引っ越しの条件 千早茜「ときどき わるい食べもの」
[奇数月更新 はじめから読む]
illustration:北澤平祐
引っ越しをすることになった。
京都へ戻るわけではない。都内から都内へである。
三年だけ、と決めて東京に引っ越して二年半、思いがけず入籍をして、相手の仕事の都合上もあり、もうすこし東京にいようか、という話になった。
ひとり暮らしをしている今の家は、家というより部屋である。ロの字のちょっと変わった間取りで、ひとり暮らし用にしては浴室が広い。浴室には窓もあって明るい。のびのびと昼間から風呂に入れると思って、苦手なIHコンロには目をつぶった。
三年前、東京で家探しをはじめたときは苦労した。まず、どの街に住むか、が決められない。ご希望の路線は、と不動産に訊かれても答えられない。家で仕事をしているので、通勤というものがないからだ。どこに住んでもいいとなると、なかなか絞れないもので、自由も難しいと思った。
「どんな暮らしがしたいの」と東京に住む友人に問われ、「歩いてデパ地下と広い公園に行ける場所がいいんだよね」と言ったら一笑に付された。京都の中京区に住んでいたときはそれが可能だったのだ。ふと思いついたら御所や鴨川を散歩し、歩いて高島屋や大丸に行けた。バスも電車も自転車も苦手な私は健脚で、どこへでも徒歩で向かい、酔ったり疲れたりしたらタクシーに乗った。
デパートは日常ではないでしょう、と友人には諭された。確かに、毎日デパ地下に通えるほど裕福ではない。ただ、日常でくさくさしたことがあったときのために、ちょっといい果物や野菜やきらめく菓子を買える場所が近くにあるということが大事なのだ。デパ地下は逃避のための宝箱だ。考えを整理するための緑の散歩コースも必要不可欠。
そうして、私が決めた物件は、渋谷と代々木公園の間にあった。代々木公園のまわりは空がひろびろとしていて、植物の湿度と匂いが流れており、駅を降りてすぐに気に入った。渋谷のほうへと坂道を下れば、東急本店があった。美しい生活を送る知人がそこのデパ地下なら、京都「雲月」の小松こんぶや南禅寺御用達の服部豆腐が手に入ること、肉屋で売っている卵がおいしいことなどを教えてくれた。こぢんまりした疲れないサイズのデパ地下で、二十代の若者がはしゃぐような店は少ない渋めのラインナップだったが、ぴかぴかと輝く果物や躾の良さそうな野菜はちゃんとあった。ワイン屋も、好きな量だけその場で切ってくれる生ハム屋も、虎屋も、銀座ウエストもあった。ここなら心配はいらない、と思った。
けれど、私の決め手は東急本店でも代々木公園でもなかった。寝室の窓からの眺めだった。要塞のようなNHK放送局、文化財のような麻生太郎元首相のお屋敷、その向こうに渋谷の街が一望できた。渋谷は別に好きでもなく、ハロウィンの時期は全力で回避したい、どちらかといえば苦手な街だった。渋谷を見渡せるからといって楽しい気持ちになるはずもないのに、その妙に東京らしい景色がなんだか可笑しく思えて「ここにします」と言ってしまっていた。三年だけの東京と決めていた私は、この先こんな景色の場所に住むこともないだろうから、と思ったのだった。
引っ越した日、業者さんたちが帰ったのは暗くなってからだった。まだ照明もない寝室のベッドに腰かけて、私は窓の外を眺めた。二回目の緊急事態宣言のさなかでも、ビル群は夜空をぼんやりした青灰色に染めるほどに明るかった。
緊急事態宣言で人に会えなくても、東京のひとり暮らしは楽しかった。がらんとした渋谷の街を歩き、デパ地下で京都のものやちょっといい果物を買い、代々木公園を散歩し、仕事をして、好きなものを食べ、茶を淹れ、大きな風呂にのびのびと浸かり、寝る前に渋谷の煌々とした街を眺めた。夜のビル群は光るガラスでできているようだった。自分ひとりのかたちと生活がコンパクトに詰まった部屋が好きになりだしたころ、恋人に出会った。
今年の一月末、東急本店が営業を終了した。直木賞受賞直後の忙しい時期だったが、最終日はどっさり生ハムを買って、友人と「さよなら渋谷東急」会をした。結局、一番買ったのは「まい泉」のヒレかつサンドだったと話した。
今回の引っ越し先はいま住んでいるエリアからは離れる。夫になった恋人に「この辺り、気に入っていたのにいいの?」と訊かれ、「いい。東急なくなっちゃったし」と答えた。
けれど、ほんとうはもう渋谷の夜景をあまり眺めなくなっていたからだ。月がきれいなときと、神宮球場で花火があがったときしか、寝室の窓に張りつかない。飽きたのか、満たされたのか、わからないけれど。
引っ越し先の条件はそれぞれ出しあった。私は近くに好きなスーパーがあることと、魚焼きグリルがついたガスコンロを希望した。土鍋を捨てずに持っておいて良かった、台所が広くなるから糠床を作ろう、小型のワインセラーを買おう、と主に食の新生活に思いを馳せている。
新しい場所の、今度はなにを好きになるのだろう。
【ときどき わるい食べもの】
奇数月更新
千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で09年に泉鏡花文学賞、13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞、22年『しろがねの葉』で直木賞を受賞。小説に『男ともだち』『犬も食わない』(共著・尾崎世界観)『ひきなみ』など。エッセイ集に『わるい食べもの』『しつこく わるい食べもの』『胃が合うふたり』(共著・新井見枝香)がある。
Twitter: @chihacenti