No.18『ロミオとジュリエット』ウィリアム・シェイクスピア 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」
子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]
photo:大塚佳男
その昔、純愛小説ブームというものがあった。
ブームと名がつくくらいだから、今ではその流行は影も形もなくなっている。時代の嵐のなかで、一時は絶対的な支配律に見えても、流行の本質は幻だ。それさえわかっているなら、創作者は無視を決めこむのも、舞台にあがり一緒に踊るのも、どちらもありだと思う。
ぼくはそのうち数冊に目を通し、自分でも「純愛小説」というものを書いてみたくなった。ただし、二十歳を過ぎているのに死ぬまでプラトニックなままというのは嫌だ。きちんとセックスは描こう。難病ものはぜひ書いてみたい設定なので譲れないけれど、まだ誰も書いていない病気にしよう。いわゆる「純愛小説」よりもっとスピード感のあるストーリーにしたい。動きの鈍い物語は苦手だ。主人公はうじうじと際限ない悩みで泥まみれにしたくない。病気の苦しみなど外にはまったくあらわさず、竜巻のように暴れるヒロインがいい。などなど、いくつかの条件が自然に積み上がっていった。
作家というのはおかしな仕事で、新たな作品に夢中になっていると自分のしていることが冷静に判断できなくなるものだ。そんなにあれこれと設定や細部を変えてしまったら、そもそも最初の「純愛小説」というジャンルに収まるのか。ぜんぜん形の違う凶暴な恋愛小説になってしまっているのではないか。そうした根本的な問いはまるで浮かんでこないのである。
タイトルは高校時代の同級生の名前を使おう。同窓会のときに、本人から了承はもらっている。彼女の名前は美しい丘と書いて『美丘』。古文の先生が出欠をとるとき、その名を呼んで、以来そのままぼくの胸に焼きついた名前である。四半世紀も過ぎているのに、まだしつこく覚えているというのは、作家的執念というものかもしれない。
ストーリーの大枠が決まってから、またいつものようにお手本になる先行作品を探し始めた。ヒロインが最後に死んでしまうラブストーリー。この条件だけでは洋の東西を問わず、たぶん数百の作品が引っかかってくる。では、そのなかでもっとも有名で、今もたびたび人々の口にのぼる作品はなにか?
答えは簡単だった。『ロミオとジュリエット』以外にはない。『ハリー・ポッター』シリーズのように広く世界に知られ、あのシリーズより遥かに多くの映像化がされ、プロ、アマ問わず世界中の舞台で毎年再演が行われている。恋愛を描いた古典として、真っ先に名があげられる名作だ。学生のときに一度読んでいるけれど、もう一度赤ペンをもって、ていねいに読んでみよう。
さて、あなたはジュリエットが何歳だかわかるだろうか?
『魔女の宅急便』のヒロイン、キキと同じ歳だ。答えは13歳。その歳でキャピュレット家のお嬢様ジュリエットは、仇敵モンタギュー家のひとり息子ロミオと出会い、電撃的な恋に落ちる。若いふたりは自分たちだけ教会で秘密の結婚式をあげた後、災厄のような悪運に襲われ、数日のうちに悲劇的な死を迎える。最後はおまけのように若きふたりの犠牲のもと、憎みあっていた両家が和解するという物語である。
恐るべきスピード感と展開の速さに、読みながらぼくはあきれてしまった。この作品が書かれたのは16世紀末といわれているが、京都で歌舞伎が生まれるすこし前に、これほど完成度の高い「純愛」悲劇が書かれていたのである。人類が生む文化は凄まじい。
ふたりはほぼひとめ惚れで、きっかけはキュピレット家の舞踏会に忍びこんだロミオが、いきなり2度もジュリエットにキスをしたことだった。個人的な好みにぴったりだ。ひと目見た瞬間互いに恋に落ち、気がつけばキスをしているという電光石火の早業だ。物語の前半は若いふたりの初めての恋の喜びが主題になる。このパートを描くシェイクスピアの筆は躍っている。
一般に小説では喜びを書くことが困難で、苦しみを書くのは容易だ。それは恋を描く際も同じで、ふわふわとやわらかく、定形のない淡いピンク色の雲のような初恋の喜びなど、描くのはほとんど不可能である。対して恋の苦しみを描くのは簡単だ。読み手の心は生存を至上とする生きもののつねで、恐怖や苦痛に敏感で、喜びには鈍い。喜びは移ろいやすい感覚的な領域にあるけれど、苦しみは論理のなかに収めやすい。貧困、格差、差別は原稿にしやすいのである。
なにがいいたいかというと『ロミオとジュリエット』の前半は、目覚ましい勢いでふくれあがる恋愛の狂おしい喜びを描いて、古今無双の水準に達しているということだ。だが、分量を間違えてはいけない。読者は登場人物の喜びにはすぐに退屈してしまう。誰かが喜んでいるより、苦しんでいるほうを読みたいのだ。
シェイクスピアはそのあたりもぬかりがない。中盤には衝撃の展開を用意している。ロミオは友人の喧嘩に巻きこまれ、ジュリエットの従兄弟ティバルトを刺し殺してしまう。そこから物語は急転する。両親に別の男と無理やり結婚させられることになったジュリエットは、ロレンス神父に助けを求め、起死回生の提案をもちかけられる。その薬をのむと「すべての血管の中を、/悪寒と睡気とをもたらす体液が駆けめぐりましょう。/脈搏も本来の動きをやめ、ぴたりととまります。」ただし、それは仮死薬で、42時間後には「快い眠りからさめるとでもいったふうに眼をさますというわけです。」その間に間抜けな花婿を出し抜き、ジュリエットを地下納骨堂に連れていく。ロミオには手紙を書いて知らせておくので、後はふたりで別な土地に逃げて幸福に暮らせばいい。
この仮死薬という小道具が素晴らしい。今から400年以上も昔の発明だが、現在のハリウッド映画やアニメでも十分威力を発揮することだろう。手違いで知らせを受けとらなかったロミオは、納骨堂のなかで冷たくなったジュリエットに対面し、持参した毒薬をあおり自害してしまう。仮死状態から目覚めたジュリエットは、毒薬の杯とロミオの遺体を発見し、恋人が腰に下げた短剣を抜いて、自分の胸に突き立てて果てる。
恋の始まりと絶頂、それから連続して発生する悲劇のすべてが、冒頭で「二週間とも少し」とジュリエットの母親によって宣言された14歳の誕生日前に決着がついてしまう。決闘による殺人から始まる三段階の悲劇の連続も素晴らしいが、ぼくが息を呑んだのは、なによりもこの恋愛悲劇がもつ光の速さのようなスピード感だった。
400年は決して短くはない時間だ。『ロミオとジュリエット』から「純愛小説」はどれほど進化したのだろう。これは実作者にとっては恐ろしい問いで、そもそもこれほどの名作が相手では、ほとんどの作家にとって最初から勝ち目などないに等しいのだ。
そこで『ロミオとジュリエット』から、ひとつだけ指標を選ぶことにした。現代の小説らしく情報量を保ったまま、あのスピード感を目指そう。前半は恋の喜び、後半は避けられない悲劇。『美丘』はそんなふうに書かれた。自分では上手くできたかどうかは、わからない。なにせ相手は恐ろしく高い壁である。けれど、作家というのは作品を仕上げてしまえば、満足して、すぐに忘れてしまうし、後悔も別にないので、きっと平均点はとれていたのだろう。
ドラマ化された『美丘』をこそばゆい気持ちで、子どもたちとテレビで観たのは、『ロミオとジュリエット』から始まった一連の奮闘のおまけに過ぎない。
【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新
石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira