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白雪姫の歯形 千早茜「なみまの わるい食べもの」#5

[第2・4水曜日更新 はじめから読む
illustration:北澤平祐


 秋になると、長野から林檎りんごたちがやってくる。
 お世話になっている先輩作家のYさんが送ってくれるのだ。金具で封をした頑丈な段ボール箱が届くと「来たな」と歯がうずく。林檎は毎年、とても大きい。林檎といえば『白雪姫』だが、林檎売りの老婆をよそおった王妃が手提げの籠に入れるとしても三個が限界だろうという大きさだ。

 箱にずらりと並んだ立派な林檎を目におさめ、ひとつを手に取り、布巾でキュッキュッとみがく。林檎は布でみがくとガラスのような光沢を帯びる。赤く輝く林檎を平皿にのせ、見合ったのち、掴み、ガッと喰らいつく。果汁が口の中にあふれる。すすりながら、ミキミキと歯を食い込ませてかじり取ると、真っ赤な林檎の肌に白い歯形がついている。すぐに黄ばんでしまう白い果肉と赤のコントラストに見惚みとれる。それから、手づかみのまま齧って食べる。林檎は加熱したほうが好みである果物の筆頭で、バターと砂糖でソテーにしてクレープにのせたり、シナモンスティックを刺してオーブンで焼き林檎にしたりするが、届いたばかりの林檎だけはそのまま食べると決めている。

 すっかり芯だけになった林檎の写真を撮り、先輩作家Yさんに「ありがとうございます。今年も美味しいです」というメッセージと共に送るのが恒例になっている。「獣が食べたようだね」と返事がくる。あるとき、その写真をSNSにのせたら知人が「私はもうできないわ……」とコメントをくれた。どういうことだろう、と思った。先輩作家さんもできないという。「林檎の丸齧りなんてしたら歯が持っていかれそうで怖い」とのことだった。

 思えば、数年前くらいから同年代や年上の友人たちが歯の悩みをもらすようになっている。インプラントの手術を受けたり、部分入れ歯にしたり、差し歯が加齢によって抜けやすくなったという人もいた。歯だけでなく歯茎の問題でもあるようだ。私はおいしいと思った菓子を食いしん坊の友人たちにあげるのが大変好きなのだが、ここ数年、飴がけナッツやヌガーといった粘りを帯びた菓子は勘弁してくれと言われることが増えた。やはり「歯が持っていかれる」そうだ。歯が抜けるのかとぞっとしたが、どうやら銀歯や歯の詰めものが取れるということらしい。
 敬愛するフランス菓子店の『オーボンヴュータン』に「ラ・シャリトワ」という飴がある。包装紙を剥がすのにやや苦労するくらいねっちりしているのだが、噛めば口中がオレンジとジンジャーとカラメル化した砂糖の香りでいっぱいになる幸福な飴だ。飴界の帝王だと思っている。先日、思いを同じくしている友人にその飴をあげたら「一個目で銀歯が取れた……」という悲報がきた。

 歯と歯茎の健康を維持しなくては思うままに食べられなくなってしまうという恐怖を、周囲からひしひしと感じている。食べたいという欲はあるのに、体の都合で断念しなくてはいけない事態は文字通り歯がゆい。林檎を躊躇なく齧られる白雪姫は歯が強かったのだろう。毒林檎についた歯形は整然とした美しいものだったのではと想像する。
 いまのところ、私は躊躇なく林檎に齧りつける。ただ、歯に関しての悩みがないわけではなく、定期的に歯医者に通っている。おやしらずの脅威も抜歯によってなくなり、虫歯も日々の歯磨きでなんとか予防している。
 しかし、いかんせん歯が黄ばむのだ。歯が黄ばむと笑顔もくすむように思われて気が滅入る。加齢かと思っていたら、細かな茶色い筋のようなものもできてきた。美容に詳しい友人に歯の美白があると聞き、歯医者へ行くと「お茶やコーヒーをよく飲みますか」と訊かれた。

「はい」と頷く。「どれくらいの頻度ですか」「頻度というか、まあずっと飲んでいますね」「ずっと、ですか」「はい、仕事しながら常に飲んでいます」歯科医師は「ああ」と首を横にふった。「ながら飲みは一番いけません」
 私の歯の黄ばみは茶渋であった。歯科医師によると、茶を飲むごとに歯を磨くのは無理だとしても、飲み終わったら水で口をゆすぎ、茶を飲まない時間を作るべきとのことだった。茶を飲んだあとの余韻を味わいたいのにうがいをしなきゃいけないのも、卓上に茶が存在しない時間を作るのも、大変に難しい。歯のことを考えながら茶もしたくない。無理だ、と思った。

 結果、半年に一回ほど歯医者に歯のクリーニングをしてもらいに通っている。去年くらいから半年に一回が三ヶ月か四ヶ月ごとになってきており、行くたびに「まだ茶はやめられませんか」と歯科医に悲しそうな目で言われている。「やめられませんね(やめられるわけがない)」と答えて、恐ろしい音をたてる機械で茶渋を取ってもらう。人体に使っていいのかと思うような音だ。いつか歯が摩耗してなくなるのではと怖くなる。最後にフッ素でコーティングされる。「一時間ほど飲み食いは控えてください」と注意を受け、好きな飲食店を見ないように俯いて帰る。体感として最も長い一時間だ。

 歯および歯茎に問題が生じることは、食事のたびに歯のことを考えなくてはいけないということだ。それは、食べものの前での雑音だ。かなうなら、なるべく長く、無邪気な白雪姫のように林檎に齧りつきたいが、日々の菓子や茶の幸福をなにより優先させたい欲に負け続けている。

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【なみまの わるい食べもの】
毎月第2・4水曜日更新

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千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で09年に泉鏡花文学賞、13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞、22年『しろがねの葉』で直木賞を受賞。小説に『さんかく』『赤い月の香り』『マリエ』など、エッセイ集に『わるい食べもの』『しつこく わるい食べもの』『こりずに わるい食べもの』などがある。
X: @chihacenti

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