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第1回 美文字と女の園 姫野カオルコ「顔を見る」

幼い頃から人の顔色を窺うと同時に、「顔」そのものをじーっと見続けてきた作家・姫野カオルコ。愛する昭和の映画を題材に、顔に関する恐るべき観察眼を発揮し、ユーモアあふれる独自理論を展開する。顔は世につれ、世は顔につれ……。『顔面放談』(集英社)につづく「顔×映画」エッセイを、マニアック&深掘り度を増して綴る!
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 ようやく酷暑から逃れられた昼のごはん。簡単にすまそうと、スーパーのポイントが10倍つくというので買っておいた、ご褒美なんとかというレトルトカレーを棚から取り出し、箱を開けようとしたら、豪快に笑う男性の写真。

 おや、この方は……。

 ワンシーズン前に、広末涼子との恋愛で騒がれた鳥羽シェフ。おおらかに包み込んでくれそうなところに、広末は惹かれたのであろう。

 騒がれた最中にはともに配偶者のあった身なので、そのあたり当事者同士でよく話し合わないとならないと思うが、女優はやめないでくれたまえよ。

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 広末、いい女優ではないか。勾玉まがたまに似てるよね。しゅるん、として。スリムなスタイル全体を見ると、生しらうおに似てる、と言ったほうが合ってるかな。
 
 『ヴィヨンの妻』あたりから、(柄本明と正反対の)一人目立ちせんとする計略のない、構えない演技でいい味を出すようになった。CMなんか出なくていいから、これからも女優を続けてほしい。

 収入をCM出演に負うているなら、それは女優ではなくCMモデルなのだし、そもそもふしぎなのは、婚外恋愛をしたことを、不特定多数に向けてカメラの前で謝罪する、最近の「はやり流行」である。

 どう見てもあれは「はやり」であろう? ルーズソックスとかストリーキングの類。

 勾玉で生しらうおな広末のことは応援しているのであるが、ここにきて、ふしぎな謝罪とともに、美文字なるふしぎな評価をされている。
 
 〈市立小学校6年2組の学級委員をしている女児〉のような字を、広末涼子は書く。
 
 掃除の時間にさぼらず、宿題をちゃんとやってくる学級委員のような字を。(筑紫哲也と正反対の)飾らない筆跡は、あどけなさが残り、かわいい。

 ただし、それが、美文字と評判になっていると知り、ハーッと溜め息が出た。

 広末の字にではない。広末の字を美文字と判じる背景に。「最近の若者は肉筆文字を目にする機会も、書く機会も、ほとんどないのだ」と現状をつきつけられて。

 とある会社で、上司から、切手を貼って出すように頼まれた和紙の手書きはがきを渡された新入社員が、「どこに切手を貼ればいいのでしょうか」と訊ねたという。

 アナログなものいっさいがっさい、使わないどころか、肉眼で見る機会も、最近の若者にはないのであろうなあ、ハーッ……と溜め息が出たわけである。

 お若い方々には、藤原俊成ほど大昔の人にあらずとも、同じ芸能人なら、まずは森繁久彌の字を、それも揮毫の類ではなく、広島市安佐南区の竹中伸先生宛ての盛夏見舞いのはがきを鑑賞していただきたいものだ。

 〈はがき 森繁久彌〉で〈画像〉検索すると出てくる。

 彼はNHK大河『秀吉』の題字も担当していたほど達筆で知られていたが、ほかにも揮毫や色紙へのサインなど、かしこまった状況で書いたものとはちがい、さささっと急いで書いたらしいはがきである。

 上手に見せたいという、意地汚い欲がないのに、字が上手なことが、滲み出る文字で、加齢なりに筆圧が弱まってしまっているところさえ自然体でうるわしい。(「まずは森繁を」と言うたからには、後もあるので、そのおつもりで)。

 とはいえ、鑑賞したところで、若者だけでなく中高年者も、今や世人にとっては、どこそこ大卒だとか年収何億円とかだけが大事なことで、文字が美しいということは、もはやほとんど価値のないことになってしまっているのかもしれないね。

 メンコ100枚とったとか、ラーメンの麺一本を口の中で結べるとか、の類にね。

 日本から美しい文字が消えゆくのにも、美文字を愛でる世人が消えゆくのにも、ハーッと溜め息で、こんなことに溜め息をつくこと自体、「ババア、うぜえ」とやっかい者扱いなのかもね。

美文字とは? ホーム社、HB担当編集者らの手書き文字

 ならばここで、『女の園』を持ち出すとしよう。ババア教師が学生たちから、うぜえよ、と言われる映画だ。

 1954(昭和29)年、木下惠介・監督&脚本。女子学校を舞台にしている。この年、木下は代表作『二十四の瞳』も監督&脚本で撮っており、こちらがキネマ旬報ベストテン第1位に輝き、『女の園』は2位。

 そんなに僅差かねと私としては首をかしげるほど、映画としては『二十四の瞳』を推す(監督も主演も、持ち味の長所が全開の秀作)が、『女の園』には、興味深い見どころがいくつかある。

 はつらつテニス姿の岸惠子の、デビュー第一作の田村高廣の、気のいい補導監役の金子信雄の、女子大生役でもおばさん顔の杉山とく子の、お金持ちのお嬢様役の久我美子の、こうしたみなみなさんの「まァ、なんて若い☆」お姿。

 群像劇スタイルとはいえ、ほぼ主役のデコちゃん高峰秀子の、殊勝な純愛ぶり。姫路城がくっきり見える、敗戦後9年の姫路駅前。そこに、まだ一階建ての呉服屋さんだったころの西松屋チェーン。

『女の園』DVD。高峰秀子(中央)、久我美子(左)、岸惠子(右)

 しかし、こうした見どころも、かすむくらいの最大の見どころは、高峰三枝子である。同じ高峰でも、デコちゃんではなく、三枝子のほう。

 シニア寄り層には、〈風呂フロムーン〉と茶化されるほど、お湯の面からのぞく豊かなおっぱいが話題になった、国鉄フルムーンのCMに出た、日本映画史上最大のスタアの一人。

 美文字と同様に、「ひん」も、人が評価する要素ではなくなりつつある現在だが、かつて大衆は、銀幕のスタアに、目鼻だちの整いと並んで、高貴さを求めた。

 高貴な顔の造作という点において、高峰三枝子と東山千栄子は双璧である。この二女優のような顔だちは、現在では人気芸能人にはなれまい。高貴に過ぎて。

 高貴だとか気品というと、とかく久我美子の名が挙がりがちだが、それは彼女がデビューするにあたり貼られたブランドラベル(旧侯爵家)を知るがゆえのバイアスであろう。じっさいに接しての感想ではなく。

 ここで私が言うのは、ひたすら画面に出る表面(うわっつら)を観察して、額の骨、鼻の骨、頬の骨、顎の骨、等々を覆う皮膚から生えている睫毛、眉や、皮膚の上に配置された唇や、唇の奥にある歯茎、歯茎から生えている何本もの歯、等々、こうした純然たる「顔の造作」という外見の「デザイン」の高貴さのことである。

 こうした表面において、高峰三枝子を前にすれば、久我美子は、戦前の身分制度にたとえれば、平民の、"隣のミヨちゃん"である。だからこそ、久我美子は監督たちから愛され、大衆からも愛された。

 高峰三枝子は、外見としての「顔の造作」が、とことん高貴である。安全で高度な美容整形の技術が未発達だった時代に、実にきれいな顔面が、母体の膣から出たのである。

 中年以降、入れ歯か大半を差し歯にしたと見受けられるが、その蛍光塗料を塗ったごとき人工的な白色の歯が、オートクチュール仕立てのドレスさながら「よくお似合いですわ」になる顔だちは、まさに〈クールビューティ〉で、このフレーズがキャッチフレーズだったグレース・ケリーよりも、このフレーズに合っている。

 もしデビューが戦前でなかったら、スタアになれなかったであろう。

 戦後は、言うなればデモクラシー美女がウケたが、戦前だったから、身分差別美女、のほうがウケた、とまでは言わないが、身分差別美女もミヨちゃんも同じくらいウケたと言う。

 手の届かないものに焦がれる快感を、生きる指針とする「はやり」があったのではないかと想像するのである。

松竹「女の園」の作品ページ 高峰三枝子、高峰秀子、岸惠子、久我美子が描かれたポスターが掲載されている

松竹「二十四の瞳」の作品ページ デジタルリマスター版の予告編が見られる

 ゆえにさらに想像する。

 戦後に三枝子(秀子との混同を避けるために名前で記す)の映画を初めて見た観客には、彼女の顔のきれいさを認めつつも、なにかがひっかかって、うまく閉まらない窓のような抵抗(Ω)をおぼえた人が、けっこういたのではないかと。

 このΩを、学園ドラマふうに、男女別に表現するなら、こうだ。

 《例A・高度経済成長期に、21歳の男が、『浅草の灯』のスチール写真を見て》

 「たしかに美人だけどさ。美人過ぎてピンと来ないな。まあ、どうせオレみたいなイモには、向こうだってちっともピンと来ないだろうから、どーでもいーけどね」

 《例B・高度経済成長期に、21歳の女が、『浅草の灯』のスチール写真を見て》

 「美人ですよね。義母が、よく、きれいだって言ってて……、わたしは映画は見てなくて、TVでちょっと見るくらいで……、義母とちょっと似てるかな、とかって……、ええ……」

 男女ともに「美人だが好みではない=抵抗感」に言及している。が、男のほうは、ソフトな表現。

 女は、ソフトを通り越して、歯にものが挟まったようである。美人だとは認めて、具体的にきれいだと口にするのは、自分ではなく義母にまかせている。

 ちょうど自分の義母世代の三枝子を、義母と「ちょっと似ている」とする発言は、一見たいへんな賛辞であるが、無意識の(もしくは意識的な)マイナス感情が裏にある。

 「美人だが好みではない=抵抗感」は、なぜ女のほうが強Ωになるか?

 三枝子が同性だからだ。「同性をけなしたり嫌ったりする自分」は、隠さねばならないからだ。他人に対しても隠さねばならない。だが、自分で自分に対してはもっともっと隠さねばならない。

 「同性を貶したり嫌ったりするようなわたし」が、「わたし」は、大嫌いなのである。その自己嫌悪はソフィスティケイテッド度に比例する。

 「ぼく」も、同性を嫌う自分を嫌うが、女のほうが嫌う。なぜか。とりもなおさず♀だからである。

 犬の散歩をしていると、♂と♂は吠え合うが、♂と♀は吠え合わず、♀と♀は吠え合うよりは近寄りたがらない……であろう?

 ♂同士が喧嘩したり♀同士が避け合うのは動物の基礎性分であるので、人間の女性が女性を嫌ったってナチュラルで化学調味料無添加なハーブティーなのだが、高度経済成長期あたりから、ウーマンリブ運動が活発になり、『女の園』のような学生運動(組合運動)も活発になり、やがて男女雇用機会均等法も発令されて時代が変遷してゆくと、女性だけが、意識の丸裸を恥じ、無花果いちじくの葉っぱで股間を隠すようになった。

 成人女性の肉体の股間にあるのは陰毛と性器であるが、丸裸の意識の股間にあるのは、嫉妬と性欲である。

 ウーマンリブで意識を高くした女性は、自らの性欲を認めることを解放したが(しつつあるが)、そちらと反比例するかのように、自らの嫉妬は隠すようになった。

 他者に対する嫉妬というものは、あっさり認めて、対抗する努力をすれば、競争というスポーツマンシップにのっとった行為になるが、対抗努力はせずにぬくぬくとメラメラしているだけだと醜いのだから、女性だけでなく男性も隠したらどうかしらと、言いたくなるが、男性には「きゃつに嫉妬なんかオレはしていない」と思い込めてしまう人が、女性よりちょっぴり多いように思うのは私の気のせいかナ、と不意のカタカナ表記で口幅ったくするにとどめる。

 『女の園』を持ち出して語らんとするのは、同性に対する嫉妬についてではないからである。

 嫉妬していると誤解されることについてを語りたい。

 同性に対する嫉妬を醜悪視して恥じる女性は、ゆえに、自分がそうした行為をしていると誤解されてはたいへん困る。そんな誤解をされるのはとても厭だ。

 よって彼女たちは三枝子の顔に対する正直な感想を回避する。美人にちょっとでもケチをつけようものなら、即、「美人に嫉妬してる」と判定される。

 その判定はなぜか、待ってましたとばかり男性がおこなう。

 これが厭なのである。なにが厭って、本当に嫉妬しているのなら、耐えもしようが、嫉妬していないのに、嫉妬していると思われるのは、こりゃ厭だ。

 高峰三枝子の顔は、高貴に整っている。なのに、令和の昨今の、カメラの前での婚外恋愛の謝罪会見くらいふしぎなことに、いじわるに見える。笑っても、相手を見下しているように見える。

 整った顔をした人というのが、西洋人でも東洋人でも、近寄りがたいだとか、冷たそうだとかに見えるのは、宿命である。

 だが、三枝子の顔というのは、冷たいというのでなく、ズバリいじわるに見えるのである。よよと泣くシーンでさえ、いじわるに見える。

 びくびくと小心にくりかえすけれど、実物の三枝子の人柄ではなく、画面に見える「顔の造作」が。

 「嫁いびり」という単語は普及しているが、その実態は、各時代の、各家々の経済状態や労働状態により異なる。令和の、若者にあらず老人でも、明治大正の、のどかな村の農家の「嫁いびり」は、頭に正確な映像を浮かべられまい。

 しかし、フィクション(映画・漫画)に登場する「嫁いびり」のうち、フィクション的な名家の、そこのお姑さんが為す、この行為なら、比較的容易にイメージできよう。

 そんな「嫁いびり」をしそうな雰囲気が、高峰三枝子の高貴な顔にはある。デザインが、そうなってしまっている。

 ああ、こんなこと、凡作顔の「わたし」はとても言えない。こんなこと言ったら、すぐに「嫉妬してる」と思われるわ。

 東京地裁の偉い裁判長だって‘82に連合赤軍の永田ひろを死刑と判決するさい、「嫉妬心」に続けて「女性特有」という形容詞を用い、性質的要因を述べたのですもの、ああ、こんなこと、ああ、こんなこと言えない、言えないわ、誤解されてしまう、ごとん、がちゃ。

 〈ごとん、がちゃ〉というのは、京極夏彦の小説に出てきそうな、小さいけど重量のあるはこに入れて、蓋をして鍵をかけた擬音。

 こうして閉じ込めているために、高峰三枝子の映画を見ると、高度経済成長期に育った女性は、「なにかがひっかかって、うまく閉まらない窓のような抵抗Ωを感じるのであった」の状態になる。

 そんな世代の、そんな女性のうちの一人である私は……、よって、この先はプライベートな告白に移るのであるが、新旧の名作映画を、配信という手段によって、自宅でパジャマを着たままでも、いともかんたんに鑑賞できるようになった令和の、酷暑のある夏の日の午後に、アマゾンプライムで300円で、『女の園』を見た。

 戦前には反プロレタリア文学だった阿部知二が、戦後に左傾化して著した『人工庭園』を原作とするこの映画を、(原作刊行2年前の)‘52年メーデー行進でのシュプレヒコールのように、感動して鑑賞した人もいたことと思う。

 だが、それは多分に、女子学生たちのコーラスによる反射的な情緒高揚ではなかったのかなあ。私には『女の園』は、木下監督が『二十四の瞳』で忙しくて、原作を未消化に映画化してしまったように見えたけどなあ。ああ、こんなこと言えない。京極さんの匣に、ごとん、がちゃ。

 匣に入れたので、では「私だけには」と言うが、『女の園』が未消化な映画化と見えたのは、木下監督が原作をエンジョイしていない、と伝わってきたからである。

 『二十四の瞳』に精力も時間もとられて、『女の園』のほうは、原作を熟読する時間も、熟読した上で脚本に構成する時間も、ほとんどなかったのではないか。

 いや、あったとしても、「彼自身が本当に好きで選んだ原作だったのかしら?」「これを映画にすると、今の時期、ウケるんじゃないかねと、だれかに勧められたのではないかしら?」という感触が、見ている間じゅうしたからである。

 なので『女の園』は(私には)構成としてはベストテン外なのだが、既述のとおりヴィジュアルとしての見どころが多くあるし、なんといっても、これまで高峰三枝子をスクリーンで目にするたびに、つかえてきたΩの正体を白日のもとに晒し、その強Ωを、取り除いてくれる一本なのである。

 なんとなれば、この映画での高峰三枝子は、「いじわるで冷酷な寮母長の女教授」の役を演っているのだ!

 この役を三枝子がしてくれたおかげで、「美人に嫉妬してる」という誤解をされずに、口に出せるのである。「美人だけど、いじわるそうな顔」だと。

 さらに口に出す。『純情二重奏』より『情熱のルムバ』より『湖畔の宿』より、この『女の園』こそ、高峰三枝子の、聖林から公国の公妃となったグレース・ケリーにも勝るクールビューティを堪能できる映画だと。

 花椒たっぷりの四川料理のように、いじわるなデザインの顔の造作に、2時間21分、しびれっぱなしだ。

 くーっ、たまらん。なんという凍えるきれいさ!

 いじわるな氷顔(コオリガオと読んでくれたまえ)の三枝子は、さらに、この映画で、令和の観客を、「おおーっ」と唸らせることをする。

 美文字を見せつけるのである。

 大学の教室。女子学生を前に、教壇に立つ三枝子が、文字を書くシーンがあるのだ。

 うひゃあ、すみませんと、私など謝ってしまう美文字。

 このシーンはもしかしたら、美術担当のスタッフから頼まれた書道専門家の文字が薄く書かれていて、それをなぞっているのかもしれない。そこはわからない。

 なぞったとしても、美文字というのは、こういうのを言うんだよと、令和の若者に、森繁久彌の直筆とともにぜひとも見てもらいたいシーンなのである。

 さて、旧ムービー(戦後~‘89の映画)『女の園』とおなじく、女子学校を舞台にした映画に、『女學生記』という一本がある。製作は東京発聲映画株式會社。

 社名でおわかりのとおり、こちらは、1941年の古典ムービーになる。
※旧ムービー=戦後~‘89の映画、古典ムービー=戦前の映画、とこの連載では分類

 1941年といえば昭和16年、日本海軍が真珠湾攻撃をした年であるのに、おっとりとした山の手のお嬢さん学校の日常を撮っているのに驚かされる。

 この映画からすれば、国民にとって、戦争はまだどこか抽象的なものであったことがわかる。

 『女の園』とおなじく群衆劇。実質的な主役もやはりデコちゃんである。アイドル時代だから、子役時代と変わらずかわいい。撮られているエピソードも、「少女」の年齢にある群衆の、普遍的な感受性を描出しており、おもしろい。

 1941年の公開当時よりもむしろ令和5年の現在に見たほうが、普遍性がわかるぶん、おもしろいのではないか。同時に、時代風俗の、現代との差もたのしめる。

 さて、『女學生記』も持ち出してきたのは、美文字のつづきなのである。

 題字もスタッフ&キャストのロールも黒板にチョークで書いたような愛らしい文字なのだ。

 古典ムービーはもちろん、旧ムービーも、あるていど古い映画では、こうしたオープニングは、デジタルのフォントではなく、みな肉筆であった。

 予告編でも、キャッチコピーが白抜きの筆文字で、水茎麗しく画面に出た。

 たとえば大映の、山本富士子主演の『源氏物語 浮舟』は、
 
 《いつの世も変わらぬ 男女の愛情の激しさ妖しさを 心憎いまでに描いて あなたの心をうっとりさせずにはおかぬ 感動の大作 源氏物語、浮舟、浮舟にご期待ください 近日公開 総天然色巨編》

 という、歌謡ショーなどでの曲のイントロ中の司会者の曲紹介ふうの、ものものしいナレーションから、一部を抜いて筆文字が画面に出てくる。

 各映画会社で筆跡がちがったのは、それぞれに書記部があったのか、依頼する書道専門家が、各社ごとに決まっていたのか。

 映画関係の書籍には、俳優や監督や脚本や撮影について詳しく書かれたものはあるのだが、ああいった文字の書き手について書かれたものを、勉強不足で私は未だ読んだことがない。

 大映と松竹の、あの美文字は、どういう方が書いておられたのだろう。当時の現場を知る方々が、次々と鬼籍に入られているので、どう調べればよいものか、手がかりがつかめない。

 大映作品によく用いられた、〈出演〉の〈出〉の字の、上より下のほうが小さい、楷書に近い行書の筆跡の持ち主は、なんというお名前の方なのであろう。実にたおやかな文字である。

 ぜひとも、老若問わず、現代人に鑑賞していただきたい。有料で古い映画を見るのはイヤだというのであれば、冒頭部だけなら無料である。

アマゾンプライム「女の園」ページ(<予告編>で題字などの美文字も見られる)

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連載【顔を見る】
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姫野カオルコ(ひめの・かおるこ)
作家。姫野嘉兵衛の表記もあり(「嘉兵衛」の読みはカオルコ)。1958年滋賀県甲賀市生れ。『昭和の犬』で第150回直木賞を受賞。『彼女は頭が悪いから』で第32回柴田錬三郎賞を受賞。他の著書に『ツ、イ、ラ、ク』『結婚は人生の墓場か?』『リアル・シンデレラ』『謎の毒親』『青春とは、』『悪口と幸せ』『顔面放談』などがある。
公式サイトhttps://himenoshiki.com/index.html

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