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第14回 遠き山に日は落ちて 佐藤友哉「妻を殺したくなった夜に」

北国の地方都市を舞台に、少女連続殺人事件をめぐる中学生男女の冒険を描く、佐藤友哉による青春ミステリー。
[毎月火曜日更新 はじめから読む

illustration Takahashi Koya


「ちょっとあんた、いつまで寝てるの。もう朝よ! さっさと起きなさい!」
 母親の甲高い声と、体にまとわりつく暑さに急かされるように、さとるは目を覚ました。
 時計を見ると、8時半をすぎている。
 悟は寝汗をぬぐい、2段ベッドから起きると、リビングに入った。
 テーブルにはすでに、朝食が用意されていた。ベーコンエッグ。トースト。ゆでたブロッコリー。ジャムの瓶。
 1人の食事は物悲しく、ついテレビをつける。
 犯人が逮捕されてから、朝のワイドショーは異様なほど熱狂していたが、しかし悟は、いっしょになって盛り上がる気分にはなれなかった。
 母親もテレビをちらりと見て、なにか言いたそうな顔つきになったが、
「あんたね、夏休みに入ってからずっと、だらだらしすぎよ。もう少し早く起きなさい」
「うん」
「あといいかげん、母さんに起こしてもらわないで、自分で起きなさいよ。母さん、やることいっぱいあるんだから」
「うん」
「チラシ、あとどれくらいある?」
「……30枚くらいかな」
 テーブルに置かれたチラシの束を、ざっと観察する。数日前まで、うずたかく積まれていたのに、もうこれしか残っていないことに悟はおどろいた。
「またコピーしなくちゃ」
 母親はそう言ってから、
「じゃあ母さん、行ってくる」
「え、もう?」
「もう、じゃないわよ。本当は通勤ラッシュに合わせて、もっと早く出るつもりだったのに、あんたが起きてくれないから、こんな時間になっちゃったじゃないの」
「…………」
「お弁当は作ってあるから、忘れないでね。それじゃ、行ってきます」
 朝からいそがしく動くその背中に、「行ってらっしゃい」と声をかけるべきか迷っているうちに、母親は家を出てしまった。
 だれもいなくなったリビングに、テレビの声だけが響く。
「……ちゃん事件の容疑者として、すでに逮捕されていました宮﨑勤。自宅の部屋には4500本におよぶ、アニメ、ロリコン、ホラー趣味のビデオテープが壁をふさぎ、その異常性を浮き彫りにしておりました。その1人ぼっちの城の壁には、小さな血痕が残り、切断した……」
 その宮﨑とかいう犯人の部屋を映すテレビ画面には、「幼女殺人犯宮﨑 全面自供!」というテロップが張られていた。
 去年から、関東地方をにぎわせていた幼女連続殺人事件は、どうやら解決に向かっているらしい。
 いっぽう、この町でくり返される少女連続殺人事件が一向に進展しないのは、さすがに自分のせいではないかと、悟はほんの少しだけ思った。

 父親が交通事故を起こしてから、1ヶ月がすぎた。
 その場にいた警察官、宮島みやじま原田はらだがすぐに救助したこともあってか、父親は一命をとりとめたが、全身に回った炎のダメージは重く、いまだに意識は回復せず、現在は笠馬かさま市の病院に入院していた。
 燃える車から助け出される父親を見ながら、このとき悟は、すべて話してしまおうと思っていた。
 父親が血のついたコートを隠していたことも、倉橋詩織くらはししおりと文通でつながっていたことも暴露して、父親こそが、少女連続殺人事件の犯人だと話してしまおうと思っていた。
 事故当日の夜、宮島たちが自宅にやってきたのだから、警察は父親が犯人であると断定しているにちがいないというあきらめもあった。
 すべてを話して、さっさと楽になりたかった。
 しかし後日、訪問の理由を宮島にたずねてみると、上野原うえのはら殺しの当日のアリバイを、宿泊学習に参加した2年生の保護者たちに聞いて回っていたことがあきらかになった。
 クラスメイトに裏づけをとってみたところ、たしかに宮島たちがやってきて、親がアリバイを聞かれていたという証言をいくつか入手した。
 警察はまだ、父親に疑念を抱いていない?
 だとすれば、言う必要はない?
 このように考えを改めたのは、なにも父親を守りたいからではない。
 夏休みに入り、しばらくたったときのことだ。
 関東地方で発生した殺人事件の容疑者が逮捕された。
 幼女ばかりをねらったという手口だけでも異様なのに、容疑者の部屋がさらに異様さを際立たせた。
 そう広くもない犯人の部屋には、大量のビデオテープがならんでいた。
 報道によれば、その中身はアニメーションやホラー映画ばかりで、本数は4500本だの7000本だのと番組によってちがったが、どちらにせよ、とても一般的とはいえない量だった。
 当然、世間の反応はきびしいものだったし、ワイドショーは容疑者の異常性を強調して、その余波は容疑者の家族にまでおよんだ。マスコミは連日、容疑者の家族を追い回した。
 自分が知っている情報を警察に流せば、父親はつかまり、事件は解決する。
 しかし、犯人が逮捕されたら事件が終わるわけではなく、むしろここからはじまるということを、悟は報道で知った。
 
 世間とマスコミは、犯人だけではなく、その家族も追い詰める。
 
 父親がつかまれば、その家族である自分たちもバッシングの対象になるだろう。
 まともに暮らせなくなる。
 こんな田舎町ならなおさらだ。
 自分がひどい目にあうだけなら、まだいい。
 しかし……弟が帰るべき家をうしなってしまうのはだめだ。
 家を飛び出したとおるは、まだ見つからなかった。
 失踪から1週間が経過したころ、警察は公開捜査に切り替えたが、目ぼしい情報もなく、8月に入っても透は見つからない。
 そんな透が、もし家に帰りたくなったとき、優しく受けとめてくれる場所をなくすわけにはいかないし、自分の夫が連続殺人犯だと知ったら、今をぎりぎりの状態で生きている母親は、完全に壊れてしまうだろう。
 どちらも悟の望むものではなかった。
 なので結局、いつものように、なにも言わないことにきめた。
 父親の回復と弟の帰宅を待ちながら、母親とともに、この日常を維持することにきめた。
 これが悟の結論だった。
 テレビからはまだ、リポーターの興奮した声がつづく。悟はテレビを消すと、食器を洗った。こんなことをするようになったのは、母親と2人だけで暮らすようになってからだ。それまでは、食器を洗うという発想さえなかった。
 片づけを終えると、制服に着替えた。
 熊に襲われたせいで、勉強が遅れていた。そのため、夏休み中に行われる補習授業に通っていたのだ。
 外に出る。
 暑い。
 すっかり夏だ。
 自動販売機でジュースでも買いたくなるほどの暑さだったが、やめておく。これからはもう、100円だろうと節約しなければならなかった。
 教室に入ると、悟とおなじく学力に不安をかかえた数名の生徒が、いっせいにこちらを向いた。
 悟は息を吐くと、片耳をうしなったあたりをかきながら、
「お、おはよう」
 と言った。
 ぱらぱらと返事が戻ってきたので、悟は深い安心に包まれながら席についた。
 奇矯さを演出して、クラスから孤立している余裕はもうない。自分の異常性をアピールする季節はもう終わった。
 これからはむしろ、一般的な小市民を演じて……いや、本格的に一般的な小市民になることで、このかけがえのない日常を守るのだ。
 補習がはじまり、悟はせっせと小テストをこなした。
 2時間、必死に勉強した。
 そうして午前の補習が終わったところで、
浅葉あさばくん」
 うしろの座席から、自分を呼ぶ声がした。
 見船美和みふねみわだ。
 いつものように、「くひひ」と笑っている。
 適当に切った髪と、すがすがしい夏服が、まるで似合っていない。
 もし上野原が生きていれば、綺麗な夏服姿が見られたのにと、悟はほんの数秒間だけ思った。
「浅葉くん、このあとの予定は?」
 見船がたずねる。
「午後の補習を受けるよ。きみだってそうだろ」
「こんな補習、いっしょに抜け出しましょう。私、寄りたいところがあるの」
 まったく魅力的ではない誘い文句だった。

 図書室で弁当を食べてから、午後の補習をサボり、学校を出た。
 太陽が容赦なく照りつけ、2人の体を焦がした。
「暑いですね」
 隣を歩く見船はそう言いながらも、汗一つかいていない。
 こいつは変温動物かよと、悟は補習で習ったばかりの知識を使って気味悪がった。
 見船は制服からのびる青白い腕をかきながら、「暑い暑い」とくりかえして、
「夏は人をだめにしますね。ノストラダムスの大予言によると、1999年7月に人類が滅亡するそうですが、ある説では、気候危機によって地球の表面が太陽とおなじくらい熱くなって、それで人類が焼け死ぬそうです。くひひ、人類みんなが丸焦げになるのって、想像したらおもしろくありません?」
「見船さんは、まだそんな予言を信じてるの……」
「この私が、ノストラダムスなんていう名前を思わず口にしてしまうほど、夏の暑さは思考力を低下させるのです。ねえ浅葉くん」
「なに」
「アイス買って」
「でも僕、節約しないと」
「アイス買って」
 2人はコンビニエンスストアに入り、店頭販売しているアイスクリームを買った。
 悟はバニラで、見船はチョコミントをえらんだ。
「よくそんな、歯磨き粉みたいな味のするものを食べられるね」
 金を払わされた不満もこめて悟が言うと、見船はすました顔で、
「はいはい、そうですね。バニラなんて退屈な味をえらぶ人間に、チョコミントのよさはわかりませんよね」
「いやでも、アイスといえばバニラでしょ」
「それはただの先入観」
「そうかな」
「アイスを広めたのはジュリアス・シーザーと言われていて、彼は氷雪に蜜やワインを混ぜたものを食べていたそうですが、そこにバニラはありませんでした。バニラが登場するのは1500年代、アステカ族がバニラを使っているのを、スペイン人が見つけたときからです」
「なんでそんなことを知ってるのに、補習を受けてるの?」
「常識がかたよっているからですよ。それはあなたもいっしょで、アイスといえばバニラなんていうのは、浅葉くんの先入観にすぎません。チョコミントが王座に君臨する可能性は、つねにあるというわけです」
「いや……それはないでしょ」
「あります」
「ないって」
「あります」
 中身のない話をするのは、わりと悪くなかった。
 アイスを食べ終えて、国道沿いにあるレンタルビデオ店、『サンセット・ビデオ』の前を通ったときのことだ。
 店から背の低い男が出てきた。
 チラシ配り男だ。
 いやらしい宣伝の書かれたチラシを、民家のポストに入れて回るその男は、この日はチラシのかわりにビデオの入った袋を大事そうに抱えていた。
 以前、この男を『サンセット・ビデオ』で見かけたとき、見船はいやそうな顔つきで、「けがらわしい」と言った。見船はチラシ配り男を、ずいぶんと嫌悪していた。
 今回もまた、おなじ空気を吸いたくないとでもいうような態度で早足になったが、その足がすぐにとまった。
 店内から、べつの人物が出てきた。
 それは車椅子に乗った大柄の中年男性で、前を行くチラシ配り男に、車椅子ごと激突した。
「ひゃっ……」
 チラシ配り男は悲鳴を上げて振り返り、車椅子の男をみとめると、「ひゃっ!」と、さらに大きな悲鳴を上げた。
 いっぽう車椅子に乗った男は、わざとらしい笑みを顔面に貼りつけながら、
井原いはらくん、きみねえ、俺を置いて店を出ちゃうなんて、ずいぶんとひどいじゃないかあ。車椅子の人間をほうっておくなんて、人非人じゃないかあ」
「すすす、すみません!」
「俺の存在、完全に忘れてただろ。あ? 忘れてただろ」
「あの、いや、けっして、そんなわけでは……」
「嘘はよしなさい。ビデオのことばっかり考えて、俺のことを忘れたんだろ。そうなんだろ。いやあ、井原くんはすごいね、すごく馬鹿だね……ひゃっははは!」
 車椅子の男は品のない笑い声を上げて、
「まったく、ここまで馬鹿とは思わなかったよ。たしかにそんな頭じゃ、会社に毎日行ってノルマをこなすような仕事はできないよねえ。クソみたいなチラシを配って小金を稼いで生きるしかないよねえ。きみは完全な社会不適合者だねえ」
「すみません……」
「ビデオに気を取られて、かわいそうな車椅子の人間を忘れるなんて、そんなのはもう、脳が腐ってる証拠だよお? んー? ブチ殺されても文句言えないよお?」
「本当に、あ、あの……本当にすみません!」
「謝罪が『すみません』一辺倒なのも、馬鹿の証拠」
「すみません!」
 2人がどういう関係なのかは知らないが、チラシ配り男は、異様なほど畏縮していた。
 対して、車椅子の男はふたたび下卑た笑い声を発すると、
「ひゃははは……いいよいいよ。井原くんの脳が腐ってることは俺が一番よくわかってるから、ゆるしてあげる。ただし、こんど忘れたらブチ殺すから」
「す、すみません!」
「うんうん、井原くんはすごい。尊敬しちゃう。ビデオに夢中で、俺のことが頭から抜けちゃうんだものね。ああ、信じられないねえ。みごとな頭脳だねえ。ひゃははは!」
「あの、では、お車まで運ばせてもらいます……」
 チラシ配り男は、今にも泣き出しそうな顔のまま、車椅子を手で押した。
 2人が駐車場に消えるまで、見船はじっとその様子を見つめていたが、不意に早足でその場から去った。
「見船さん?」
 悟はあとを追う。
 住宅街に入った。
 見船はずんずん歩いている。
 まわりの景色も、悟の存在も視界に入っていないのか、見船は一心不乱に歩きつづける。
「見船さん、どうしたの……」
 悟が声をかけた瞬間、見船は急に立ち止まると、
「ごごごごっ」
 自分の口に、指をつっこんだ。
「んごごごっごごっ」
「なっ、なにしてるの?」
 しかし見船は答えず、自分の口に指を入れて、がちゃがちゃと乱暴にかき回している。ひとすじの唾液がアスファルトに落ちても、見船はその奇怪な動作を止めなかった。
「おえっ」
 しばらくして、見船はようやく指を抜いた。
 夏の太陽に照らされて、見船の指はぬらぬらと輝いていた。
「あの、見船さん? どうしたの……」
「私が今ここでちゃんと吐けたら、ミント色のすばらしい吐物が出てきたでしょう」
「は?」
「気分が悪くなったので、吐いたらすっきりすると思ったの」
「は?」
「あの車椅子の男は、大島哲三おおしまてつぞう
「大島?」
「大島しずくの父親です」
 見船は涙目をこすりながら、
「アパートの前で、大島雫と話しているのを見たことがありますし、なにより、あんな特徴的な人間を忘れるものですか」
「じゃああれが、『ビッグ・アイランド』の支配人……」
「大島哲三と、チラシ配り男が知り合いとはおどろきました」
「あいつ、井原って名前だったんだね」
「全国の井原さんが、きのどくになってきました」
「じゃあ、あいつら……仲間なのかな。もしかしたらチラシ配り男は、『ビッグ・アイランド』の常連客かも」
「常連客というのは、売春宿のほうの? だとしたら、ウナギとスイカをまとめて食べたあとみたいに、最悪の気分……」
 見船は地面に垂れた自分の唾液を、靴の先でぐりぐりと踏みつけた。
『ビッグ・アイランド』の売春宿疑惑と、透の証言は、すでに警察に話していた。
 自分たちの捜査能力では、『ビッグ・アイランド』が悪さをしていることを証明できそうにないので、警察に情報を流したのだ。
 しかし警察……宮島の反応は冷淡なものだった。
「ほう。では浅葉悟くん、きみの話を信じると、『ビッグ・アイランド』の支配人はひそかに売春組織を運営していて、きみの弟の失踪もそこに関係があるということになるが、まさかそんなこと、本気で思っていやしないよね? 夢みたいなことばかり言うのはよして、このつまらない町に順応する努力をしなさい。勉強して、スポーツをやって、ご両親の言うことを聞くのが、きみの人生に必要なことであって……おっと、ご両親といっても、きみのお父さんは意識不明の重体だったね、はっははは」
 宮島は軽くあしらったが、話を聞いた以上は仕事をしてくれると期待して、悟は警察の成果をまっていた。そしてこの首尾は、父親が事故を起こしたあとの『作戦会議』で、見船にも報告していた。
 見船は唾液で汚れた指をしばらく見つめていたが、制服のスカーフでぬぐうと、ふたたび歩き出し、そして言った。
「ねえ浅葉くん、楽しい話をしましょうよ。お父さんの容態は?」
「べつに楽しい話じゃないけど……あいかわらずだよ。集中治療室を出られたから、お見舞いはできるようになったけど、ずっと意識はないし、なにを言っても反応してくれないし……」
「ああそうですか。ぱっとしませんね。いきなりガバッと跳ね起きて、『俺がみんなを殺したんだー』とか告白してくれたら、いろいろ楽なんですけども。で、警察は?」
「そっちもあいかわらず。警察はやっぱり、父さんが犯人とは思ってないみたいなんだ」
「無能」
「アリバイのせいだと思う。上野原さんが殺されたとき、父さんと母さんと透は、みんなで近所をドライブしてたらしくて……」
「ええ、それはもう聞きました。そして私は、身内の証言なんて当てにならないと答えました」
『作戦会議』のとき、この話題になったのだ。
 見船はすらすらとつづけて、
「身内の証言は当てにならないし、浅葉くんのお父さんと、倉橋詩織との接点も見つかりましたが、裏を返せばまだそれだけなのも事実です。1人目と2人目の被害者である岸谷真梨子きしたにまりこと、飯田幸代いいだゆきよは、どっちも小学4年生だから、倉橋詩織のように文通で知り合うのはむずかしいでしょうし、大島雫との接点もまだわからないまま……。警察の肩を持つ気はないけど、あなたのお父さんを疑わないのは、まあ、理解はできます」
「でも、上野原さんと名越由香なごしゆかは、僕の目の前で殺された」
「犯人の顔を見たわけじゃないでしょう?」
「そうだけど……」
 だとすれば、あのときに悟が見た、レインコートのようなものを着てヘッドライトを装着した人殺しは何者なのだろうか?
 この町には父親とはべつに、もう1人の殺人者がいる?
 ありえない。
「僕はやっぱり、父さんが犯人だと思う」
 なので悟はそう言って、
「だいたい、父さんは血のついたコートを隠していたんだ。そんなの、だれがどう見たって怪しいじゃないか」
「そうですが、でも浅葉くんは、そのことを警察には話さないんでしょう?」
 父親の罪が明るみに出たら、悟の家は、完膚なきまでに破壊される。
 そうなるわけにはいかなかった。
 父親が犯人だと確信し、さらには事件を解決したいという気持ちもあるいっぽうで、このままなにごとも起こらないことを、悟は同時に望んでいた。
 そんな悟の態度が気に入らないのか、見船は鼻を鳴らして、
「結局、浅葉くんは、事件の真相よりも自分の生活をえらぶわけですね」
「…………」
「だれが犯人だったとしても、私はかならず見つけるし、そのための捜査をつづけます」
「…………」
 なにも言えない悟を無視して、見船は歩きつづける。
 悟はあとを追うしかなかった。
 住宅街の奥まったところで、見船は歩調をゆるめる。
 目の前には、完全にどうかしている家があった。
 
『この悲しみをわすれないで!』
『家族そろっての鑑賞大かんげい』
『熊の恐怖! あの子たちの叫び!』
『涙と地獄の解説アリ 泣いて泣いて!』
『入場料・特別価格! 今だけ1000円』
 
 家の壁や門壁に、そのような文章の書かれた紙が、べたべたと貼られていた。
 ここは悟のクラスメイト、水沢恵みずさわめぐみの実家だった。
 宿泊学習の中で行われた、きもだめし大会の最中、熊によって殺害された水沢恵と西沢健介にしざわけんすけの両親が出資して、水沢家の自宅を、被害者2人の資料館に改装したという。
 上野原と名越由香が殺されたのは、熊の襲撃と同タイミングだったので、ひょっとしたら殺人事件の解決につながるヒントがあるかもしれないと、見船はかねてこの奇妙な資料館に行きたがっていた。
 見船がチャイムを押すと、中から黒い服を着た中年の女性が出てきた。
 小太りの女性で、ベルトの上に腹が乗っていたが、それよりも長すぎる前髪が気になった。
「はい……どなた?」
 中年女性は低い声でたずねた。
 見船が自分たちの身分を明かすと、中年女性はいきなり大粒の涙を流しはじめたので、悟はとまどった。
「ああああああ、恵のクラスメイトがきてくれるなんて、うれしいわ……。うう、きっと恵もよろこんでるはずだわ……うう、ううううう」
「お察しします」
 見船が猫をかぶって言った。
「ううううう、ありがとうね」
 女性……水沢恵の母親は泣きながら、
「恵のこと、忘れないでいてくれたのね? ありがとうね。どうか、あの子の生きた証を、たくさん見てあげてちょうだい。恵のこと、どうかたくさん見てやって。じゃあ、入場料、2人で2000円です……」

 まるで冷房でもついているようにひんやりした1階リビングすべてが、資料館になっていた。
 いくつものガラスケースに陳列されているのは、水沢恵の写真、作文、通知表、卒業文集など。
 西沢健介のコーナーもあるにはあったが、水沢恵とくらべると小さなものだった。
「これは無料サービス……」
 水沢恵の母親が、紙コップに入ったホットティーを渡した。悟は儀礼的に一口すすったが、なんの味もしなかった。
「あ、これが気になる? 気になるのね? これはねえ、恵が小学3年生のときに書いた作文です。家族みんなでハイキングに行ったときのことを書いてて……」
 水沢恵の母親は、聞いてもいないのに説明をはじめて、
「恵はね、家族思いの、とってもいい子だったの。きっと、いい子すぎて熊に襲われたにちがいないわ」
「どういうことですか」
 見船がたずねた。
「いい子は殺されちゃうでしょう?」
 どうやらこれが、水沢恵の母親が持つ世界観らしい。
 悟たちはガラスケースの中を見るともなく見て、水沢恵の母親はそのたびに解説を入れた。その結果、水沢恵が少年隊のファンだったこと、キュウリが嫌いだったこと、ウサギのぬいぐるみがなくては眠れなかったことなどを知ったが、どれも事件とは関係のないことばかりだった。
「はい、次はこれ、これを見てちょうだい。ほら……これを見るのよ。恵がはじめて自転車に乗ったときの写真なの。ブレちゃってるけど、私が撮ったの。かわいいでしょう? あの子はとっても臆病だから、自転車にまたがるだけで泣いちゃってねえ……」
「あの、私たち、恵さんのことで聞きたいことがあるんです」
 際限なくつづく解説を見船がさえぎり、
「私たちも恵さんとおなじく、きもだめし大会に参加して、こちらの浅葉くんは熊に襲われました。そうですよね、浅葉くん」
「え? あ、うん」
 悟は耳をうしなった顔の側面を見せる。
 水沢恵の母親はそれを、ちょっとしたニキビでも見るような感じで一瞥するだけで、これといった反応はなかった。
「警察から、なにか聞かれませんでしたか?」
 見船がつづけて、
「熊が暴れているとき、おなじ場所に殺人者がいて、2人のクラスメイトが殺されました。警察から、殺人事件のことを聞かれませんでしたか?」
「うーん……なにも聞かれなかったけど、でも、恵の遺体がもどってくるまで時間がかかったわ。人が殺したのか、熊がやったのか、解剖してしらべるから時間がかかるって」
「恵さんは、熊に殺されたんですよね?」
「もちろんよ。だって恵は、いい子だから」
「殺人者について、警察からなにかを聞かれたりとかは」
「ないわ。なんにも。そんなことより、そろそろ見る?」
 水沢恵の母親は、部屋のすみに移動した。
 ガラスケースの一部に、黒いカバーがかかっていた。
 水沢恵の母親は、黒いカバーの端をつまみ、そろそろと取り払う。
 ガラスケースに入っていたのは、血まみれのジャージだった。
「これはね、恵が熊に襲われたときに着ていたジャージです。ひどいものでしょう? 血がべったり、べったりなのよおお。あの子は、恵は……なにも悪いことをしてないのに、天使みたいにいい子だったのに、なのに……うう、なのに、こんな目にあうなんて! ううう、うううぁ、ああああああ!」
 水沢恵の母親は泣き崩れた。
 声をかけても泣きつづけるだけ。
 どうやらこれがクライマックスらしい。
 しかし悟たちのクライマックスはここからはじまった。
「写ルンです……」
 見船がつぶやく。
 それは数年前に販売が開始されたカメラの名前だ。
 血まみれのジャージの横に、やはり血まみれの写ルンですと、現像された写真が飾られていた。
 写真は10枚あった。
 どれも宿泊学習のときの写真で、バスの中でお菓子を食べている水沢恵や、カレーを作っているクラスメイトなどが写っている。
 最後の3枚だけ、異様だった。
 きもだめし大会の最中を撮影したものらしく、写りは悪い。
 ライトを手にした水沢恵と、きもだめし大会のペアだったクラスメイトの舞草まいくさみのりが、暗がりの中でピースサインをしている写真。
 舞草みのりの横顔と思われるが、ひどくブレているために残像のようになっている写真。
 そして、
 闇の奥にうずくまる、なにか大きく異質なモノ。
 フラッシュがとどいておらず、詳細はつかめないが、大きいことだけはわかる。
「え、熊?」
 見船が声を上げた。
「うううう、警察がね……うう、うっ、写真とカメラを返してくれたの……」
 水沢恵の母親は、嗚咽おえつとともに言って、
「あの子は……恵は、いい子なの。だからきっと、熊を見つけて、うれしくなって撮影しちゃったのよ。それで、それで殺されてしまったのよ! う、うう……ううぁああああああああ!」
 それからは、なにを言っても反応してくれなかった。
 2人はあきらめて、資料館を去った。
 夏の暑さがよみがえった。
 見船は振り返り、出てきたばかりの家を見上げると、
「あーあ、最低でしたね。収穫ゼロなんだもの。本や映画だったら、捜査するたびにヒントがぽろぽろ出てくるのに、現実はうまくいかないものです」
「そう都合よくはいかないよ」
「最後の写真も、本当に無価値な記録にすぎませんでした」
 見船は吐き捨てるように言って、
「あれを見てわかるのは、水沢恵の死因だけ。いい子だからではなく、馬鹿だったから死んだんです。熊にフラッシュを向けるなんて、どうかしてる」
「まあでも……すごい家だったね。なんか、疲れた」
「ウォーレン夫妻そっくり」
「だれそれ」
「アメリカの心霊研究家。妻が超常現象を体験して、夫がそれを解説するという、巫女と審神者さにわのような夫婦なんです。ウォーレン夫妻は、自分たちが調査した際に出てきた呪いの品々を集めて、自宅に資料館を作っているわけ……。ウォーレン夫妻が調査した事件をもとにした、『悪魔の棲む家』という映画があるので、興味があったら見てください」
 見船がなにを言っているのか、一つも理解できなかったし、もちろん悟はそんな映画に興味もなかった。

 鶏荷とりに駅の前を通ると、母親を見つけた。
「おねがいします! 情報提供をおねがいします! この子に見覚えはありませんか? 浅葉透っていう小学生の男の子です。どうか、情報をおねがいします!」
 駅前に立ち、必死にチラシを配っている。
 そんな母親の様子を、数台のテレビカメラが撮影していた。
 あれから母親はパートとジャズダンス教室をやめて、父親の見舞いと、透さがしに人生をついやしていた。
 さほど多くない通行人が現れるたび、汗だくの母親はのろくさと近づき、「この子を知りませんか? 私の息子なんです。情報があったらおねがいします」と言ってチラシを渡そうとするが、ほとんどだれも受け取らなかった。
 もらってやれよと悟は思った。
 あのチラシは悟と母親の2人で作り、そこにはこのようなことが、透の顔写真入りで記されていた。
 
 この人をさがしています!
 浅葉透(11歳)
(服装)グレーのトレーナー、ジーパン、白いスニーカー、緑色のリュック
(行方不明の状況)1989年7月7日(金)の午後9時ごろ、鶏荷町の自宅を突然出たまま行方がわかりません
 
 悟たちは鶏荷駅を横切る。
「いいんですか? 手伝わなくて」
 見船が聞いた。
「いいよ……きっと見つからないから」
「なかなか薄情な態度じゃないですか」
「いや、そういうわけじゃなくて、僕の弟は、頭がいいんだ。だからたぶん、さがしたって見つかりっこないと思う」
「ずいぶん評価してますね」
「弟……透は、かしこいから」
「ふーん。だったらあなたじゃなくて、弟さんと捜査しておけばよかった」
「透は家出するとき、リュックサックを背負っていた」
「計画的だったわけですね」
「透が計画を立てて家出して、それで1ヶ月たっても見つからないなら、それはもう、そういうことだよ」
「弟さんの居場所に、心当たりでも?」
「ない。ないからこそ、見つからない」
「弟さん、犯人がだれかわかって、それで家を出たのかもしれません」
 なるほど。
 そういう考え方もあるのか。
 だとすればやはり、父親が犯人かもしれないし、あるいは『ビッグ・アイランド』があやしいかもしれない。どちらにしても、透ほどの頭脳がない悟にはわからない。
 とりあえず、自分にできることをしよう。
 悟たちは駅前の横断歩道を渡った。
 1ヶ月前の深夜、父親はこの交差点で事故を起こした。
 そのとき父親がきかけた少女のことを、悟は最近、ようやく思い出した。
 少女の名前は、日菜子ひなこ
 母親が以前通っていた、『草壁くさかべジャズダンス教室』の講師である千代子ちよこの息子、草壁奏一郎そういちろうと、いつもいっしょにいた少女だ。
 年の離れた2人が、恋人のようにくっついているところを、悟はなんどか目撃している。
 日菜子は何者で、どうしてあの夜、この交差点にいたのか?
 そして父親はなぜ、日菜子を車で轢きかけたのか?
 たしかに父親は、酒に酔った状態で運転していたし、透の失踪と警察の登場で、相当に混乱していたとも思う。
 ……でも。
 悟は周囲を見回す。
 この時間はともかく、あのときは車なんて1台も走っていなかった。横断歩道を渡っている人間を見逃すのはむずかしいだろう。
 もしかしたら父親は、路肩にいる悟と母親に気を取られていたのかもしれないが、だとしても、ビール1缶で注意力をうしなうほど酒には弱くないし、そもそも猛スピードで車を走らせるような人間でもない。
 しかし事故は起きた。
 なぜか。
 ひょっとして日菜子を轢き殺そうとした?
 でも良心が働いて急ブレーキを踏ませた?
 つまり父親は、日菜子とも接点があった?
 この疑問を解決するため、悟たちは動いていた。
 通りをしばらく歩いて、『草壁ジャズダンス教室』に到着する。
 玄関のチャイムを押すと、中年の女性が現れた。
 レオタードというのだろうか、ぴったりした服を着ていたが、体形はくずれていない。自分の母親とはずいぶんちがうと悟は思った。この女性が草壁千代子だろうか?
「どなた?」
 女性がたずねる。
 見船はよそ行きの声で、自分には大学生の姉がいるとか、講義の予定表を姉のかわりに持ってきたとか、卒論がどうとか、てきとうな嘘を流れるように言った。
 女性はすっかり信頼して、
「あらあら、それはありがとうね。奏一郎は上の階にいますよ。大学が夏休みだから、昼間から部屋でだらけてるの。よかったら外に連れ出してやって」
 中に通された。
 2階にはいくつものドアがあったが、草壁奏一郎の部屋はすぐにわかった。包帯だらけの男が昏睡している映画のポスターが貼られていたからだ。それは入院している父親の姿に少しだけ似ていて、悟はいやな気分になった。
「スティーブン・キング原作はちょっと……」
 見船は小声でつぶやくと、ノックもせずにドアを開けた。
 8畳ほどの部屋には、ビデオテープが山となっていた。
 棚からあふれたそれは壁をふさぎ、窓もふさいでいる。
 暗い室内にはさらに、たくさんの本が散らばっていた。
 足もとは本によって侵食され、ほとんど床が見えない。
 幼女連続殺人事件の犯人の部屋と……まるでいっしょ。
 草壁奏一郎は、そのような場所にいた。
 かろうじてベッドとわかるスペースに、体育座りしている。
 家の中だというのに、おかしな色のコートを着た草壁奏一郎は、悟たちに関心がないのか、テレビから目を離さない。
 画面には、金髪の女性がチェーンソーで頭を割られている映像が映っていた。
 あまりに異様な風景だったが、それでも見船が臆することなく、前に出た。
「草壁奏一郎さんですね? あなたの母親の知能指数が低くて助かりましたよ。カエルの子はカエルとは、よく言ったものです。『草壁ジャズダンス教室』の馬鹿息子の母親もまた、馬鹿というわけですね」
 こちらに意識を向けさせるつもりか、挑発的なことを言って、
「あなたは、日菜子という小学生をごぞんじですね? どうして大学生が、小学生とつるんでいるんですか? あの子は何者なんですか?」
 するとベッドの上の草壁奏一郎は、視線をあちこちにさまよわせて、たっぷり30秒ほど時間をかけたあと、無言で首を振った。
「なんのつもり」
 見船が言った。
「それが先日、頭を強く打ってね」
 草壁奏一郎は後頭部に手を置いて、
「ほら、ここんところ、こぶになってる」
「同情でもしろと?」
「頭を打ってから、記憶が曖昧なんだ」
「どうして頭を打ったんですか?」
「バナナの皮に足をすべらせて」
「いつ?」
「…………」
 草壁奏一郎は頭に置いた手を、ゆっくりと口もとまで移動させ、またしてもびっくりするほどの時間を使って考えはじめた。あきらかに芝居臭くて、悟は見ているだけでいらいらした。
 見船もまた、草壁奏一郎の様子を見つめていたが、しかし変なことを言った。
「ひょっとして、『ディア・ハンター』のまねですか?」
 すると草壁奏一郎は、テレビ画面の仄青い光を浴びた顔を上げて、
「え……なんでわかった? 僕のものまね、そんなに似てた?」
「いえぜんぜん。ドアに『デッドゾーン』のポスターが貼られていたので、クリストファー・ウォーケンが好きなのかなと推察しただけです」
「好きってほどじゃないけど……いや、好きかもしれない。きみもクリストファー・ウォーケンが好きなの?」
「好きってほどじゃありません」
「映画は好き?」
「質問するのは私です」
「そいつは知らなかった」
「では、おぼえておいてください。それから金輪際、ひどい演技はしないでください」
「悪かったよ。でもね、演技ってわけじゃないんだ。頭を打ったのも、日菜子ちゃんについてなにも知らないのも事実だから。僕はね、あらゆることに関係のない人間なんだ」
「関係があるかどうかは、私が決めます」
「そうくると思ったよ。気がすむまで追及するといいよ。拷問してもいいよ」
 草壁奏一郎はコートの上から腕をかいて、にやにや笑いを浮かべた。
 ……なんだこいつは。
 いきなり部屋に乱入されてもおどろかず、「きみたちはだれ?」という質問すらしない余裕ぶった態度が、悟には不気味だった。
 草壁奏一郎が不意に立ち上がる。
 意外と背が高い。
「さてと」
 そう言って無造作に本を踏みつけながら、こちらに近づいてくる。
 見船を守るべきか、いっしょに部屋を飛び出すべきかを悟は考えてしまい、そのせいで判断が遅れた。
 草壁奏一郎は大股でやってきて、2人のすぐ前に立つと、片手をのばしてドアを閉めてしまう。
 そして口の端に笑いを残したまま、見船を見下ろして、
「ではさっそく、お近づきのしるしに……」

「あ、水槽にぶん投げるんですか」
「死体は水槽にぶん投げるものさ」
「ところで、この教授はさっきからクソ野郎ですね」
「ちなみにこのあと、流し台に死体が捨てられるよ」
「先の展開をネタバレする人間が、もっともクソ野郎です」
「たしかに……たしかにそうだね。I am your father!」
 見船と草壁奏一郎は、ビデオテープが積み上がる不健康な部屋で、死体が量産される不謹慎なホラー映画を見ていた。
 見船はテレビ画面に集中しながら、
「私、これまで機会がなくて、『テラー・アイズ』を見てなかったんです」
「どうだい?」
「殺人鬼が仮面をかぶっているので100点です」
「これを撮った監督は、『チキチキバンバン』や、『カジノロワイヤル』の、ケン・ヒューズ」
「どうして、そんなメジャー作品を撮った人が、こんなB級ホラーを」
「闘病してたみたいで、これが復帰作らしいよ」
「仕事をえらばない監督は好きです……あ、また殺された。犯人が使ってる変な凶器、これ、なんですか? ククリナイフ?」
「おや、よくそんな単語を知ってるものだ」
 草壁奏一郎は肩をすくめて、
「そんな凶器にくわしいきみには、このあと、『アックスマン』っていう映画を見せてあげよう」
「それ、凶器が斧でしょ」
「タイトルでネタバレはこまるよねえ」
 草壁奏一郎はビデオテープの山から、慎重に1本を取り出すと、
「これさ、読み方はわからないんだけど、『Sundelbolong』っていうインドネシアの映画なんだ。見た?」
「見ているわけがないでしょう」
「食いしん坊のおばけが屋台にやってきて、焼き鳥を200本くらい食べたり、アツアツのスープを鍋ごと飲んだりするんだけど、そのおばけの背中には穴が空いていてね、食べたものが穴から全部出ちゃう……っていう映画なんだ」
「なにそれ。すてき」
 2人はベッドにならんで座り、さきほどからずっと、映画鑑賞をつづけている。
 ホラー映画に興味のない悟は、部屋のすみであくびを噛み殺していた。
 最初のうちは、床に散らばっている本をてきとうに読んでいたが、『イスラーム文化』だの、『大衆運動』だのと、妙に難易度の高いものばかりだったので、それもやめた。
 2人は結局、『テラー・アイズ』とかいう退屈な映画を最後まで見た。
「それで、日菜子という小学生とは、どんな関係なんです?」
 映画が終わり、見船がようやく話を進めた。
 草壁奏一郎はベッドから降りて、ビデオデッキをいじりながら、
「関係というほどの関係じゃないんだ。あの子の名字も、年齢も、どこに住んでるのかも、僕は一切聞いてないからね」
「なぜ聞かないんです」
「興味ないから。きみたちの素性だって聞いていないだろう?」
「あなたの無関心については、こちらも無関心なので、質問をつづけます。日菜子という小学生とは、どこで知り合ったんですか? 文通で釣ったクチですか?」
「文通……わあ、よしてくれ。僕には手も口もあるんだから」
 振り返った草壁奏一郎は、心からいやそうな顔つきで、
「日菜子ちゃんには、町で声をかけたんだ。あの子、平日に駅前をぶらぶらしていたから、『きみ、やりたいことなんて、なんにもないんだろ?』って言ったわけ」
「それで?」
「それだけ。町で会ったらご飯を食べたり、図書館に行ったり、散歩したりする仲……これってつまり、『それだけ』でしょう?」
「日菜子という小学生から、少女連続殺人事件について、相談されたりしましたか?」
「してないよ」
「2人で事件の話などは?」
「とくには」
「あなたのもとに、警察はきましたか?」
「こないよ」
「『ビッグ・アイランド』のことはごぞんじですか?」
「なにそれ」
小尻湖こじりこにあるコテージです」
「知らないなあ」
 草壁奏一郎は取り出したビデオテープを、ほかのビデオテープで作られた山に重ねて、
「僕じゃなくて、日菜子ちゃん本人と話すべきじゃないかな。あの子、駅のあたりをぶらぶらしているから、運がよければ会えるよ」
「連絡先は?」
「聞いてない」
「おかしいでしょう」
「おかしくないよ。だから僕は、日菜子ちゃんのことをなにも知らないってなんべんも……」
「じゃあ帰ろう。時間のむだだよ」
 そう言ったのは悟だった。
 2人がこちらを向く。
 意外そうな顔をしているのが、しゃくに障った。
「もう帰ろう。こんなホラー映画マニアなんて、どうだっていいよ。こいつはなにも知らないんだよ」
「最初からそう言ってるのになあ」
 草壁奏一郎は小さく笑った。
 できることなら、その余裕な顔面を殴りたかった。
「こいつ、もしなにか情報を知っていたとしても、絶対に話さないよ。そういうやつだから、ほうっておこう。こいつこそ、やりたいことなんて、なんにもないんだ」
 悟はいらいらにまかせて乱暴に言った。
「聞かせるセリフじゃないか」
 草壁奏一郎は笑いながら見船を見て、
「彼氏さんはごきげんななめみたいだし、映画も見たし、そろそろ帰るかい?」
「私、もう1本見たい」
 見船は悟に背中を向けて言った。
 このタイミングでそんなことを言ってくる見船に、悟はついカッとなったが、食い下がるのはプライドがゆるさなかったし、なにより、「聞かせるセリフ」が思いつかなかったので、無言で部屋を出た。

 1人になった。
 気づくと、鶏荷駅に戻っていた。
 駅では母親が、まだチラシを配っていた。
「おねがいします。情報提供、おねがいします! 7月7日に行方不明になった、浅葉透の母親です。どなたか、この子を見かけませんでしたか? 情報提供、どうかおねがいします!」
 汗だくで配っていた。
 母親は朝からがんばっているというのに、自分は今日をむだにすごした。犯人が父親なのはわかりきっている。にもかかわらず、ありもしない「真相」を追い求めて、徒労に終わった。午後の補習も受けないで……。
「あれ……悟? 学校は?」
 母親が悟を見つけた。
「今、終わったところ。母さんの様子を見にきたんだ」
 ぜんぶ嘘だった。
 嘘ばかりがうまくなった。
「母さんも、そろそろ終わりにしようって思ってたところだったの。これから、お父さんのお見舞いに行くんだけど、いっしょに行く?」
「うん」
 ほかにどんな返事ができただろう。
 2人は電車に乗る。
 笠馬市に到着した。
 鶏荷町とは比較にならない都会を歩き、病院につくと、受付をすませて病室に入る。
 父親はベッドの上で眠っていた。
 全身を包帯で巻かれた父親は、いくつもの点滴を打たれて、死者のように沈黙している。ベッドサイドに置かれた心電図のモニターから響く、ピッピッピッという電子音だけが病室に充満していた。
「お父さん……具合はどう? 今日はね、悟もお見舞いにきてくれたのよ」
 母親は返事がないことを知りながらも、眠りつづける父親に語りかけ、
「まったく、今日も大変だったんだから。なかなかチラシをもらってくれないから、大きな声を出しちゃって、おかげでのどがれちゃった。でもおかげで、チラシはほとんど配れたし、透もきっと見つかるから、お父さんは心配しないで、ゆっくり治してね」
 母親は手慣れた動作でパイプ椅子を組み立てると、悟に座るようにうながした。
「母さんは?」
「うん……母さんはいいの。動いてないと落ちつかないから」
 母親はそう言って、父親のベッドを直したり、花瓶の水を取り替えたりと、たしかにいそがしく動きつづけた。
 なにもすることのない悟は、微動だにしない父親をじっと見つめていた。
 弱々しい存在にしか見えなかった。
 何人もの少女を手にかけた殺人犯には見えなかった。
「そういえば母さん、水沢さんのお宅に行ってきたの」
 てきぱき動きながら、不意に母親が言った。
「水沢さんって……あの資料館の? いつ?」
 悟はおどろいて顔を上げた。
「3日くらい前かな。ウチとはぜんぜん状況がちがうけど、あちらのお宅も大変でしょう? それで気になって、お話しさせてもらったのよ」
「どうだった?」
 水沢恵の母親と、まともに会話ができたとは思えなかった。
「こんなふうに言ったら悪いかもしれないけどね、ウチはまだいいほうだって思ったわ……。世の中は、私たちより大変な人たちでいっぱい」
「うん」
 このとき悟は、水沢恵の家ではなく、幼女連続殺人事件の容疑者の家族について考えていた。
「悟も熊に襲われたけど、ちゃんとぶじだったし、透だってきっと見つかる。お父さんもすぐによくなる……。母さん、がんばるね」
「あんまり、むりしないで」
「悟、あんたは勉強をがんばりなさいよ。もうちょっとむりしてもいいのよ」
「わかってる……」
「あっ、夕焼け」
 病室の換気をしようと窓を開けた母親が、はっとしたような声を上げた。
 悟も窓の外を見る。
 そこにはたしかに、燃えるような夕焼けがあった。
「悟が生まれたときも、ちょうどこんな夕焼けだったのよ。あんた、ものすごい難産で、朝になってもちっとも出てこないし、結局、その日の夕方までかかったんだから」
「知らなかった」
「今まであんまり、こういう話をしなかったからね」
「父さんは?」
「ん?」
「父さんは、そのとき、どうしてた?」
「ああ、それがね、ふふ、ひどいものなのよ……」
 母親は苦笑しながら振り返り、
「お父さん、最初は病室の外でまってたんだけど、あんたがなかなか出てこないから、病室に呼ばれてね、それでずっと、こまった顔して、部屋の中をうろうろしてるの。おかしいでしょう?」
 母親は笑ったが、悟は笑うべきタイミングがわからなかった。
「じゃあ父さんも、夕焼けを覚えてるかもしれないね」
 なのでかわりにそう言った。
「どうかな……お父さんは、なんでもすぐ忘れちゃうからね。でも、覚えていてくれたら、母さんはうれしいかな。あんたがやっと生まれてきて、泣き声が聞こえたときは、母さん、涙がとまらなかった」
 母親はふたたび窓の外に視線を向けた。
 赤々とした夕陽が、遠くの山々にゆっくりと沈んでいく。
 空の彩りは深みを増し、赤や紫が混じった複雑な色が雲に乱反射して、まばゆい輝きを放っていた。
 そのとき、どこからともなく、夕方のチャイムが鳴った。
『遠き山に日は落ちて』のメロディが流れ、それが病室の中に溶けこんでくる。
 悟はそれを聴きながら、覚えているはずもない自分が生まれた瞬間の情景を、しかしたしかに思い出していた。
「夕飯作るの面倒だから、マクドナルドに寄って帰ろうか」
 母親が提案した。
「うん」
 悟は子供のようによろこんで答えた。
 この時代、マクドナルドはまだ都会にしか店舗がなかった。
 病院を出て、近くにあるマクドナルドに入ると、悟はお子さまセットを注文した。
 ハンバーガーのおもちゃがついてきた。
 きわめてチープな作りだったが、それでも悟はうれしかったし、ハンバーガーは夢のような味がした。
 
 翌朝、父親が死んだ。

(つづく)

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連載【妻を殺したくなった夜に】
毎月最終火曜日更新

佐藤友哉(さとう・ゆうや)
1980年北海道生まれ。2001年『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』でメフィスト賞受賞。2007年『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を最年少で受賞。他の著書に『クリスマス・テロル invisible×inventor』『世界の終わりの終わり』『デンデラ』『ナイン・ストーリーズ』『転生! 太宰治 転生して、すみません』『青春とシリアルキラー』等がある。
Twitter:@yuyatan_sato

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