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第17回 サンタクロースを殺して 佐藤友哉「妻を殺したくなった夜に」

北国の地方都市を舞台に、少女連続殺人事件をめぐる中学生男女の冒険を描く、佐藤友哉による青春ミステリー。
[毎月火曜日更新 はじめから読む

illustration Takahashi Koya


 2人は童話に出てくる迷子の兄妹のように、林の中にいた。
 住宅街を抜け、鶏荷とりに川の脇に広がる林に入ったとたん、2人は方向感覚をうしなう。そこには町の明かりも星の光もなかった。
 あるのは闇だけ。
 さとるは小枝を踏みつけながら、暗がりを進む。
 林の中は湿気に満ちていて、土のにおいが漂っていた。足もとからは虫の声が響き、静寂さはない。生き生きとしていた。
 去年。
 クリスマスイブの夜。
 血のついたコートを燃やすために入ったときと、林はまったく逆の様相を呈していた。
 そんな悟のすぐ前を、闇をさらに煮つめたような物体が歩いていた。
 見船美和みふねみわ
 黒の上下を着た見船は、暗闇に溶けこむような調子で進んでいる。
「私がここにいた理由、話してませんでしたね」
 クリスマスイブの夜に、悟は部屋の窓から抜け出して、ここで血のついたコートを燃やした。
 それを見船に見つかったのが、すべてのはじまりだった。
「アパートの鍵を忘れて、家に帰れなくなってしまったの。華やかな年末に、外をうろつかなきゃいけないなんて、私はあのとき、『マッチ売りの少女』の気持ちがはじめてわかりました」
「見船さんのお父さんは、家にいなかったの?」
「すべての少女にマッチを売らせるのが父親です」
 見船は直接には答えず、
「家には帰れないし、お腹はすくし、世間は幸せそうだし、さすがの私もくさくさしちゃって、それで町から逃げるように、ここにきたというわけ。ほら、この近くに、鶏荷川があるでしょう? まだ母がいた幼いころ、よくそこで遊んでいたから、それを思い出したのかも……くひ、くひひ」
 自嘲的に笑う見船に、悟はなにも言えなかった。自分も子供のとき、弟のとおると川辺で遊んでいた思い出話でもすればよかったのかもしれないが、ことばにならなかった。
 見船はつづける。
「それで川辺をうろついていたら、自転車をとめる音が聞こえたので見に行ったら、浅葉あさばくんがいました」
「僕のあとをつけたの?」
「いきなり火をつけるんですもの、びっくりしちゃった。それもまた、『マッチ売りの少女』ですね」
 ただし、そのとき悟が燃やしたのはマッチではなく、血のついたコートだが。
 会話がとぎれた。
 2人はだまって歩いていたが、示し合わせることなく、ある一点で立ち止まる。
 そこはまさに、悟が血のついたコートを燃やした現場だった。
 見船が座ったので、悟は少し迷ったが、隣に腰を下ろした。土が湿気を吸っているせいか、尻のあたりがじめじめした。不快だったが、どうせおれの下半身は、汗と精液で汚れているのだと思うことにした。
「で、なぜあんなことを?」
「コートを燃やしたこと?」
「あなたがベッドでやったこと」
 夢精したところを、さきほど見船に目撃されたばかりだった。
「よくわからないんだ」
「さっき聞きました」
上野原うえのはらさんの生首が夢に出てくるようになってから、その、あんなふうになって……」
「それもさっき聞きました」
「僕は変態なんだ」
「それはさっき私が言いました」
「変態で異常者なんだ。血や生首が出てくる夢を見て興奮するなんて、どうかしてる。僕はもう、一生このままなんだ」
「ねえ浅葉くん」
 見船は一呼吸置いてから、
「つかぬことをうかがいますが、あなたって悪趣味?」
「どういうこと」
「悪趣味は悪趣味ですよ。月岡芳年つきおかよしとしの無惨絵。人魚のミイラ。マリー・アントワネットの生首を型取りした蝋細工。女性がタコに犯される春画。かたちから入るイデオロギー。郵便配達人が作ったグロテスクな理想宮。ジョルジュ・バタイユ。三島由紀夫みしまゆきお。衛生博覧会。なめ猫ブーム。大正期のエログロナンセンス。カストリ雑誌の猟奇記事……」
「なんの話?」
「好ましくない、または不快とされる趣味を愛好しているか聞いているんです」
「それって、きみの好きなホラー映画みたいな?」
「まあ、それもありますね」
「冗談じゃないよ。いっぱい血が出たり、ひどい殺され方をしたりするような映画は好きじゃないし、そういうのを見て興奮する趣味もない」
「偏見のかたまりみたいな人ですね。悪趣味はホラー映画にかぎらず、ファッション、アート、デザイン、ペット、解剖図など、さまざまな分野で使われる概念ですよ」
「ペットに悪趣味はないでしょ」
「チワワや和金はただの趣味ですが、人間が意図的に奇形化させたブルドッグや出目金は悪趣味です。ヘビやクモをペットにする人も悪趣味にふくまれるでしょう」
「それじゃあ、解剖図は?」
「ペストとルネサンスによって解剖学が花開いたヨーロッパでは、全裸の女性がお腹と陰部をぱっかり開かれた解剖図が描かれ、それは医学的見地を超えていますし、死体の一部を使った人形なんかも作られました」
「悪いけど僕は、なにかを見て変な気分になったことはない」
 そう言った瞬間、自分が嘘を吐いていることに気づく。
 以前、たまたま手に取った雑誌に、幼い少女のヌードグラビアが載っていて、それを見た悟は強い反応を引き起こした。よりはっきり言えば勃起した。
「たとえば、小さな女の子が裸で立っていたとします」
 すべてを知っているようなことを見船が言ったので、悟はぞっとした。
「そこには基本、エロティシズムは存在しません。その子は美醜を論ずるような年齢ではないし、ただ裸で立っているだけですからね。でもそこにテイストを装飾すると、話は変わります」
「テイスト?」
「ではテイストをくわえてみましょうか。浅葉くんも想像してみてくださいね。裸で立っている女の子に、うっすらと化粧をほどこします……想像してますか?」
「してるよ」
「本当に?」
「してるってば」
「では次に、その子を横たわらせて、胸を突き出し、股間を見せつけるようなポーズをとらせます。その子は誘うような顔でこちらを見ている……アレクサンドル・カバネルが描いた『ヴィーナスの誕生』のように。するとびっくり、たんなる裸の少女に、性的な意味合いが浮かび上がってきました。こうなると、どうなります?」
「どうって……」
「鑑賞者の心が、持っていかれます」
 雑誌で見た少女もまた、「誘うような顔」をしていて、鑑賞者である悟は、そこから性のにおいを嗅ぎ取った。だからこそ、あのとき反応したのだ。
 悟は自分に絶望しながら言った。
「見船さんがなにを言いたいのかはわからないけど、とにかく僕が変態ってことに変わりはないよ」
「いいえ。あなたは変態じゃありません」
「あんな夢を見て、あんなふうになるのは、ふつうに変態だと思うけど」
「今回の件はたぶん、浅葉くんの幼稚な性衝動が、悪夢を見ることで起こした混乱だと思いますよ」
「混乱であんなふうになるなら、なんでもありじゃないか」
「ええ、そのとおり。授業でカエルの解剖をしていたら勃起した学生の話とか、冷蔵庫を自分の奥さんとかんちがいした男の話とか、そんな記録はたくさんころがっています。あなたの見た夢なんてつまらんものです」
 見船はそう言って、
「いいですか浅葉くん、この世には、まったく全然これっぽっちも意味のわからないものが、ごまんと存在します。私たちはそんな世界の中で、それでも自分が理解できる理屈を構築する必要がある」
「……なんのために?」
「くひひ、もちろん、生きていくために」

 見船は笑い声を引っこめると、「話を戻しましょう」と言って、
「生首。血液。臓物……。そんなものが出てくる夢を見て発情するのは、たしかに変態っぽいですね。でも構造だけ取り出せば、恋の相手が出てきた夢を見て夢精したにすぎません。そんなの、どこにでもいる男子中学生がふつうにやってることです」
「えっ」
「夢に出てきた生首には、もういない恋の相手の顔が貼りついていました。それ自体は純粋に、うれしかったのでは?」
「…………」
「さらに血液は体液のメタファー、臓物は裸や性器のメタファーとなって、あなたの潜在意識を性的に刺激して、ドキドキさせます。いっぽうスプラッタなイメージは、あなたの不安感情を刺激して、やはりドキドキさせます。こうして浅葉くんは、おそろしい悪夢をスケベな淫夢だと性倒錯を起こして、あのようなことになったわけです」
 そんな分析より、どうして上野原への恋心を、こいつが知っているのか。
 もしかしたら、バレバレだったのか。
 だとすれば自分はたしかに、どこにでもいる男子中学生だ。
「浅葉くんはあの悪夢から性的なものを見出しましたが、それはあなたが変態だからじゃなくて、脳の誤作動にすぎません。吊り橋効果といっしょですよ。はい、証明終わり」
 悪夢で射精したことに変わりはなく、気分は回復しなかった。
「見船さんの説明はわかったけど、それで、これはもう治らないの?」
「趣味や欲望って、固定しているわけじゃなくて、じつはつねに揺れ動いているんですよ。浅葉くんだって、今もロボット遊びをしているわけじゃないでしょう?」
「まあ……」
「オカマが女性を好きになることもあれば、グルメが筋トレに走ることだってあります。私だって高校生になったら、新しい趣味、新しい欲望の中で生きているかもしれません。友だちとキャアキャアさわいだり、バスケットボール部に入ったり」
「つまり、まともになれってこと?」
「失礼なことを言われた気がしますが、まあいいでしょう。それにどうせ努力しなくても、このまま大人になっていく過程で、性倒錯なんて自然と治っていきますから、なにも心配することはありません」
 そうだろうか。
 悟はまたしても、ヌードグラビアを思い出す。
 年端もいかない少女の全裸。
 最低だったし、悪趣味だった。
 しかし、だからこそ、あの少女は天使のように見えて、だからこそ、悟は興奮した。性倒錯だろうとなんだろうと、それは事実だった。
 未来はどうあれ、少なくとも今の自分は、悪夢や少女の裸から性的なものを感じ取ることができてしまう人間だ。
 こんな悪癖をかかえて、人生をすごさなくちゃならないのか。
 なんという地獄だろう。
「見船さん、もし……大人になっても治らなかったら?」
「そのままでいいじゃありませんか。どんな悪趣味も否定はできません。まあ、少女の生首を見たいからといって、本当に首を切るようなやつになられたらこまるけど」

 少女連続殺人事件の犯人は、生首を量産していた。

 6人目の被害者である上野原涼子りょうこと、4人目の被害者である大島雫おおしましずくは、首を狩られた。
 それだけではない。
 最初の被害者である岸谷真梨子きしたにまりこ飯田幸代いいだゆきよはメッタ刺しの状態で見つかり、3人目の被害者である倉橋詩織くらはししおりはバラバラ死体で見つかり、5人目の被害者である名越由香なごしゆかは刃物で刺され、さらに(もし同一犯であれば)7人目と8人目の被害者である水沢和己みずさわかずみ寛子ひろこ夫婦は殺されたばかりか、自宅に火までつけられている。
 8人が無惨に殺害された。
 これらはすべて、犯人が欲望を果たした結果なのだろうか?
 だとすれば、ヌードや悪夢どころの話ではない。
 隣に座る見船は、短い髪を乱雑にかきながら、遠い目をして言った。
「大島雫も、あのひとも、2人とも生首にされました。私は私の大切だった人たちを生首にした犯人を、絶対に見つけ出します」
 なんだ。
 こいつはおれを助けようとしていたのではなく、ずっと事件の話をしていたのか。こいつには少女連続殺人事件しかないのか。
 悟はがっかりしたが、同時に少しだけ、気が楽になった。おれより深い闇の中にいても、こうして生きているやつだっているのだ。
「ではそろそろ、第何回目かの『作戦会議』をはじめましょう」
 見船は宣言すると、視線を悟に戻して、
「私たちはこれまでずっと、犯人に翻弄されっぱなしでした」
 うなずくしかなかった。
 父親の文通、上野原の売春、売春組織を運営していた『ビッグ・アイランド』の経営陣ら……。手がかりを集めたつもりになっていたが、しかし結局は、どれも事件とは関係ないと思われるものばかりだった。
「なので私は、考え方を変えようと思います。事件を洗い直しても、なにも出てこないのなら、もうそういうのはやめて、最新のできごとだけに注目すべき」
「最新のできごとって」
「水沢夫婦殺しにきまっているでしょう」
「じゃあ見船さんは、父さんが犯人とは思ってないってこと?」
 悟の父親は、水沢夫婦殺しが起きる前に死んでいる。
「あなたのお父さんは、血のついたコートを隠し持っていましたが、でもそれが本当に血だったのかも、事件と関係しているかも、今となってはしらべようがないし、だいたい毎回こうやって調査を行き来するたびに、ドツボにハマりましたからね。ですから、最新のできごとだけに注目すべき」
 そのことばを聞いた瞬間、救われたような気になった。
 むろん、血のついたコートの正体がなんであったか、どうして父親がそんなものを持っていたのか、気にならないではなかったが、それでも見船が父親を容疑者リストから外してくれたことが、素直にうれしかったのだ。
 胸のしこりが取れた気がして、悟はよろこびの中で言った。
「どうやって調査するの? 水沢家をまた見に行く? あ、もう焼けちゃったか」
「物証が燃やされても、水沢夫婦殺しの関係者はいます」
「え、だれ」
舞草まいくさみのり」
 見船はクラスメイトの名前を出した。
 水沢夫婦の葬儀に潜入したとき、舞草みのりの姿を発見した。悟は気になったが、水沢夫婦の娘である水沢めぐみと仲がよかったし、そういうこともあるだろうと内心で独りごち、それ以上のことは考えていなかった。
「舞草みのりが手がかりを知っている可能性は低いですが、話をしてみる価値はあるでしょう。それともう1人は、上野原院長」
 上野原の父親であり、『上野原メンタルクリニック』の院長、上野原みつぐ
「あの男も葬儀の席にいた以上、水沢夫婦と接点があるはずです。なにより私は以前から、あの男がどうにも信用できないんですよね」
 上野原院長は、見船の父親の担当医でもある。そして信用できないというのは、悟もいっしょだった。保身のために見船を押しつけられたことを、悟はまだ恨んでいた。
「明日、その2人から話を聞きましょう。私からの提案は以上ですが、浅葉くんはなにかありますか?」
「水沢夫婦殺しに集中する作戦は、たしかにありかもしれない。今この瞬間こそが、犯人ともっとも近い距離にあるわけだからね」
「それだけじゃなくて、今回の水沢夫婦殺しは、おかしいんですよ。これまで犯人は少女ばかりを殺してきたのに、いきなり中年夫婦を殺害したんですから」
「事件の法則性が変わったのは、僕もおかしいと思う」
「犯人が水沢夫婦を殺したのも、そのあと家を焼いたのも、そうしなければならない理由があったからだと踏んでいます。つまり、ここをきちんと攻めれば、犯人の隙をつくことができる……。私の友だちを殺した犯人を見つけることができる」
「友だち?」
「大島雫のことですが。そんなにびっくりしないでください」
「いや、その……ごめん」
「私だって友だちはいたし、友だちがいなくちゃ乗り越えられない日くらいありましたよ」
 そういえば見船は早い段階から、大島雫への執着を隠さなかったし、事件解決への強い決意もくり返していた。
 見船はべつに、ただの悪趣味で事件を追っているのではない。
 見船の心は、鉄でできているわけではなかった。
 そんなことさえ理解していなかった贖罪しょくざいという意味もあったのだろう、気づけば悟は、こんなことを告白していた。
「僕にとっては、上野原さんがそうだったよ」
「あのひとは浅葉くんの友だちじゃなくて、恋の相手でしょう?」
「片思いだから、似たようなものだよ」
「そういうものですか」
「僕が学校にかよって、毎日をすごせていたのは、上野原さんがいてくれたからだって、最近になってわかった気がする」
「遅いですね」
「そうだね……」
「後悔とか、あります?」
「わからないけど、もっとちゃんと、上野原さんと接すればよかった。みんな上野原さんに投げっぱなしだったから、もっと自分から声をかけて、気持ちを伝えておけばよかった」
「それを後悔と呼ぶんですよ。でも、私もいっしょ。あのひとから、『友だちになろう』って言われたとき、なにか裏があるんじゃないかと思って、ずっと警戒して……」
「そのわりに、上野原さんと遊んでるときは、すごく楽しそうだったけど」
「浅葉くんは私を取られて、さみしそうにしていましたね」
「見船さん」
「なんです」
「上野原さんも、友だち?」
 すると見船は、まっすぐに悟を見つめて、
「あのひと……上野原さんも、私の友だちでした。当たり前じゃないですか」
「そうだね」
「私の大切な友だちを殺した犯人を、絶対にゆるしません。かならず見つけて、引きずり出して、仇討ちをしてやる」

 翌朝。
 2人は補習に出かけた。
 ぼろぼろの制服をどうするのか心配だったが、リビングには真新しい制服を着た見船が立っていた。聞けば、自宅に戻ったときに替えの服を持ってきたとのことだった。
 夏空の下を歩き、学校に到着する。
 おなじタイミングで教室に入るのはなんとなく気まずかったので、悟は少し遅れて行くことにした。見船にそれを告げると、小馬鹿にしたように鼻を鳴らして、「思春期」と言われた。
 舞草みのりは、すでに教室にいた。
 午前の補習が終わり、弁当の時間になった。
 悟と見船は席を立つと、舞草みのりの前にやってきた。
 突然のことに軽いパニックを起こしたのか、舞草みのりは不安そうに、「な、なに?」と聞いた。
「舞草みのりさん、いっしょにお昼を食べませんか? 水沢さんのことで、聞きたいことがあるんです」
「水沢って……恵のこと?」
「プライベートな話なので、図書室に行きません? 図書室とは、学校における驚異の部屋ブンダーカマーです。良書悪書の数々を前にすれば、私たちの話なんて前座にもなりませんよ。くひひひ」
 異様な雰囲気に呑まれているうちに、舞草みのりを図書室まで連れて行く。
 さいわい、図書室にはだれもいなかった。
 悟と見船にはさまれた舞草みのりは、弁当箱をテーブルに置いたり、ふたたび持ち上げたりと落ちつかない様子だった。
「舞草みのりさん、どうぞ気にせず、お弁当を食べてください」
「はあ」
「さっそくですが、あなたは水沢さんのご両親とは仲がよかったんですか?」
「あ、あの」
 舞草みのりは困惑した声で、
「どうして、答えなくちゃいけないの?」
 今までろくに接点のなかったクラスメイトに、そんなことを答える筋合いはたしかになかった。
「舞草さん、急にいろいろごめん。僕の母親が、水沢さんの母親と知り合いだったんだ」
 悟は助け舟を出した。
「浅葉くんの、お母さんが?」
 舞草みのりがこちらを見たので、悟は片耳をがれた自分の顔あたりを指差した。
「僕も水沢さんも、きもだめし大会のとき、熊に襲われたでしょう? 僕は耳だけですんだけど、水沢さんは……。まあそれで、おなじ熊の被害者ってことで、僕の母親が水沢さんの両親を気にかけて、会いに行ったんだ」
 まだ曖昧ではなかったころの母親から聞いた話なので、嘘ではない。だがそれだけだと弱いので、悟はエピソードを盛った。
「それで話してるうちに仲良くなったんだけど、あんな事件が起きて、僕の母親がショックを受けてさ、寝込んじゃったんだよね」
 すると舞草みのりは、露骨に不審そうな目になって、
「本当に、仲良くなれたの?」
「え」
「恵が死んでから、恵のお母さん、ずっとあんな調子だったけど」
 そうだった。
 自宅を改装して作った資料館を見に行ったとき、水沢恵の母親と会ったが、こういってよければまともではなかった。会話らしい会話などできなかった。
「あと、どうして見船さんがいるの?」
 追及してくる。
 悟があたふたしていると、こんどは見船が口を開いて、
「浅葉くんが私に、お母さんが調子をくずされたことを相談してきたんです。なので私は、精神科を紹介したり、浅葉くんの話し相手になったりしていました。そうですよね、浅葉くん」
「う、うん。それで話してるうちに、水沢さんと仲のよかった舞草さんなら、事件のことを知ってるかもしれないから、ちょっと聞いてみようってことになったんだ。ほら、くわしいことがわかったら、僕の母親も元気になるかと思ってさ」
「……そう。浅葉くんと見船さん、友だちだったんだ」
「ちがいます」
「えっ」
「えっ」
 舞草みのりと悟は同時に声を発した。
 すると見船は2人を見回して、
「私と浅葉くんは、仲間です」

「お弁当、食べてもいいかな」
 舞草みのりは弁当箱を開けた。ミニハンバーグ。ふりかけご飯。ブロッコリーと卵焼き。
 そこからは、幸せな家庭が観測できた。
「ん、浅葉くんたち、お弁当は?」
 そんなものはない。
 母親はずっとあの調子で、今朝も布団から出てこなかった。
 舞草みのりはしばらく弁当を食べていたが、ミニハンバーグを箸で突き刺しながらふと顔を上げて、
「あの、見船さん」
「おかずをくれるんですか?」
「あげないけど……あの、見船さんが浅葉くんに紹介した精神科って、まさか『上野原メンタルクリニック』じゃないよね」
「どうしてあなたがそれをごぞんじで?」
「だ、だめだよ」
「ほう?」
「やめときなよ……あんな病院」
「ほう?」
「恵のお父さんとお母さんを殺したのは、あそこの医者なの」
 とんでもないことを言った。
「舞草みのりさん、それはいったい、どういうことですか」
「あのね、恵が死んだあと、恵のお父さんとお母さんは、『上野原メンタルクリニック』でカウンセリングを受けていて、あのおかしな資料館を作ったのは、そのあと」
「自宅を資料館に改装したのは、院長の指示だと?」
「それはわからないけど、恵のお母さんがもっとおかしくなったのが、あの医者に診てもらってからなのは本当だよ……。恵のお母さんは、あんな人じゃなかった」
「水沢さんのご両親とは、以前から仲良しで?」
「とってもいい人たちだったよ。家族で映画とかキャンプに行くとき、いっしょに連れて行ってくれたりしたの。私は……恵はもちろんだけど、あの家族が好きだった」
 舞草みのりが葬儀に参加していたのも、それなら理解できる。
 では上野原院長は、どんな理由であの場にいたのだろうか。
 舞草みのりは弁当箱を見つめたまま、
「恵のお父さんとお母さんは、きっとあの医者に、おかしなことを吹きこまれたんだよ。それで洗脳されたんだよ」
「洗脳?」
「精神科医って、洗脳とかするでしょう? それで洗脳されたあとで、殺されたんだよ」
「根拠はあるんですか?」
「そうじゃなきゃ、あんな資料館なんて作らないもの」
「上野原院長が洗脳したとして、なんのために? それと、わざわざ洗脳した患者を、院長がみずから殺す理由がありますか?」
「知らないよ。私にわかるわけないよ……なんなの? 見船さんはなんでそんなことばかり聞くの? ねえ、なんなの?」
「なんでもありません」
 見船はすかさず引いたが、遅かった。
 舞草みのりの目から、大粒の涙があふれ出た。
 箸を握りしめながら嗚咽おえつを漏らし、のどを震わせている。
 悟と見船は顔を見合わせたが、舞草みのりの感情はおさまらない。
「わっ、私……うう、だって私、こんなふうに考えないと、つらくてつらくて、もう、どうにかなっちゃいそうで……」
「わかります」
「わかるわけないよ。だって、私の頭にあるのは、すごくさみしいって気持ちだけで……ううっ、恵も、恵のお父さんもお母さんも、みんないなくなっちゃって、私、すごく悲しくて、すごくさみしいの。今あるのは、それだけなの」
「大切な人たちだったんですね」
「私の家……母親がいないの」
 舞草みのりは涙をぬぐい、
「妹と父親と3人で暮らしてるんだけど、父親はずっと帰ってこなくて」
「出稼ぎですか?」
「そんなわけないでしょ。変な女の人に引っかかって、帰ってこないんだ。私たちのこと、忘れてるんだよ。今月なんて、1回も帰ってこないし、家にお金も入れないし……」
「では、このお弁当は」
「私が作ったにきまってるでしょ」
 幸せな家庭の象徴のように見えた弁当が、まったくべつの意味を持って悟の目に映った。
 舞草みのりはふたたび目をこすりながら、
「恵のお父さんとお母さんは、ウチの事情を知ってたから、私と妹のことを気にかけてくれて、本当の親みたいに接してくれたの。ご飯も食べさせてくれて、服も買ってくれた。ふつうできないよ、そんなこと」
「…………」
「見船さんは私のことを、ふつうの人間だと思ってたでしょ? べつにいいけど。だって、ふつうに見えるようにがんばってたから。私、家がおかしいからって、自分もいっしょにおかしくなるなんて、そんなのいやなの」
「ごめんなさい。私、なにも知らずに変なことばかり聞いて……」
 見船が素直に頭を下げた。
 あまりにめずらしい反応だったので、悟は仰天した。
 沈黙。
 見船はすっかりしょげているし、舞草みのりは泣いているし、悟はどうすればいいのかわからなかったし、図書室には舞草みのりがはなをすする音だけが響いていた。
「浅葉くん……弟さんは見つかった?」
 そんな沈黙を破ったのは、舞草みのりからの意外な質問だった。
 弟?
 どうしてこいつが、透のことを知っているんだ?
「いや、まだ……なんで?」
「私の妹、まゆりっていうんだけど、弟さんといっしょのクラスなの。あと、いっしょの水泳教室に通ってて」
 おなじクラス。
 おなじ水泳教室。
 それはまさか、
「私の妹、浅葉くんの弟さんと仲良かったみたいで、早く戻ってきてほしいって言ってたよ。その、見つかるといいね」
「…………」
「うん、私だけじゃないよね。浅葉くんも大変だよね。熊に襲われて、弟さんもいなくなって、それにお父さんまで……あの、それでも、『上野原メンタルクリニック』はだめ。こんなこと言ったら、上野原さんに怒られちゃうかもだけど、あそこはおかしいよ。浅葉くんのお母さんは、絶対にべつの病院で診てもらったほうがいいよ」
 混乱の波に襲われて、悟は言うべきことばをうしなった。
 話は終わった。
 2人は教室に戻ることなく、学校の玄関に向かう。
 悟の思考はまだ乱れていたが、見船もいっしょらしく、ことばを発さなかった。悟が声をかけても、自分の足もとをぼんやり見ているだけだった。
 無言のまま外に出る。
 ふり返ると、青空から降りそそぐ光を浴びた校舎は、まったく平和に輝いていた。
 不幸な子供も、そうでない子供も、すべてを呑みこんで、ひたすら平和そうに輝いていた。
「……ああ」
 まぶしさに目を細めながら、悟は小さくつぶやく。
 2学期からは、ちゃんと学校に行こう。
 勉強して、友だちを作って、部活に入ろう。友だちと話したり、けんかしたり、好きな子と目が合ってドキドキしたりする、当たり前みたいな生徒になろう。
 突然、悟の中に、そんな決意が芽生えた。
 帰る。
 日常に帰る。
 きらきら輝く校舎を見ているうちにやってきたその決意は、悟にとって心地いいものだった。
 すべてを終わらせて、本当の意味で、どこにでもいる男子中学生になる。悪くない目標だ。
 こんな自分にだって、当たり前に生きる権利はあるし、だれもそれをじゃまできない。そのはずだ。そのはずなのだ。
 帰る。
 日常に帰る。
 そのためにも、事件を解決しなければならない。

「先に帰ります」
 見船がいきなり言った。
「これから、『上野原メンタルクリニック』に行くんだよ?」
「気分がすぐれなくて……先に帰ります」
「え、いや、まってよ」
「浅葉くん、あとはよろしく」
「僕だけで話せっていうの? さっきの話じゃ、あそこの院長が水沢夫婦を殺したかもしれないって……」
 しかし悟のことばを聞かず、見船はふらついた足取りで、家の方に去ってしまった。
 ……冗談じゃないぞ。
 見船の背中を見つめながら、悟は強烈にあせった。舞草みのりの話を信じるかぎり、上野原院長はかなりあやしい。そんなやつと1人で闘えというのか。
 空模様が悪くなってきた。
 青空に、黒い雲が広がりつつある。
 自分の気分と天気がシンクロするなんて、国語のテストに出てくるわかりやすい小説みたいだと悟は思った。
 結局、悪化する天候に押されるように、早足で目的地に向かった。
『上野原メンタルクリニック』の自動ドアを抜け、受付で名前と用件を告げると、まもなく上野原院長がやってきた。
 悟は緊張して、生唾を呑んだ。
 いっぽうの上野原院長は、なぜだか上機嫌で、
「さっそく、きてくれましたね! 見船さんの娘さんは、あれからどうです?」
「……いつもと変わりませんけど」
「こちらにどうぞ」
 診察室に入った。
 窓の外は暗さをより増している。
「いけませんね。急に天候がくずれちゃうなんて」
 正面に座る上野原院長は、今日も白衣姿だったが、診察室の中では違和感がなく、むしろ威圧的にさえ感じた。
「見船さんの娘さんは、今はどちらに?」
 上野原院長がノートを開いて、胸ポケットからペンを取り出した。
 自分もこれから、洗脳されるのだろうか。
 不安が不安を呼び、恐怖がふくれ上がる。
「学校の補習を受けてたんですけど、気分が悪くなって帰りました」
 悟はそれだけ言った。
「ああ、むりもありません。自分の家や日常生活のリズムから離れると、安心感がうしなわれますからね。新しい場所や、新しい人々とのかかわりは、どうしてもストレスを引き起こすので、できるだけ、彼女が落ちつける環境を作ってあげてください」
 上野原院長はまったく医者らしいことを言ってから、
「あのあと、見船さんは落ちついていますよ。やはり、警察を呼ばれることには抵抗があるようですね。もし警察沙汰になったら、娘さんと暮らせなくなる可能性も出てくるわけですし……」
「べつによくないですか」
「というと?」
「育児しないんだったら、娘を手放せばよくないですか」
 見船の父親の考えが、悟にはよくわからなかった。酒におぼれて娘の相手ができないのに、どうして別々になることを拒否するのだろう。
 手放せば楽になるのに。
 すると上野原院長は、机に開いたノートに視線を落としつつ、
「報道でごぞんじかもしれませんが、わたしにも、きみとおなじくらいの娘がいました。先日亡くなりましたが」
 娘。
 上野原涼子。
「知ってます……。おなじ学校でした」
「娘がいたときは、仕事がいそがしくて、正直、かまってやれませんでしたよ。いなくなってほしいとは思わなかったけど、しばらくどこかに預けたいとか、娘のせいで自分の時間がうばわれているとか、そんなふうに思ったことはあります。冷酷ですか?」
「わかりません」
「実際にいなくなってみると、悲しいという気持ちしかありませんね」
 上野原院長は息を吐きながら、舞草みのりとおなじようなことを言って、
「でも、そんなふうに見えないでしょう?」
「まあ……正直」
「娘をうしなって、朝から晩まで泣き叫んでいたら、人としてだめになってしまいますからね。こうやって仕事に打ちこむのも、心を回復する手段のひとつです」
「見船さんの父親は、それとはべつの話ですよね? ただのアル中ですよね?」
「患者のプライバシーには守秘義務があるので、くわしいことは端折はしょりますが……」
 上野原院長はノートにペンを走らせながら、
「あの子の父親……見船昇一しょういちさんは、かつてはまともな男だったそうです。古本屋の仕事もこなして、たいそうな読書家だったという話です」
 人に向けて、「ちんちん野郎!」なんて下品なことを叫ぶあの男が、読書家? 信じられなかった。
「しかしあるとき、奥さんが出て行ってから、彼は酒に手を出しました。そういうこと、娘さんから聞いてます?」
「少しちがうことを言ってた気がします」
「酒浸りになった見船昇一さんは、家庭を破壊しつくしましたが、それでもシラフに戻ったときは反省して、クリニックにも自分からやってきて、明日から酒を絶って真人間に戻ろうと誓うんですよ。でもまた酒を飲んでしまって……きみ、今、飲まなければいいだけなのにって思ったでしょう?」
「ええ」
「そこがむずかしいところなんです。アルコール依存症は治るものではなく、生涯かかわっていかなければならない問題で、10年禁酒しようが、1度でも飲んだらスリップして、もとに戻ってしまうんですね。ええ、ええ、厄介な病気です」
「僕は同情なんてしませんよ」
 酔っ払った見船の父親に、鼻血が出るほど蹴られたのだ。
「世間はだれも同情しない。これもまたアルコール依存症における不幸のひとつで……まあ、この話はもういいでしょう。ところで、見船さんの娘さんは、きみの家でうまくやってますか?」
「勝手に新聞を読むくらいには、うまくやってます」
「きみたち、本当に交際していないんですか?」
「してませんよ。迷惑してます」
「向こうは案外、そうでもないかもしれませんよ。少なくとも、きみに助けを求めたのですから。ちんちん野郎って、なんですか?」
「誤解です」
「ま、ほどほどに」
 上野原院長は笑うように肩をすくめて、
「なんにせよ、支えてあげてください。きっと彼女は今、心細いでしょうからね」
 そんなに弱いやつじゃないと答えようとして、やめておく。
 見船の様子がおかしくなったのは、舞草みのりと話をしたあとだ。あれはまちがいなく、舞草みのりの家庭事情に、思うところがあったからだろう。見船の心は鉄でできているわけじゃない。
「そういえば、きみのお母さまの調子は?」
 上野原院長が横目でこちらを見た。
 さきほどから、話の主導権を完全にうばわれている。
 ここから洗脳がはじまるのか。
 悟は警戒を強めた。
「なあに、お金は取らないので安心してください。これは迷惑料といったところです。わたしもね、見船家の問題をきみに押しつけてしまったことを、もうしわけないと感じているんです。で、どんな調子で?」
 どうもこうもないし、話したくもなかったが、それでも悟の口は自動的に動いて、母親の状況をこまかく説明していた。
 1人でかかえていた問題を話すことで、楽になりたかったのかもしれないと、勝手に流れることばを人ごとのように聞きながら、悟はそう思う努力をした。
 すべての話を聞いたあと、上野原院長は長い時間をかけて窓を見て、それからゆっくりとノートに視線を戻した。そのしぐさは、へたな役者が精神科医を演じているようで不快だった。
「かなり深刻ですね……あ、お母さまの症状ではなく、きみの現状の話ですが」
「はあ」
「だいたいわかりましたよ。きみが熊に襲われたこと、弟さんの失踪、お父さまの事故などで、きみのお母さまはPTSDを引き起こした可能性がきわめて高い」
「PTSD?」
「心的外傷後ストレス障害のことです」
 上野原院長はそう答えて、
「戦争や災害といったおそろしい目にあうと、心がはげしく乱れるのは、きみもわかりますよね? ふつう、こういう体験の記憶は自然と薄れていくものですが、影響がずっとつづいて心身を痛めつけ、精神障害に発展するケースがあるんですよ」
「でも、母さんが被害を受けたわけじゃないのに」
「直接的な経験だけでなく、間接的な経験……家族が重傷を負ったり、亡くなったりした場合でも、じゅうぶん起こり得ることです。きみのお母さまの症状はずばり、離人感による反応の鈍化と、感情の麻痺ですね。トラウマを思い出さないようにするための防衛機制がはたらいて、外からの刺激に反応が鈍くなり、会話の応答が遅くなり、過眠で現実逃避を図っている……」
 なんということだ。
 まさに、今の母親そのものではないか。
「母さんは治るんですか?」
 悟は不安の中でたずねる。
「治療は可能ですよ。ぜひ、ウチのクリニックへいらっしゃい。無償というわけにはいきませんが、融通は利かせましょう」
「僕にできることは」
「お母さまが安心してすごせる環境を作ってあげることです。あとは、むりに会話するのではなく、お母さまが話したくなるまでまってあげてください。お母さまとは、会話はまったくできない状態で?」
「ごくたまに、以前みたいにハキハキ話すこともありますが……」
「ムラがあるようですね。それだと、なにかきっかけがあれば治るかもしれません」
「治る?」
「あ、いえ、治療には時間がかかり、急激な改善というのは一般的ではありませんよ。ただ、強い感情を呼びおこすできごとがトリガーとなって、突然回復することもまれにあって……」
 そのことばを聞いた悟は、ここにきた目的を思い出した。
「あの」
「どうしました?」
「あなたは水沢夫婦に、それをやったんじゃないですか? 資料館を作らせて、症状を一気に回復させようとしたんじゃないですか?」

「水沢夫婦? 資料館? なんの話を……」
「とぼけないでください。あなたが治療していた患者ですよ。最近殺されたあの夫婦ですよ」
「とぼけたわけじゃありません。そんなつもりじゃなくて、どうしてきみが、あの夫婦のことを知っているんですか?」
「僕のクラスメイトの両親だったんです」
「なんと、世間はせまい」
 上野原院長はおどろいた顔で、
「水沢さん夫婦のことは、もちろんおぼえています。娘さんが熊に食い殺されて、それで調子をくずしてしまって……ん? では、きみが熊に襲われたというのは、あの宿泊学習のときに……」
「そうですよ。水沢恵も、上野原さんも、みんな僕のクラスメイトでした」
「なんと、世間はせまい」
 上野原院長はふたたび言って、笑った。
 つづけてノートにペンを走らせようとしたが、自分が笑っていること、それがまちがった反応であることに気づいたように、ぎょっとして顔を上げた。
 そしてはじめて、視線らしい視線を悟に向けた。
「じゃあ……じゃあ、きみはあのとき、現場にいたわけですか。わたしの娘が殺されたところも目撃した?」
「……いえ」
 嘘を吐いた。
 イエスと答えたら、上野原院長がどうなってしまうのかわからず、こわかったのだ。
「あー!」
 おかしな声がした。
 上野原院長の発したものだった。
「あー!」
 上野原院長はまたおかしな声を出すと、巨大なクモでも見つけたように、目を見開かせて天井を見上げた。そしてまた、「あー!」と叫び、「いけません、いけません……ああ、だめだ」と言って、目頭を押さえた。
 泣いていた。
 今日はたくさんの涙を見る日だなと悟は思った。
「……これが、PTSDです。心に分厚い扉を作っても、ふとした瞬間に、それが開いてフラッシュバックを起こし、感情の制御ができなくなる……。うう、うう、2分25秒まってください」
 丸椅子を回転させて背を向けた。
 背中が震えていた。
 本当に2分25秒だったかどうかはわからないが、やがて上野原院長は向き直った。
 目が赤くれていた。
「ふう、はあ、もう大丈夫。大丈夫です」
「本当ですか……」
「すっかり大丈夫ですから、よしましょう。娘の話はいけません。恥ずかしい話、まだ、娘の死と向き合えないんです。すぐ涙が出てくる」
「…………」
「なんの話でしたっけ? ああ、水沢夫婦ね。資料館ね!」
 上野原院長はつとめて明るい声で、
「きみが不審そうにしてたのは、見船家のことがあったからだと思ってましたが、なるほど、それが原因ですか。なんだか知りませんが、誤解があるようですね。どうぞ、遠慮せず質問してください」
「あの夫婦に、娘の資料館を作れと言って洗脳したんですか?」
「ほら誤解だ! そりゃたしかに、熊に殺された娘さんの思い出を大切にしましょうとアドバイスはしましたが、まさかあんな、自分の家を資料館にするなんて思いませんでしたよ」
「洗脳は?」
「たまに、こういう人いるんですよね。誤解です。テレビの見すぎです」
「資料館は、水沢夫婦が勝手にやったと?」
「そこまで言っては無責任になるかもしれませんが、まあ実際、そうですね。わたしの指示じゃありません」
「じゃあ、水沢夫婦の葬式にきていたのは……」
「すごいなあ。そこまで知ってるんですか。でもね、自分が受け持つ患者が亡くなったのだから、葬式に出るのは当然ですよ」
 上野原院長は言った。
 診察室の中が薄暗い。
 昼間だというのに窓の外はまっくらで、室内の気温も下がり、肌寒いくらいだった。
「でっかい雨がきそうですね」
 上野原院長は立ち上がり、室内の電気をつけると、
「傘は?」
「ないですけど……」
「では帰りは、傘を持っていってください。玄関にあるビニール傘はウチのものなので、てきとうに使ってかまいません」
「…………」
「お話は、これくらいでいいでしょうか。急かすようで悪いけど、このあと、予約が入っているんです」
「はい」
「お母さまのことは、あらためて相談にきてください。いいですか、まだ生きている人のことは、しっかり大事にするんですよ。後悔のないように」
「失礼しました」
 診察室を出た。
 ドアを閉めて、悟はため息を吐く。
 なんだよ。
 いいやつじゃないかよ。
 質問にはすべて答えてくれたし、母親の症状まで分析してくれた。
 どうやら上野原院長が犯人というのは、舞草みのりの思いこみ……もう少していねいに言えば、舞草みのりが安心するための幻想にすぎなかったようだ。
 空振りだったか。
 ……いや。
 上野原院長が、娘の死に対してまっとうに悲しめる人間であることがわかっただけでも、じゅうぶんな収穫だ。あいつは事件と関係ない。悟は確信した。甘い判断かもしれないが、それでもそう思った。
 自動ドアの向こうを見ると、世界は闇に閉ざされていた。
 空には黒雲が垂れこめ、重たい空気が強風にかき回され、それはあちこちに容赦なくぶつかり、ガラス戸を震わせている。
 今にも雨が降りそうだった。
 それも、強い雨が。
 傘立てにならぶビニール傘から、悪天候にも負けない頑丈なものをさがしていると、自動ドアが開かれた。
 やってきたのは意外な人物だった。
 宮島みやじま
 あの刑事だ。
 悟はおどろいたが、宮島の反応はそれ以上で、
「なっ……浅葉悟くん。どうしてこんなところに」
「そっちこそ」
「いや、それはだね、こちらの院長に話があってね。水沢夫婦殺しの件と、院長の娘さんのことで、聞きたいことがあってね」
 おどろいたせいで口が滑ったのか、自分が患者だと誤解されたくなかったのか、宮島は失態をさらした。
 今しかない。
 悟の直感がそれを告げた。
「舞草みのりと妹は、『ビッグ・アイランド』で売春をしていたんですか?」
 宮島はなにも言えなかった。
 それが答えだった。
 弁明できないことを察したのか、宮島はあきらめたように、「どこでそれを」と聞いた。
 すべて悟の推測だ。
 舞草みのりの話では、父親が育児放棄をしていて、家には金がないという。
 そのような状況で、どうやって妹の水泳教室の支払いをしているのかが気になった。
 そしてなにより、妹の舞草まゆりが、その水泳教室に通い、透のクラスメイトだったことが決定打だった。
 行方不明になる少し前、透は水泳教室でのできごとを話しかけた。
 自分のクラスメイトの女子と上野原が、「おかしな話」をしているのを聞いたという。
 その中身までは教えてくれなかったが、舞草まゆりと上野原は、『ビッグ・アイランド』のことを話していたのではないか? それがあまりにも非現実的な内容だったので、透は話せなかったのではないか?
 雷が落ちた。
 目もくらむほどの光が飛びこんでくる。
 次の瞬間、病院の電気が消えた。
 ざああああと、地獄の釜でも開いたように雨が降りはじめた。
「上野原さんも、『ビッグ・アイランド』にいたんですか?」
 はげしい雨音の中、悟は質問をつづける。
 なにより、このことが聞きたかった。
 あの上野原が、『ビッグ・アイランド』で売春していたとすれば、いたとすれば……どうなるんだ? 自分はどうなってしまうんだ? なにか決定的なところが壊れてしまうのではないか。そんな気がした。
 宮島は小さな、しかしきびしい声で、
「場所を考えなさい。おかしなことを言うな」
「でも」
「そんな事実はない。亡くなった人に対して、つまらん詮索をするんじゃない」
 宮島はすでに立ち直っていて、ガードをくずせそうになかった。
「信じても、いいんですね」
「ああ、信じろ」
「本当ですね。本当に、上野原さんはいなかったんですね」
「『ビッグ・アイランド』の関係者の中に、きみが名前を出した人物は見当たらなかった」
「…………」
「信じてくれ。きみ自身のためにも」
「……はい」
「それでいい」
 宮島はうなずくと、わざとらしい口調で、「やれやれ、停電と土砂降りか」とつぶやいたが、それでも気まずい感覚が消えなかったのか、「浅葉悟くん」と言って、
「まあ……なんだ。ちょうどよかった。このあと、きみの家におじゃましようと思っていたのでね」
「僕の家に?」
「失踪している弟さんのことで、聞きたいことがあってね。少し、いいかな」
 宮島は暗がりの中で手帳を取り出すと、
「浅葉悟くん、きみの弟さんだが、なかなか人気者だったらしいじゃないか」
「そう……なんですか?」
「事件の被害者、岸谷真梨子と飯田幸代に、弟さんが言い寄られていたというのは本当かね?」
 そして悟はすべてを知った。

 傘は役に立たなかった。
「ただいま」
 電灯と信号機の消えた町には、雨風が大暴れして、悟はぐっしょり濡れて帰宅した。
 玄関を開けると、まだ停電がつづいているらしく、リビングは暗かった。
 テレビやソファは輪郭だけとなっていて、それらは見知らぬ品物のように悟の目に映った。
 バチッという音がして、電力が回復する。
 リビングに明かりがついた。

 部屋のまんなかに、クリスマスツリーが飾られていた。

 季節はずれのクリスマスツリーは、子供がやったように悪趣味に飾りつけられていて、色とりどりの電飾が点滅している。
 復旧したテレビには、やはり季節はずれの『グレムリン』が流れていて、画面ではちょうど、グレムリンにいじめられているギズモが、ダーツの的にされてキーキー鳴いていた。
 なんだこれは。
 テレビから軽快なメロディが響く中、おかしな風景を見るともなく見ながら、悟は呆然となった。なんだこれは。
 強風によってリビングの窓がなぐりつけられ、換気口から風が入ってくる。
 室内の空気がかき回されて、悟の濡れた体を冷やした。
 風はさらに、奇妙なにおいを運んできた。
 ……ああ。
 悟はべつの理由で呆然となった。
 どうして今まで、気がつかなかったのだろう。
 自分もまた、夢の中に生きていたのか。
 悟はぐしょぐしょに濡れた靴下を脱ぐこともせず、においをたどって歩き出す。
 キッチンを抜けて、脱衣所にやってきた。
 放置されたままの洗濯物をどかすと、床下収納の四角い扉を見つけた。
 悟はその場にしゃがむと、覚悟をきめることもなく、ごく自然な動きで扉を開けた。

 床下収納には、いつのまにか消えていた雑誌、『ありす・くりーむ』と、大きなビニール袋にくるまれた透の死体があった。

 気が遠くなりそうになるのをこらえてビニール袋に手をのばすと、一気に破った。
 悪臭とともに、透の顔が現れた。
 肉の大半が腐り落ちていたが、それはまぎれもなく透だ。
 腐敗した透は、家を飛び出したままの服装だった。
 悟は声なき声を上げる。
 透。
 ずっと家にいたんだな。
 ごめん。
 兄ちゃん、見つけるのが遅かった。
 ずっとさみしかったな。
 本当にごめん。
 そのとき、
 気配を感じた。
 顔を上げる。
 すぐそばに、母親が立っていた。
 起き抜けのような顔つきで、じっとこちらに目を向けている。
 2人は長いこと見つめ合っていたが、やがて母親が言った。
「悟、なにしてるの」
「……母さんが、犯人だったんだね」

(次回最終回)

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連載【妻を殺したくなった夜に】
毎月最終火曜日更新

佐藤友哉(さとう・ゆうや)
1980年北海道生まれ。2001年『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』でメフィスト賞受賞。2007年『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を最年少で受賞。他の著書に『クリスマス・テロル invisible×inventor』『世界の終わりの終わり』『デンデラ』『ナイン・ストーリーズ』『転生! 太宰治 転生して、すみません』『青春とシリアルキラー』等がある。
X:@yuyatan_sato

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