ歯磨きはどうよ?」と思われるであろう?
歯磨きに特化した洗浄剤は、アベサダ事件よりもっと前から出ている。明治半ばに初めて、「福原衛生歯磨石鹸」というのが出た。福原といってもなじみがないだろうが、現在の社名は資生堂だ。
明治末に、石鹸状ではなくペースト状の歯磨き剤を発売したのは、小林富次郎商店。現在社名はライオン。
とはいえ江戸から続く世には、房楊枝も広く普及とまでは至らず、まだ人々のあいだでは、歯の洗浄は、つま楊枝をちょいと使うだとか、水や茶で口中をすすぐだとかで終わっていた。
大正に入って、この小林商店が、今日の我々が目にするような歯ブラシの基本となる商品を出した。これでようやく、令和人の動作に近い「歯みがき」が、人々のあいだに広まっていったものの、「朝シャン」がちょっとずつちょっとずつ広まっていったのと同じで、「ふつうの暮らしの中のふつう」というものは、ヨーイドンでいっせいにスタートしたり切り替わったりするわけではない。
大正時代はすぐ終わり、昭和となる。昭和5年(時々西暦を入れましょう。1930年ね)で、「歯みがき」がはたしてどれくらい「ふつうの暮らしにおけるふつう」のことだったか、知れたものではない。
その証拠が、『何が彼女をさうさせたか』である。
このサイレント映画は、昭和5年に公開され、大ヒットした。藤田まことのお父さんも出ている(いたいけな少女にエッチなことをしようとする琵琶のお師匠さん役)。
令和人が見ても、いやむしろ、タイパを重視する令和の若者が見たほうが、おもしろいかも。インテリの映画ファン(だけ)が、高得点をつける、静かな室内で、内省描写が延々と続くような映画の正反対。ジェットコースターでスジ(筋)が展開してゆくので。
残念なことに、製作元の火事でフィルムが焼けてしまい、長く〈幻の名画〉状態だったのが、太平洋戦争を経て、’90のバブルのころに、ロシアに残っていることがわかった。
欠損している箇所も多いものの、脚本と照らし合わせながら、だいたい話がわかるように、苦心の修復がなされたものが、令和の現在、なんとタダでアマゾンプライムで見られる。
ジェットコースター展開されるのは、薄幸のヒロインの一生。大ヒットしたのもしかりな映画で、サイレントであることなど気にならない。
うん。サイレントであることなど、ほんとに気にならないおもしろさだが、ものすごく気になることが別にある。
スマホのちまちました、せせこましい画面で見るなら気にならない(細かいところまで見えないので)かもしれないが、大きなディスプレイで見る令和人なら、着目点差の鐘がガンガン鳴り続く。
「うおぅ~!」
と、私など、自宅PCに接続したディスプレイを、老眼鏡いらずの大型にしているものだから、たまげた。
「この、は、は」
出てくる俳優たちの歯、歯、歯。歯がすごいのだ。
どうすごいのか、令和の御時世のポリコレで、はっきり言えないのがもどかしいが、見たら、だれもがすぐわかる。とりあえず、ノワールな歯並び、と婉曲表現にしておく。
映画が始まる。すぐ画面にヒロインが出てくる。エッ。
「フィルムの傷みで、こういう歯に見えるの?」
目を丸くした。ところが、どんどん展開するスジにともない、次々と出てくる俳優たちの歯が、エッどころではないので、最後まで見終わると、ヒロインの歯については、「さすがはヒロインをやるだけある」と採点を高くつけなおすことに。
父を亡くしたヒロインは、親戚夫婦を頼れとの遺言にしたがい、とぼとぼと一人で遠い道のりを歩き、疲れているところを、親切な車引きのおじさんに助けられる。
「うちに泊めてあげよう」などと申し出てくるおじさんが出てきたら、フィクションずれを重ねに重ねた、失礼、洗練された映画鑑賞者である令和の観客は、すぐに〈親切にみせかけた、実は悪い人〉だなと思う。いや、そんなふうに思う前に、令和ではもはや、「お約束」と受け取る。
昭和5年ですら、観客にそう思わせるように、ドラマとしての演出がちゃんとされている。
ごめん!! 今回のテーマ上、この映画未見の読者に、いやおうなくネタバレさせてしまうが、このおじさんは、〈親切にみせかけた、実は悪い人〉ではなく、本当に善人である。
この映画の中で、一番の善人とさえ言ってもよい。これが後でわかる演出も、昭和5年の映画としてはよくできている。
よくできているが、二回見ても、よくわかっていても、このおじさんが、どうしてもどうしても、「わるもん(悪者)」に見える。
なぜか。『007』に出てきたジョーズ(リチャード・キール)なみに、震え上がるほどノワールな歯のせいで。
ほかにも、①ヒロインをサーカスに売り飛ばす仲介人や、②阿漕なサーカスの団長、③いじわるなお金持ちのお嬢様、などなど、今なら、①寺島進、②香川照之、③菜々緒 などがキャスティングされそうな登場人物の歯たるや……。
『何が彼女をさうさせたか』を見たあとに、寺島、香川、菜々緒の写真を見たあなたの目には、彼らが「博愛と寛容の人生を送った偉人の役を演じるとぴったりだわ」と、映るであろう。
げに昭和5(1930)年。《芸能人は歯が命》という歯磨き粉※のCMコピーが大ヒットするまでには、あと65年もの歳月を待たねばならない。
※アパガード。発売元はサンギ。※
1930年の日本では、『何が彼女をさうさせたか』の俳優陣の歯のノワールに、だれも注目はしなかったと思う。
1925年のハリウッドでは、新人デビューさせることになったグレタ・ガルボに、MGM(映画会社)は歯列矯正を命じている。
〈芸能人は歯が命〉というのは、そもそもが〈アメリカ人は歯が命〉というアメリカ人の美意識を源流としているものではないだろうか。
この国に1941年に宣戦布告し、敗れ、占領され、今も半占領されているようなわが国で、日本人の「ふつうの暮らしの中のふつう」は、徐々に徐々にアメリカナイズされていったのである。
が、くりかえすけれども、教科書に墨を塗らされようが、チャンバラ映画を禁止されようが、人の気持ちというものは、ヨーイドンでチェンジするものではない。
1977年(昭和50年代)でさえ、まだ八重歯は、「かわいい女の子」「かわいいシスターボーイ」のしるしだった。
それに、私が小学生くらいまでは、前歯に複数の金歯や銀歯を入れている人があちこちに、中学生くらいでもちらほら、いた。
「そりゃ、前歯に金歯や銀歯はないにこしたことないけどさ、噛むのに不便だから、しゃーないじゃん」くらいの感覚で、令和人が感じるほどには、当時は金銀歯を、回避したい前歯の治療方法だとは思っていなかったように思うし、この治療法を施している人を前にした者も、そう感じていたように思う。
となれば、『何が彼女をさうさせたか』を見て、出演者の歯にヒッとなった私の感覚も、「時代」とともに変化したのである。小学生のころに見ていたら、出演者の歯など気にしなかったかもしれない。
あのちゃん(タレント)なら、「好みの人ばっかり出てくる」と喜んでくださるのかな?
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連載【顔を見る】
毎月第4金曜日更新
姫野カオルコ(ひめの・かおるこ)
作家。姫野嘉兵衛の表記もあり(「嘉兵衛」の読みはカオルコ)。1958年滋賀県甲賀市生れ。『昭和の犬』で第150回直木賞を受賞。『彼女は頭が悪いから』で第32回柴田錬三郎賞を受賞。他の著書に『ツ、イ、ラ、ク』『結婚は人生の墓場か?』『リアル・シンデレラ』『謎の毒親』『青春とは、』『悪口と幸せ』『顔面放談』などがある。
公式サイトhttps://himenoshiki.com/index.html