第二十一話 霜降 早川光「目で味わう二十四節気〜歴史的名器と至高の料理 奇跡の出会い〜」
器・料理に精通した早川光が蒐集した樂吉左衛門、尾形乾山、北大路魯山人などの歴史的名器に、茶懐石の最高峰「懐石辻留」が旬の料理を盛り込む。
「料理を盛ってこそ完成する食の器」
二十四節気を色鮮やかに映し出した“至高の一皿”が織りなす唯一無二の世界を、写真とともに早川光の文章で読み解くフォトエッセイ!
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Photo:岡田敬造、高野長英
第二十一話「霜降」
2024年10月23日〜2024年11月6日
「霜降」とは「霜が降りる頃」という意味。ひとつ前の節気の「寒露」は冷たい「露」でしたが、さらに秋が深まり、気温がぐっと下がることで、露が凍って「霜」に変わるのです。
「霜降」はまた、木々の葉が美しく色づく「山粧う」時季でもあります。とりわけ鮮やかな赤に染まる紅葉の美しさは、ほどなく散ってしまう一期一会の風情も相まって、古くから日本人の心を惹きつけてきました。
そんな「霜降」の器は、北大路魯山人(1883~1959)の『染付 紅葉形皿』です。
北大路魯山人は、大正時代の後期から昭和の前期にかけて活躍した芸術家で、その活動は篆刻(印章を作ること)、絵画、書道、漆芸、料理など、広範な領域に及びます。
なかでも陶芸家としての評価は高く、昭和30年(1955)には、文化財保護委員会から、重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されているほど。ただし、位階勲等(国家が授ける位、勲章、等級のこと)を嫌う魯山人は、これを固辞したと伝えられています。
この器は、紅葉を象った皿に、染付で葉脈を描いただけという、シンプルなものですが、その放射状に描いた葉脈が、見込みに盛った料理を際立たせる、視覚的な効果を生んでいます。
そして、赤色をあえて使わず、染付の藍色のみで紅葉を表しているところにも「器は料理の着物」を信条とする、魯山人らしいこだわりが窺えます。
器に盛る『懐石辻留』の「霜降」の料理は『ぐじ一汐 菊の花 岩茸 わさび』。
「ぐじ」とは「アカアマダイ」の京都、福井での地方名です。その名の由来には諸説ありますが、前屈みになったような独特の頭の形からつけられた古い呼称「屈頭魚」が転じたものというのが、有力とされています。
関東より関西で人気が高い魚で、京料理には欠かせない食材のひとつ。春の「鯛(マダイ)」、夏の「鱧」と肩を並べる、秋の味覚の代表です。
そして「一汐」とは、食材に塩をまぶし、時間を置いて脱水する調理法のこと。新鮮なぐじは水分が多いため、この「一汐」で身を引き締めます。
『懐石辻留』では、塩をしてからさらに二日ほど寝かせたものを供します。こうすることで、塩が馴染み、身の甘みがさらに引き立つのです。
淡い朱色を帯びたぐじの身、赤紫色の菊の花、柳色のわさび、そして岩肌を思わせる濡羽色の岩茸という配色が、晩秋の「山粧う」風情を、見事に表現しています。
もうひとつの器は、古伊万里・古九谷様式の『染付 鹿紅葉文皿』。
江戸時代の寛文から延宝年間(1661~81)の頃に、肥前有田(現在の佐賀県有田町)で焼かれた染付磁器です。
皿の見込みに鹿を描き、その周りを囲むように紅葉をあしらった、今から300年以上前に作られたものとは思えない、洗練されたデザインが目を引きます。
鹿と紅葉の組み合わせを意匠化した「鹿紅葉文」は、百人一首にも収められている「奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき」という古今集の和歌に因むもの。
「人里離れた奥深い山で、散った紅葉が敷き詰められた地面を踏み分けながら、雄鹿が恋慕う雌鹿を求めて鳴いている」という情景を詠んだ歌で、そこには深まる秋への詠嘆がこめられています。
器に盛る料理は『生うにと鮑の酒煮』。
新鮮な生ウニとアワビを、刺身ではなく、あえて酒煮にすることで、旨みと甘みを凝縮した一品です。
『懐石辻留』では、煮切り酒(アルコール分を飛ばした日本酒)に薄口醬油を加えたつゆで、まずアワビを炊き、取り出した後に生ウニを入れます。このひと手間によって、アワビから出ただしをウニに含ませ、旨みをさらに引き出すのです。
器の中心に重ねて盛ったウニとアワビが、あたかも、舞い落ちて折り重なった紅葉のように見えます。「霜降」の時期にふさわしい、美しく、趣のある盛りつけです。
プロフィール
早川 光(はやかわ・ひかり)
著述家、マンガ原作者。『早川光の最高に旨い寿司』(BS12)の番組ナビゲーターを担当。『鮨水谷の悦楽』『新時代の江戸前鮨がわかる本』など寿司に関する著書多数。現在は『月刊オフィスユー』(集英社クリエイティブ)で『1,000円のしあわせ』を連載中。
ブログ:「早川光の旨い鮨」
懐石辻留料理長・藤本竜美
初代・辻留次郎が裏千家の家元から手ほどきを受け、1902年に京都で創業した『懐石辻留』。その後、現在に至るまでその名を輝かせ続け、懐石料理の“名門”と呼ぶに相応しい風格を纏う。北大路魯山人のもとで修業した3代目店主・辻義一氏から赤坂の暖簾を託されたのが、料理長の藤本竜美氏。「食は上薬」を肝に銘じて、名門の味をさらなる高みへと導いていく。
HP:http://www.tsujitome.com
注釈/北大路魯山人
書家、篆刻家であり、本来は陶芸家でなかった北大路魯山人(1883〜1959)が作陶を始めたのは、主宰する会員制料亭『星岡茶寮』で使う食器を自作するためである。
「器は料理の着物」と考えた魯山人は、中国明時代の天啓赤絵や古染付、桃山時代の織部や志野、江戸前期の古九谷などの古陶磁をその作陶の手本とした。
そのため初期の作品には古染付や織部に倣ったものが多いが、やがてそこに芸術家としての創意を加えることで「色絵金彩椿文鉢」や「糸巻平向」、「銀彩葉皿」といった、用の美に溢れるオリジナルの名品を生み出した。
魯山人の皿や鉢、そして向付は、すべて料理を盛った姿をイメージして作られている。ゆえに料理人にとっては、盛りつけのセンスや力量が問われる、難易度の高い器だと言えるだろう。
注釈/古伊万里
古伊万里は有田、三川内、波佐見などの肥前国(現在の佐賀県および長崎県)で、江戸時代に生産された歴史的価値の高い磁器の総称。伊万里の名がついているのは、江戸時代にこれらの磁器が伊万里港から出荷されていたためである。
古伊万里はその制作年代によって焼成や絵付の技術、釉薬などに違いがあるため、研究者によって細かく分類されている。
肥前国で磁器製造が始まった1610年代から1630年代頃までの器を「初期伊万里」、続く1640年代から1670年代頃の器を「古九谷様式」、1670年代から1680年代頃の器を「柿右衛門(延宝)様式」などと呼ぶ。
古伊万里が技術的に成熟し、最も充実していたとされるのは、芸術や文芸が花開いた元禄年間(1688〜1704)で、この頃に生まれた「金襴手様式」の器はヨーロッパへの輸出品としても人気を博した。
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