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金原ひとみ デクリネゾン 第1話「生牡蠣とどん底」

illustration maegamimami
「であるから、私は繰り返し、繰り返しいうが、原子は少々斜に進路を逸れるに違いない。」
『物の本質について』ルクレーティウス著 樋口勝彦訳 岩波書店

 人参をキューブ状に切り分けながら、数ヶ月前の記憶が蘇る。ホームパーティにキッシュを持って行った私に、人参が正方形すぎて気持ち悪いとひかりが眉をひそめたのだ。正方形の植物ってないやん? 生き物もやけど。やから正方形のものには食指が動かないんやろうね。乱切りとかいう切り方が採用されがちなんもそういう理由からなんちゃうかな。ひかりはそんな感想を口にしたけれど、一口食べると何これめっちゃ美味いねんけど、とすごい勢いで口に詰め込んでいった。
「何これ、このコクは何事? チーズ? やんな?」
「中にブルサンを混ぜ込んで、上にかけてるのはグリュイエール。あと材料を炒める時にバターを使ったかな」
「ブルサン! なるほどなー。にんじんじゃがいも正方形でも全然美味しいわ。ほんまあんたは分かりやすく高カロリーな料理が得意やな。思い切りがええんやろな」
 志絵のキッシュめちゃうまやでみんな食べやー、と大きな声でキッシュを宣伝しつつ私の背中をわしわし撫でる気持ち良くがさつなひかりを見ながら、本当に変わったなと改めて彼女の結婚、出産後の変化に感心していた。七年ほど前、対談の依頼を受け、出版社の会議室で初めて顔を合わせた時には、どこか怯えや怒りといった負の感情を溜め込んだ女性という印象を持ったが、今の彼女にはそんな面影はまるでない。旦那の影響でJリーグの大ファンになり、育児の手が空く時はユニフォームを着てあちこちの試合に駆けつけ応援しているという彼女は、歳を経るごとに関西弁がきつくなっているように感じる。

 鶏ひき肉、キューブ状に切り分けた人参じゃがいも、大豆の水煮、ほうれん草を投入したキーマカレーは、カイエンペッパーやコリアンダー、クミンを炒めてから作ったためスパイシーな香りを漂わせている。鼻歌を歌いながらリビングに入ってきた理子は、「いい匂い!」と声を上げた。レードルでかき混ぜながらキーマカレーだよと言ったけれど返事はなく、見るとソファに座った理子はヘッドホンをつけていた。
「理子ー?」
 大きい声で呼びかけると理子は顔を上げヘッドホンを片方だけ外して見せる。
「キーマカレー作ったからね。あと冷蔵庫にサラダが入ってる」
「わかったー。目玉焼きは?」
「目玉焼き載せたかったら自分で作るか吾郎に作ってもらって」
 おっけー。と言いながらソファの上で音楽に合わせてノリ始めた理子を尻目に私はスマホを持って寝室に向かう。何枚かワンピースを見比べ、ウェストマークできるラップワンピースに腕を通す。ちょうどいい薄さのストッキングがなかなか見つからず、未開封のストッキングをビリビリ開けて焦れつつ足を通す。薄手のチェスターコートを引っ張り出すと、スマホを光らせて時刻に舌打ちをしながら慌ててリビングに出た。化粧ポーチとスマホをバッグに放り込み、「もう行くね」と理子に慌ただしく声を掛ける。
「行ってらっしゃーい」
「吾郎、七時くらいに来るって。冷蔵庫の中のサラダ忘れないでね。明日理子が学校から帰ってくる頃には帰ってるから」
「はーい!」
 本当に聞こえているのか訝りながら、私はソファを通り過ぎながら理子の頭と頰を撫で、コートを羽織って「鍵かけといて」とまた大声で言って家を出て行く。駅までの道を早足で歩きながらスマホを手に取る。「鍋にキーマカレー、冷蔵庫にサラダがあるから食べて。あと時間があったら理子の数学見てやって」。吾郎にそう入れるとイヤホンを耳に差し、最近蒼葉がドライブで共有してくれたバンドの曲を流す。仕事中は聞き慣れた曲でないと集中力が削がれて流せないから、最近は移動時間くらいしか新規の曲を聴けないでいる。PCの見過ぎと寝不足のせいで常に目の周りがズンと固まっているような感覚があり、化粧を崩さないよう指の第二関節で目の周りを何度か押さえつける。
「了解。今日は泊まりなんだっけ?」と吾郎の返信に「うん。朝出る時は鍵かけてってね」と返し、パスモをタッチする。電車に乗り込むと資料を取り出し、今日これから出るトークショーの概要にざっと目を通していく。本当は、永遠に家でじっとパソコンに向かって仕事をしていたい。憂鬱だった。いつだか、定年後の男の人のやりたい事ランキング一位は「講演会をすること」らしいよと誰かが腐したように話していた。武勇伝を語りたい高齢の男たちがそこかしこにひしめいているのだと思うとそれだけで生きているのが辛くなるが、彼らのほとんどは実際に何百人もの人の前に出て話すことを現実的に捉えられていないに違いない。自分の話が如何に人にとってつまらないかなんて客観性があれば分かる事で、客観性があれば、つまらない話を数百人もの人の前で語りたいなどと思えないものだ。

 でも結局のところ、人が何を面白いと思うかなんて分からない。今やスマホさえあればある程度のコンテンツが無料で見れたり遊べたり読めたりするわけで、そんな中でわざわざお金を払って時間と労力を費やして私たちのような地味な人の話を聞きに来る人たちがいるということがそもそもよく分からない。ここに来てる人の九割がサクラだったとしても驚きはしないだろう。そんなことを考えながら、私と同時期に本を出版した吉岡龍二との一時間のトークショーを、生きた心地がしないままやり過ごした。何を話したか、降壇した瞬間ほとんど忘れていた。本当に面白いお話をありがとうございましたと言う編集者や、今日は貴重なお話が聞けて……などと言うイベントホール関係者に懐疑的になりながら曖昧に微笑む。売れっ子の吉岡さんは話がうまく、今回の新作の誕生秘話や担当編集者とのコミカルな裏話について面白おかしく語り、ファンたちを満足させていたように思う。地味で、凡庸で、面白みのない話しか出てこない私が人前に立つ意味がどこにあるのだろう。それでもサイン会を始めると、ファンですと震える手を差し出してくれる人もいて、私ごときに緊張なんてしないでという思いで強く握り返す。生きていて良かった。そう思うと同時に、こんな風に誰かに自分の小説を好いてもらうことに疑問を感じる。小説に関してだけはプライドを持っているし、全ての小説に全力で挑んでいる。でもこの仕事を始めてからずっとそうなのだが、自分の作品というのは、誰かに渡した瞬間、「それが良い作品なのかどうか」が雲を掴むようによく分からなくなってしまうのだ。あれだけ自信を持って書き上げたものが、編集者に送る段階になるとどうしても信じられなくなって何度も何度も修正を加え、いつも送った瞬間緊張のあまりすぐにバツ印を押してメールボックスを閉じる。それからはどれだけ褒められようと評判がいいと言われようと次の仕事が舞い込もうと、実感が湧かない。結局自分が執筆をしている瞬間だけが、自分の書くものを信じられる瞬間なのだ。

 海鮮系の小洒落た居酒屋に到着してから、私は隣に座る担当編集者の太田さんと共にメニューを見つめていた。つぶ貝いいですね、あ、車海老の塩焼きってそそられますね、生牡蠣いける人ですかいけない人ですか? お造りは結局何人前にしましょう? 私お新香食べたいです、意外と肉も充実してますね。ホール関係者、私と吉岡さんの担当編集者たち、販売部や営業部の人たちも含め十三人で打ち上げに訪れた私たちは、三つのテーブルを占拠しそんな言葉を交わし合う。イベントが終わった解放感もあって、ビールがやってくると一気に飲み進める。お通しの海ぶどうがこれまで食べた海ぶどうの中でダントツに美味しくて思わず唸る。
「天野さんは本当にいつも落ち着いていて、どんと構えていてくれたんで胸を借りるつもりで挑みました」
 ビールから日本酒に移行した頃、吉岡さんにそう言われて思わず吹き出す。
「本当になんていうか、ロクでもない話しかできなくてすみませんでした」
 とんでもない、楽しかったです、と吉岡さんが手を出したから、向き直って手を握り返す。吉岡さん超女たらしだから気をつけてくださいね、三年前初めて吉岡さんと対談が決まった時、とある出版社の女性編集者がそう言っていたけれど、これまで彼からそんな空気を感じ取ったことは一度もない。噂好きな編集者の話す編集者や作家の恋愛事情は、三倍から五倍程度盛られている気がする。そういう性愛に関する噂が出るたび、話題に上る対象よりもそれを吹聴している人への不信感を募らせてきた。
 生牡蠣がかち割り氷の上に盛られて出されると歓声が上がり、ポン酢派ですか? レモン派ですか? やっぱり白ワイン飲みたいですね、ボトル頼みましょうか? などとあちこちから生牡蠣トークが聞こえる。小ぶりの生牡蠣がものの数分で尽きた頃、生牡蠣追加の人! という呼びかけに、「私二つ」「僕三つ」と手が上がり、私も「じゃあ二つ」と声を上げた。お造り、つぶ貝の煮物、レバーの甘露煮、穴子の天ぷら、生肉の上に雲丹が載ったうにく、どんどん料理が運ばれ、お酒が進み、私たちは少しずつ堤防を崩していく。恋愛や家族の話、食べ物やお酒の話、映画や本や漫画の話、十三人の人たちが各々二、三人ずつ共通の話題で盛り上がっている空間が、思ったよりも心地よかった。
「天野さんはどうして離婚したんですか?」
 恋愛話になっても皆それぞれが何となく避けてきたのであろう質問を松永出版文芸編集部の若槻さんが発した瞬間、あちこちで発生している声のトーンが僅かに落ちたことで、皆がこの質問の答えを気にしていることに気がついた。吉岡さんの担当編集者である彼女には、これまでにも何度か飲みの席やイベントの際に顔を合わせたことがあったけれど、「俗な人間であることへの抵抗のなさに関してはピカイチのサバサバ気取りの曲者」というひかりの憎しみのこもった批評に違わず会うたびもやっと嫌な思いをさせられてきた。私が嫌な思いをさせられたことを愚痴ると、「彼女はあんたみたいな繊細さ抱えた女を爆破したいって欲望をエネルギーにして生きてるんやろうからなあ」とひかりは笑った。
「それは、一回目の離婚に関してですか? それとも二回目の離婚に関してですか?」
 皮肉を込めて言うと「あれ、二回目も離婚してたんでしたっけ? じゃあ両方聞きたいです」と驚いたように言って下卑た笑みを浮かべる。隣の太田さんのみならずあちこちからあたふたという音が聞こえてきそうだった。
「離婚理由は公にはしないって約束をしたんです。二回とも」
 皆が更に緊張したのが分かる。
「じゃあ少なくとも性格の不一致とかじゃなかったってことですね」
 若槻さんはつまらなそうに言う。
「実際、性格の不一致が原因で離婚した夫婦が実在するのかどうか疑問ですけどね」
 私の言葉に太田さんが頑張った感じで声を上げて笑い、何となく皆がつられて笑う。普段、独身女性たちが元彼は今彼は出会いは別れは結婚はと不躾な質問をされるのに対し、シングルマザーはどこか腫れ物扱いされる。こんな風に嫌味な感じでぶっこまれることは、編集者や作家といった人々と付き合っているとなかなかないため、新鮮ですらあった。
「今、彼氏はいるんですか?」
 吉岡さんにはい、と答えると、一瞬の間があってから、えっ、彼氏さんってどんな人なんですか? めちゃくちゃ興味ある! とテーブルの向こうに座っている独身女性二人が目を輝かせる。えー私も知らなかった、言ってくださいよー、と太田さんが隣から小さく私の腕を小突く。「いや、普通の人です」「付き合い始めてどれくらいなんですか?」「半年くらいですかね」「見た目はどんな感じですか?」「背は高いですけど、他に特筆すべき点はないです」「彼のどこが好きになったんですか?」「なんていうか……」と言ったきり言葉に困っていると、高速道路で徐行運転をしているような不安に襲われる。流れを、スピードを守らなければならない。大人数の飲み会にはそういう暗黙の了解があって、その流れを乱せば乱すほど、注目を集めてしまうのだ。今は特に、舐めるような若槻さんの視線がまとわりついて気持ち悪い。
「彼は魔法にかかってるんです」
 魔法? と太田さんが興味と疑問半々の顔で視線を寄こす。うーん、と唸り、桝の中に残った日本酒を飲み干すと、すでに用意されていた白ワインのグラスに手を伸ばす。
「かけたつもりはないんですけど、彼は魔法にかかって盲目的な恋愛をしてるんです」
「敢えて魔法って言うのはどうして? 恋愛なんてみんなどこか魔法にかかってるようなものじゃない」
 吉岡さんのもっともな指摘に「見通しですかね」と白ワインを一口飲んでから答える。
「彼は距離的にも時間的にも遠くのものを見通せていないんです。物を知らない人ほど騙しやすいように、彼は経験値がなさすぎるから、私がかけた覚えのない魔法にも簡単にかかってしまって、それで魔法にかかった彼に好かれている内に私も魔法にかかってしまったっていう感じです」
 え、もしかしてけっこう年下とかですか? と太田さんに聞かれ、二十一ですと答えると女の子たちが歓声を上げ、若槻さんは目に好奇の光を浮かべた。男性陣は半ば引いている。彼らの目には半ば軽蔑の色さえ見て取れる。え、出会いは? 大学生ですか? え、年の差幾つですか? 女性陣の質問にあやふやな答えを繰り返し場の空気が悪くなり始めたことが誰の目にも明らかになった頃、吉岡さんが「煙草行こうか」と声をかけてくれた。
「いや、びっくりしたよ。そんな若い彼氏がいるなんて」
 店の前に置かれた灰皿の前で二人煙草に火をつけると、吉岡さんはそう言って笑った。
「僕もシングルだから、そういう状況で始まる恋愛を、恋愛小説を語るように解説できないっていう感じ、分かるけどね。恋愛だけじゃなくて、もっとナイーブな問題を孕んだ関係だから」
 吉岡さんは、二度目の結婚生活で儲けた娘を一人で育てている。そしてその前情報があったからこそ、私は彼が女たらしであるという情報に瞬時に疑問を持ったのだった。もともと文芸誌に寄稿していた売れない作家だった吉岡さんがシングルファザーになった頃突然売れるようになったというのは有名な話で、彼自身、一人で子供を育てる重圧を感じる中で書きたいものが変化したとインタビューで答えていた。
「言われてみれば、私たちは似た境遇ですね。娘さん、小学生ですよね」
「八歳、二年生です」
「吉岡さん、女たらしだから気をつけてって、昔とある女性編集者に言われたんです。それ聞いた時、シングルファザーでもこんな風に言われるんだなって思いました」
「彼女は、僕が以前遊んで捨てた編集者で恨まれてるんですって言いたいところだけど、正直なところもう恋愛とか女性とかそういうものと完全に切り離された生活だよ。仕事以外で最後に女性と二人で食事したのなんてもう何年前か思い出せない」
「みんな、好き勝手言いますよね。今も若槻さんとか私のことメタクソに言ってるんだろうな」
「彼女は困った人なんだけど、普段はあんなんじゃないんだよ。いつもは弱気で自信のない人で、お酒が入ると途端に弱さが裏返ってあんな感じになっちゃう。昔はあそこまでじゃなかったんだけどね」
「そうなんですか。言われてみればいつもお酒の席でしか会ってなかったです」
「単純な興味なんだけど、まあ取材でもあるかな、そこまで若い男性と付き合うのって、どう?」
「ずいぶんざっくりした聞き方じゃないですか」
「答えを狭めたくないなと思って」
 恥ずかしそうに言う吉岡さんに、私は自嘲的に笑う。
「体力の衰えを感じたり白髪を見つけたりするだけで別れた方がいいんじゃないかと思う。大学とかゼミってセリフが出るとそれだけで疎外感を抱く。同年代の子と結婚したら子供を持つか持たないか決めるリミットが二十年近くあるけど、私と結婚した場合あと五年。馬鹿みたいなことを言ってるの分かってます。でも馬鹿みたいなことを考えるのが年上の役目です。彼は一年以上先のことが見通せないから」
「出産のタイムリミットが四十歳って時代じゃないよ今は。それに、歳をとった人間ほど物事を俯瞰して見過ぎてしまう傾向がある。彼だって全く見通せていないわけじゃないはずだよ」
「分かってます」
 呟いたあと、分かってるんです、ともう一度強い口調で言う。自分の並べ立てた言葉が如何に世俗的であったかを今更反芻して嫌になる。見切り発車的に始まった彼との関係が深まるにつれて、小さいと思っていた差異を堪え難いと感じることが増え続けている現実に自分自身戸惑っていたし、今日のように皆が露骨に反応するたび、戸惑いが増幅していくのも感じていた。もっと皆が自然にスルーしてくれれば、私だって出産のリミットなんていう下らないことを考えないで済むのにという言いがかりまで口をついて出そうだった。
「年上とか年下とか年の差とか、シングルマザーファザー、皆好き勝手なこと言うけど、言えないことと言いたくないこと、非離婚経験者よりも少し重たい過去と未来、そういう中で寡黙に生きている僕たちみたいな人は、好き勝手言われながら大切なものを守っていくしかないんですよ」
 首を傾げたまま吉岡さんに視線をやる。重厚感のある胸板だ。白髪交じりの髪に、一センチほどで揃えられた髭、指紋のついた眼鏡、くたびれた細かいチェックのシャツにくたびれたグレーのジャケット。さっきまで完成された自己イメージを寸分違わず体現しているのだろうと感じていた人の印象が、この煙草一本の間にずいぶん変化したのを感じる。この人は守るばかりで、守ってくれる人がいないのかもしれない。体の芯が、丹田から喉のあたりまでが唐突に熱くなって、唐突に悲しみがこみ上げたのが分かった。何故か、強烈な伝心を感じて動けなかった。守ってくれる人がいない人を見て、私も誰からも守られていないのだと気付いたのかもしれない。右手の持つ煙草の火が揺れているのを目の前まで持ってきて見つめる。なんか震えてます、と笑うと吉岡さんがその手首を掴んだ。
「天野さんの幸せを願ってるよ」
 吉岡さんの言葉に、頭が麻痺したようになる。もしも私が幸せを志して生きていたら、こんなことにはならなかった。選択肢はたくさんあった。ずっと幸せになりたいと思っていたのに、私の行動はそれとは別の方向に向かった。まるで私の意思とは関係なしに弾かれたように、別の方向に。そしてずっと、その先が見えない。だから怖かった。確固たる目標のある人とは違う、行く末の分からないホラーな世界を無思考なゾンビのように生きている。その事実が何よりも怖かった。見通せていないなんて、私が言うべき言葉ではないのかもしれない。
 柔らかく手を振りほどいて灰皿に煙草を擦り付けると、戻りましょうかと微笑む。結局、私は誰も求めていないのかもしれない。お帰りなさいと言う太田さんにただいまーと言いながら席に着く瞬間、若槻さんと目が合う。彼女の人を見下したような顔にもまた、さっきまでとは違った印象を持った。

 皆にお礼を言い、お先にと店を出ようとすると、太田さんが「あ、私もそろそろ帰らなくちゃいけない時間なのでお送りします」と、いい機会だと言わんばかりに立ち上がった。最後に吉岡さんと握手を交わすと、「お疲れ様」の嵐の中、私たちは店を出た。
「助かりました。お弁当作りと保育園の送り迎えがあるんで、最近十二時過ぎるときつくって……」
 同い年の太田さんには保育園に通う年の近い子供が二人いる。家までお送りしますとタクシーを停めた太田さんに、ちょっとこのあと行くところがあってと言うと、どの辺ですか? と彼女はほとんど反射的に聞いた。
「新宿三丁目に」
「あ、新宿通るんでいい所まで送りますよ」
 いいんですかと言いながらタクシーに乗り込む。スマホを確認すると、何時くらいに着きそう? と入っていて、十一時半から四十分の間、と返し、タクシーでそっちまで送ってもらうことになった、とも追送する。
「これから二軒目行くんですか?」
「そうなんです。彼と約束してて」
「いいなあ。こんな時間からデートかあ。彼氏さんは……」
 そこまで言ってクスクス笑う太田さんに何ですか? と眉を顰めると「いやなんか、二十一の男の子のことを彼氏さんって言うのちょっとおかしい感じがして」と言う。私も笑って「確かに」と小さく頷いた。
「私、若槻さんには問題があると思います。本当にデリカシーがない人です」
 唐突に話を切り替え、学級委員長のようにきっぱりとした口調で言う太田さんがなんとなく愛しくて笑みが零れる。昔、男性編集者が「女性編集者にはオール5で学級委員長経験者が多い」と話していた記憶が蘇る。
「私がいない時、何か言ってました?」
「いえ、大したことは。どこに行っても悪評しか聞かないですよあの人。吉岡さんは優しいから許容してますけど、どんどん担当外されてるみたいで、近いうちに異動になると思います」
 太田さんは女性編集者特有の知的さと辛辣さの入り混じった態度でひとしきり若槻さんをディスり人格否定した後、如何に自分の今の生活が育児と家事と夫のせいで涸れきっているかを愚痴り始めた。
「いいじゃないですか。バツ二で若い彼氏がいるなんて、人生余すところなく楽しんでて最高じゃないですか」
 バツ二とか若い彼氏とかいう単語にピンとこないまま、曖昧に頷く。そもそも私は人生を楽しむために生きたことなどない気がするのだ。今は育児に追われて悲惨な生活を送っているのかもしれないが、韓流アイドルオタクで一時期イベントやコンサートのために韓国を行き来しまくって貯金を使い込み離婚を示唆されたことがあるという太田さんの方が、本質的には人生を楽しんでいるはずだ。
 あ、この交差点を越えたところで降ろしてください、私が言うと、彼女は今日はありがとうございましたと会釈をし、今回のトークショーのレビューをウェブで公開する件、また改めてご連絡します、ときっちり業務を完了させた。降りたタクシーに手を振り、ドアが閉まり走り出したのを見送ると、終電に急ぐ人々の喧騒の中で、ようやく訪れたストレスフリーな空間に体が麻痺したようになる。
「おつかれ」
 びくりとして振り返ると蒼葉がいて、びっくりさせないでよと胸を小突く。
「タクシー降りたところから見てたよ」
「全然心の準備ができてない」
「俺と会うのに心の準備いる?」
「仕事モードから切り替わるのに少なくとも三分くらい欲しいかな」
 言いながら背伸びをして蒼葉の肩に顎を載せる。背中をさすりながら「トークショーどうだった?」と聞く蒼葉に、「人前に出る仕事は大体うまくいかないよ」と答える。
「えー、どんな感じだったの?」
「もうそれはいいから、ご飯行こう。お腹空いてるでしょ?」
「めっちゃ減ってる。志絵は? ちゃんと食べた?」
「うん。生牡蠣につぶ貝にサーロインのウニ載せまで食べてきた」
 志絵の好きなものばっかり、と笑う蒼葉と手を繋いで交差点を渡る。焼き鳥、イタリアン、モツ焼き、と呟きながら飲食店街を歩いていく蒼葉に、私は食べ物あと二口しか入らないから蒼葉の好きなものにしてと言う。
「あと二口何が食べたい?」
 ピザかな。ぱっと思いついた私の言葉に、じゃあどん底でも行こうかと蒼葉は私の手を引いた。
「蒼葉の食べたいものにしてよ。私は本当に二口しか食べられないから」
「志絵の最後の二口を大切にしたいんだよ」
 分かったよと笑いながら、私たちはどん底に向かう。付き合い始めるまで何も知らなかったのに、彼はもう三丁目のめぼしいお店をほぼ把握している。地下のテーブル席に腰掛けると、蒼葉はピザと厚切りチャーシューとラタトゥイユを頼んだ。
「志絵ちゃん酔ってるでしょ」
 蒼葉は呼び捨てとちゃんづけを使い分ける。厳密な定義はなさそうだけれど、私に優しくしたい時ほどちゃんづけにしている印象がある。
「今日飲む人が多くて、常にビールと日本酒とか、日本酒とワインとか、ワインと焼酎とか、二種類ずつ目の前に置かれてたよ」
 ソフトドリンクにしても良かったのに、とビールのジョッキを合わせながら蒼葉は言う。
「お酒っていうのは飲み始めたら二日酔いになるまで不可逆……」
 不可逆、のところで声を合わせた蒼葉に苦笑して語尾が途切れる。私そんな何度も言ってる? と聞くと、三回目かなと蒼葉は微笑んだ。彼は私の話したことをよく覚えている。話している最中に「あれ、これ話したっけ?」と聞くことの多い私とは根本的に脳のあり方が違うような気がする。
 例えばこうしてお店にいる時、蒼葉は周囲の人の話をよく聞いている。両隣の席から聞こえてくる会話だけでなく、後ろから聞こえてくる英語の会話まで把握していたりするし、それでいて目の前にいる私の話もしっかり聞いている。何かサヴァン的な特殊能力なのではないかと最初の頃指摘したが、耳が良いのといくつかの物事を同時に把握する力に長けてるだけだよと彼は言い張り、「すごく周りが気になるんだ」とも話した。周囲が気になるというのは若い子にはありがちなこと、と反射的に思ったが、考えてみれば理子は真逆だ。この間駅からの帰り道で理子を見つけた時、声をかけずに後ろから観察しているとヘッドホンの曲にノっているのか揺れながら歩いていてすれ違う人々に奇異な目や微笑ましい目を向けられ、マンションの隣のクリーニング屋さんのおばさんが店先の掃除をしているのを見つけると「こんにちは!」と自分がヘッドホンをつけているせいか大声で挨拶をして相手を飛び上がらせ、「そんなびっくりしないでくださいよ」と笑いながらマンションに入っていった。吾郎もそうだった。周りが見えてなくて、自分がどう思われるかに無頓着で、大雑把で繊細さに欠けていた。私たちは理子が四歳の時に離婚したが、それまで三人で生活していた頃は、どことなく自分だけが繊細さを持て余しているような感覚があった。そして離婚して十年が経とうとしている今も、理子がどんどん父親に似ていくのを間近で見ながら、私は何とも言えない娘と切り離されていく感覚を抱え続けているようにも思う。
「でもなあ……」
 うん? とラタトゥイユを食べながら顔を上げた蒼葉にはっとする。
「でもなあって言った? 私」
「言った」
「ごめん、考えてたことそのまま言葉にしてた」
「なになに?」
「話飛んじゃうんだけど、蒼葉は周りが気になるっていつも言うじゃない? 気が小さかったり繊細なところが私たちの共通点なのかなって思う反面、でも私とは全然違うって思うんだよね」
「志絵は気が小さくないし繊細でもないよ。すごく気が大きい人だよ」
「私が? そんなこと初めて言われた」
「俺が躊躇うようなこと全く躊躇わないし、社交的だし誰に対しても言いたいことを言うじゃん」
「私は言いたいことの大半を胸の奥に留めて生きてきた人だよ」
 蒼葉は吹き出して、わさびの量が少ないって文句つけたり、ワインの開け方がなってないって手を出したり、外で大声で歌ったりするじゃん、と言う。
「私は居酒屋のお刺身が凍ってても文句を言わない人だよ。ほっとけば溶けるから。でもわさびは言わないと足してもらえないでしょ? それにオイスターバーの時は店員の子がもたついてたからやり方を教えてあげたんだよ。だってあの子フィルムを開けるナイフ間違えてて指切りそうだったし。外で歌うのはよっぽどの時だけだよ。大概歌いたくても我慢してる」
「だから、志絵は常に自分が主体なんだよ。誰かのためとか世界のためとかじゃなくて、自分のために声を上げる。わさびをたくさんつけたい自分、ワインを早く飲みたい自分、歌いたい自分を大切にしてる。それはまあある種の繊細さかもしれないけど、俺とは全然違うなって思うよ」
「でも考えてみれば、気が小さかったり周囲が気になるような人はここまで年上の子持ち女性とは付き合わないよね。そういう意味では不敵なやつとも言える」
「志絵と付き合ったことは俺の人生の中でした唯一大胆なことで、誇れることだよ」
「大胆どころか、付き合う前の蒼葉は捨て犬みたいだったよ」
 捨て犬……、と苦笑しながら、蒼葉は「二口どうぞ」と六枚切りのピザを一枚私の取り皿に取り分けた。最初は、一回セックスをして何事もなかったようにそれまでの関係に戻るか、しばらくそういう関係になった後どちらからともなく連絡を途切れさせるのだろうと思っていた。でも一度セックスをしたら、蒼葉はそれまで留めてきた分を放流するように如何に私が好きかを言葉と態度で百パーセント伝えるようになった。見た目から思考から仕事や生き方まで、私の全てを全力で肯定する彼を拒絶する理由は私にはなくて、でも好きなものを全肯定しかできない彼の弱さには不安も感じていた。もっと批評的に関わってもらいたい。そうも思う。でも蒼葉にはそれができない。好きなものを肯定することでしか、彼は好きな気持ちを処せないのだ。だから時々、全くもって私たちは交わっていない、という疎外感を抱く。
「女神みたいに自分を崇拝してくる若い彼氏か。それは彼はもちろん、志絵にとっても快感だろうね」
 蒼葉と私の関係について話した時、いつもの人を突き放すような態度で吾郎はそう言った。
「俺自身は、そういうシンプルな感情だけで突き進む恋愛よりも、例えば互いに浮気しながらも離婚せずにいるような、あらゆる利害を孕んだまま進行するリアリズムの恋愛の方に惹かれるけどね。志絵は利害を排したロマンティックラブに盲目的になってしまうから、長続きしない激しい恋愛を繰り返すことになる。いつか孤独なアル中になって自殺するんじゃないかって心配だよ」
 一方的に喋る吾郎を見ながら、やっぱりこの人は私のことを何も分かっていないと、改めて感じた。シンプルな感情で突き進む激しい恋愛に埋没し感情の奴隷になれるのであれば、それは何よりも幸せなことで、何の疑いもなく現実を味わい尽くせるだろう。埋没もできなければ、奴隷にもなれない、好きな気持ちを全肯定で表す蒼葉にも共感できない、結局私は自分自身の全てから切り離され浮遊しているのだ。そして時々訳のわからない振り子のようなものに追突されどこかに飛んでいく。それは自身にとっては半ば恐怖ですらある。それでも彼のアル中になって自殺という見通しは恐らく私自身の資質を言い得てもいて、憂鬱な呪いをかけられたような気分にはなった。

 店を出て夜風に吹かれ歩きながら気持ちいいと声を上げると、蒼葉は私の背中に手を当てた。一緒にいる時、体のどこかが触れ合っていないと蒼葉は落ち着かないようですらある。背中の手を手繰り寄せて手を握ると蒼葉はほっとしたような表情を見せ、しっかりと握り返してくる。
「終電に急ぐ人たちがいないだけで随分静かになるよね」
「そっか。今日は待ち合わせが遅かったから、もう終電終わってるのか」
「蒼葉はあらゆるものを認知してるのに、状況把握能力が低いよね」
「どういう意味?」
「周囲の話とか、人が少ないとか、静かとか、そういうことは認識してる。でもそれが何に由来しているのか、因果関係を想像、分析しない。あるものをあるがままに受け取るだけ」
「志絵以外のものに興味ないんだよ」
 笑ったりからかったりくっついたり信号待ちで抱きしめ合ったり、適当な話をしながらホテル街に向かい、「それ絶対買っても食べないやつ」と笑われながら期間限定のグミとビーフジャーキーを手に取り、お酒コーナーで缶を三つカゴに入れる。コンビニ袋を右手に下げる蒼葉とここはYouTubeが見れないとか、ここはお風呂が狭かったとか、ここは十一時チェックアウトだったっけと言い合いながら、結局一番利用頻度の高いホテルに入る。自分がまるで十代の頃のような恋愛をしていて、そのことに違和感がないことに、時々引っかかる。元彼との恋愛は、何故あんなにも重かったのだろう。何故蒼葉との関係にはこんなにも解放感があるのだろう。つまり私は長いスパンで蒼葉との関係を捉えておらず、結局、出産リミットのことなんて考える必要なんてないと、深層ではそう思っているのかもしれない。
 パネルを眺めて適当な部屋を選び、マジックミラーのフロントの前に立った瞬間、初めてどん底に行った時気になって買った、ゴーリキイの『どん底』の戯曲が積ん読になって久しいことを思い出す。この仕事が終わったら読もう、この締め切りが明けたら読もう、と思いながらもう一年くらい置きっ放しになっている。あらゆることを後回しにし続けているから、もはや何を後回しにしているのかさえ忘れてしまう。そんな人間でも何不自由なく生きていけるからこそ、人生は生きづらいとも言える。
「お風呂広いよ。ジャグジーもあるし」
 お風呂偵察に行った蒼葉が帰ってくると、私は彼を抱きしめて顔を胸もとに埋める。
「今日はがんばったね。お疲れさま」
 頭と背中を撫でて抱きしめる蒼葉に、今癒されてると答える。
「ねえ志絵ちゃん」
「うん」
「結婚しようよ。ていうか、結婚してよ」
 ことあるごとに結婚という単語を口にする蒼葉に、やはり重々しさはない。
「今じゃなくない?」
「うーん」
 俺は今なんだけどなあ。と緩い答えをする蒼葉の頭を背伸びをして撫でる。
「志絵は五口食べたよ」
「うん?」
「五口で、ピザを一枚食べた」
「そうだっけ。最初は二口って思ったけど、時間が経って五口分まで胃が空いたんじゃない?」
「俺は志絵がピザを五口で一枚食べるって分かってたよ」
「そうなの?」
「志絵は自分のことも因果関係も把握してるけど、俺の方が分かってることだってあるんだよ」
 そっか、そうなのかもね。言いながら丁寧に頭を撫でる蒼葉にキスをする。私に触れる時、蒼葉はいつも丁寧だ。時々何にも分かってないと呆れさせる彼は、私に対してするべきことだけは全て分かっている。お湯張る? 灰皿ベッドに持ってく? どれ飲む? どっちか食べる? ほら食べないんじゃん。枕元のパネルで部屋の調光を続ける私に質問を重ね、蒼葉は次々快適な状況を作っていく。
「深夜にお腹すくかもしれないでしょ」
「YouTubeは? なんか流す?」
「あれがいいな。ほらこの間教えてくれたダンサーが出てるMV」
「ドロップスの新曲? 志絵ちゃんあれ好きだね」
 ベッドにあぐらをかき真面目な顔でキーボードと画面を見比べながらキーを打つ姿をすっかり見慣れてしまった。硬くセットされている掛け布団を剥いで潜り込むと、到底今日一日分とは思えない泥のような疲れと眠気が襲ってくる。まだ寝ないでよ? と隣に入ってくる蒼葉に抱きつくと、もうちょっと遊ぼうよと子供みたいなことを言うから笑ってしまう。魂が抜けそうなくらい眠いと呟くと、好きな曲のボーカルが始まり目を閉じたまま口ずさむ。歌詞を間違えた私を「それは二番」と抱きしめる蒼葉にようやく目を開ける。蒼葉と一緒にいると時々何をしているのか分からなくなる。それでも蒼葉は、たまにこうして本当のことを教えてくれる。


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金原ひとみ(かねはら・ひとみ)
1983年、東京都出身。2003年『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年『トリップ・トラップ』で織田作之助賞受賞。2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』『アタラクシア』等がある。『SPUR』にて「ミーツ・ザ・ワールド」連載中。『パリの砂漠、東京の蜃気楼』4月24日刊行予定。
maegamimami(マエガミマミ)
Twitter @maegami_mami

※この記事は、2020年2月20日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。


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HB(エイチビー)は、集英社グループの出版社・ホーム社の文芸サイトです。2017年11月にサイトを立ち上げ、2020年にnoteへ引っ越してきました。小説やエッセイを中心に、毎日をより楽しく過ごすための、さまざまなコンテンツをお届けします。

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