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第16回 あの子の悪趣味 佐藤友哉「妻を殺したくなった夜に」

北国の地方都市を舞台に、少女連続殺人事件をめぐる中学生男女の冒険を描く、佐藤友哉による青春ミステリー。
[毎月火曜日更新 はじめから読む

illustration Takahashi Koya


「ああそんな、いけません、いけません! わたしたちのために、お茶まで出していただくなんて。ああ、まことに恐縮です。ではあの、遠慮なくいただきます……うまい! 玉露ですかな。え? ちがった? いえいえ、大切なのは、おもてなしの心です。心のこもった一杯を、どうもありがとうございます……。それで、おどろかれたでしょう? ええ、わかりますよ。わたしだったらびっくりして、有無を言わさず通報していたでしょうからね。にもかかわらず、家に上げてくださったばかりか、お茶まで出してくださって、寛大なる処置に、感謝しても感謝しきれません。本当にありがとうございます。そして、ご迷惑をおかけして、もうしわけありません!」
 食卓にぶつけそうないきおいで、男は頭を下げた。
 用意した茶と、男の頭を交互に見ながら、さとるはとうとう、自分のまわりが決定的におかしくなったことに絶望していた。
 謝罪をくり返す男は、なぜか白衣を着ていたし、そんな男といっしょにやってきたのは、あきらかに酔っ払った見船みふねの父親だった。
 食卓をはさんだその反対側には、悟と母親が座っていて、当たり前のような顔をして2人のあいだにいるのは、見船美和みわだった。
 
「私は父親から暴力を受けました。ヘルプです。今すぐ警察を呼んでください」
 
 見船は家に押しかけてくるなり、そればかりをくり返していた。
 悟はため息を吐いて、あらためて絶望を味わう。
 弟は失踪したし、父親は死んだばかりだし、母親の様子もおかしいままで、それでもきちんとパジャマを着て、これから寝ようとしていたのに、こいつらはいったい、おれの家でなにをするつもりなんだ。だれもおれをはげましもしないで……。
「よぉ、思い出した。俺はやっと思い出したぜ」
 見船の父親は長いこと悟をにらみつけていたが、やがて静かな調子でそう言って、
「てめえは……ちんちん野郎だな」
「ち、ちんちん?」
 白衣の男はびっくりしたように顔を上げた。
「そうさ先生。こいつはな、脳みそから前立腺まですっかり腐ったちんちん野郎なんだ。しかも前科持ちのクソ犯罪者ときた。俺の家に勝手に入って、俺の酒を勝手に飲みやがったのさ」
「本当ですか?」
「ガキのくせに酒飲みで、しかも泥棒ときやがる。そんなやつはよぉ、インドあたりじゃ死刑だぜ。てめえはインドのしみったれた小屋の中で殺されても文句言えねえことをやったんだ……なあ、どうなんだよ。そのあたりのこと、どう考えてんだよ!」
 見船の父親はいきなり激昂して、
「くそったれが! ちんちん野郎がなんでまた出てきやがった! なんだよこの家は! 俺のじゃまをするつもりならぶち殺すぞ!」
「み、見船さん、いけません。そんな言い方はいけません」
「いいんだよ! こういう性根が腐ったガキはなあ、大人がビシッと言ってやらねえとだめなんだよ。ほら先生、こいつの腑抜けきったツラをよく見てみな。ははっ、クソ掻きベラの先っぽみたいな顔しやがって!」
「だめですって、そういう発言は問題になりますって……」
 先生と呼ばれた白衣の男がいさめても、見船の父親は態度をあらためず、こんどは悟の母親にターゲットを移した。
「ところで、この物体はいったいなんだ。さっきからずっと、ボーッとしたツラを晒しやがってよぉ」
 酒臭い息を吹きかける。
 母親は反応しなかった。
「てめえ、このガキのママさんか? おいママさんよぉ、てめえが考えなしに産み落としたこのガキは、未成年のくせに酒泥棒で、芯まで腐ったちんちん野郎になっちまったぞ。なあ、これってどういうことだ? てめえの教育のなせるわざか?」
 母親は反応しなかった。
「それとも遺伝子が原因か? ああ? どうなんだ。なんか言ってみろよ……弁明とかしてみろよ! 泣いたりあやまったりしてみろよ!」
 母親は反応しなかった。
 表情筋はおろか、感情そのものまで死んでいるようだった。
 自分の母親が、あまりに無表情かつ無感動でいることに悟はぎょっとしたが、見船の父親もまたぎょっとして、「イカレてんのかよ……」とつぶやくと、
「まあとにかく、こいつを返せ」
 そう言って、自分の娘を指さした。
「私は父親から暴力を受けました。ヘルプです。今すぐ警察を呼んでください」
 すると見船は、壊れたテープレコーダーのように、またおなじセリフを発した。
 実際、見船の制服は薄汚れていて、右の頬は桃のように赤く膨らんでいた。それらはたしかに暴力を受けた痕跡に見えた。
「いいかげんにしろ! 嘘はよせ!」
 見船の父親が食卓を叩き、
「なにが暴力だ! 俺はそんなことしてないからな! この嘘吐き女は嘘吐きだから嘘ばかり吐きやがるんだ!」
「私は父親から暴力を受けました」
「嘘だ!」
「ヘルプです」
「こっちがヘルプだ馬鹿野郎!」
「今すぐ警察を呼んでください」
「だまされるなよ。こいつの言ってることは全部嘘だからな……ああくそっ、毎回イラつかせやがる! こいつはいつだって嘘を吐くんだよ!」
「あ……いたた。痛い。いたたたた」
 見船は頬を押さえて、
「なんか急に痛くなってきましたよ。いたた、あーいた。痛いですねこれは。歯が折れてるかもしれませんね。浅葉あさばくん、救急車とパトカーと歯医者を呼んでください」
「ちんちん野郎とイチャイチャするな!」
「痛い。いたたた」
「あと芝居くせえんだよ!」
「ちょ、ちょっと2人とも、いけません、ここは他所よそさまのお宅ですよ。見船さんも、娘さんも、とにかく冷静になってください」
 白衣の男が茶番をやめさせると、
「どうやら話が食いちがっているみたいなので、まずはそこを整理しましょう。このわたし、上野原うえのはらに、どうかその仕事をさせてくださいませんか?」

 見船の父親は数年前から、自身のアルコール依存症を治すため、『上野原メンタルクリニック』に通っていたが、院長である上野原に「身内の不幸」が起きて、クリニックはしばらく閉院状態になった。
 今月、クリニックが再開したので、見船の父親が診察を受けたところ、いつも朝から酒を飲み、生業にしている古本屋も娘にまかせっぱなしにしていることが判明した。
 事態を重く見た上野原院長は、入院設備のある他院へ移るようにすすめたが、見船の父親は断固拒否。それもあって上野原院長は、自身のクリニックで独自の治療をはじめようと計画する。
 アルコール依存症は当事者のみならず、その家族に対して暴力や虐待が起きたり、中毒者が仕事をうしなうことで、生活が成り立たなくなったりすることが多く、家族全体にかかわる問題だという。
 そこで上野原院長は、家族をふくめた全体的な回復と幸福を促進するため、治療に娘をくわえてグループセラピーをはじめようと考えた。
 上野原院長が見船親子の住むアパートに出向き、説得をこころみたところ、「もう少し落ちついたところで話を聞きたい」と娘に提案された。見船親子が暮らすアパートは、ちょっとないほどに汚れていて、たしかに落ちついて話ができる状況ではないことを悟は知っていた。
 上野原院長は見船親子を車に乗せて、クリニックに連れて行こうとした。
 事件はそこで起きた。
 突然、後部座席からものすごい音がしたかと思うと、娘がめちゃくちゃに暴れはじめたのだ。
 おどろいた上野原院長がアクセルをゆるめた瞬間、娘が後部ドアを開けて、まだ走行中の車から飛び出した。
 娘の体は地面に叩きつけられ、何度かバウンドした。
 あ、死んだ。上野原院長はそう思ったが、娘はよろよろと立ち上がると、どこかに行こうとした。
 上野原院長と父親は車から降りて、なんども呼び止めたが、娘は無視して悟の家までやってくると、インターホンを連打した。そして、「父親から暴力を受けました」と保護を求めた。
 それぞれの主張をまとめると、こういうことになる。
「ちっ、おどろきだぜ。全部デタラメなんだからなあ」
 見船の父親は、酒と怒りで充血した目を娘に向けて、
「俺はこいつを殴っちゃいない。こいつはなあ、車のドアに、自分の顔を自分でガツンと叩きつけやがったのさ。自作自演なんだよ。芝居なんだよ。なあ、そうだよなあ?」
 父親のことばに、娘は無視で応対した。
 上野原院長はそろそろと片手を挙げて、
「ええと、わたしは運転中だったので、はっきり見たわけではありませんが……後部座席で音がした瞬間、反射的にミラーを確認したんです。そのとき、見船さんと娘さんは、おたがい反対の方向を向いていました。見船さんが暴力をふるったような気配は、ちょっと感じられませんでした」
「そらみたことか! へへっ、つまんねえ嘘なんてのは、すぐにバレちまうんだよ!」
「まあ、もちろんこれは、わたしの印象でしかなくて……」
「先生は俺がやったと思ってるのかよ!」
「そうは言ってません。ただ、これはすべてわたしの印象……」
「いいんだよ、この世はすべて印象で決まるんだからなあ。ってわけで、話は終わりだ。てめえの負けだ。警察を呼ぶならさっさと呼びやがれ!」
「いけません。見船さんの主張はみとめますが、その態度は危険です」
「心配いらねえよ。嘘吐きのガキなんざ死刑だよ」
「いいですか見船さん、あなたはアルコール中毒にかかっていて、なにより今、ものすごく酔っています」
「絶好調だぜ!」
「せめて絶不調ならよかった」
「あ?」
「娘さんをよく見てください。顔は殴られたみたいに腫れ上がってるし、服だって犯されたあとのようにぼろぼろです。どこからどう見ても被害者です」
「それがなんだ。みんなこいつの嘘だぞ」
「真実はどうあれ、真実味があります。こんな姿を警察が見たら、まちがいなく娘さんの証言を信じるでしょうね。少なくとも、わたしが警察だったら信じるし、ここにいる酒くさい父親と、うさんくさい医者を、とりあえず署に連れて行くでしょうね」
「なんだと? 冤罪だ!」
「ええ、ええ、あってはならないことです。だけど警察を呼ばれたら、きっとそうなるでしょう……」
 上野原院長は自分のことばに不安がるように、ぐったりと体を丸めて、
「ああ、もし逮捕なんてされたら、クリニックの沽券こけんにかかわります……いけません、いけませんよ本当に」
「じゃあ警察は、こいつのデタラメを信じるってのか?」
 アルコールの回った脳に、ようやく理解が追いついたのか、見船の父親が不安そうな声を上げたが、上野原院長は体を丸めたままなにも言わなかった。
「くひひひ」
 笑い声。
 見船が笑っている。
 自分の優位性を確信した笑いだった。
「くひひひ。くるしい立場にいることに、やっと気づいたみたいですね」
「てめえ、このガキがよぉ……」
 見船の父親が目をさらに血走らせる。
「警察がやってきたら、すべておしまいですけど、どんな気分ですか」
「父親をおどすのか!」
「自業自得では?」
「俺は無実だぞ!」
「では、こうしましょう。警察は呼びません」
「本当か!」
「ただし、家にも帰らない」
「あ?」
「私の身柄は、この浅葉家に保護してもらいます」
「ああああ?」
「こちらの浅葉くんはクラスメイトで、すでに家庭の事情は伝えているし、親身になって話を聞いてくれています。あと私、浅葉くんしか友だちがいないから、ほかに行くところもないし……」
「ふざけるな馬鹿! みとめるわけねえだろ!」
 見船の父親は叫んだ。
 悟もおなじことばを叫びたかった。
「……あなたたち、交際しているのですか?」
 上野原院長が体を起こし、とまどったような視線を悟に向けた。
「交際してません。親身になってもいません。ただのクラスメイトです」
 悟はすぐに言った。
「ひどい」
 見船もすぐに返したが、口の端がにやけていた。
「はあ、ただのクラスメイト……。ではどうして、あなたに助けを求めているわけで?」
 上野原院長がたずねる。
 知るわけがなかった。
 悟はいつだって、見船の意図が読めない。
 見船が家庭に問題をかかえているのは前からわかっていたし、第三者による保護が必要なほど、せっぱ詰まった状態になっているのも事実なのだろう。
 だが、
 ……どうしてここにきた?
 保護を求めているなら、しかるべき機関に連絡でもすればいい。悟の家にやってくる必要などない。
 にもかかわらずここを選んだということは、見船にはほかにもべつの計画があるにちがいない。これまでもそうだった。今回もそうに決まっている。
 なにを考えているんだ?
 なにをするつもりなんだ?
 悟が警戒しているあいだ、上野原院長はなにごとかを考えているように、視線をあちこちにさまよわせていた。
 やがて上野原院長は、その視線を母親にそそいだ。
「お母さま……」
 そしてふたたび、食卓にぶつけそうないきおいで頭を下げて、
「お母さま、どうか、どうか、保護の話を了承していただけないでしょうか!」
「せ、先生、あんたはなにを……」
 あわてる見船の父親を完全に無視して、
「ええ、ええ、お母さま、わかっておりますとも。いきなりこんなことを言われても、こまってしまいますよね。わかりますとも。でも、どうか聞いてください。今回のことが警察沙汰になったら、こちらのお父さんの人生が終わってしまいます。お父さんは決して悪い人ではありません。その証拠に、アルコール依存症を治そうとがんばっております! 努力の男であります! どうか、どうか、お父さんの未来と、そしてなにより娘さんの未来のために、あなたの義侠心を見せていただけませんか?」
 この野郎。
 保身に走りやがった。
 警察を呼ばれたくない一心で、無理難題を押しつけてきやがった。
「勝手なことを言っているのはわかっています。息子さんと娘さんは、ただのクラスメイトのようですし、なにより年ごろの男女をひとつ屋根の下に住まわせるというのは、倫理に反することかもしれません……が! そこはどうか、あの家族を助けてやると思って、目をつむっていただけないでしょうか。ええ、ええ、もちろんわたしも協力しますし、このことは第三者機関にも報告します……が! まずはとにかく、人助けと思って、保護をみとめていただけないでしょうか」
 母親は反応しない。
「ええ、ええ、こまりますよね。わかります。しかし人間というのは、困難に立ち向かうことで成長するものです。今回の難題もきっと、わたしたちにとって、新たなチャンスとなるでしょう。さあ、お母さま、ここは勇気を出して、一歩踏み出してみましょう」
 母親は反応しない。
「これはですね、決してお母さまに押しつけているわけではなくて……そう、チーム! わたしたちはチームとして、ともに困難を乗り切るんです! わたしたちには困難を乗り越える力があります。さあ、みんなで成功を手に入れましょう!」
 母親は反応しない。
「ええと……お母さま? あの、いかがでしょうか。わたしも協力を惜しみませんので、もしなにか要望などありましたら、なんなりと言っていただけますと……」
「…………」
「お母さま?」
「…………」
「聞こえてますか?」
「う、ううう」
 母親は不意に声を発した。
「さとる……」
 そして息子の名前を呼ぶと、
「お茶を、ありがとうねえ」
 まるで上野原院長の声が聞こえていないような態度でこちらに首を向け、見船など存在していないような視線で悟を見つめた。
 ……ああ。
 悟は確信した。
 確信して、泣きそうになった。
 母親は、まわりの声が聞こえてもいなければ、見えてもいなかったのだ。
 最初からずっと。
「くひひ、警察を呼んだら、お母さんのことも世間に広まってしまいますね」
 見船が愉快そうに言った。

「それで、私が使える部屋はありますか?」
 結論として。
 今日をふくめて4日間、見船をあずかることになった。
 決断を下したのは悟だった。母親にはそうするだけの能力はもはやなく、見船の父親も通報をおそれているのか、なにも言わなかった。
「できれば個室がいいですね。そこが素敵なプライベート空間だったら、なおさらいいですね」
 やっかいな連中を追い出した見船は、すっかり調子づいた感じで室内をきょろきょろ見回している。
 どうしてこいつは、おれの人生を壊しつづけるのか。
 むかっ腹が立ってきた。
「なんのつもりだ……。こんどはどんないやがらせをするつもりだ」
「浅葉くん」
「なんだよ」
「助けてくれてありがとう。むりを言ってごめんなさい」
 見船に感謝されたのもあやまられたのもはじめてのことで、反応にこまってしまう。
「べつにあなたを陥れたくて、こんなことをしたわけじゃないの。この怪我はたしかに自分でやったものだけど、父親から暴力を受けたというのは、あながち嘘でもないから」
「……なにをされたの」
「あなたが想像するようなことはなかったけど、あの家には帰りたくないですね」
「でも、ずっとここにいてもらうわけにはいかない」
「安心して。私はそこまで厚かましい人間じゃありません。歓迎されていないことはわかってますし……」
 見船は食卓に視線を移す。
 そこでは母親が老人のように背中を丸めて、おそろしくゆっくりと茶をすすっていた。
「浅葉くんのお母さん……いったいどうしたわけですか」
「わからない。父さんが死んでから、ずっとこの調子なんだ」
「私のことも、見えてなかったみたい。見たくないんでしょうか」
「わからない。でも、どんどん悪化してる気がする」
「お母さんのこと、だれにも言ってないんでしょう? でも、どうして?」
「わからない」
「そればっかり」
「しかたないだろ……本当にわからないんだ。僕にはもう、どうすればいいのかわからないんだよ」
 なにもわからないが、大丈夫じゃないことと、あの平和な季節がもう戻ってこないことだけはわかっていた。
 ならば知るか。
 いっそ終わってしまえばいい。
 そんなふうに考えるいっぽうで、一刻も早く母親を治して、暮らしを立て直さなければと不安がる自分もいた。
 気づけば、名刺をにぎりしめていた。
「もしこまったら、遠慮せずに連絡をください。見船さんの娘さんについてはもちろん……お母さんのことでも。ええ、わたしは医者です。あなたの敵ではありません」
 別れ際、上野原院長は白衣のポケットから名刺を取り出した。
 くしゃくしゃになった名刺には、このような文字が書かれていた。
 
 上野原メンタルクリニック
 院長
 上野原みつぐ
 
 あいつが名乗った瞬間に思い出した。見船の父親が、『上野原メンタルクリニック』で治療を受けていることを、見船から聞かされていた。あの男は殺されたクラスメイト、上野原涼子うえのはらりょうこの父親だ。
「浅葉くん」
「なんだよ」
「今日のところは、もう寝ませんか」
 同意見だった。
 聞きたいことも考えたいことも山ほどあるが、それをするには疲れすぎていた。それは見船もいっしょらしく、眠気よりも疲れで潤んだ目をこすっている。
 悟も生あくびをしながら、父親の書斎を指さして、とりあえずそこを使うようにと言った。父親がいなくなってから、開かずの間となっていた。
 書斎?
 もしかして見船は、父親の書斎に入るために、こんな茶番を仕組んだのではないか?
 見船はまだ、少女連続殺人事件の犯人が、悟の父親という可能性を捨てていない。
 決定的な殺人の証拠を見つけるために、この家にもぐりこんだのでは?
 見船が書斎のドアを開けたので、
「まって!」
「なにか?」
「あ、いや」
「なにか?」
「あの……ええと、パジャマは?」
「このまま寝ます。制服で寝ちゃいけないという法はありません」
「ええと、歯磨きは?」
「浅葉くんって本当に、のびのび育ったお子さんなんですね。おやすみなさい」
 見船はドアを閉めた。
 悟も寝ようと思った。
 死んだように深く眠り、上野原の生首が迎えてくれる、甘い甘い悪夢の中に逃げよう。そう思った。

 だが生きている以上、どれだけ眠ったところで、かならず目は覚める。
「おはようございます」
 リビングには見船の姿があった。
 勝手に冷蔵庫を開けたらしく、見船はハムとチーズを載せた食パンを食べながら、やはり勝手に持ってきた朝刊を読んでいた。
 ぼろぼろの制服を着たクラスメイトが、自分の家で新聞を読んでいるのは、ちょっと不思議な映像だなと思った。
「今日、補習に出るの?」
 せめて現実感を回復させようとして、悟はそうたずねた。
「補習ですって? 2人でいっしょに学校に行って、クラスの連中にはやし立てられたいんですか?」
「いっしょに行く必要はないだろ」
「じゃなくて、学校に行く必要がないって話をしてるんです」
 見船は食パンをかじって、
「期末テストとか、文化祭とか、下駄箱に入ったラブレターとか、そういうイベントはもう、私の人生には存在しないんです」
「僕の人生にもないよ」
「私たち、人生が終わってますね」
「いっしょにしないでくれ」
「人生が終わった者同士で、お葬式に行きませんか? 水沢みずさわ家のお葬式が、これから行われるそうです。新聞に書いてました」
 水沢家。
 先日、殺人と放火のあった家だ。
「べつにいいけど……きみ、服はどうするつもり」
「これで行くつもり」
 汚れとシワでひどいことになっている制服には、さらにパンくずまでこぼれ落ちていた。
 水沢家の葬儀は午前中にはじまるとのことで、服を買うひまもない。悟は自分のタンスをひっくり返して、それっぽい黒のシャツとズボンを見船に渡した。
「ぶかぶかです」
「文句言うなよ」
 どうしてこいつの世話をしなくちゃならないんだと、不満があふれてきた。
 自分も着替えをすませたあと、閉ざされた和室に視線をやる。
 母親はリビングにいない。
 ならばまた和室に引きこもっているのだろうが、物音ひとつ聞こえなかった。
「母さん……開けるよ」
 覚悟を決めて戸を開ける。
 意外というべきか、母親はすでに起きていた。
 両目をしっかり開いたまま、仏壇に手を合わせている。
 悟が声をかけようとすると、
「ちょっと悟、静かにしなさい。お父さんに挨拶をしてるところなんだから」
 母親はぴしゃりと言った。
 悟は一瞬、「え、治った?」とおどろいたが、治ったにしては瞳孔がやけに開いていたし、声の調子も奇妙だった。それでも悟は、母親がひさしぶりにまともな態度を見せてくれたことを素直によろこんだ。
 母親は仏壇から目を離さず、
「学校はどうしたのよ。補習でしょ」
「あ……これから行くよ」
「ちょっと遅いんじゃないの」
「寝坊しちゃって」
とおるは?」
 行方不明になって戻ってこない弟の名前を、母親は当たり前のような口調で言ってから、
「……あれ、あんたのお弁当を作ったっけ?」
「まだだけど……」
「ごめんなさい、うっかりしてたわ。すぐ用意するね」
 母親が立ち上がろうとした。
 リビングには見船がいる。
 この状態の母親と、会わせるわけにはいかない。本能的にそう感じた。
「あ、あのさ! 弁当はいらないよ」
「どうして。食べたくないわけ」
「今から作ってもらったら、学校に間に合わないから、てきとうに買っておくよ」
「買っておくって、でもあんた、お金は?」
「大丈夫だから」
「お金は?」
「大丈夫、大丈夫だから……それより母さんは少し休んだほうがいいよ」
「どうして」
「疲れてるでしょ」
「どうして母さんが疲れてるのよ。なんでそんなふうに思うのよ」
「……そろそろ遅刻しそうだから行くね。母さんは休んでて。ね、休んでて」
 悟がくり返すと、母親は納得していないような顔つきだったが、そのうち、「休む……そう、なの?」とつぶやいて、のろのろと布団にもぐった。
「母さん」
「…………」
「母さん?」
「…………」
 反応が消えた。
 悟はすっかりこわくなって、和室の戸をすばやく閉めた。
 リビングには、けわしい表情の見船が立っていた。
 2人はだまって家を出た。
 この日はやけに暑かった。
 自転車に乗れない見船を荷台に乗せて、斎場に向けてペダルをこぐ。
 到着してみると、そこは悟の父親の葬儀にも使われた斎場だった。こんなところの常連客にはなりたくないなと悟は思った。
 斎場の前にはテレビカメラが陣取り、参列者たちを撮影していた。
 しかしマスコミはおとなしかった。いつもであればもっと熱っぽく撮影して、斎場にむりやり突撃する者などもいたが、カメラの動きはまるで、飽きっぽい子供のように集中力がなく、リポーターも声をかけてこない。
 少女連続殺人事件が幕を開けてから、9ヶ月。
 犯人は未だにつかまらず、今回の水沢夫妻殺しも、少女連続殺人事件と関連があるのかどうか不明のまま。
 あることないことをテレビで騒ぎ立て、根拠のない記事を書き立てるマスコミでさえ、事件の全体像を考えることに、疲れはじめている。
 そうしてそれは、この町に暮らす人間もいっしょで、ひょっとしたら警察だってそうかもしれない。
 事件の迷宮入り。
 そんなことばが脳裏をよぎった。
 悟としては、べつにそれでもいいような気がした。事件が解決したところで父親は生き返らないし、母親が治ることもないだろう。ただ、事件の行く末はどうあれ、透には早く帰ってきてもらいたかった。
 記帳をすませる。
 水沢夫妻とは親交もなかったし、香典も包んでこなかったので不安だったが、とくになにも言われなかった。
 斎場では、父親の葬儀のときにいたような僧侶が、父親の葬儀のときに読んでいたような経を上げていた。どの葬式も似たようなものだなと悟はぼんやり思った。
 席はすでに埋まっていて、悟と見船は斎場の後方に立った。
「あれ見て」
 見船が参列者を指さす。
 クラスメイトの舞草まいくさみのりがいた。
 熊に食い殺された水沢家の娘……めぐみと、仲がよかったようには見えたので、その両親とも関係が深かったのかもしれないが、とはいえ真意はわからない。
 それ以上にわからないのは、参列者の中に、あの上野原院長がいたことだ。
 どうしてこんなところに?
 このせまい町の人間関係を、自分はほとんど把握していないことを、悟は思い知らされた。
「出ましょうか」
 見るべきものは見たらしく、見船はつまらなそうに言った。

 入ったばかりの斎場を出て、ふたたび自転車を走らせた。
 流れる景色はすっかり夏で、目にも肌にも心地よかったが、荷台に見船を乗せている分だけペダルは重かった。
「そのまま国道に行って、しばらく進んでください」
 背後から見船の指示する声がした。
「悪いけど、登り坂のときは降りて」
「どうして?」
「ちょっと重たくて……」
「欠食児童に向かって失礼な」
「ねえ、どうして見船さんは、自転車に乗れないの?」
「自転車を買ってもらえなかったからです。この話を深堀りします?」
「いや……」
「では明るい話題を。浅葉くんは、今回の水沢夫妻殺し、だれがやったと思います?」
「そんなのわからないよ。でも、父さんじゃないことはたしかだね。だってもう死んでるから」
「亡霊のしわざかもしれませんよ」
「見船さんはまだ、父さんが犯人だと考えてるわけ?」
「少女連続殺人事件と、水沢夫妻殺しに、なんらかの関係があると思ってますか?」
 質問に質問で返された。
 悟は短くうなずいて、
「ただの直感だけど、おなじ犯人がやったんじゃないかと僕は思ってる」
「なるほど。すべて同一犯のしわざだと?」
「まあ、父さんが犯人だと信じたくないだけかもしれないけど……」
「浅葉くんの直感に乗ってあげるには、1つ問題があります。これまでずっと、少女ばかりを狙ってきた犯人が、今さら中年夫婦なんかを殺すでしょうか?」
 それは悟もおなじことを考えていた。
 手口や標的が、少女連続殺人事件の犯人がこれまでやってきたことと、あまりにもちがっているのだ。
 見船は言った。
「これが連続通り魔なら、べつにかまいませんよ。通り魔は基本的に、被害者はだれでもいいわけですから、年齢性別関係なく、殺せそうな人間を殺すだけです」
「まあね」
「だけど世の中には、殺害対象にこだわりを持つタイプの人殺しもいます。娼婦だけを殺す切り裂きジャック。若い男だけを殺すジョン・ゲイシー。最近あった東京と埼玉の誘拐殺人犯は、小さな女の子に執着していました。そして少女連続殺人事件の犯人は、その名のとおり、少女専門の人殺し。こういうタイプの犯罪者は、ターゲットをとちゅうで変えることはありません。というか、できません」
「できない?」
「パンダが生涯、竹や笹しか食べないのといっしょで、犯人がみずからの意思でターゲットを変えることはできません」
「どうして?」
「美学だから」
 見船の返答に、悟は思わず鼻を鳴らした。
「笑っちゃいけませんよ。どんなことにも美学はあります」
「殺人の美学ってわけ? くだらないよ」
「でも私は、このくだらなさの中に、犯人の人生とか、悲哀とか、執念とか、そういうものを感じます」
 見船はそう言って、
「娼婦や幼女といった被害者たちは、ただのかわいそうなターゲットではありません。犯人にとってそれは、決して逃れることができない底なし沼なんです。犯人が一生をかけてターゲットに執着するほど、どっぷりと深みにはまり、そのうち、殺しているのか殺されているのか、支配しているのか支配されているのか、どんどんわからなくなる……。これが、殺す者と殺される者の本当の関係性です。ねえ浅葉くん、はたしてどっちが勝者だと思いますか?」
 1989年の時点では、『羊たちの沈黙』がまだ映画化されておらず、シリアルキラーやプロファイリングといった概念も一般的ではなかったこともあり、見船がなにを語ろうとしているのか、悟にはいまいち理解できず、返事ができなかった。
 会話は終わった。
 自転車は国道に入る。
 悟はまもなく、見慣れないファンシーな建物を見つけた。
 おとぎの国から抜け出してきたような、けばけばしいピンク色の屋根と、丸い窓。茶と白のストライプで書かれた文字は、『ピンキードーナツ』とある。どうやら人殺しがうごめく町に、ドーナツ屋がオープンしたらしい。
 悟はほんの一瞬だけ、見船にドーナツを買ってあげたら、いったいどんな反応をするだろうと考えた。もちろん、「ほんの一瞬」にすぎない淡い発想を、悟が実行に移すことはなく、ドーナツ屋はひとつの風景として流れ去った。

 汗だくで自転車を走らせて、見船のアパートに到着した。
「どうせ、この時間はいませんよ。午前中はたいていパチンコに行ってるか、どこかで飲んだくれているので」
 見船はそう言うが、見船の父親から前回ひどい暴力を浴びた悟は、警戒せずにはいられなかった。
 今にも抜け落ちそうな踏み板を上がると、202号室のドアがあった。見船親子が暮らす部屋だった。
 見船がドアを開けた瞬間、大型犬でも死んでいるようなにおいが鼻を突き抜けた。
 ドアの横にあるキッチンには、洗っていない食器が限界まで積み上がり、そこに溜まった汁がぼたぼたとシンクに垂れて、腐臭を撒き散らしていた。前に見たときよりも悪化していた。
 見船は靴を脱ぎ、廊下を進む。
 悟は覚悟を決めてあとにつづくと、早足で見船の部屋に入った。
 異様な風景があった。
 床一面に、本がちらばっている。
 ただしそれらは、ずたずたに破られていた。
 強引にむしり取られた羽根のように、破られたページが広がっていたのだ。
「私の本です」
 見船がつぶやく。
「だれがこんな……」
 そう言いかけたが、聞くまでもない。
 あの父親がやったのだ。
 悟は本の残骸に目を向ける。
 破られ、ちぎられ、丸められた大量のページが広がる光景は、本を読まない悟から見ても無惨だった。
 見船は昨日、「父親から暴力を受けたというのは、あながち嘘でもないから」と言っていたが、このことだとすれば、たしかに暴力だった。
 見船は紙の山を見下ろしながら、
「つい先日、補習から帰ってきたら、このありさまでした。あんまりショックだったので、まだ片づけられていません」
「どうしてこんなことを」
「さあ。私が楽しく読書しているのが気に入らないんじゃないですか?」
「古本屋を経営してるくせに……」
「それか、私をずっと支配するために、大人にさせたくないのかも。本を読むといろんな知識が手に入ります。抵抗権とか、サムの息子法とか、カリフォルニアにはホテルでオレンジの皮をむいてはいけない法律があるとか、そういうことをいっぱい学んで、人は大人になります」
「オレンジが……なんだって?」
「そこは重要じゃありませんよ」
 見船は低い声で言って、
「私はもう中学生だし、なにより人間です。いつまでもコウノトリが赤ちゃんを運んでくると信じることはできません。あなたの失踪した弟さんって、何歳?」
「小学5年生」
「赤ちゃんの正しい作り方くらい、きっともう知ってますね」
 賢いとはいえまだ幼い透が、そんなことを知っていると考えるのは、なんだかいやだった。
 見船はまた低い声を発して、
「私には私の人生を生きる権利があるし、それを否定することは、父親だろうとアル中病者だろうとできない。だから、ここから逃げることに決めました。逃げずに抵抗をつづけるやりかたもあるけど、そんなことしたら、私もこの本みたいにビリビリに破られてしまうかもしれませんし」
 そして押し入れの戸を開けると、使い古したナイロンバッグを取り出して、被害をまぬがれた本の回収をはじめた。
 そのほかに衣類やヘアブラシ、透明のガラス玉、おもちゃのハサミ、ラクダのかたちをした栓抜きなども詰めこんだ。
 ナイロンバッグにしまっているこれらが、見船の人生を表すものだったとすれば、なんてつまらない人生だろうと悟は思ったが、しかし自分が、ナイロンバッグに詰めこむべきものを1つも持っていないことに気づいて愕然がくぜんとした。
 いくつものガラクタを詰めこむと、見船は押し入れから、新たなバッグを取り出した。
 奇妙に細長く、そして見覚えのあるものだった。
 猟銃のケース。
 中山憲二なかやまけんじとかいう、上野原を金で買った男を脅して、見船がぶんどってきたものだった。
「まさか、それも持ってくの?」
「いけません?」
「だめに決まってるだろ。僕の家に、物騒なものを置かないでほしいんだけど……」
「私、猟銃にかんする本をたくさん借りて、勉強したんです」
 こちらの話を聞くつもりはないようで、見船はケースから猟銃を取り出しながら、
「くひひ、やはり読書は最強です。中学生が銃器の使い方まで学べちゃうんですからね。これで、どいつもこいつも羊のように撃ち殺せる……くひ、くひひひ」
 もしかしたら見船の父親は、正しい行いをしたのではないかと、猟銃をかまえてにやにや笑いを浮かべる見船と、もはや意味をなくした紙くずの山を交互に見ながら悟は思った。

 家に戻ってきたのは昼すぎだった。
「ただいま……」
 朝のように母親がまた覚醒していたら面倒なことになるかもしれないと判断した悟は、見船を玄関先に残して、まずは1人で中の様子をうかがった。
 リビングに、こうばしい香りがただよっている。
 母親がキッチンに立っていた。
 料理をしているらしく、緩慢な、だけどしっかりと目的のある動作をつづけている。悟はいくつもの不安をかかえながら声をかけたが返事はなく、母親はひたすら手を動かしていた。
 大きな鍋の中では、たくさんの唐揚げが揚がっていた。そういえば、昨日はオムライスを作っていた。
 母親がエプロンを外して、こちらをふり返った。
 なのに目が合わない。
 おかしいなと思った。
「母さん? ただいま」
 しかし母親はなにも言わず、死んだような表情でのろのろと進み、悟の脇を通って和室に入った。
 それきり出てこなかった。
 キッチンには、皿に積まれた唐揚げが放置されていた。
 ゾンビの暮らしだ。悟はぎゃっとなった。おれの母親は、生きていたころの動きを意思もなくトレースしているゾンビだ。いつか破綻すると思っていたが、そうではない。すでに破綻しているのだ。そして破綻の先に待ち受けているのは崩壊。この家はまもなく崩壊するのだ。
 いたたまれなくなって、悟はすがるような心地で見船を家に招いた。
「浅葉くん、お母さんの様子はどうでしたか……あら、おいしそうな香り」
 見船はキッチンに置かれた唐揚げを見つけると、「あちあち」などと言いながら、まったく無防備に口に入れて咀嚼そしゃくした。
「あんな状態でも料理はできるんですね」
 そのことばを聞いた瞬間、不思議なくらい気持ちが醒めた。見船とくらべたら、犬や猫のほうがまだ自分の孤独を理解してくれるような気がした。人の家にもぐりこんで、猟銃まで持ってきた女になにかを期待した自分がゆるせなかった。
 気持ちが沈む。
 頭が重く、思考が暗くなり、そのうちものごとを考えられなくなる。
 それはいわゆる、鬱の初期症状だったが、これまで健康的に生きてきた悟は、自分の現状がうまく把握できなかった。
「もう寝る」
 悟は部屋に向かった。
「お昼寝ですか」
「いや、ずっと寝る」
「お疲れさまです」
 そうだ。
 自分は疲れている。
 これ以上ないくらい疲れている。
 逃げたかった。
 なにも考えなくてもいいような、深く暗く遠いところに逃げたかった。
 そんなものは夢の中にしか存在せず、それをいやになるくらい理解している悟は、部屋に戻ってシーツを頭からかぶると、落下するように夢の中にもぐりこんだ。
 そして上野原と再会した。
 上野原はこのときも、どこだかわからない暗闇にいた。
「あくぅ―――ぅ――――」
 上野原は生首だった。
 生首であることが当然という態度で、こちらを見上げていた。
 悟は動けなくなっていた。いつもそうだった。夢の中で上野原と会うと、いつだって体が動かなくなるのだ。
 生首となった上野原を凝視する。
 いつのまにか生首のまわりには赤々とした血が広がっていて、それは悟の足を濡らした。ぴちゃぴちゃと粘っこい音がした。よく見ると血の海に内臓の一部があって、意識でもあるように浮いたり沈んだりしている。それが音の正体だった。
 おれが殺した。
 おれが殺した。
 悟は罪悪感というより、むしろ快楽に近い懺悔ざんげをくり返しながら、足もとのぬかるみをひそかに楽しんだ。おれが殺した。おれが殺した。おれが上野原を殺した。あのとき、犯人に襲われている上野原を前に、おれはなにもしなかった。見ているだけだった。腹を刺されても、首を切られても、なにもしなかった。おれが殺した。おれが殺した……。
 そのうちに、上野原の生首が回転をはじめた。いつもそうだった。生首はまるで、水遊びをするアザラシの子供みたいに、血の中でぐるぐると優雅に回りながら、悟のもとに近づいてくるのだ。
 きてくれ。きてくれ。もっときてくれ。おれが殺した。もっとだ。もっと近づいてくれ。おれが殺した。もっときてくれ。おれが殺した。
 悟は祈るように、頭の中でそれをくり返す。
 もっとだ。もっと近づいてくれ。もっと。もっときてくれ。もっと。おれが殺した。おれが殺した。
「あああああああ」
 血まみれの生首が、とうとう悟の足もとまでやってくると、赤々とした唇を開いて声を発した。
「あああああああ」
 こわかった。くるしかった。不快だった。だがそれ以上に気持ちよかった。あああああああと生首が声を出すたびに、悟もまた、あああああああとうめき声を上げたくなるほど気持ちよかった。あああああああ。声が響く。また響く。いつまでも響く。暗闇の中で、声が無限に反響をつづけている。悟の尻のあたりを、背徳的な快楽が走る。
 くる。
 そう思った。
 くる。くる。
 そう感じた。
 くる。
 くる。
 くるくるくるくるくる。
 く。
 次の瞬間、はじけるような感覚が下半身を突き抜けた。
「あああああああ」
 そう言ったのははたして上野原なのか自分なのか、もうよくわからない。夢の中で上野原と悟の声は混ざり合い、溶け合った。ようは性行為の代替作業なのだが、童貞の悟にはそこまで理解がおよばなかったし、また理解する余裕もなかった。それほどまでに強い快楽だった。
 あまりの気持ちよさに、目を覚ました。
 室内はまっくらだった。
 夜まで眠っていたようだ。
 全身が汗だくで、快楽の余韻が残る体は水を吸ったように重だるく、悟は荒い呼吸を闇の中でくり返した。パンツの中がぐちゃぐちゃしている。またしても精液で汚してしまった。
 悟はまだ荒く息をしたまま、ゆっくりと上体を起こすと、パジャマのズボンとパンツを脱いだ。勃起を終え、しなびたアスパラガスのようにぐんにゃりした性器をどかして、枕もとに用意していたティッシュで精液を拭き取る。
 体は充足感に満ちていたが、思考のほうはそうでもなかった。
 快楽の波が引いたことで、打ち上げられた魚の死骸のように、ごつごつと生々しい恐怖だけが残っていた。
 死んだ上野原で興奮して、死んだ上野原で射精する……。それは夢の中では、上野原とじゃれ合っているようでうれしかったが、こうして夢から覚めたとたん、どれだけ異様な性癖なのかがよくわかる。
 悟は自分自身におびえ、ねっとりした混乱に襲われた。おれはいったいどうなってしまったのか。そしてこれからどうなるのか。子供の時代を終えて大人になっても、死んだ上野原で欲情をつづけるのか……。
 不意に、部屋のドアがノックされた。
 悟はおどろいた。おどろきすぎて、体をコントロールできなくなってしまった。ティッシュを片づけるべきか、性器を隠すべきか、あるいはシーツをかぶって寝たふりをすべきか判断がつかず、それでどうなったかというと、ティッシュを手にしたまま性器を丸出しにしていた。
 ドアが開いた。
 廊下の光が射しこむ。
 悟にとっては、そこにだれがいようと地獄に変わりないが、それでもドアの前に見船が現れたときは、心の底から死にたくなった。
 見つめ合ったまま、なにも言わない。
 長い沈黙の果てに、見船が口を開いた。
「それをしまって」
「あ、あの」
「それをしまって」
 見船はくり返す。
 悟は叱られてしょんぼりした子供のように、そろそろと性器を隠した。精液の染みこんだティッシュをゴミ箱に捨てたかったが、それを見船に見られるのが、今さらながら気恥ずかしかった。
 見船は悟から目を離さず、そっと部屋に入ってくると、ドアを閉めた。
 光が消え、暗闇がよみがえった。
 輪郭だけになった見船が、暗い部屋の中を移動しているのがわかった。
 見船はベッドの脇に立ち、悟を見下ろしていた。
「ち……ちがうんだ」
 気づけば、そんなことを口走っていた。なにもちがってなどいないことは、悟自身がだれよりもわかっていた。わかっていたが、そう言わずにはいられなかった。
「ちがうんだ見船さん。僕は、そんなつもりじゃなかった」
「どんなつもりだったんですか?」
「…………」
「どんなつもりだったんですか?」
「上野原さんの……夢を、見てた」
「はい」
「生首なんだ。血だらけで、内臓も出てて。それなのに、その、気持ちよくなって……ちがう。生首で、血だらけで、内臓も出てるから、だから気持ちよかったんだ」
「意味がわかりませんが」
「そんなの、僕だってわからないよ。はじめてこうなったのは、生首の夢を見たときで、それからずっと、生首でおかしくなって、生首でこんなふうになって……」
「変態」
「そうだよ。僕は変態だ。きっともう、戻らない」
「ふーん。じゃあ、私がここで脱いでみせても、浅葉くんは興奮しないわけ? 脱ぎませんけど」
 見船の輪郭がふたたび動く。
 部屋の窓が開かれた。
 なまぬるい夜風が、室内に入りこんでくる。
 見船の顔が、月明かりに照らされた。
「ねえ浅葉くん、目も覚めたことだし、いっしょにここから抜け出して、散歩でもしませんか」
「……散歩って、どこに?」
「私たちのはじまりの場所に」

(つづく)

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連載【妻を殺したくなった夜に】
毎月最終火曜日更新

佐藤友哉(さとう・ゆうや)
1980年北海道生まれ。2001年『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』でメフィスト賞受賞。2007年『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を最年少で受賞。他の著書に『クリスマス・テロル invisible×inventor』『世界の終わりの終わり』『デンデラ』『ナイン・ストーリーズ』『転生! 太宰治 転生して、すみません』『青春とシリアルキラー』等がある。
Twitter:@yuyatan_sato

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