第15回 悪魔の悪趣味 佐藤友哉「妻を殺したくなった夜に」
北国の地方都市を舞台に、少女連続殺人事件をめぐる中学生男女の冒険を描く、佐藤友哉による青春ミステリー。
[毎月火曜日更新 はじめから読む]
illustration Takahashi Koya
1
車の中で焼けた父親が、こんどは火葬炉で焼かれている。
葬儀を終えた悟とその親族は、バスに乗って町のはずれにある火葬場まで運ばれ、父親が骨になるのをまっていた。
悟はそこで、縁遠い親戚たちにはげまされたり、その子供たちをあやしたりしていたが、急に1人になりたくなって待合室を出た。父親が焼き上がるまで、まだいくらかの時間があった。
火葬場をうろついていると、テレビの音声が聞こえた。
ふだんなら聞き流していたが、ひさしぶりに聞く日常の音につられて廊下を進み、べつの待合室を見つける。
ドアが開いていた。
そっと中をのぞいてみると、部屋に置かれた大型テレビから、緊急ニュースが流れていた。
ニュースキャスターはちょうどいいタイミングで、『ビッグ・アイランド』の経営陣らが、売春防止法違反容疑で逮捕されたことを伝えていた。
ニュースによれば逮捕者は、『ビッグ・アイランド』の支配人である大島哲三と、その妻、比佐子のほか複数におよび、警察は少女連続殺人事件との関連も視野に入れて捜査しているとのことだった。
……今さらだ。
悟はテレビの映像をぼんやり見ながら、ただそれだけ思った。
悟の心は動かない。
父親は死んだ。
犯人は死んだ。
事件はもう終わったのだ。
2
父親が骨壺におさめられた翌日、悟は補習に行った。
弁当はなかった。
父親が死んでから、母親は生気をうしない、寝室に置いた仏壇の前でうずくまっているか、そうでなければ布団の中でうずくまっていた。
悟にはそれが、少しだけ意外だった。
母親がこんなにも父親の死にショックを受けるとは思っていなかったのだ。
夫婦のなれそめなどは、そういえば聞いたこともないが、しかし母親が父親を、ここまで深く愛しているようには見えなかった。2人が仲睦まじくしているところなど、ついにいちども見ないままだった。
それでも母親はこの日も、仏壇の前に敷いた布団にもぐりこんでいた。
声をかけても反応はない。
空腹だったし、補習に行くのも面倒だったが、生きる屍のようになった母親と、2人きりでいるのには耐えられず、悟は勉強道具だけを持って外に出た。金はかかるが、食事はどこかで、てきとうにすませればいい。
学校はふだんと変わらなかった。
悟の父親が死んだことは知れ渡っているはずだが、気を遣っているのか、興味がないのかはともかく、クラスメイトはなにも言わなかった。悟はそれをありがたく感じ、どこにでもいる中学生の1人として、粛々と補習を受けた。
教室には、見船の姿がなかった。
てっきり見船のことだから、あれこれ詮索してくるものと覚悟していたので、拍子抜けした。
この日の補習は、午前中で終わった。
夏の日差しを浴びながら歩いていると、
「浅葉悟くん」
声をかけられた。
この瞬間、悟は一般的な中学生から、事件の関係者へと引き戻される。
声をかけてきたのは、れいの警察官……宮島だ。
スーツに包まれた大きな体を使って、あいかわらず壁のように立ちはだかっている。そこからは、悟を逃さないという意志が観測された。
そんな宮島は、当たりさわりのないお悔やみを述べてから、
「ところで、テレビは見たかね?」
「見ましたよ。『ビッグ・アイランド』のことですよね」
「鶏荷署はじまって以来の大捕物だったよ。腐ったドブネズミをいっぱい捕まえることができた」
「僕の証言、信じてくれてたんですね」
「それなんだが、我々は数年前から、『ビッグ・アイランド』の売春疑惑をつかんでいたんだ」
「は?」
「きみがわたしに話してくれたとき、摘発の準備はすでに整っていた」
「……どうして言ってくれなかったんですか」
「情報がどこから漏れるかわからない以上、きみを諭して、だまらせる必要があった」
「だまらせたんじゃなくて、だましたんでしょう」
「なので謝罪もかねて、こうしてやってきたんだがね」
「本当にあやまるつもりなら、だれを捕まえたのかを教えてください」
テレビでは、逮捕者全員の名前は出ていなかった。
宮島は考えるそぶりをしてから、「では今回は、大サービスということで」と恩着せがましく言って、
「大島哲三と、妻の比佐子。それから『サンセット・ビデオ』の店主、寺田太陽。そして、チラシ配り男こと、井原守と、娘の奈由。以上の5人を逮捕した」
「なんでビデオ屋の店主が」
悟がおどろいてたずねると、宮島は微妙な表情になり、「あんまり、中学生に話す内容じゃないが」と断ってから、
「寺田太陽は大島夫妻とグルになって、『ビッグ・アイランド』で盗撮した裏ビデオを、『サンセット・ビデオ』でひそかにレンタルして、荒稼ぎしていたのさ」
「裏ビデオって、売春しているところを撮影したんですか?」
「みんなでお菓子を食べる様子を隠し撮りしても、商品にはならんだろう」
宮島の冗談は、つまらないうえに最低だった。
悟は思い出す。
つい先日、チラシ配り男こと井原守と、車椅子に乗った大島哲三が、『サンセット・ビデオ』から出てくるところを見た。
井原守は、ビデオの入った袋を持っていた。
ひょっとして、あれが裏ビデオ?
売春させられた少女たちが映っていたのか?
「チラシ配り男……井原守の娘も逮捕されたと聞きましたが、それってまさか……」
「そこは安心してくれ。井原守の娘、奈由は27歳で、客を取らされていたわけではなく、いわゆるお運びさんとして、積極的に売春運営に関与していた。大島雫のような被害者じゃない」
「『ビッグ・アイランド』には、むりやり売春させられていた子が、どれくらいいたんですか?」
「ノーコメント。未成年者の情報を話すわけにはいかないよ」
「逮捕された5人の中に、犯人がいるってことはないんですか?」
「犯人? なんの犯人だね」
「少女連続殺人事件の犯人ですよ」
「やれやれ、きみはどうも誤解しているみたいだが……」
宮島は頭をかきながら、
「たしかに『ビッグ・アイランド』は、きみが報告してくれたとおりの組織ではあったし、こんな田舎町にしては規模が大きいのも事実だが、しょせんは小悪党の集まりだ。きみは『ビッグ・アイランド』の連中が、少女連続殺人事件に関与していると考えているみたいだが、そんな事実はなかった。容疑者全員にアリバイがあったからね」
「嘘だ」
「少しは警察を信用しなさい」
「手分けしてやったのかもしれませんよ。あちこちに分かれて人を殺したのかも……」
「浅葉悟くん、空想がすぎるぞ。もしそんな巨大犯罪組織を挙げられたら、わたしは今回、大出世だよ。いいかね、あの中に犯人はいない。大島雫殺しも、べつの者の手によるものだ。警察がきちんと捜査した結果だから、そこは信じなさい」
「でもニュースだと、『ビッグ・アイランド』と少女連続殺人事件に関連があるって警察が……」
「もちろん、この町で起きるすべての事件を、少女連続殺人事件と関係があると疑って捜査しているさ。でもね、きみにとっては残念かもしれないが、『ビッグ・アイランド』はなんにも関係なかったんだ」
「…………」
「というわけで、現時点で我々が言えるのは、警察は引きつづき総力を挙げて被疑者確保に取り組みますという、月並みなセリフだけさ。たよりなくて悪いね、はっはは!」
宮島の乾いた笑い声を聞きながら、悟はうまく演技ができたことに満足していた。
あの中に犯人がいないことを、悟はだれよりも知っている。
なぜなら犯人は自分の父親であり、すでに死んでいるからだ。
今さら『ビッグ・アイランド』を調べたところで、なにも出てこないのは、悟にしてみれば自明だった。ひょっとしたら父親は『ビッグ・アイランド』の顧客で、リストに名前が載っているかもしれないが、だとしても、それだけだ。無能な警察が気づかぬうちに、事件はもう終わったのだ。
なので話も終わった。
宮島は、ことのついでのような調子で、いまだに行方の知れない透の捜索に人員を増やすと報告して、その場を去ろうとした。
だが、
「おっと、忘れるところだった」
そう言って向き直ると、
「少女連続殺人事件だがね、そういえば進展があったよ」
「……え」
「2日ほど前、鶏荷署に、匿名の手紙がとどいた」
宮島はスーツの胸ポケットから、1通の封筒を取り出した。
「これがそのコピーだ」
どうやら、これが本題らしい。
気前よくペラペラ話してくれるとは思っていたが、すべてはこのための撒き餌だったわけだ。
悟は逃げるタイミングをうしない、封筒を受け取るしかなかった。
手にした封筒には、鶏荷署の住所が書かれていたが、それはまるで定規で線を引いたような不自然な文字だった。裏返してみても、差出人の名前は書かれていない。
いやな予感がした。
手が震えはじめる。
気づかれるわけにはいかないと、悟は勢いよく中身を抜き取った。
短冊形の便箋には、やはり定規で線を引いたような文字で、このような文章が書かれていた。
浅葉悟ハ ヒミツヲ 隠シテイル
血の気が引いた。
悟はこんどははっきりと、全身を震わせた。
宮島はその様子を見守りながら言った。
「浅葉悟くん……心当たりはあるかね? この手紙をよこした人物と、ここに書かれている内容に」
3
悟は怒っていた。
ふだんであれば学校から帰ったら、透と2人でポッキーやポテトチップスを食べていたが、そんなことをしたい気分ではなかったし、そもそも透は行方不明だ。そして母親は帰宅した悟にかまうことなく、仏壇の前にうずくまっている。
こんなところにいたくなかった。
透のように家出したかった。
それもあって悟はバッグを放り投げると、「ちょっと外に行ってくる」と母親に告げたが、ふだんであれば、どこに行くのかだの、何時に帰ってくるのかだのとうるさいのに、なんの反応もなかった。
外に出た。
汗だくになって自転車をこぎ、国道の先にある急な上り坂を進み、隣町の菱坂町までやってきたあたりに、『古書サンカク堂』はあった。
自転車をとめて、ドアを開ける。
そして中古のレコードにも本棚にも目もくれず、カウンターに向かった。
学校にいなかったのであれば、店番をやっているはずだという悟の推測は当たり、そこには見船がいた。
「いらっしゃいませ」
見船はエプロンの上から腹をかきながら、
「今はあんまり、おすすめできる本は入荷していませんが、『善悪の彼岸』なんてどうでしょう。腐った畜群どもに鉄槌を下すためには必須の本ですよ。ニーチェは若いうちに履修しておくべきですよ」
「……見船さん」
「なんでしょう」
「僕に聞きたいことがあるんじゃない」
「父親が死ぬのって、どんな気持ち?」
「親が事故死したばかりのクラスメイトに、そんなことを聞くわけ?」
悟はびっくりして言った。
「相手によります。浅葉くんは平気でしょ? お父さんが死んでも、どうせなんとも思っていないんだから」
「きみと話す気はない」
「わざわざ会いにきたのに? こんな暑い中、汗まみれになって会いにくるなんて、私にぞっこんだと思うけど……麦茶飲みます?」
「もう探偵ごっこはやめだ」
「なぜ」
「父さんは死んだ」
「でも、人殺しですよ。それとも、死ねばだれでも善人になるとでも?」
「べつにそんなことは言ってないだろ。父さんが死んだ以上、事件を掘り返す意味なんかないって話だよ」
「あいかわらず浅葉くんは、事件の真相より自分の生活をえらぶわけですね」
「父さんのやったことがもしバレたら、僕の家はめちゃくちゃになるし、弟も帰ってこられなくなる。それは事実だ」
「事実なんてクソ食らえ。私がほしいのは真実だけ」
「事実も真実もおなじだろ」
「いいえ。事実というのはあくまで、多くの人が認識する一般的な解釈にすぎません。たとえばオランダがそう」
見船はカウンターの向こうから、挑むような目を向けて、
「オランダは戦時中、ナチスにあらがい、あのかわいそうなアンネ・フランクも助けて、ユダヤ人迫害に抵抗した国というのが事実とされていますが、そんなのはただのフィクション。本当はそうじゃない。オランダは近隣国とくらべて、ユダヤ人犠牲者の比率が高いし、ホロコーストを生きのびたユダヤ人に冷たい態度をとりつづけました。これが事実と真実のちがいです」
「オランダなんて、僕たちになんの関係があるんだよ」
悟もまた挑戦的に声を荒らげて、
「じゃあ言わせてもらうけど、僕は最初から、真実なんていらなかった。ぜんぶ忘れてしまいたかった」
去年のクリスマスイブの夜。
暗い林で、血のついたコートをこっそり燃やしたのは、そのためだった。この世から真実を抹殺するためだった。
しかし、
「真実を明らかにしようとする力学からは、逃れることはできませんよ」
あのときも、このときも、見船はまるで敵対者のように、悟の前に立ちはだかる。
見船はさらに言った。
「浅葉くんのお父さんのことは、ご愁傷さまと言っておきましょう。でも、それはそれ。私はこの事件を忘れないし、絶対に犯人を見つけます」
「……それが理由か」
「理由?」
「きみが警察に手紙を送ったのは、それが理由か」
4
「なんですって?」
「とぼけてもむだだ」
「とぼけてなんていませんよ。おどろいているだけです。ああそう。なるほど。警察はあなたに、手紙のことを明かしたわけ。ふーん、ああそう……」
見船はぶつくさ言いながらカウンターから出ると、たいして必要もなさそうなのに、本棚の整理をはじめた。
その背中をにらみつけながら、やはり手紙の送り主はこいつだったかと、悟は怒りをふくらませる。
悟が秘密を抱えていることを知っているのは、見船だけ。それはつまり、あの手紙を書けるのは見船だけということになる。考えるまでもなかったし、見船もまた、隠すつもりもなかったのだろう。
見船は背中を向けたまま、淡々と本を動かしながら、
「で、警察はなんと?」
「うるさい」
「あなたが話さないのなら、警察に第2の手紙を送りますけど」
「なんでそうなるんだよ」
「浅葉くんとコミュニケーションがとれないのであれば、警察を介してお話しするしかないでしょ。離婚で揉めている夫婦が、弁護士をはさんでやりとりするように」
「くそっ」
「もういちど質問しますが、警察はなんと?」
「……手紙を書いた人物と、その内容に、心当たりがあるかって聞かれた」
「で?」
「ないって答えたよ。ほかになんて言えばいいんだよ」
「警察は素直に引き下がりました?」
「たぶん」
「あなたが手紙のことを知ったのは、いつ?」
「さっきだよ。補習の帰りに警察が待ち伏せしていて、手紙のコピーを見せられたんだ」
「それで激情に駆られた浅葉くんは、私のもとにやってきたわけですか。はいはい。なるほど……」
見船はまるで、集めた情報をもとに推理する探偵のようなしぐさでうなずき、
「ひょっとしたら警察は、浅葉くんの交友関係の中に、手紙を出した人物がいると考えているのかも」
「……どういうこと?」
「手紙のことを浅葉くんにわざと教えて、泳がせているのかも」
「なんだって」
「くひひ」
見船は笑いながらふり返り、
「このままでは、私たちの秘密の関係が、警察にバレちゃうかもしれませんね。素敵な展開になってきましたね」
「どこがだよ。冗談じゃないぞ」
「怒らないでください。あなたが事件から逃げようとするから、あんな手紙を送ることになったんですよ。途中退場なんてゆるされない。これは自業自得です」
「もういいじゃないか。もうやめようよ」
「やめる?」
「そうだよ。みんな忘れようよ」
「あの人のことも?」
見船が言う「あの人」とは、上野原のことだ。
「浅葉くんは、自分のつまらない人生を守るために、あの人が殺されたことを忘れられるわけですか?」
「うるさい」
「真実がうるさく聞こえるようになったら、おしまいですよ」
たしかにそうかもしれないと思いながら、悟は上野原の姿を頭に浮かばせる。
宿泊学習の夜に殺された上野原。
自分の目の前で殺された上野原。
そして殺したのは、自分の父親。
「このままでいいの?」
内なる自分と見船の両方が、おなじことを聞いてくる。
このままでいいの?
わからなかった。
自分の気持ちがわからなかった。
古本屋にいるのだから、どこかに真理でも落ちていないものかと、悟は本棚に目を走らせたが、『三姉妹探偵団』だの、『魔界水滸伝』だの、どうでもいいことばしか見つからなかった。
そのとき、店のドアが開いた。
自分を尾行していた宮島がやってきたのではと怯えて、そっとふり返ってみると、もっと最悪の人物がそこにいた。
見船の父親だった。
悟は反射的に顔を伏せる。
泥酔した見船の父親に、鼻の骨を折られかけたことを、頭よりもまず体が思い出したのだ。
耳の奥で、あのとき浴びせられた、「ちんちん野郎!」という最低の罵声がよみがえった。
しかし見船の父親は、悟に気づかないのか、あるいはおぼえていないのか、こちらを見ることもなく素通りして見船の前に立つと、「店番、替わるぜ」とだけ言った。酒臭くもなければ、目も血走っていない。どうやら素面のようだ。
見船は死人のような顔でうなずいた。
面倒に巻きこまれるつもりのない悟は、今のうちに店を出た。
「……ありがとうございました。またのお越しを」
見船が低い声で言った。
5
その夜、夢の中で上野原と再会した。
上野原はどことも知れぬ暗闇に倒れていた。
「あくぅーーーぅーーーー」
こちらを見上げながら発した上野原の声は、ことばになっていなかった。
なぜなら上野原の首は、いつのまにか切断されていたからだ。
少し遅れて、血しぶきが舞った。
上野原の体がぴくぴくと震えた。
悟はその光景を、ただ観察するしかなかった。全身が動かなかった。目をそらすことも、逃げることもできなかった。
つづいて上野原の腹部が血に染まり、あちこちに内臓が飛び散った。悟はそれを見ながら、実際とは順番が逆だなとか、こんなにひどくはなかったなとか、妙に冷静に考えた。
上野原の内部から噴き出た血と内臓が、悟の全身を汚し、大量のナメクジをつぶしたようにぬるぬるした感覚がこびりついた。
やがて上野原の生首が、ゆっくりと回転をはじめた。
悟の足もとにやってくる。
生首は悟を熱っぽい目で見上げて、口を震わせた。
次の瞬間、
「あああああああ」
生首が声を出した。
それはとても大きな声だった。悟の鼓膜がびりびり震えた。上野原の生首は赤々とした口を限界まで広げて、あああああああという声をいつまでもくり返したが不快なものではなくあああああそれどころか心地のいい響きに感じられて悟はああああそれをいつまでもあああああ聞いていたいと願ったが、
そこで目を覚ました。
全身汗だらけで、枕もぐっしょり濡れていた。心臓が早鐘を打ち、頭が変に熱っぽい。視界が不安定に揺れ、そのせいで天井が波打っていた。
目覚めてもなお、強烈な夢の余韻にやられて、悟の意識は混濁していた。うしなった片耳の奥では、ああああああという上野原の声が響いていた。
それでも息を整えながら、ベッドの上でじっとしていると、霧が晴れるように現実感が戻ってくる。それとともに上野原の声は遠ざかり、夢で見た生首の映像も薄くなった。とはいえ、上野原の死が消えるわけではなかったし、むしろ重々しい現実の問題として頭の中に居座った。
上野原が殺された。
殺したのは父親だ。
ああああああああ。
また上野原の声がすると思ったら、自分の口から漏れ出たうめき声だった。それは1人きりになった夜の子供部屋にはね返り、やがて散った。
上野原が殺された。
殺したのは父親だ。
「このままでいいの?」
こんどは見船の声がする。
今日はもう、眠れそうにない。
とりあえず顔でも洗ってこようと思い、上体を起こした瞬間、下半身に違和感があった。
おどろいてパンツに手を突っこむと、粘っこい液体が広がっていた。それは精液だった。
夢精したのだ。
あの夢で……。
悟はまだ勃起したままの性器にそろそろと触れる。これまでにない快楽が走り、それは夢で見たばかりの上野原の生首とつながった。悟は生首のイメージが完全に消えてしまわないうちに、さっそく作業をはじめた。
こうして悟がはじめての自慰行為に耽った夜、新たな殺人事件が起こった。
6
宿泊学習の夜に、熊の襲撃によって死んだクラスメイト、水沢恵の自宅が全焼した。
のそのそと起き出して、テレビをつけたときにちょうど流れた昼のニュースで、悟はそれを知った。
ニュースによると、焼死体となって発見された水沢恵の両親……和己と寛子という名前らしい……は、2人とも刃物による傷が確認されたとのこと。警察は殺人の疑いで捜査を進めているという。
妙に、引っかかった。
言語化できない不安定な感覚が、悟の思考の奥深くを刺激している。いったいなんだろう。しかし考えようとすればするほど、それは意地の悪いモグラのように潜ってしまった。
物音が聞こえた。
寝室をのぞいてみると、母親が仏壇の前で丸くなっていた。
薄暗いせいもあって、黒いかたまりにしか見えない。
水沢家の惨事を伝えようかと思ったが、やめておく。これ以上、母親の精神にダメージをあたえるわけにはいかない。
「あの、母さん、補習に行ってくるよ」
「…………」
「母さんは休んでて」
悟はそれだけ言った。
シャワーを浴びる。
熱い湯を頭からかぶりながら、ふたたび考えをめぐらせた。
やはり、引っかかる。
具体的に言うと、水沢恵の両親の死が、少女連続殺人事件とつながっているように感じられるのだ。
そんなはずはないのに。
少女連続殺人事件の被害者は少女だったが、今回は中年の夫婦だし、自宅で殺害されたというのもパターンがちがっていた。
なにより、父親はもう死んでいる。
事件は終わったのだ。
そうに決まっているのだ。
それとも、
犯人は父親ではない?
だとすれば、上野原を殺したのはだれか。
上野原をあんな目にあわせたのはだれか。
上野原。
夢で見た生首がよみがえる。
赤い血。
赤い口。
ことばにならぬ声。
あああああああ。
体が性的に反応して、下腹部に熱い血が集まってくる。
悟はやることをやってから、体を念入りに洗い、浴室を出た。
精を放出したことで、どっと疲れたが、少しだけ落ちついた。
べつのことを考えよう。
そう思って、今日の予定を計画する。
補習に行くにしても、すでに昼をすぎているし、だからといって、このまま家にいるのも窮屈だった。
結論として、制服は着たが勉強道具を持たずに外に出た。
あてもなく歩いていると、まばらに立っている国旗を見て、今日が終戦記念日ということに気づく。戦時中のオランダがどうこうという話を思い出して、見船の顔がふと浮かんだが、今日は会いたくない気分だった。
悟は1人で、水沢家を見に行った。
全焼していた。
黄色と黒の規制線が張られた内側には、数本の柱が立っているだけで、あとはみんな焼け焦げている。資料館に改装した1階部分も、当然のように存在していなかった。
あのとき見船といっしょに見た、水沢恵の思い出の品々も、家とともに焼き尽くされたようだ。
見学は、あっというまに終わった。
なんにも、やることがなかった。
去年からいそがしく事件を追っていたので気づかなかったが、自分の人生は、こんなにも退屈なものだったのか。
なんだか、ぞっとした。
生前の父親を思い出す。
仕事から帰り、だらだらとテレビを見て、だらだらとビールを飲むだけの父親。ひたすら仕事だけして、とはいえ金を多く稼いでいたわけでもなく、家族サービスをするわけでもなく、趣味らしい趣味もなかった父親。
なんのために生きていたのだろう?
悟はこのときはじめて、父親のことをだれかに相談したいという欲望を得た。
母親はだめだ。今は刺激が強すぎる話題だ。見船もだめだ。あいつは事件にしか興味がない。もっと、他人みたいな距離感で話を聞いてくれる人物はこの町にいないものか……。
7
見船がやったのとおなじ嘘を吐いて家に入り、気味の悪いポスターが貼られたドアを開けると、草壁奏一郎はこの日も、ベッドの上でテレビを見ていた。
「こればかりは意外だねえ。きみ1人でくるなんてねえ」
草壁奏一郎は意図の読めない笑顔を見せた。
悟は警戒しつつ会釈した。
「ここにきたのは、彼女の命令?」
「そんなんじゃないです……。あと彼女じゃありません」
「まあいいさ。座って」
そう言われても部屋は吐き気がするほど散らかっていて、足の踏み場もない。ビデオテープと本の侵攻を受けていないのはベッドの上だけで、なので必然的に、草壁奏一郎とならんでベッドに座ることになった。
草壁奏一郎はこの日も、部屋の中だというのにおかしな色のコートを着ていた。肩が触れ合うと、コートの生地がガサガサ鳴った。こんなにうるさい生地があることを悟ははじめて知った。
2人でテレビを見る。
終戦特集らしく、画面には特攻隊が敵の戦艦にぶつかる映像が流れていた。
「現実って退屈だねえ」
草壁奏一郎が失敬なことを言って、
「もしきみが僕の同級生だったら、こんなテレビはさっさと消して、どこかに飲みに誘っていたところだよ」
「はあ」
「そうもいかないし、外は暑いし、ま、映画でも見ようか」
「僕、映画はあまり興味なくて……」
「映画を好む人には、弱虫が多い」
「そうなんですか?」
「太宰治がエッセイで、そう書いているのさ。よっこらせ」
草壁奏一郎は立ち上がり、塔のように積まれたビデオテープから1本を器用に抜き取ると、ビデオデッキに入れた。
映画がはじまった。
ゾンビ犬の映画だった。
悟はあまり乗り気ではなかったが、体のあちこちに縫い跡があるゾンビ犬が水を飲むと、隙間からぴゅうと水が漏れるシーンは妙におもしろかった。
「どうだい?」
「悪くないかもです」
「これはティム・バートンが5年前に制作した、『フランケンウィニー』って映画だ。画質が粗いのは、海賊版の海賊版の、そのまた海賊版だから」
短編映画だったらしく、すぐに終わった。
日本語字幕はついていなかったが、それでも話がわかるくらい単純だったし、ストーリーはともかく、愛らしい映画だった。
「じゃ、目が慣れてきたところで」
草壁奏一郎は2本目のビデオを再生する。
こんどはひどかった。
小太りの中年女性が、身寄りのない幼い兄妹を追い詰めるつもりが、逆に追い詰められるという内容だ。『ヘンゼルとグレーテル』で、魔女が焼き殺されたように、小太りの中年女性は兄妹の逆襲にあい、むしろきのどくにさえ感じた。
「僕の父親が、死んだんです……けど」
悟はここにきた目的を果たそうと、用意していたことばを口にしたが、うまくいかなかった。この映画のせいだと思った。
「それで?」
「あの、それで……僕の父親、なんか、中学生の女子と、こっそり文通をしてたみたいなんですよ」
「文通? 最低な導入じゃないか」
草壁奏一郎は不快そうに片方の目を細めて、
「文通なんてするやつは、心が終わっているからねえ」
「そうなんですか?」
「目の前にいる人間と話さないで、手紙を使って遠くにいる人たちとばかり話をするやつなんて、心が終わってるに決まっているだろ」
「たしかに」
「じゃ、きみのお父さんは、こんな感じでどうかな? 心が終わって、周囲にバリアを張って、そのせいで無口で、なにを考えているのかよくわからない、悲しく浅ましい主人公……」
「主人公?」
「お父さん、何歳で死んだの?」
「40歳くらいだったと思いますが」
「老人ってわけか」
「老人は、言いすぎじゃないですか」
「40代で、家庭も仕事も一段落ついて、人生の先がだいたい見えてきて、頭と体がおとろえてきて、それでもまだ、いくらかの余生がある男なんて、老人でしょう?」
「はあ」
「若くなりたい、若くなりたい、若くなりたい!」
すぐ横で草壁奏一郎が叫んだので、悟はぎょっとした。
「今のは、『チャンピオンたちの朝食』っていう小説のオチに出てくる一節なんだけど、読んだことある? 気になるならどうぞ。そのへんに落ちてる」
草壁奏一郎は、本が散らばった床を指さしてから、
「僕が思うに老人とは、『若くなりたい!』ということしか考えられなくなった人間のことだ。すべての不満を年齢のせいにして、若さが永遠に戻ってこないことに絶望して、そしてとうとう、絶望が欲望に置き換わってしまった人間のことだ」
「欲望って、殺人願望とかですか」
「わあびっくりした。そんなあっさり一線を越えたら、観客はついてこないよ」
「観客?」
「若いうちに海外に行っておけばよかったとか、学生時代に部活をやっておけばよかったとか、僕の言ってるのはそういう話だ」
「なんだ、そんなこと……」
「老人にとっては深刻な問題なのさ。あいつらは毎日毎日、欲求不満で苦しんでいる。若いときに手に入れられなかったものを欲望している」
「欲望って、でも……旅行や部活ですよね?」
「ほかにもあるよ。たとえば、おそろしく若い子とつき合っておけばよかったとか」
それが、文通の理由とでも?
ありえないと思った。そんなクソのような動機であるはずがない。
草壁奏一郎は腕を組み、なにごとかを考えているように天井を見上げている。もはや映画など見ていなかった。
「ちょっとここで、キャラクターに肉づけしてみようか。そうだねえ……きみのお父さんは、淡々と毎日を送っているうちに、もう若くない自分自身に耐えられなくなった。これからの人生で、転職することも、F1ドライバーになることも、ここではないどこかで暮らすことも、若い女の子と話すこともできないことに気づいて、ぞっとした」
「見てきたように言いますね」
「見てないから言えるんだよ」
「でもべつに文通なんてしなくても、職場の女の人とつき合うとか、そういうのでもよかったんじゃないですか」
「きみはドリアンは好き?」
「なにが好きですって?」
「ドリアン。フルーツの王さま」
「食べたことありません」
「食べたい?」
「べつに」
「それじゃあ、この先もずっと、ドリアンを食べない人生でもいい?」
「いいですけど」
「そう言えるのは、きみが若いからだ。老人になったら、大して食べたくないものでも、それを口にすることができないと知った瞬間、急にほしくなってしまう……。きみのお父さんは、職場にころがっている雑なフルーツじゃなくて、まだ口にしたことのないドリアンを求めたわけだねえ」
草壁奏一郎はつづけて、
「キャラが定まったから、ストーリーに移ろう。きみのお父さんは現実から逃れるために、旅行雑誌や映画雑誌を読むのをひそかな趣味としていて、あるとき、文通コーナーで中学生の女の子が投稿しているのを見つけて、魔が差してしまう。家族にバレないように私書箱を使って、文通をはじめた」
「…………」
悟はなにも言えなかった。
たしかに父親は、自分の暮らしとは関係のなさそうな雑誌をときおり買ってきた。そこに文通コーナーはなかったが、それでも雑誌を読んでいたのは事実だし、なにより実際、映画雑誌の文通コーナーで倉橋詩織と知り合っている。
草壁奏一郎はさらにことばをつづけて、
「やがて2人は仲良くなった。そしてある日、お父さんは行動を起こす。急な仕事があると家族に嘘を吐いて、文通相手の女子中学生と会った」
「会ったんですか?」
「本当のところは知らないけど、でも、そのほうが盛り上がるだろ。2人はどっちも、文通なんてするような終わった性格だから気が合って、そしてホテルで……いや、車がいいかな。車の中でするほうが、人生終わってる感じが出るからね。で、そんなことで関係に深みが増して、ひそかに逢瀬をくり返しているうちに、女子中学生を妊娠させてしまう」
「妊娠させたんですか?」
「だから本当のところは知らないってば。クライマックスに向けて、ストーリーに味つけしただけだよ。ところで、お父さんの死因を教えてくれるかな」
「あ、えっと、運転してて……交通事故です」
「1人で乗ってたの?」
「はい。お酒を飲んだ状態で車に乗って、ガードレールにぶつかって全身に火傷を……。それで入院して、しばらくは安定してたんですが、数日前に急に悪化して、それで、そのまま……」
「じゃ、自殺で決まりだねえ」
「自殺?」
「浅ましくて悲しいタイプの主人公は、自殺で幕を閉じるのが正しいオチだ」
草壁奏一郎は自分の主張に賛同するようにうなずくと、
「こんな話はどうかな……。真夜中、きみのお父さんは車を走らせている。妊娠のことを家族に打ち明けられず、かといって相手の中学生と逃亡する勇気もなく、それどころか、家族のことも中学生のことも、べつにそんなに大事じゃないということに気づく。じゃあおれは、なんのために生きていたんだ。おれの人生は、なんだったんだ。ふと我に返ると、ヘッドライトにガードレールが照らされている。ブレーキを踏めば間に合う。だけどきみのお父さんはブレーキではなく、むしろアクセルを踏む。まちがったタイミングでアクセルを踏むのだけは得意な人生だったなとか思いながら、ドカン! そしてエンディングだ」
最初から最後まで、めちゃくちゃな話だった。
だが悟はそれを聞いて、おどろくよりも怒るよりも、納得してしまう自分がいることに気づいていた。
「思った以上に、陰気なストーリーになってしまったねえ。とりあえず、厄除けのおまじないをしておこうねえ」
語り終えた草壁奏一郎は、小さく息を吐くと、コートのポケットに手を入れて、くねくねとよくわからない動きをはじめた。
この男の話が、ほとんど根拠のない戯言なのはわかっていた。
それでも悟は、これまでピンとこなかった父親の動き……文通や事故について、はじめてまともな理由がつけられたように感じていた。
絶望。
欲望。
自殺。
ようは、マンガやドラマに出てくるおなじみの単語だけで説明できる、なんということもない話だったわけだ。
少しだけ、がっかりした。
気づけば映画は、クライマックスをむかえていた。テレビの中ではひどすぎる殺人が展開され、とってつけたようにエンドロールが流れはじめた。
「どう?」
「最悪でした」
「どの映画が?」
草壁奏一郎は短く笑うと、
「映画って、みんな作りものなんだよ。ぜんぶ嘘っぱちなんだよ。だからどんなに陰惨でも、テレビを消せば、劇場を出れば、すっかり忘れてしまう。だからこそ、安心して見ることができるわけだねえ」
「なんの話ですか?」
「きみ、やりたいことなんて、なーんにもないんだろう?」
「…………」
「僕はね、映画監督になるんだ」
草壁奏一郎はさらっと、しかし確信的な口調で言った。
悟は解像度が急激に上がったことに気づく。
その結果、ビデオテープや本に占拠された気味の悪い部屋が、まったくべつの理屈によって構築されていたことが理解できたし、床に散らばった本の中に、「シナリオ術」や、「ストーリーの作り方」と書かれたものを見つけることもできた。数秒前まで、そんなタイトルは視界にも入っていなかった。
隣に座る草壁奏一郎を、そっと見る。
大学にも行かず、暗い部屋でコートを着てホラー映画を見ている青年が、映画監督を目指している。ちょっとばかりステレオタイプだが、なるほどそれは、しっくりくる「ストーリー」だった。
「父さん……父親の話は、あなたが作った映画のシナリオってわけですか」
すると草壁奏一郎は……これもまた悟の解像度が上がったのが理由なのだろうが……これまでよりもいくらか人間味のある、ようは「複雑」な顔つきになって、
「きみは映画に興味がないって言ったけども、だからといって、見なくてもいいって話ではない。箸の使い方を学んだり、本を読んだり、学校で勉強したりするのとおなじ理由で見なければならない。芸術……という表現が大げさなら、フィクションでもいいけど、それは、生きるのを楽にしてくれるすばらしいものだからねえ」
「フィクションは、真実じゃありません」
悟はそう口にしてから、見船も似たようなことを言っていたのを思い出した。
「フィクションのなにが悪い? オスカー・ワイルドいわく、『人は覆面をあたえたら、本当のことを話す』」
草壁奏一郎はポケットから両手を出すと、それを組み合わせて犬の影絵を器用に作り、
「こんなニセモノのワンちゃんだって、子供たちに見せたらよろこぶだろう? 真実ばかり言っても、癒やしにはならない。真実をふまえたフィクションこそが、生きるのを楽にする処方箋だと、映画監督志望者である僕は信じているよ」
「そうですか」
「で、どう?」
「犬の映画以外、みんな最悪でした」
8
わりとすっきりした気分で家に帰った。
悟のそうした心持ちが伝播したのか、母親はひさしぶりにキッチンに立ち、オムライスを作っていた。
手料理を、2人で食べる。
静かな食事だった。
オムライスを食べ終えると食器を洗い、風呂に入った。
湯船につかりながら、これからどうすればいいのかを考える。
草壁奏一郎の創作したストーリーを聞いて、これまで知らなかった父親の空白部分を知ったつもりになったことで、かえって、父親は犯人でないような気持ちになっていたのだ。
父親は終わってしまった人生を打破するため、文通をはじめた。
そうやって生きようとした。
もちろんすべて草壁奏一郎の空想だが、納得できる部分、そうであってほしいと思う部分がいくつもあった。
父親があのような感情のもとで行動し、年若い少女と文通していたのであれば、ある意味でそれは、生存戦略とも呼べるものだ。
だが、殺しはどうだろう。
たくさんの少女を殺したのも、生存戦略によるものなのか?
父親の心は、殺人をしなければならないほどの渇きに支配されていたのか?
悟は結局、生前の父親と深い話をしたこともなければ、いっしょに遊んだ記憶も薄い。それでも父親が、家庭の中でそこまで深い不幸にいたとは思いたくなかったし、思えなかった。正確に言えば、草壁奏一郎の話を聞いて、はじめてそうした発想を得たわけだが、それでもこの気持ちは事実、いや、真実だった。
父親は最低だし、理解してやる気もない。
だけど……そこまでひどいやつじゃない。
知り合った少女を皆殺しにするようなやつじゃない。
では、父親は犯人ではないのか?
事件はまだ終わっていないのか?
ならば、上野原はどうなる?
上野原を殺したのはだれだ?
自分の目の前で、上野原を惨殺したのは、いったいだれなんだ?
思考がぐちゃぐちゃした次の瞬間、上野原の生首が現れた。
悟が入っている浴槽の中に、やる気のないクラゲみたいに、生首がぷかぷかと浮かんでいた。
まぼろしだ。
だが、まぼろしだったとしても、見えてしまった以上、あるのと変わらない。
だから悟は生首をじっと見ていたし、そうしているうちに勃起もした。
生首の髪がゆらゆらと動き、性器に触れる。
がまんできなくなる。
悟は覚えたばかりの自慰行為をはじめて、湯船の中に射精した。
まぼろしが消えた。
悟は荒い息を吐きながら風呂の栓を抜くと、浴槽を念入りに洗ってから、湯を入れ直した。母親にバレるわけにはいかなかった。
風呂を出る。
異変には、すぐ気づいた。
外がさわがしいのだ。
クラクションが鳴り響いていた。
……なんだ?
悟は最初、夏になったことで虫のように現れた暴走族が、近くでバイクを走らせているのかと思ったが、それにしては……いや、それにしたところで、あまりにもさわがしい。
いそいでパジャマに着替えてリビングに向かうと、くり返されるクラクションとはべつに、怒鳴り声が聞こえた。
男の声だった。
「てめえ! おいこら、なにふざけたことしてやがんだ。まて……俺の言うことを聞けよこら! まてこら!」
聞き覚えがある声だった。
悟はぞっとして、意識するよりも早く、自分の鼻を押さえた。
見船の父親。
家のすぐそばで、あいつがさわいでいる。
「まて! おいまて! てめえ、いいかげんにしやがれ! ふざけたまねはよせ……そうだ、ふざけだ! おふざけだぞ! ぶん殴られても文句は言えねえぞ!」
リビングの窓はカーテンを閉めているので、だれがどのように「ふざけたまね」をしているのかを見ることはできないが、そんなもの確認したくもなかった。
異様なさわぎの中、母親はリビングにあるソファに腰かけ、消えたままのテレビをぼうっと見ていた。
オムライスを作ったことで気力を使い果たしたのか、放心したような表情を浮かべていて、外の喧騒に気づいているのか、顔つきだけでは判断がつかない。
「こいつがよぉおお! くそったれがよおおお! てめえ、やってくれたじゃねえか。さっさと戻ってこい! どこに行くつもりだ。ちくしょう、答えろよ……ああっ、おい、まて!」
見船の父親の声が、どんどんせまってくる。
複数の足音が、どたどた鳴っている。
なんだ?
なんだ?
カーテンの向こうで、いったいなにが起きている?
悟の混乱を加速させるように、こんどは新たな人物の声が聞こえた。
「ああー、いけません。いけません! これはいけません! だめです、みなさんどうか落ちついて! こういうのは、あれですよ、その、つまり、いけません! いけませんよ!」
知らない男の声だった。
わけがわからない。
だれだ?
わけがわからない。
クラクションが激しく鳴る。
わけがわからない。
いくつもの足音が響く。
わけがわからない。
「おい……おい! どこに行くつもりだ! まてええええええええええ!」
見船の父親が、ぞっとするほどの大声を発した。
同時に、足音のひとつが大きくなり、悟の家に向かってきた。
そして、とうとう、
ピンポーン。
チャイムが鳴った。
ピンポーン。
また鳴った。
ピンポーン。
また鳴った。
ピンポーン。
ピンポーン。
ピンポーン。
めちゃくちゃに鳴った。
非常ベルのように鳴りつづけるチャイムの音を聞きながら、悟はどうすればいいのかわからず、棒立ちになっていた。上野原の夢を見たとき同様、動くことができなかった。
ピンポーン。
また鳴った。
「あら……だれか、きたの? はい、どちらさま……」
母親がソファから立ち上がり、よせばいいのに玄関に向かった。
(つづく)
連載【妻を殺したくなった夜に】
毎月最終火曜日更新
佐藤友哉(さとう・ゆうや)
1980年北海道生まれ。2001年『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』でメフィスト賞受賞。2007年『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を最年少で受賞。他の著書に『クリスマス・テロル invisible×inventor』『世界の終わりの終わり』『デンデラ』『ナイン・ストーリーズ』『転生! 太宰治 転生して、すみません』『青春とシリアルキラー』等がある。
Twitter:@yuyatan_sato