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愉快などら猫 千早茜「なみまの わるい食べもの」#6

[第2・4水曜日更新 はじめから読む
illustration:北澤平祐


 去年の暮れに、小さな家族が増えた。猫である。数日間あずかったことはあるが、猫という種と暮らすのは初めてだった。それもよわい十歳、人間に換算すると私より年上の雄猫だ。そう簡単に懐くまい、と覚悟していたが、三日ほどで小さな家族は「アー!」と鳴いて私の膝にのった。

 猫は気まぐれと知人の猫飼いから聞いていたので、もうのるまいと思っていたが、毎日「アー!」と要求して膝にのる。食事中でも、仕事中でも、休憩中でも、人間が座れば、即、のる。正直、戸惑った。
 犬は自分と体重が同じくらいの大型犬しか飼ったことがない。猫は私の体重の十分の一に満たないくらいの小ささだ。私だったら自分の十倍以上ある見知らぬ生物とは怖くて暮らせない。そう思って、脅かさないよう物音を極力たてず、そっと距離をとっていたのに、膝にのるだけでなく、膝でよだれをたらして爆睡し、喉を鳴らし、腹も見せる。なぜ、そんなに簡単に人間を信用する。

 猫を膝にのせているとき、漫画『寄生獣』がよく頭をよぎった。寄生生物である田村玲子が人間の赤子を育てることになり、腕に抱きながら「不思議だ……おまえは不思議だ……」とその赤子ひいては生命に対して考える場面があるが、まさに同じ心境であった。造りの小ささが、言葉も通じないのに寄りそってくるのが、なにを考えているのかわからないところが、ただただ不思議だった。猫が膝にのるとその心音が太腿に伝わる。私より高い体温と早い心拍に小さな生物の寿命の短さを感じて泣きそうになった。犬好きだったはずの自分にわきあがる愛着の感情も不思議だった。世界の神秘が膝にある、と思った。

 それでも、まだ小さな家族には遠慮がちであった。怖がらせてはいけない、と思いながら過ごしていた。私が使っているサンタ・マリア・ノヴェッラのローズウォーターの香りが好きなようなので、猫用のローズの香りのスプレーを購入し、それをシュッと吹きかけて毎日ブラッシングした。猫は優雅な生きものなのだなと思った。

 小さな家族がやってきて十日ほどした頃、鴨すきをした。年末用にと奮発して買った京鴨肉をスライスして、野菜や白滝や豆腐と共に食卓に運んだ。台所で割り下や副菜の準備をしながらふと居間を見ると、小さな家族が食卓の上にのっていた。え、と思う。小さな家族は鴨肉の皿のそばで背を丸めて、赤い肉の一切れを咥えた。
「こら!」と反射的に声がでた。
 小さな家族は素早い動きで食卓から飛び降りて逃げた。驚かしてしまった罪悪感はなかった。なぜなら、小さな家族は明らかに「やべっ」という顔をしていたから。ちょっと離れたところでふり返り、「アアーン」と甘えた声で鳴く。

 それまで小さな家族が人間の食事に興味を示すことはなかった。猫用の餌をカリカリと食べ、「ちゅーる」に狂喜し、立派な便を毎日していた。「やっぱりジビエの血の匂いには獣の血が騒ぐのかねえ」と夫と話した数日後、正月の雑煮を作っている途中でちょっと台所を離れた。戻ったとき、小さな家族が台所の作業台からさっと降りるのが見えた。その口には紅白のかまぼこ。咥えたままソファへと走る。「だめ! こらー」と追いかけながら、子供の頃に見た「サザエさん」の曲が頭を流れる。

 ♪お魚くわえたドラ猫 追っかけて 素足でかけてく 陽気なサザエさん~(*1)

 ひねくれた子だった私には、どうもほのぼのしすぎたアニメだった。財布を忘れることが愉快だろうか、と歌詞に疑問を感じたことを覚えている。磯野家かよ、とげんなりしながらかまぼこを取り返し、ドラ猫ってなんだろう、と思った。ドラえもんではあるまい。調べると、辞書ではドラ猫ではなく「どら猫」と表記されていた。江戸時代から使われている言葉で、「のら猫」がものを盗むと「どら猫」になる、とある。ふてぶてしくて盗みをはたらく猫のことを指すらしい。
「かまぼこ泥棒したから今日から君はどら猫だ」と、懲りずに台所をのぞく小さな家族に言った。

 小さな家族はだんだん遠慮がなくなった。我々人間の食事のたびに食卓をチェックにきて、出汁を取ろうと鰹節の袋を開ければ台所へやってくる。目を半びらきにして鼻をすんすんさせた、うろんな顔の見本のような顔は、人間の手にあるのが鰹節だとわかった瞬間に豹変する。「アアー! アアー! アアアアアー!」と口を逆三角形にぱっくりあけて悪魔のような顔で鳴く。桜エビも干し貝柱もスルメイカの袋も、肉のパックも、開けると、うろんな顔でやってきて「くれくれ」と鳴く。食い意地が張っている。

 特に出汁をとっているときがすごい。寝ていても起きてくる。台所の残り香をすんすんと嗅いでいる。どうやら、うま味三大物質のイノシン酸の匂いに強い執着があるらしい。小さな家族よ、サンタ・マリア・ノヴェッラのローズの香りが好きなんじゃなかったのか……。

 猫は善悪の区別がつかず叱っても無駄、とネットや本には書いてあった。無駄なのは正しいかもしれない。が、人間の食べものに手をだすのは悪いことだとはちゃんと認識している気がする。小さな家族は私たちが見ていない隙を狙って、抜き足差し足で人間の食べものを狙う。食材の管理に気をつけ、料理から目を離さないようにしなくてはいけなくなった。

 けれど、盗み食いをするとわかってから、私も小さな家族に遠慮しなくなった。ちゃんと叱れるようになったし、叱っても小さな家族は私を恐れないと知ったから。食欲と出汁好きで通じる部分ができたせいもあるかもしれない。
 小さな家族の寝相で笑い、排泄をするときの雄叫びで笑い、好きではないものを嗅いだときのしょぼしょぼした顔で笑い、私は前より声をだして笑うようになった。気づけば、愉快な磯野家みたいになっている。

*1:『サザエさん』(作詞:林春生)より引用

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【なみまの わるい食べもの】
毎月第2・4水曜日更新

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千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で09年に泉鏡花文学賞、13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞、22年『しろがねの葉』で直木賞を受賞。小説に『さんかく』『赤い月の香り』『マリエ』など、エッセイ集に『わるい食べもの』『しつこく わるい食べもの』『こりずに わるい食べもの』などがある。
X: @chihacenti

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