第4回 天使の悪趣味 佐藤友哉「妻を殺したくなった夜に」
北国の地方都市を舞台に、少女連続殺人事件をめぐる中学生男女の冒険を描く、佐藤友哉による青春ミステリー。
[毎月最終火曜日更新 はじめから読む]
illustration Takahashi Koya
1
「もうーいーかい?」
「もうーいーよっ!」
8月の、ひときわ暑い昼下がり。
悟はそのとき、クローゼットの奥に隠れていた。
2
同級生の友だちがいないわけではなかったが、それでも悟は、近所の子供たちと遊ぶほうが好きだった。
弟の透は10歳で、悟とは年齢が3つはなれていたが、小学生とは思えぬかしこさもあって兄弟の仲はよく、透といっしょになって近所の子供たちと遊んでいるうちに、いつしか年下の知り合いが多くできた。
夏休みも終わりに近づいたその日、悟と透の兄弟は、自宅から通りを1本はさんだところにある、佐久間勇人の家に行っていた。
勇人はもともと透の友だちで、髪の色素が薄く、まつげの長い少年だった。悟がはじめて勇人を見たとき、佐久間家には外国の血が流れているのではと誤解したほど日本人ばなれした顔立ちだった。
そんな佐久間家には、ゲーム機が豊富に置かれていた。
悟と透の目当ては自宅では遊べないPCエンジンで、この日は『カトちゃんケンちゃん』というアクションゲームをプレイしていたが、暑さのためか集中力が途切れがちになり、進みがずいぶんと悪かった。
そのうちに、だれからともなく、「家の中でかくれんぼしよう」という話になった。
そのかくれんぼがまさか、人生を一変させることになるとは、このときの悟は思いもしなかった。
鬼をきめるジャンケンは透が負けた。
透は頭がいいのに、どういうわけかジャンケンが異様に弱かった。
「じゃあ、はじめるよ。いーち、にー、さーん……」
透がリビングの柱に顔を伏せて、カウントをはじめる。
悟と勇人はリビングを出た。
「好きなとこ隠れていいから」
勇人は長いまつげをぱちぱち上下させながら、1階にある浴室に入った。
悟ははじめて、佐久間家の階段を駆け上がった。
2階には寝室と、勇人の両親の部屋があった。
どの部屋も、ドアが開いていた。
悟はさっと見分して、机に置かれたパソコンが気になったこともあり、勇人の父親の部屋に入ってドアを閉めた。
8畳ほどのそこは、デスクトップパソコンが置かれた机、トレーニングマシン、あとは本棚があるだけで、かくれんぼには適さなかった。
「もうーいーかい?」
階下から透の声が響く。
悟はすぐに、「まーだだよ!」と返してから、ほとんど反射的にクローゼットに飛びこんだ。
むわっと蒸し暑かったが、今からべつの隠れ場所をさがす時間もないと判断して、クローゼットの内側から慎重にドアを閉め、その奥に身を隠した。
ドアの隙間からは夏の光が差しこみ、クローゼットの内部はわりとよく見えた。
ハンガーには、スーツやネクタイがかけられていて、悟の目には、それらがものめずらしく映った。父親の職業が大工ということもあり、悟はこれまでスーツというものをあまり見たことがなかった。
ぼんやり顔を上げていると、あるものを見つけた。
1冊の雑誌だった。
クローゼットの上に小さな棚があり、そこには衣類が乱雑に詰めこまれていたが、悟のいる位置からだと、まるで衣類を使って隠すようにしまいこんだ雑誌が、ちょうどよく見えたのだ。
悟はなんとなく手を伸ばし、よせばいいのにページを開いた。
ヌード写真があった。
しかもそれは、自分の弟とそう変わらない、小学生の少女の写真だった。
抜けるような青空。
その下に広がるのは、よく手入れされた草原。
写真の奥には川が流れていて、太陽光を反射する様子が、カラーページに刷りこまれている。
このような場所で全裸の少女は、野に現れたウサギのようなポーズをしていた。
ページの上部分には、「淀んだ世界でたった1人輝くキミ」だの、「夏の光を浴びて心と体を取り戻せ!」だのといった、不自然なほど清々しいコピー文が書かれていた。
そんなコピーが書かれた青空の下でポーズをとる幼い少女は、黒髪を肩にたらし、大きな瞳をこちらに向けている。
ぱっと見た印象では、大人びた雰囲気があったが、それらとアンバランスな発達していない乳房と女性器が、むしろそちらを強調するような調子でカメラに収められていた。
「もうーいーかい?」
「もうーいーよっ!」
透と勇人の声で我に返る。
悟はあわてて雑誌を戻すと、ふたたびクローゼットの奥に体を丸めた。
透はジャンケンは弱かったが、かくれんぼはとびきりうまく、2階にやってきたかと思うとクローゼットを開けて、「兄ちゃん、みーつけた!」と、悟の背中を指差した。
「兄ちゃん、隠れるときは足音を立てないほうがいいよ。階段を上がる音が聞こえたし、ドアが閉まってるのはこの部屋だけだから、すぐにわかっちゃった」
透が解説しているが、悟は上の空だった。
「勇人くん、みーつけた!」
浴槽に隠れていた勇人も、まもなく見つかった。
そのあとは、勇人の母親が帰ってきて、入れてくれた冷たい麦茶を飲み、母親もいっしょになってべつのゲームをはじめたので、かくれんぼが再開されることはなかった。
暗くなるまで遊び、帰宅した。
家に帰ってからも、雑誌で見た少女が頭からはなれなかった。テレビの相撲中継で力士たちがぶつかる映像から、少女の裸体を連想するくらい、脳の重要な部分にねっとりこびりついていた。
夕食を終え、風呂に入った。
このときようやく勃起する余裕が生まれたが、まだ自慰がよくわからなかったこともあり、悟は若いアスパラガスのような自分の性器を持てあまし、長いあいだ風呂に入った。
そのせいで湯中たりを起こし、火照った頭と体を冷やすため、アイスを食べながら薄着でうろうろした。
翌朝、悟は倒れた。
風邪をひいたのだ。
高熱の中、少女の夢を見た。
悟はひどくうなされたが、しかし不快ではなかった。
熱は長いことつづき、悟は夏休みが終わる直前までベッドから出られなかったが、風邪が治るのと同時に、憑き物が落ちたように少女のことを忘れた。脳と思考は、いつもの調子に落ち着いた。
夏休みが終わり、2学期がはじまった。
悟は2学期を平穏無事にすごし、冬休みがはじまった。
そして12月24日の午後。
この日、両親は仕事に、弟は水泳教室に行っていて、家にはだれもいなかった。
悟は家で1人、用意されたおやつを雑に食べ、キッチンで手を洗い、リビングに戻った。
そして、これまで気にしたことのなかった父親の書斎のドアが、ふと視界に入った。
「淀んだ世界でたった1人輝くキミ」
「夏の光を浴びて心と体を取り戻せ!」
あのときのコピー文が、まるで悪魔のお経のように、悟の脳内をいきなり駆けめぐる。
悟はけっして、自分が生きるこの場所を「淀んだ世界」と考えたことはなかったし、「夏の光を浴び」なくとも、「心と体」は最初から自分自身のものだと信じていたが、しかし悪魔のお経はもはや文意など関係なく全身に回り、とうとう、あるひとつの「期待」を抱かせた。
ひょっとしたら自分の父親も、あの手の雑誌を持っているのでは……。
このようなことを「期待」した悟が、父親の机の中をあさり、そうして見つけたのが、血のついたコートだった。
3
ということを正直に話せるわけもなく、悟はうろたえた。
「あの、それは、あ、あ」
「あ?」
レンタルビデオ店、『サンセット・ビデオ』の店内で、大量のホラービデオにかこまれながら、このときの悟は、今月何度目かの、人生の危機におちいっていた。
クラスメイトの見船に、血のついたコートを見つけた経緯をたずねられたのだ。
「いや、た、その……た」
「た?」
「た……あっ、そ、そう。たばこ。僕はそのとき、たばこをさがしてたんだ」
「浅葉くん、あなた、たばこを吸うの?」
「父さんがこっそりたばこを吸ってて、それで僕、机の中からたばことライターを持ち出して、たまに吸ってるんだ。で、昨日もたばこを吸おうとして書斎に入ったら、あのコートを見つけたんだ」
半分は嘘だった。
悟の父親が、家族に隠れてたばこを吸っているのは事実だが、悟はたばこに興味などなかった。
「ふーん……」
見船は悟をじっと見ている。
このままでは嘘がばれそうな気がして、いそいで上着のポケットに手を入れた。
取り出して見ると、それはどこにでも売っているライターだった。
あの夜、コートを燃やすために使ったあと、ポケットに入れたままになっていたのだ。
見船はまさに、どこにでも売っている100円ライターを見るような目をそこに向けながら、
「私も吸いたいな」
「え……なにを?」
「いちいち質問するのをやめて」
見船はきびすを返し、歩きはじめる。
悟はその背中に、「どこ行くの?」と声をかけたくなる気持ちをおさえて、あとを追いかけた。
ホラービデオがならぶ棚を通過して、悟と見船は『サンセット・ビデオ』を出た。
外に出ると、空はあいかわらず曇っていて、どんよりした銀鼠色に支配されていた。その下で押しつぶされそうになっている町には、店に入る前よりも強く風が吹いていた。まだ固まっていない雪の粒が、軽い砂のように風に舞っていた。
悟は寒さに首をすくめたが、制服姿の見船はあいかわらず平然としていた。スカーフが風に揺れるのにもかまわず、遅れているバスでも待っているように、『サンセット・ビデオ』の前から動かない。
その超然とした態度は悟をいらつかせたが、ポケットの中でライターをにぎりしめると、結局いつものように、自分にあたえられた役割を受け入れた。
「じゃあ、ついてきて」
悟は前を歩き出す。
立場は圧倒的に不利だったが、しかし父親の机からたばこを持ち出すわけにもいかなかったので、住塚通りと国道が交差したところにある『倉橋商店』までやってきた。
そこは、ちょっとした日用品や駄菓子が置いてあるだけの小さな商店だが、コンビニエンスストアが駅前に1軒しかない鶏荷町においては貴重な店だった。調味料が切れたときなど、悟はよく『倉橋商店』まで、おつかいをたのまれていた。
「そこで待ってて」
悟は見船を残して、『倉橋商店』の引き戸を開けた。
中に入ると、線香の香りがした。
そう広くもない店内では、1人の老婆……悟たちは「倉橋のばあさん」と呼んでいた……が、いつものように店番をしていた。
悟がはじめて『倉橋商店』にやってきたのは小学生のときだったが、倉橋のばあさんは、そのころと同じようにシワだらけの顔で、そのころと同じように背中を丸めて座っていた。
「セブンスターください」
悟はなるべく自然な調子で、父親が吸っている銘柄を口にした。
ほんの一瞬、沈黙があったが、倉橋のばあさんは、のろのろした動作で棚からたばこを取り出すと、極度にしわがれた声で、「220円」と言った。
なんだこんなものかと、今まで悪事を働いたことのない悟は拍子抜けした。
「買ってきたよ……」
悟はたばこをポケットに入れて、『倉橋商店』を出ると、店先で待つ見船に報告した。
「浅葉くん、あなた本当に、ばれてない?」
「あ、だいじょうぶ。倉橋のばあさんはたぶん、おつかいで買いにきたと思ってるから」
「たばこじゃなくて、コートのこと。血のついたコートがなくなってること、本当にお父さんにばれてない?」
「ばれてないと思う……けど」
なぜこのタイミングでそんな質問をするのか、悟にはよくわからなかったが、それでも今朝の風景を思い出してみた。
リビングで父親と顔を合わせたとき、異変は感じられなかった。
父親はぼそぼそと朝食を食べ、だらだらと新聞を読み、パジャマ姿のままソファに寝そべっていた。それはいつもの休日の姿だった。コートがなくなっていることに気づいていたら、あのような調子ではいられないだろう。
そもそも悟の父親は、自分のテリトリーであるはずの書斎に、あまり立ち入らなかった。ふだんはリビングで時間をつぶし、夜になれば和室に布団を敷いて母親と眠っていた。悟の父親は自分の家だというのに、どこか遠慮でもしているように生きていた。
このような行動パターンを知っている悟は、甘い見通しかもしれないが、それでも父親がコートの紛失に気づくには、まだしばらく時間がかかるだろうと判断していた。
そのことを見船に説明すると、
「浅葉くんの家が見たい」
いきなり言われて戸惑った。
「あの、いいけど、でも、いきなり家に入るのはちょっと……」
「私、そんなこと言ってませんが。浅葉くんの家が見たいと言っただけですが」
「ごめん」
「浅葉くんの家が見たい」
「どうして?」
「浅葉くんの家が見たい」
見船がくり返す。
「じゃあ、ついてきて」
悟はふたたび言った。
悟の自宅は、『倉橋商店』から歩いて5分ほどの住宅街にあった。
「ここ?」
「そう」
「ふつうだわ」
「そう、だね」
こうして見船とともに家の前に立ち、客観的な視線を向けた悟は、たしかにふつうの家だと思った。
木造平屋の3LDK。
壁の色も、屋根のかたちも、窓の大きさも、みんなふつう。
だがそれは悟の自宅にかぎらず、どの家もそうだった。鶏荷町にあるのは、無個性ではあるがこうして寄り集まることで、「住宅街」というカテゴリーにふくまれるだけの、つまらない建物ばかりだった。
悟はそれでも、長くこの家に暮らしたことから芽生えるセンチメンタルを引き出して口を開いた。
「……むかし、迷子になったことがあって」
「迷子?」
「僕がこの家に越してきたのは小1のときで、それまでは借家に住んでたんだけど、ここに引っ越してきたとき、自転車でこのあたりをぐるぐる走ったんだ」
「犬みたいな子ですね」
「それで、自転車であちこち走って、自分の家が目印になるから迷わないと思ったんだけど、でも、迷っちゃった。自分の家と、ほかの人の家が……区別つかなくて」
小学生の悟は、ほとんど半泣きになりながら自転車をこぎ、薄暗くなりかけたころ、ようやく自宅にたどりついた。
だがそれも、自宅を発見したからではなく、心配して家のまわりをさがしていた母親が見つけてくれたからだった。
母親に呼び止められたとき、思わずあふれ出た涙は隠したが、それでも人恋しさに母親に抱きついた。その夜のハンバーグがとてもあたたかかったことを、悟はずっと記憶していた。
「ま、豪邸だろうと城だろうと、いつまでも人の記憶に残るものはそうないですから」
見船はわかったような顔をしてうなずき、
「どんな立派な建物だって、たとえば燃えてなくなってしまったら、数ヶ月もしないうちに、人の記憶からは忘れ去られてしまうものですよ」
「そうなのかな……。見船さんの家はどんな感じなの?」
「私の家はどうでもいいの。それで浅葉くん、ここから見て、あなたの部屋はどっち?」
「僕の部屋? えと、玄関の奥側……右側のほうだけど」
「お父さんの書斎は?」
「反対側。ここから見て、左側。そっちには父さんの書斎と、あと親が寝室に使ってる和室がある」
「そろそろお正月だけど、年末年始の予定は?」
「年が明けたら、近所のばあちゃんの家に行くけど……」
「あそう。もういいです」
「もういいの?」
「じゃ、行きましょう」
見船は悟の家になどはじめから興味がなかったというような足取りで、こんどは前を歩き出した。
まったく意味がわからなかったが、たばこと自宅見学のおかげで、あのことを見船に話さずにすんだ安堵のほうが大きく、悟はひそかに息を吐いた。
クローゼットの中で開いた雑誌。
そこに写っていた少女のはだか。
たいらな胸とつるつるした性器。
あのような写真を見て興奮してしまったことを、見船に知られるわけにはいかない。
4
2人は雪が積もる町を歩き、鶏荷駅までやってきた。
「きっぷ買って」
見船が言った。
悟は命じられるまま、2人分のきっぷを買った。
駅員にきっぷを切ってもらい、改札を抜ける。
……人が少ない。
そう思った。
当時の鶏荷町は人口5000人ていどで、ふだんから駅周辺だろうとひと気はあまりなかったが、それにしてもたしかに、駅の利用客はまばらだった。
理由はあきらかだ。
少女連続殺人事件。
この短期間で4人の少女が殺され、犯人はいまだにつかまっていない。
そのために、町は静まり返っていた。
悟の通う鶏荷中学校も、倉橋詩織のバラバラ死体が見つかってからは集団下校がはじまり、担任教師の岡部先生は生徒たちに、放課後はなるべく外に出ないようにと命じていた。
クラスメイトの上野原が、ひそかにアルバイトをしていたスーパーマーケット、『ハッピー』で、予約していたケーキを買った昨夜は、クリスマスイブだったので例外として、ここ最近は住民の姿を見ていなかった。さきほど、住塚第2公園で作戦会議をしたときに、外で子供たちが駆け回っているのを見たが、そうした様子を目にしたのもひさしぶりだった。
町全体に疑心暗鬼が広がっている……というほどではなかったが、それでも町には警戒感がただよい、町全体がひきこもっていた。
このような鶏荷町を、住民と入れ替わるように動き回っているのは、都会からやってきたマスコミだ。
駅のまわりには、ちらほらと人の姿があったが、それらの多くが新聞記者やテレビクルーということに、悟は気づいていた。
といっても彼らが、あたりかまわずインタビューしてきたり、無遠慮にカメラを向けてきたりすることはない。そうではなく、彼らの放つ雰囲気というか、より具体的にいえば服装が、住民のそれとは大きくちがっていたのだ。
都会からやってきたマスコミは、好きなところで好きな服を買えるだろうが、鶏荷町の住民はそうもいかない。
鶏荷町で服を買えるところは、国道沿いにある安売りの量販店、商店街にならぶブティックくらいで、そのためにどうしても価格や傾向がかたよってしまう。
しかし都会人であるマスコミは、父親がたまに買ってくる男性向け雑誌、『Begin』や『モノ・マガジン』でしか見たことのないような仕立てのいいコートを着て、アンティーク時計などを腕に巻いているため、雑誌であるていどの知識を得ている悟から見れば、ちがいは一目瞭然だったわけだ。
もし鶏荷町の住民が、ワンランク上の服を買いたい場合、いちばん近くにある都会の笠馬市に行くしかなく、そしてこのときの悟は見船に連れられて、笠馬市方面に向かう電車のホームへと足を運んでいた。
そのような中で、上野原涼子を見つけた。
ファッション文化のまずしい町の中で、それでも上野原は、いわゆる「おしゃれ」な格好をしていたが、似合っているとはいえない毛糸の帽子を目深にかぶっているため、どこかちぐはぐだった。
しかも上野原は、水旗町方面に向かう電車のホームへ、早足で歩いていた。
笠馬市方面はともかく、水旗町方面には、どれだけ電車を走らせたところで、鄙びていく一方だった。
上野原がなぜそんな電車に乗るのか悟には不思議だったが、見船といるところを見られるのには抵抗があったし、たとえ見船がいなかったとしても、声をかける勇気はなかったので、結果としては同じだった。
上野原はホームの階段に消えた。
そして悟たちは、笠馬市方面の電車に乗り、鶏荷駅からひと駅先にある栄北町でおりた。
栄北町の駅前は、がらんとしていた。
数台のタクシーがとまり、店なのか家なのか判別のつかない建物がぽつぽつあるだけという、ただそれだけの景色が雪に埋もれていた。
見船がまた前を歩き出す。
どこに向かっているのか、このときの悟には、さすがに見当がついていた。
駅をひたすら北上して、足首にまとわりついた雪が靴下に染みこんできたころ、前方に鶏荷川が見えてきた。
川の両岸には、まだだれも踏みしめていない新雪が積もり、ささやかな抵抗でもするように、まわりに生えた枝草の一部が頭を出していた。
ここで3人目の被害者、倉橋詩織のバラバラ死体が発見された。
自分たちが立っているこの場所を、悟はテレビで何度も目にしていた。そのときは積雪前だったが、マイクを手にしたリポーターが変に力のこもった口調で、「ここで! 少女のバラバラ死体が発見されました!」だの、「いまわしい! おそろしい殺人事件です!」だのとさわいでいた。
見船は雪を気にするそぶりも見せず、ざくざく進んで川岸に近づく。
悟は少し迷ったが、見船の作った足跡を踏みつけてあとにつづいた。
「この川で、倉橋詩織の足が見つかったという情報があります」
見船が言った。
悟は見船の刈り上がった後頭部を見るともなく見ながら、どうして女子なのにこんな髪型をしているのだろうと、この状況にはそぐわぬ疑問を抱いた。
見船はつづける。
「といっても、くだらない三流雑誌の記事ですから、あてにはなりませんけどね。だいたい足しかないのに、どうやって被害者を特定するっていうんですか」
「指紋とか?」
「足の指の指紋を?」
「あ、そうか……でも、特徴のある傷があったかもしれない」
「いいですね。浅葉くん、頭とはそういうふうに使うものですよ」
見船は刈り上がった後頭部をうなずかせて、
「あるいは、ほかの部位も見つかってるのかもしれない。警察が情報を小出しにしているだけで……まあ、そんなことはどうでもいいんです。重要なのは、ここにバラバラ死体があったということ。ほら、あのあたりで見つかったらしいですよ」
「どこ」
「あそこ」
見船はすっと指を差す。
その先には、ささやかな窪みがあった。もし季節が夏であれば、あそこでスイカを冷やしたり、遊んでいる小魚を捕まえたりできるだろう。
「11月7日の朝、ここにはたしかに死体がありました。倉橋詩織のパーツを見つけたのは、犬の散歩をしていた人だそうです」
「…………」
「運がいいですね。朝から死体を見つけられるなんて、犬が嗅ぎ当てたんでしょうね。ここ掘れワンワンって」
「…………」
「浅葉くん、だまってないで、たばこをちょうだい」
見船がふり返った。
悟は一応、きょろきょろとあたりを見回したが、幸か不幸か、だれもいなかった。
たばことライターを渡すと、見船はもったいぶる様子もなく、その先端に火をつけてから、「ほら、浅葉くんも」と言った。
見船が火をつけてくれる。
やけになって勢いよく吸いこむと、煙が気管を刺激して、悟はたちまちせきこんだ。
「私ね、映画で見たの……。主人公が恋人をめちゃくちゃになぐって殺して、川岸にその死体を埋めてから、いっぱい泣いて、いっぱい笑って、そのあとで、たばこを吸うんです。なるほどね。こんな感じなのね」
見船は苦しむ悟をいたわることもなく、たばこを吸った。
その姿は、意外とさまになっていなくて、悟はこのクラスメイトがたばこを吸い慣れていないことに気づいた。
「よくわからないんだけど、どうして見船さんは、殺人事件なんて追いかけてるの?」
たばこを吸うのが下手な見船が、これまでとちがい、なんとなく小さな存在に見えて、ついそんなことを聞いた。
「今さらそんなことを聞く? おもしろいから。それだけ。いわば趣味のようなものです」
「殺人事件なんかより、もっといい趣味があるんじゃないかな」
「たとえば」
「えと……料理とか」
悟がそう口にしたのは、『料理天国』というテレビ番組が頭によぎったからだ。
その番組は土曜日の夜に放送していて、日本ではあまり縁のない海外の料理……おもに西洋の高級料理を、芸能人が食べるというプログラムで、浅葉家ではだれが見るわけでもなかったが、その時間帯になると、なんとなく流れていた。
「料理ですって?」
見船は険悪な声になった。
なにかまずいことを言ってしまったと、悟の直感が告げているが、もう遅かった。
「これはまた、おどろきですね。料理ときましたか」
「見船さん、なんで怒ってるの?」
「怒ってませんけど。それより教えて。浅葉くんが料理について、なにを思っているのかを」
「いや、あの、僕はべつに、料理についてなにも思ってないけど……」
「グルメとか、高級料理とか、そういったものは、命がけの悪趣味なんですよ」
「悪趣味」
まさか料理の話から、その単語が引き出されるとは予想できなかった。
「浅葉くんは、シンポジウムということばを知ってますか?」
「なにを知ってるって?」
「シンポジウム」
「まあ、なんとなくは……。討論会みたいなことだよね」
「もともとは、古代ローマの貴族たちが、みんなで横になって、たくさんのごちそうやワインを死ぬほどお腹に詰めこみながら、だらだら話すことを、シンポジウムと呼んだそうです」
「え、なんで?」
「私もそこまでは知りませんよ。ただ、シンポジウムとは本来、めちゃくちゃで命がけなものだったわけ。たとえばある記録によると、その日のシンポジウムの献立は、前菜にサラダとネズミのお肉が出てきて、次は12星座にちなんだ12種類のお肉が出てきて……」
「12種類のお肉ってなに?」
「だから私もそこまでは知りませんって。で、その次は豚の内臓とか、ウツボとか、牛の乳房焼きとか、クジャクとか、そういう料理がたくさん出てきて、それでお腹がパンパンになって食べられなくなったらどうすると思いますか」
「さあ……薬を飲むとか」
「吐くんです。口に指をつっこんで、げえげえ吐くの。くひひ、吐くのよ」
見船はたばこの煙を、まるで自身の吐瀉物を見せつけるように、ふうっと吐いてから、
「だって、そうしないと、次のごちそうが食べられないでしょう? そうやってたくさん吐いて、お腹がすっきりしたら、また食べ物を詰めこむわけ。当時の貴族たちは、こんなふうにして食事をしていたんです」
「なんで見船さんが、そんなことを知ってるの? 見たわけじゃないのに」
「もちろん見たわけじゃないけど、記録には残ってます。記録に残っているものを疑うなら、じゃあ浅葉くんは、記録でしか残っていない源頼朝や徳川家康の存在も疑うわけですか?」
「そんなことは言わないけど……」
「言ってるようなものです」
見船はたばこをくわえたまま、こんどは独り言のようにぶつぶつと口を動かして、
「あなたも、みんなといっしょですね。今ここにあるものしか見ていない。本来のかたちに興味すらない。そうやってなにも知ろうとしないで、死んだように生きてるくせに、自分だけはきれいだとか、自分だけは正しいとか、そんなふうに自信満々な態度で……」
「み、見船さん」
「なによ」
「いや……あの、なんでもない」
「用もないのに名前を呼ばないで」
「ごめん」
「17世紀の終わり、ズンモという芸術家が、そのころヨーロッパで大流行したペスト患者のミニチュアを、蝋人形で作りました。むかしの将軍を信じない浅葉くんでも、ペストは信じるでしょう?」
見船はまた、よくわからないことを語りはじめた。
「こんどは、なんの話?」
「ずっと悪趣味の話。ズンモの生きていた時代は、教会が人体解剖をみとめていなかったこともあって、彼の蝋人形は抹殺されます。その後、18世紀に入ってから、ズンモの弟子といわれるレッリが、さらにとんでもない蝋人形を制作します。それは原寸大というだけでなく、本物の骨と、本物の体毛を使って作られた蝋人形でした。私たちが何気なく見ているマネキンは、こういうところからスタートしたわけ。料理だってそう。すべては本来、もっと生々しくて毒々しいものだったの」
「なんで見船さんは、そんなにいろいろくわしいの?」
「本を読んだからですよ。古代ローマの美食の話は、図書館にある本に書いてありました。蝋人形の話は、サドの『悪徳の栄え』に書いてあったので、気になってしらべたんです。どの本も、鶏荷町の図書館にありますよ」
「図書館……」
「つまりこんなのは、ちょっと知識欲があれば、だれでも知っているレベルの話にすぎないわけ。浅葉くんが知らないのは、頭が悪くても生きられるこんな腐った町にいるからですよ。よかったですね、楽に生きられて」
だとすれば見船は、楽に生きていないということになるが、ではなぜ楽に生きられないのか悟にはわからなかった。
悟は言うべきことばをうしなって、とくに意味もなく、川辺に視線をやった。
蝋人形の話がまだ頭に残っていたせいか、川の窪みに、倉橋詩織の足が野菜のようにぴょこんと伸びている幻が見えて、ぎゃっとなった。
あわてて頭を振る。
倉橋詩織の足はもう見えなかったが、そのかわり、べつの幻がやってきた。
れいの、はだかの少女の写真。
このあたりの雪をすべて消し去れば、少女のヌード写真を撮影していた風景に似ていると思ってしまったのだ。
だがあの写真は、幻ではない。
実際のできごとだった。
どんな理由があったのかはともかく、1人の少女が外ではだかになり、写真を撮られ、それが出版された。
信じられなかった。
それこそ悪趣味だ。
あれは最低だった。
最低の写真だった。
だが最低だからこそ、少女は写真の中で、かえって天使のように輝いていた。
最低だからこそ、そこに宿った美しさを、悟は発見してしまった。
そして悟は、また勃起した。
見船に気づかれるのがこわくて、悟はその場にしゃがみこむ。尻が雪に埋もれたが、かまっていられなかった。
「浅葉くん、どうしたの?」
「たばこを吸うと、お腹が痛くなるんだ」
「不自由なからだね」
まったくだと思った。
悟は必死に、なにかべつのことを考えようとしたが、するとまた倉橋詩織の足を幻視してしまい、より性器に血がめぐった。
倉橋詩織のバラバラ死体に興奮するなんて、見船といっしょじゃないかと思った。自分がおかしくなっていくのがおそろしかった。
……倉橋?
そういえば、たばこを買った店の名前は『倉橋商店』で、そこで店番をする老婆は、倉橋のばあさんと呼ばれていた。
これはただの偶然なのだろうか?
今さらそのことに気づき、戦慄する。
積もった雪で尻と股間を冷やしながら混乱していると、見船が悟を見下ろした。
「浅葉くん、お父さんのアリバイ、今日中に確認しておいてくださいね。また明日、作戦会議をするから、そのときに聞きます」
「明日も会議をするの?」
「私たちは、あなたのお父さんの無実を証明するために動いているんだから、文句はないはずだけど」
「わかったよ……」
「絶対に、なにがあってもきてくださいね」
見船が念を押した。
次の瞬間、悟の脳裏に、ささやかな反逆心というべきか、ずっと気になっていたことがふと浮かんだ。
勇気を振りしぼり、質問した。
「僕がコートを燃やしたとき、どうして見船さんは、あんなところにいたの?」
「あんなところって?」
「林の中だよ。だって、あのときは真夜中だったよ。そんな時間に、あんなところにいたなんて変だから、その、気になってたんだけど……」
「聞きたい?」
「う、うん」
「私には、帰るところがないの」
5
帰るところがある悟は、見船と別れて自宅に戻った。
「兄ちゃん、ぜんぜん帰ってこないから先にマリオやってるよ!」
リビングでは弟の透が、『スーパーマリオブラザーズ3』をたしかにプレイしていた。ふだんの悟なら、勝手にゲームを進められたことに文句のひとつも言っただろうが、そんな気分にはなれなかった。
「おかえりなさい、遅かったわねあんた。お昼には帰ってくると思った」
エプロン姿の母親が、熱い番茶をはこんできて、
「あんたどこ行ってたの?」
「友だちの家。明日も遊ぶから」
「なんて友だち?」
「母さんは知らないと思う」
「なんて友だち?」
母親がくり返すので、「飯島」と、クラスメイトの名前を適当に言うと、母親は急に興味をなくしたように、「そう」とうなずき、キッチンに戻ろうとした。
「父さんは?」
リビングには父親の姿がなかった。そういえば見船といっしょに家を見たときも、白いワゴン車が見当たらなかった。
「雪が心配だから、現場に行ってくるって。ついでにビデオも返してくるって」
だとすれば、危うく父親と、『サンセット・ビデオ』で鉢合わせするところだった。見船のような人間といっしょにいるところなど、家族には絶対に見られたくなかった。
その日の夜、悟は透といっしょに『スーパーマリオブラザーズ3』を遊び、ステージ5まで進めた。
風呂に入り、歯をみがき、寝る時間になっても、父親は帰ってこなかった。
「現場でなにかあったのかもねえ」
母親が、さして心配でもなさそうに言った。
悟と透は子供部屋に入った。
「おやすみなさい」
透は2段ベッドの上に飛び乗った。
「おやすみなさい」
悟もまたそう言って、下のベッドにもぐった。
枕に頭をうずめた瞬間、深いため息がもれた。
父親にアリバイの確認をしなければならないことと、見船に指摘されてから、血のついたコートが自宅からなくなっていることがばれているのではという2点が、ずっと気がかりだったが、こうして父親が帰ってこない以上、どちらも後回しにするほかない。
問題はひとつも解決されていないが、少なくとも今日はもう、なにもしなくていい。
そう思うと気分が楽になって、悟はすぐさま睡魔に呑まれた。
夢も見ない、深い眠りについた。
悟が夢を見ないで眠れる、これが最後の夜だった。
(つづく)
連載【妻を殺したくなった夜に】
毎月最終火曜日更新
佐藤友哉(さとう・ゆうや)
1980年北海道生まれ。2001年『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』でメフィスト賞受賞。2007年『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を最年少で受賞。他の著書に『クリスマス・テロル invisible×inventor』『世界の終わりの終わり』『デンデラ』『ナイン・ストーリーズ』『転生! 太宰治 転生して、すみません』『青春とシリアルキラー』等がある。
Twitter:@yuyatan_sato