第3回 東出昌大の(うらやましい)欠点と、『福田村事件』から始まる、老いらくの志
幼い頃から人の顔色を窺うと同時に、「顔」そのものをじーっと見続けてきた作家・姫野カオルコ。愛する昭和の映画を題材に、顔に関する恐るべき観察眼を発揮し、ユーモアあふれる独自理論を展開する。顔は世につれ、世は顔につれ……。『顔面放談』(集英社)につづく「顔×映画」エッセイを、マニアック&深掘り度を増して綴る!
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森達也監督『福田村事件』を、公開日翌日に見た。
力作であった。じつに、流言蜚語にふりまわされてしまう人心のおそろしさよ。
作品の内容とテーマに沿った感想は他の方にまかせるとして、当連載は『顔を見る』。「見た目」に沿って以下を話すなら、まず撮影がよかった。大正末期の雰囲気をよく出していた(大正末期に生きていたわけではないのだが)。
瀬々敬久監督『菊とギロチン』と同じ場所がロケ地として多用されている。私の出身地甲賀である。
拙著の読者諸賢におかれては、この『福田村事件』と『菊とギロチン』を見ていただければ、私がみうらじゅんに、つねに「憎い」と形容詞をつけ、〈憎いみうらとちがい、私は気軽に映画を見に行けるような町に住んでいなかった〉などと、いちいち恨みがましく言う行為の背景が、視覚でわかっていただけると思う。
出演者も、全員が熱演であった。とくに水道橋博士。
映画を見たり本を読んだりする(のがあたりまえになっている)人というのは、小中高生のころならいざしらず、20歳を過ぎたあたりから徐々に、「登場人物に感情移入して読む(見る)」ことをしなくなる。35歳以降ともなると、感情移入しない読み方(見方)がデフォルトになる。
だからますます、読んだり見たりが、おもしろくなる。
「感情移入して読む(見る)」と、主要登場人物に共感しなかったり虫が好かなかったりすると、「なに、この本(この映画)つまらない」に直行するが、年長けると、感情移入ではなく、中に出てくる人間それぞれを観察する愉しみ方をするようになるので、本も映画も、あまりハズレに当たらない。
「虫が好かんやっちゃ」「ケッ、なんだこいつ」という感情もまたオツなのである。
ただし同時に、そういう愉しみ方ができるようになると、つまり大人になると、映画を見て、ハラハラしたりシクシク泣いたりするようなホットな感覚からは、遠のいてしまう。
ところが、『福田村事件』の水道橋博士が演ずる男は、いやもう、イラつくのなんの、ムカつくのなんの、前席の背もたれを代償に蹴りたおしてやりたくなるほど視野狭窄のヒステリー男で、久しぶりに「映画の中の人」に対してホットになった。博士の熱演であった。
だいいち、あれが水道橋博士だとは、見た後にパンフレットを読むまでわからなかった。名演であった。
むろん、ほかの出演者も熱演である。なっちゃん(田中麗奈)は手堅くよかったし、コムアイは艶美で、朝鮮飴売り役の碧木愛莉はけなげだった。
井浦新の芸風は、若松孝二監督『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』につづき、『福田村事件』でも活かされている。
あの芸風は曽利文彦監督『ピンポン』から身についていた。〈熱〉演すると〈冷〉演になる、とでもいえばいいか。
『ピンポン』ではまだ、いわゆるクールな役を演っている、というふうだったのだが、年齢とともに芸風に磨きがかかり、優柔不断、弱腰、気兼ね性分、慮りすぎて判断ミスする男、といった役どころを与えられると、水を得た魚のようになる。
この芸風がハマる役を与えられると、芸としては「いきいき」しているも、スクリーンで見えているかたちは「しょんぼり」なのである。
彼の輪郭はU(面長)だが、顔面に置かれた目鼻口は、О(丸顔)の江藤潤に似ている。なにより皮膚の質感(張りの塩梅)が両者はそっくりで、この皮膚の質感なら、江藤の演じた役を、リメイクで井浦が演っても合いそうだ。
*UとOの分類については『顔面放談』に詳しい*
江藤が主演した横山博人監督『純』の、悩み多き気弱な痴漢の役などを、年齢としては『ピンポン』に出た後くらいの井浦が演るのを軍艦島ロケで見てみたかったものである。
東出昌大は、『福田村事件』と同じロケ地で撮影された『菊とギロチン』にも主要な役で出演しているが、あちら(菊ギロ)が色男の思想家だったのに対し、こちら(福田)での役は船頭。
ちょっとしたラブシーンもあるので、こちらも色男といえば色男の役なのであるが、あちら思想家役の衣裳とちがい、こちらは船頭の衣裳なのが、ある意味、見どころ。
船頭なので金太郎型の腹掛けをしている。この服(?)の、似合わないことといったら。
上半身だけ映ると、「中条あやみがホルターネックのパーティドレスを着たところ」に見える(東出×中条=顔面相似)。
下半身だけ映っても、《ANAで行くカナダ夏旅! ユーコン川でカヤック体験》とかなんとかコピーのついたポスターに見える。
なぜ、こう見えるかというと、モデル体型で、どうしようもなくプロポーションがよいからである。「ちくしょうちくしょう、こんな悪口、あたい(おいら)なんか、言われたことないやい!」な見どころ……。
少し前(だいぶ前?)、東出昌大は婚外恋愛で、さんざん叩かれたが、当時から「そんなに騒ぐようなことか?」と思っていた人は少なくなかったはずである。
むろん、当事者同士には大きな問題だろうし、当事者にあらずとも、人気芸能人なのだから、ファンが「キャッ♡ イヤン♡」なお噂、みたいなスタンスで話題にするのならわかるが、当事者でもファンでもない大勢が、まるで「正義のもとに悪行を懲らしめる」かのように騒いでいたのは、ワケがわからなかった。
『菊とギロチン』でも『福田村事件』でも、爛れた関係をする役をしている東出は、駄ルックス(駄菓子からの造語)の者からすれば「ちくしょうちくしょう(涙)」な「外見の欠点(涙)」のために、爛れた愛欲シーンがいっこうに爛れないのが残念。
ある登場人物とのセックスシーンも、高額の7層コーティングIH対応のフライパンで焼いたオムレツのように、焦げない。
小松方正、セルジュ・ゲンスブールなどは14層フライパンでも焦げて爛れる。小池朝雄など、一人で画面に出てきただけで焦爛だ。
顔の整い度の差なのだろうか?
「行儀悪いし、健康にもよくないけどさ、濃厚豚骨魚介味のチャーシューメンに、冷えた残りごはんをちょっと入れるとさ、みっともない食べ方だけどさ、でもさ、でもさ、おいしいじゃないのさ」みたいな外見の男優には、こしかけて窓や、部屋の隅などを見ているシーンだけで爛れる人がよくいる。
とすれば、かつては美男子の代名詞だったアラン・ドロンは、やはり希有な男優である。
あんなにイケメンなのに、ちゃんと爛れ感が出る。たぶん、ドロンの顔には、どこか下品さが漂っているからであろう。豚骨魚介味ラーメンに冷えた残りごはんの魔性が、あんな顔に潜んでいたところが、フランスと日本の女性をメロメロにさせたのだ。
とすれば、東出はプロポーションのみならず、顔にも、下品さがないわけで、彼のこうした外見の欠点(ああ神様、この欠点、来世にはどうか私にも授けてください)は、しかし、羽生棋士を演じた『聖の青春』では大いに活かされていた(森義隆監督)。
羽生棋士と東出の顔は似ていないのにもかかわらず、東出の焦げないテフロン加工がふしぎなくらい効いており、羽生棋士そっくりであった。動作、佇まいも。
あの映画の東出の努力はとても好感が持てた。もっとヒットしてもよかったのに。
*
して、こちらヒットの『福田村事件』について、いよいよ、面目躍如を語る。
我が身の面目躍如だ。
『週刊文春』の「顔面相似形」投稿歴20年以上、『顔面放談』上梓、当『顔を見る』連載の身の、面目躍如。スケールがちっぽけすぎて、だれも知らず、したがってだれも言ってくれる人がいないので、これから自慢する。
『福田村事件』には、永山瑛太やピエール瀧や豊原功補など、〈福田村事件 キャスト〉で検索すると写真付きで出てくる俳優だけが出ているわけでは、当然ながら、ない。セリフの少ない、あるいは無いに等しい出演者も大勢いる。
映画のものがたりが進むにつれて、事態は不穏になり、何人かが斬られる。そのうちの一人が、斬られるときに顔が一瞬アップになった。
(あれ?)
座席で、私は無声で言った。が、まずは映画の進行に集中した。
(どこかで……)
斬られた顔を頭の中に再生したのは、映画館を出てからである。斬られるシーンになる前の、大勢で歩いたり、円座になっている一瞬のシーンでも、おや、とは思っていた。
(あの人、どこかで見たことが……)
どこだっただろう。えーと。考えながら渋谷駅まで歩を進める。
(わかった)
Bunkamuraを通過しているときに思い出した。ある場所の受付にいる人だと。
ある場所というような妙な言い方をするのは、その人と私のプライバシー保護のためです、あしからず。
小劇団員や新人俳優が生活費をアルバイトでまかなっているのは、よくあることである。仕事が入ったさいに、比較的休みやすい飲食系の店が多いそうだが、その人が受付をしているところは、そうした場所ではない。
「でも、たしかにあの人だったような……」
家に帰ってからも、ウッと斬られる顔が思い出され、翌日、その場所に行ってみた。受付に、その人がいた。制服を着ている。あたりまえだが映画での様子とはちがう。
「いや、でも、あの人だった」
受付には何人もお客さんがいたので、声をかけては迷惑になる。見るだけにとどめ、声はかけなかった。
顔が気になると、ずっと気になるので、別の日に、また行った。受付にはお客さんはゼロ。ほかのスタッフも席を離れている。これはチャンス。
「あの、つかぬことをお伺いいたしますが、俳優のお仕事もなさってらっしゃいます?」
私は訊ねた。
答えは「あ、いちおう」の小声。
「やっぱりー!」
対し、私は大きな声。
『福田村事件』を見たと告げると、
「えーっ、見てくださったんですか?」
と、彼も大きな声に。お客さんが来て、別のスタッフがもどるまでの数秒間ではあったが、「歓談」となったのだった。
そこで、さらに自慢するのは、赤川町・ゆかた美人コンテストである(以下、町名は仮名)。
今を去ること約25年前。都内某区の赤川町に住んでいた。《赤川町・ゆかた美人コンテスト》という地元のイベントが開催された。10人ほどの妙齢の女性が、ゆかた姿で駅前の広場のようなところに並び、地元商店街の店主さんが審査するというもの。
今ならアウトなイベントだろうが、25年前はまだ、ミス・コンの類へのconsciousが低かったし、審査するといっても、ルックスの順位を決めるのではなく、「ゆかた柄がすてき賞」とか「まとめ髪がきれい賞」とか「帯の結び方がお上手賞」とか、全員に何らかの賞が与えられるような、地元町内会の夏のにぎやかしであった。
25年と言えば四半世紀。この間に赤川町から、黄川町、緑川町と、引っ越しをし、高齢者になった。
先日、些細な用あり、赤川町に行った。やや遅い昼食に、ケンタッキーフライドチキンに入ったのは、ここに住んでいたころはまだ、揚げ物も気にせず食べていたなあという、食い意地のなつかしさだったのかもしれない(年をとると、揚げ物は食後の胃もたれを用心するようになる)。
何のセットを食べたか。忘れた。すわった席の向かいの席の人に驚いたからである。
(あっ)
目を見張った。
(2番の人では!?)
《赤川町・ゆかた美人コンテスト》で2番の札(2と書かれた団扇を持って出場した人ではないのか?
四半世紀前のその夏のイベントで、私は2番の人が印象に残っていた。
目立つホクロがあったとか、一人だけ外国人だったとか、極端に太かった、背が高かった、など外見に顕著な特徴があったわけではないのだが、立った姿勢に、なんとなく個性が出ていた。
町内夏祭のにぎやかしの催しとはいえ、いちおう「ミス・コン」だったのに、「ミス・コン」などというものに出場している気概がまるでない立ち方、司会者が話をするあいだも、べつのことを考えているような立ち方、やや肩をいからせたような立ち方に愛嬌があったので、私には印象に残ったのである。
(たぶんそうだ、ううん、きっとそうだ)
私はケンタッキーポテトを指にはさんだまま、見つめる。
(きっと、2番の人だ)
たしかめたい。ケンフラのポテトは、サブウェイのポテトの次においしい。そのおいしいポテトを、指から離してまで、たしかめたい欲が増す。
しかし、たしかめるためには、「いきなり声をかける」しかない。いきなり声をかけて「あなた、25年ほど前に、赤川町・ゆかた美人コンテストで、2番で出場されてませんでしたか」と訊くしかない。
(そんなことしたら……)
そんな行動をとったら、相手はこちらに対して、どんなに「なんなの、この人」と思うだろう。しかも、もし、ちがっていたら。
(ちがっているだろうか……。ちがう? 気のせい? いや、ちがっていない。あの人は、たしかに2番の人だ……)
たしかめたい。どうしても、たしかめたい。あの顔はきっと2番。
『冷静と情熱のあいだ』の感情を、姫野カオルコが書くなら、フィレンツェではなく、この日の、ケンタッキーフライドチキン赤川町店での感情だ。
冷静が負けた。「なんなの、この人、と思われたらいやだ」という冷静な気持は、「たしかめたい」という情熱に負けた。
チキンの骨とポテトとコーラの残る席をいったん離れ、私は向かいの人に近づいた。
「あのう……」
声をかけた。訊いた。
彼女の反応は?
「えっ」
おどろいた顔が、私の前にあった。
「やだ」
高い声。そして、破顔。
「ワタシ、2番だったの?」
たしかに出たと。ただ、自分の番号は忘れたと。よくおぼえてたわね、と。
「あー、びっくりした。えっと……、ご近所の方?」
まちがっていなかった。2番の人だったのである。
かつて近所に住んでいたものでと、ごにょごにょ伝えたあとの私は、残りのポテトとコーラを味わう余裕はなかった。この状況下では、自分の、人の顔の記憶がまちがってなかったうれしさを味わう余裕もなかった。
かかる不躾なふるまいを、現実に自分がしてしまった興奮で喉がつまったようになった。
ポテトは残りごくわずかだったので残してしまい、コーラをごくごく飲み、どうも失礼をば、とそそくさと店を出た。
ことほどさように、一瞬の殺されシーン、四半世紀前の町内会主催ミス・コンの出場者を見逃さないのだから、主役をはる芸能人が、繁華街の歩道、地下鉄車内、リストランテ店内などを、歩いていた、立っていた、来ていた等々は、まず見逃さない。
かんちがいではないのか、と読者は思われるかもしれないが、私が気づいたあと、だいぶしてから他の大勢が気づいてさわぐので、どのケースもかんちがいではない。
映画やTVに出演しているような人以外にも、イギリス人音楽評論家のP.Bさん、コラムニストのN.Mさん、作家のK.Mさんといった、〈著者近影〉でしか顔を見たことのない人の、立っていた、歩いていた等々も、見逃さない。
これはもっと、かんちがいではないのか、と思われるかもしれないが、気になってしかたがないので、見たあとすぐに、担当編集者にLINEをして、ひそかにたしかめている。
以上、自慢話をすると言っておきながら、その自慢は、「だから何?」というようなスケールの小ささであるが、しかし、赤川町で《ゆかた美人コンテスト》を、ぷらぷら見ていたころとちがい、私はもう高齢者である。
川田順(※)の「老いらくの恋」ならぬ、「老いらくの志」に燃えることにした。
あちこちの交番に貼ってあるだろう? 重要指名手配犯や捜索願人の写真が。
『福田村事件』以来、交番を通りかかるたび、こうした写真を、私は凝視することにした。ちょっとした待ち時間(スーパーのレジ待ちなど)でも、スマホ画面に出して凝視することにした。
髪形、カツラの有無、眼鏡の有無、肥満/痩身、性別、そしてなにより雰囲気で、人の顔を見る人が圧倒的に多い中、こうしたパッと見の特徴や着脱容易なアイテムにとらわれずに顔見道(がんみどう)を究め、手配ならびに捜索されている人を発見しようではないかという、老いらくの志である。
《お手柄、姫野カオルコさん! 警視庁から表彰》
の見出しが、新聞雑誌ネットニュースに出る日を、読者のみなさま、期待していてください。
凶悪犯を見つけるのは怖いので、できれば捜索願いの人で、この志を遂げ、ご家族にもよろこんでいただきたい。
※川田順=「墓場に近き老いらくの恋は怖るる何ものもなし」の歌で、「老いらくの恋」を流行語にした歌人、住友実業マン。※
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連載【顔を見る】
毎月第4金曜日更新
姫野カオルコ(ひめの・かおるこ)
作家。姫野嘉兵衛の表記もあり(「嘉兵衛」の読みはカオルコ)。1958年滋賀県甲賀市生れ。『昭和の犬』で第150回直木賞を受賞。『彼女は頭が悪いから』で第32回柴田錬三郎賞を受賞。他の著書に『ツ、イ、ラ、ク』『結婚は人生の墓場か?』『リアル・シンデレラ』『謎の毒親』『青春とは、』『悪口と幸せ』『顔面放談』などがある。
公式サイトhttps://himenoshiki.com/index.html