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No.19『ガープの世界』ジョン・アーヴィング/筒井正明訳 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」

子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]

photo:大塚佳男


 中野サンプラザの会議室の廊下で、ぼくは就職試験の面接を待っていた。
 ガラスの向こうには、秋の青空と砂を撒いたように無機質な東京の灰色のビル群が広がっている。時は1980年代なかば、ぼくも20代なかばだった。広告関係のプロダクションに潜りこもうと、就職情報誌で探した採用試験に応募していたのだ。番号を呼ばれると、次々とリクルートスーツの若者が立ちあがり、ドアの向こうの会議室に消えていく。当時、広告業界は人気で、若干名の採用に200人ほど集まっていた。現在のように商売第一で、企業や製品名を連呼するばかりでなく、カルチャーの最前線を装うゆとりがあったバブル以前の広告のよき時代である。
 ぼくは睡眠不足で血走った眼をして、パイプ椅子で一冊の小説を夢中で読んでいた。前日の夕方から読み始めて、おもしろくてとまらなくなり、朝方まで読んで、中野に向かう電車のなかでもずっと読み続けていたのだ。その本の題名は“THE WORLD ACCORDING TO GARP”。神保町の洋書屋で買ったのは、アメリカ版より安かったUK版のペイパーバックだった。作者のジョン・アーヴィングという新人については、まったく知らなかった。世界中でベストセラーになっていて、アメリカでは社会現象まで引き起こしていると若者向けの雑誌に書いてあり、英語の勉強を兼ねて買いこんでいたものだ。

 実際に読んでみると、波瀾万丈のストーリー展開で、呆然とするほどおもしろかった。「すると、きみは次がどうなるか知りたくて本を読むわけだね?」作中にある台詞の通りに、作家志望にしてアマチュア・レスリング選手T・S・ガープの行く末が気になってたまらないのである(この「T・S」は英国の詩人エリオットからとったのだろうが、普通の名前でなくただの「T・S」というのが、「純」文学への皮肉がきいて洒落ている)。
 この読み味は誰かに似ていると思い、気がついたのはヴィクトリア朝の大通俗作家チャールズ・ディケンズだった。『オリヴァー・ツイスト』や『デイヴィッド・コパフィールド』など、貧しい少年が社会の下層で散々苦労した末に成功するというお決まりのストーリーで、多くの読者を獲得した作家だ。英国版「おしん」といえば、わかりやすいかもしれない。都合のよすぎる偶然(人との幸運な出会い、突然転がりこんでくる遺産)など、19世紀的な古くさい「波瀾万丈のストーリー」を批判されることがすくなくないけれど、「次がどうなるのか」という読ませる力では飛び抜けて偉大な作家だ。どの作品か忘れてしまったが、主人公の丁稚でっち奉公の休み時間に、貧乏な少年がミルク紅茶をのみながら、ばくばくとたべるバタつきパン(Bread & Butter)は、『千と千尋の神隠し』のおにぎり並みに、ぼくの食欲を刺激してくれた。

『ガープの世界』では、急流をいくようなストーリー展開だけでなく、現代への黒い風刺も読みどころだった。そもそも母親のジェニー・フィールズが風変わりな看護師で、第二次大戦によって重傷を負い、身動きもとれず、言葉も話せなくなったガープ軍曹にまたがり、一度だけの行為で息子のガープを受精したのだ。この作品にはフェミニズム、性犯罪の被害者、LGBTといったセンシティヴな問題が扱われているが、それよりもおおきくボリュームが割かれるのは、それらの問題に対するアメリカ社会の過激すぎる反応についてである。母のジェニーも、ガープ自身も過激主義者の暴力の犠牲となってしまうのだから。ハインラインの『異星の客』と同じように若き体制反抗者の受難のストーリーという点では、アメリカ文学に無数に存在するユダヤ教の改革者ナザレのイエスの物語の書き直しといってもいいのかもしれない。
 20代のぼくは、小説自体のおもしろさに夢中になりながら、作家はこんなふうにあからさまに物語を好き放題に動かしていいのだというアーヴィングの自由さに驚いていた。20世紀の芸術改革運動については以前にも書いたけれど、クラシック音楽ではメロディと和声が、文学ではストーリーが非難の的になった時代があったのである。どちらも容易に受け手の感情を操作することができ、つくり手が大衆心理を誘導するとき最大の武器として働く、危険でときに恥知らずなものだからだ。
 文学の世界で否定されてきた物語性を、この新人作家はディケンズのようにぬけぬけと臆面もなくつかい、現代社会への痛烈な皮肉をまぶしながら、これほどおもしろい小説に仕立てあげてきた。その颯爽とした登場は、実に見事なものだった。ガープの初恋は実るのか。高名になったジェニーの女性運動の行方は。ガープのデビュー作は果たして売れるのか。「次を知りたくなる」物語の力に引きずりまわされながら、ペイパーバックから手を離せなくなったのは、『ガープの世界』にラディカルに新しい小説だけがもつ無類の吸引力があったせいだ。

 またアーヴィングのキャラクター造形能力には、誰もが一目おくことだろう。ジェニー・フィールズだけでなく、数頁読めば忘れられない登場人物がいくらでもでてくる。ロバータ・マルドゥーンはジェニーの信奉者にして、身長193センチのトランスジェンダーで元フットボーラーだ。ガープとロバータは馬があい、家族ぐるみのいい友人となる。エレン・ジェイムズは11歳でふたりの男にレイプされ、証言できないように舌を切りとられた金髪の小柄な少女である。この犯罪の情け容赦のなさもアメリカ的だが、少女の周りに集まる「エレン・ジェイムズ協会」の女性たちが不気味で、不穏な空気を作中に漂わせる。協会員はエレン・ジェイムズ事件への抗議のため、自分たちの舌を切り、いつもちいさなカードをもち歩き、いいたいことはその紙に書くのである。ガープに手渡されたカードの文面は、こんな調子だ。「あなたのお母さまはあなたの二倍の値打ちのある方です。」嫌でも記憶に刻まれてしまう登場人物をつくりあげる力は、職業作家として長く活躍するには欠かせない能力である。

 アーヴィングはその後も『ホテル・ニューハンプシャー』『サイダーハウス・ルール』など、欧米の作家らしく数年おきに力のこもった長編小説を発表し続けているが、新鮮さとインパクトの強さで『ガープの世界』を超える作品は、80代を迎えた現在も未だ存在しないだろう。作家への評価というのは不公平なもので、30代の伸び盛りの瑞々しい作品と70代の完熟期の枯れた作品が、当たりまえのように比べられてしまう。野球のピッチャーなら、70歳で150キロのストレートが投げられなくても、非難される恐れはないのだけれど。
 ストーリー性の導入は、必然的に作品の長大化と隣りあわせとなる。アメリカの小説は最近、無暗むやみに長くなっているけれど、その源流に位置するのは、文学ではジョン・アーヴィング、エンタテイメントではスティーヴン・キングであるのは間違いないだろう。プロットを複雑化し、多彩な登場人物を描くとなると、翻訳された作品が上下巻あるいは三巻本になってしまうのはやむを得ないのかもしれない。ただその長さが縮小を続けるこの国の本の世界では、デメリットとなり海外の大作が読者に届きにくくなっているのは事実だ(残念ながら書籍出版の売上が極端に落ちこんでいるのは、先進国と呼ばれる国々では日本だけである)。

 さて、冒頭の場面に戻ろう。正直に白状すると、そのときの面接でなにを話したのか、ぼくはぜんぜん覚えていない。早く家に帰って『ガープの世界』の続きを読みたい一心だったからだ。その夜は、もうひと晩徹夜に近い状態でペイパーバックを読み続け、朝方近く570ページをなんとか読み切った。眠かったけれど爽快な気分だった。
 広告会社からの合格通知は、しばらくしてやってきた。実に憂鬱な気分だった。ああ、働かなきゃならないのか。なぜ好きな小説だけ読んで生きていけないのだろう。ぼくが自分でも小説を書くようになるのは、さらに10年とすこし先のことである。 

作品番号(19)
『ガープの世界』
ジョン・アーヴィング/筒井 正明訳
新潮文庫 上下巻 1988年10月刊

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【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新

石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira

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