第3回 みんなの悪趣味 佐藤友哉「妻を殺したくなった夜に」
北国の地方都市を舞台に、少女連続殺人事件をめぐる中学生男女の冒険を描く、佐藤友哉による青春ミステリー。
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illustration Takahashi Koya
1
つまらない田舎町の風景を、いくらか情緒のあるものに変えたのは雪だった。
夜明けまで降りつづけた雪は10センチメートルほど積もり、家と道路の境をなくし、すべてを白に染めていた。古びた郵便ポストにも、壊れかけた駐車場のブロック塀にも、ふだんはだれの目にも留まらない電線の上にまで、雪はしつこいほどのアピールをくり返し、どこもかしこも白かった。
そのような白い町を、悟はひとりで歩いていた。
ふだんなら北国の少年らしく心を躍らせる積雪も、しかし悟をよろこばせはしなかった。足取りは重く、しかもスニーカーを履いてきたせいで、靴下やズボンの裾に粒となった雪がこびりついていた。
このときの悟は、「雪が積もっているからスニーカーで出かけるのはやめておこう」という発想さえ浮かばないほど追い詰められていた。
住塚第2公園に到着した。
そこは住塚通り沿いにある大きな公園で、アスレチックだけでなくグラウンドもあったが、今は雪の下に隠されていて、白い更地となったそこを、雪を待ち望んだ子供たちや犬が、わらべうたのように駆け回っていた。彼らの甲高い声がくもり空に吸いこまれた。公園は平和だった。
そんな公園の前に、黒いかたまりが立っている。
クラスメイトの見船美和。
女子とは思えぬほど雑に刈られた黒髪。
ほとんど青みがかった肌の色。
からっぽな穴のような目。
今日もまた制服を着ている。
暗闇の中だろうと、白い雪の上だろうと、見船から受ける不吉な印象は変わらず、子供が描いたおばけの絵みたいなやつだと悟は思った。
「ハロー、メリークリスマス」
見船は挨拶して、
「浅葉くん、あのあとは大丈夫でした? 鼻血は洗った? ジャケットも洗った? よく眠れた?」
「うん……」
「家族にばれなかった? 家を抜け出したことも、コートを持ち出したことも」
「大丈夫、だと思う」
「なるほど。どうやらぶじに、平和なクリスマスをむかえられたわけですね。クリスマスプレゼントはなに?」
「べつに……ファミコンだけど」
「なるほど。なーるほど。それはハッピー」
見船は暗い声で明るく言った。
枕もとに置かれたプレゼント箱には、前からほしかった『スーパーマリオブラザーズ3』が入っていたが、もはやハッピーでもなんでもなかった。
ゲームで遊びもせず、朝から出かける準備をしている悟を見た透は、「兄ちゃん、ゲームしないの?」と、プレゼント箱から仮面ライダーの変身ベルトを取り出しつつ不審がっていた。
悟はなにも言わず、両親の顔もなるべく見ず、すべてを振り払うように家を出た。
「昨日は楽しかったですね」
しかし見船が……悪意があるのかないのかは知らないが……記憶を引き戻すようなことを言ったせいで、悟の脳裏にあのときの地獄がよみがえる。
……なにしてるんですか。
真夜中。
父親が隠していた血のついたコートを持ち出して、それを燃やしている現場を目撃され、
……本当のことを教えてくれたら、今日のことをだまってあげますよ。
弱みを握られ、
……ねえ。私といっしょに、あなたのお父さんが殺人犯か突き止めない?
……明日の午前10時、住塚第2公園にきてください。
結果、見船のあやつり人形になってしまった。
こうして悟は、本人の望むと望まざるとにかかわらず、朝から公園に出向かなければならなくなったわけだ。
「約束通り……ちゃんと公園にきたよ。見船さんは僕を、どうするつもりなんだ」
悟はのしかかる不運に痛めつけられながら、それでも人生を前に進ませるため、なんとか質問をした。
「わすれたんですか。作戦会議をするって言ったはずですよ」
「あ……そうだっけ」
「ええ」
「どこで?」
「あそこで」
見船が公園のアスレチックを指差す。
すべり台の上に、こんもりと雪が積もった三角屋根の小屋があった。
2
腰をかがめなければ入れないくらい、その小屋はせまかった。屋根が円錐状のために天井も低く、円形の床は、ちゃぶ台の上に乗っているのとそう変わらないほどの面積だった。
つまりそこは、中学生2人がたむろするにも、殺人事件の作戦会議をするにも、おおよそ不適切な場所だった。
しかし見船は、暗くてせまいところが好きなのか、抵抗なくしゃがみ、
「ま、どうぞどうぞ」
自宅で座布団をすすめるように、悟をうながした。
靴についた雪が解けはじめて、足もとはべちゃべちゃになっていたが、いつまでも中腰でいるのもしんどく、悟はあきらめてしゃがみこんだ。
目が合った。
公園にある小屋の中で、ろくに話したこともないクラスメイトと向き合っている。
外からは、子供たちの遊ぶ楽しそうな声が聞こえてくる。
ちょっとおかしな映像だなと悟は思った。
見船が口を開いた。
「浅葉くん、まず最初に聞いておきたいことがあります。あなた、少女連続殺人事件のこと、どれくらいごぞんじ?」
「どれくらいって?」
「どれくらいは、どれくらいですよ」
「いや、よくは知らない……」
「ふうん」
「ふうんって、なに」
「ただの感嘆詞ですけど。『あらそう』とか、『おやまあ』といっしょ」
「…………」
「あらら、反応が鈍くなりましたね。私を警戒しているのかな……くひ、くひひ」
歪んだ笑い声。
あの夜も見船は笑っていた。
「そんなに不安なら、私に逆らわないことですね。ま、無茶はさせませんよ。あなたが退屈な普通人間だってことくらい、教室で見てるだけでわかりますから」
そう言って、見船が語りはじめた内容と、悟の持っている情報を総合すれば、事件は以下のようなものだった。
それは1988(昭和63)年11月2日(水)、S県F郡鶏荷町からはじまった。
午前8時30分、鶏荷町立鶏荷小学校に通う岸谷真梨子(10歳 小学4年)と、飯田幸代(10歳 小学4年)が、登校していないとの連絡を受けて、岸谷真梨子の母親が警察に通報。同日、午後3時ごろ、通学路から20キロメートルほど離れた大尻湖付近にある苑腹峠で、きのこ狩りをしていた老人が2人の死体を発見する。どちらも刃物と思われる凶器でメッタ刺しにされていた。
11月4日(金)、鶏荷町からひと駅北上した栄北町で、栄北町立蓮ヶ丘中学校に通う倉橋詩織(13歳 中学1年)が、登校中に行方不明になり、前日のメッタ刺し事件を知っていた倉橋詩織の両親はすぐさま警察に通報。警察と近隣住民が、通学路や苑腹峠の周辺をくまなく捜索したが、倉橋詩織は発見されず。同月7日(月)早朝、犬の散歩をしていた男性が、鶏荷川の川沿いで、人体の一部と思われるものを発見。警察は倉橋詩織が死亡したと断定する(死体はまだすべてが回収されたわけではなく、発見された死体の部位も不明)。
倉橋詩織のバラバラ死体が見つかる前後から、マスコミや新聞社が、鶏荷町に集まりはじめる。
12月6日(火)、鶏荷町梅元に住む大島雫(15歳 高校1年)の死体が、鶏荷町からひと駅南下した水旗町にある小尻湖の湖畔に建つコテージ、『ビッグ・アイランド』の敷地内で発見される。大島雫は鶏荷町に隣接する笠馬市にある私立公成高等学校に通っていたが、数日前から登校せず、連絡もとれなくなっていた。発見された死体からは首が切断されており、にもかかわらず、どのように被害者の身元を特定したのかは不明。また、被害者の首の行方も不明。
12月24日(土)の午後3時ごろ。鶏荷町立鶏荷中学校に通う浅葉悟(13歳 中学1年)は、父親、浅葉圭介の書斎の机から、血のついたコートを発見する。
同日午後9時。小学生が殺害された最初の事件当日、不審な白いワゴン車を見たとの証言が報道される。目撃者は、苑腹峠の近くで林業をいとなむ男性で、警察は苑腹峠の入り口に検問を敷く。
また、浅葉圭介が所有する車も「白いワゴン車」で、目撃情報との関連は不明だが、同時刻、「見回り」と称して交番勤務の警察官が自宅をおとずれ、母親、浅葉道子が応対する。
12月25日(日)未明。血のついたコートと、「白いワゴン車」という目撃情報から、父親の浅葉圭介が殺人犯だと判断した浅葉悟は家を抜け出し、鶏荷川付近にある林で、証拠隠滅のためにコートを燃やすが、その様子を、クラスメイトの見船美和(13歳 中学1年)に見られる……。
「……とまあ、ざっとこんな感じですかね」
情報をすり合わせるため、悟も後半は口を出したが、それでもほとんど見船が一方的に話した。
「見船さん、どうしてそんなにくわしいの?」
べつに知りたくもなかったが、悟は聞かずにはいられなかった。
すると見船は、いきなり両足をもじもじさせて、「あ、いやそんな、私なんて、ちっともくわしくありませんから」と、致命的にまちがった反応をしながら、
「だってほら、新聞や週刊誌を逃さずチェックしてるわけでもないし、ぜんぶの現場を見たわけでもないし……」
「はあ」
「事件の全体像をつかむなんてことも、私の理解力じゃまだ全然……くひひ、くひ」
また笑っている。
聞かなければよかった。
悟がすっかり白けているのに気づいた見船は、笑いを引っこめて、
「斧で頭を割られても文句言えないような顔はよしてください。浅葉くんは、すてきだと思わないんですか? 岸谷真梨子と飯田幸代はメッタ刺し。倉橋詩織はバラバラ殺人。大島雫は首なし死体なのに」
4人目の犠牲者である大島雫は、見船の近所に暮らしていて、知り合いだったらしい。
「くひひ。こんなにたくさん殺されて。しかもみんな無残で。メッタメタの、バラバラの、首チョンパですよ。ねえ、すてきでしょう……」
だが見船の様子を見るかぎり、大島雫の敵討ちなど、毛ほども考えていないのはあきらかだった。
純粋に、殺人事件をたのしんでいる。
そういう暗いタイプの娯楽が、わからないわけでもなかったが、ただそうした態度を露骨に見せつけられるのは不快だった。
なので悟はつい口を開いた。
「見船さん、そういうのって、よくないよ」
「なぜ?」
「なぜって……だって、悪趣味だから」
「悪趣味。大いにけっこう」
見船の声が小屋全体に響いた。
「興味本位で嗅ぎ回ったとしても、正しい気持ちを胸に秘めていたとしても、警察でもないのに殺人事件の捜査をするのは、等しく悪趣味ですからね」
「僕が言いたいのは、そういうことじゃなくて……」
「私が子供のころに読んだホームズも、明智小五郎も、『刑事コロンボ』も、『事件記者コルチャック』も、みんな悪趣味のカス野郎だっていうわけですか?」
「だから、そうじゃなくて」
「ねえ浅葉くん、あなたのお父さんが、そんな悪趣味な殺人事件の関係者であることを、おわすれなく」
「ちがう」
「なにが?」
「父さんは犯人じゃない」
「その話をしましょうか」
作戦会議が本題に入った。
もし悟の父親が犯人で、犯行時にコートを血でよごしたのなら、犯人の心理として、すぐに処分したくなるはずだ。
にもかかわらず、血のついたコートを机の中に保管していた。
ひょっとしたらその行為には、べつのストーリーが隠されているのではないか?
(仮説1)悟の父親は犯人を知っていて、コートを脅迫材料に使っていた。
(仮説2)犯人の正体を知ってはいたが、犯人をかばうためにコートを隠していた。
見船に聞かされたこれらの仮説は、悟にとって希望だった。
もし本当にそうなら、悟の父親は……事件に関与しているのは事実だとしても……殺人犯ではないということになるからだ。
「浅葉くんに、してもらいたいことがあります」
見船が言った。
「……いやだと言っても、無理やりやらせるんでしょう」
「あらうれしい。自分の立場がわかってきたようですね」
「で、僕はなにをすればいいの?」
「お父さんのアリバイを、しらべてほしいんです」
「アリバイって、なに」
「ごぞんじない? 推理小説やサスペンスドラマで、いやというほど出てくることばですけど」
「そういうの得意じゃないから」
「まずしい脳細胞ですね」
見船は軽蔑でもするように、片目だけを細くすると、
「アリバイとは、現場不在証明のことです。事件が起きたとき、容疑者がその現場にいなかったという証明が成り立てば、疑いが晴れるでしょう? 私の言ってる意味わかります?」
「なんとなく」
「というわけで浅葉くんには、まずはお父さんの疑いを晴らすために、アリバイをしらべてほしいの」
「はあ」
「岸谷真梨子と飯田幸代が行方をくらました11月2日のアリバイ。倉橋詩織が行方不明になった11月4日の朝と、バラバラ死体の一部が見つかった7日の前日……つまり6日のアリバイ。あと、大島雫の首なし死体が見つかる12月6日までの数日間のアリバイ。これらをしらべておいてください」
「ちょ、ちょっとまって。一気に言われてもおぼえられないよ」
「努力すれば。あるいはメモすれば。あなた文明人でしょ」
「メモ持ってきてなくて……」
「私が書いておいてあげます」
「ねえ、どんなふうに質問すればいいかな。まとめて質問したら、父さんにあやしまれちゃうんじゃないかな」
「浅葉くんは、ひとりっこですか?」
「え……弟がいるけど、どうして?」
「のびのび育ったんだなと思っただけです。私、浅葉くんと会話するのが、面倒になってきましたよ」
見船は短く息を吐いてから、
「アリバイ確認のための質問くらい、自分でうまくやってくれませんかね。あなたの父親なんですから」
「まあそうだけど……」
「そういえば、浅葉くんのお父さんって、なんのお仕事をしているんですか」
「大工だと思う」
「だと思う?」
「うん」
「なんていう会社?」
「よくわからないんだ」
「よくわからない?」
見船はこんどこそはっきり、軽蔑の表情になって、
「さっきからなんなの? 私を警戒して、しらばっくれるつもりなら、昨夜のことを警察に話しますよ」
「ち、ちがうよ! 本当に、よくわからないんだ」
「自分のお父さんでしょう?」
「だってべつに、父さんとふだんはそんなこと話さないから……」
「お父さんの職業や会社を『そんなこと』とは、ずいぶん薄情な息子さんですね」
「そんなことは……いや、わからない」
悟はしょんぼりした。
見船はそんな悟を注意ぶかく見つめながら、刈り上げた後頭部に手をやり、「いいですか? 浅葉くん」と名前を呼んで、
「これからあなたに質問するので、答えられることだけ、正直に答えてください。最初の質問。あなたのお父さんは、大工さんですか?」
「はい」
「次の質問。お父さんがつとめる会社の名前はわかりますか?」
「……いいえ」
「つとめ先の場所はわかりますか?」
「その、つとめ先っていうか、父さんは大工だから、ふだんは現場ではたらいてるんだ」
「どのあたりで?」
「鶏荷町のときもあれば、笠馬まで行くこともあるし……現場はよく変わるから」
「お父さんの役職は? 社長とか、課長とか、そういうの」
「知らない……」
「ふだんは何時から何時まで、お仕事をしていますか?」
「朝の早いうちから家を出て、夕飯までには戻ってくるけど、わりとバラバラかも。遅いときもあるから」
「休日は?」
「日曜が休み……あ、でも、日曜でも現場に行くことがあるから、はっきりしないかもしれない」
「お父さんと、仲のいい友だちは?」
「わからない」
「お父さんの出身地は?」
「わからない」
「学歴は?」
「わからない」
「趣味は?」
「わからない……」
ろくに答えられなかった。
だが悟にしてみれば、それはちっともおかしなことではなかった。父親にかぎらず母親とも、このような話をした経験はなかったからだ。
自分の両親がどこからきたのか? なにが好きで、なにがきらいか? なぜ今の仕事をしているのか? どのような馴れ初めで出会い、結婚したのか?
そんなことには興味がなかったし、両親もまた話そうとはしなかった。
無関心なのではない。
関心を持たないことが当然だと思っていた。
家族とはそんなものだと思っていた。
……ちがうの?
悟は13年間の人生ではじめて、家族のかたちに疑問を持った。ほかの家庭がどんな話をしているのか知りたくなった。
見船はそんな悟をふたたび見つめたが、こんどはすぐに飽きたらしく、小屋の出入り口からのぞく雪景色に視線をうつして、
「ま、かまいませんけどね。このていどの意外性があったところで、浅葉くんが普通人間なのに変わりはないから……。でも、ちゃんと家族をやったほうがいいですよ」
「やっぱり、そうなのかな」
「お父さんのことを知らなすぎて、ちょっと恥ずかしいですよ」
「見船さんは、自分のお父さんを理解してるの?」
「私の話をしてるんじゃないですよ。あなたの話をしてるんですよ。せっかくお父さんの罪を晴らそうとしているのに、こんな調子だとこまるんですけど」
「ごめん」
悟はそう言ったあとで、自分がなにについてあやまっているのかわからなくなった。
「浅葉くん、私たちは遊びでやってるわけじゃないんですから、お父さんのアリバイ、絶対に確認してくださいね。自分の父親にインタビューするようなものですから、かんたんでしょう?」
そうは思えなかった。
3
せまい小屋に長時間しゃがみこんでいると、さすがに足が痛くなり、体も冷えてきたので、どちらからともなく場所を変えようということになった。
雪まみれの公園を出て、やはり雪まみれの住塚通りを渡ると、そこにはハム工場があった。
ふだんは生臭いにおいを発して、近隣住民からいやがられていたが、今日は日曜日で稼働していなかった。沈黙するハム工場の壁には、雪がこびりついていた。
2人はそのまま、ハム工場の横にあるレンタルビデオ店、『サンセット・ビデオ』に入った。
自動ドアが開くと、ちょっとしたスーパーマーケットほどの店内が視界に広がった。
出入り口の脇には、『源平討魔伝』と『奇々怪界』のアーケード筐体があり、単調なデモ画面が流れている。
このときの悟は知るよしもないが、3年後の1991年に、『ストリートファイターⅡ』がヒットするまで、筐体のラインナップはずっとこのままだった。
悟は筐体をちらりと見たが、単に暖まりたいだけだったので素通りして、レンタルビデオ棚の前に立った。
たくさんのビデオのジャケットが集まったそれは、ぱっと見た感じ、モザイク画のようでもあった。
「浅葉くん、ここにはよくきますか」
見船が隣に立った。
「たまに……父さんが連れてきてくれる」
「まあ、お父さんは映画好き?」
「たぶん」
「どんな映画を?」
「さあ……」
「浅葉くんは、映画に興味は?」
「いや、全然」
「質問した私が馬鹿でした。あなたって、映画でワクワクする回路が育ってなさそう」
ひどい言われようだが、実際にそうだった。悟はなんども父親に連れられて、『サンセット・ビデオ』に入ったが、映画を見たいと思ったことは1回もなかった。
そんな悟にしてみれば、ビデオのジャケットがならぶ光景など、なんの意味も持たなかったが、それでも棚の中に『トップガン』を見つけて、「貸出中」の札がかかっているのをみとめた。
見船がフロアを移動したので、悟もあとにつづく。
父親がビデオを物色するあいだ、もらった小銭で『奇々怪界』をプレイして時間をつぶしていた悟は、これまで店の奥に入ったことがなかった。
出入り口の近くにならぶビデオとは、そのセレクトがちがっていることに、さすがの悟もすぐに気づく。
おどろおどろしい色彩のジャケットが増殖し、さらにタイトルには、『血!』『肉!』『悪魔!』『戦慄!』『地獄!』といった、読むだけで気が滅入るようなことばが多く交じっていた。
ホラー映画のコーナーだ。
悟はぎゃっと叫びかけた。
去年、ゴールデン洋画劇場で流れた『ゴーストバスターズ』を家族全員で見たとき、石像が出てくるオープニングがテレビに映った瞬間、悟は子供部屋に逃げこんだ。
その後、弟の透が部屋に入ってきて、「マシュマロマンがかわいかったよ」などと言っていたが、悟はそのマシュマロマンとやらの情報すら耳に入れたくなかった。その日の夜は、どろどろに溶けたマシュマロの怪物に襲われる悪夢を見て透に起こされた。
「も、もう帰ろう」
悟はあわてて言ったが、見船はビデオ棚を凝視していて、まったく反応してくれない。
泣きそうになった。
不安で視線がおよぐ。
そのとき、視界の隅でなにかが動いた。
フロアのもっとも奥まったところに、黒いのれんがかかっていて、そこには太いゴシック体で、「18歳未満立入禁止」と書かれていた。
そこから出てきた背の低い男が、ちらちらとこちらを観察しているのに気づいた。
悟は……いや、この町の住人の多くは、あの男に見覚えがあった。
4
「目を合わせちゃだめ」
見船が小声で命じる。
悟は反射的に、ビデオ棚に顔を向けた。
次の瞬間、『殺人豚』というタイトルのビデオを見つけてしまった。
妙に人間臭い目をした黒豚と、血のついた右腕があるだけのジャケットだったが、悟にはじゅうぶんすぎるほどのインパクトがあった。悟はほとんど『殺人豚』をにらみつけていた。視線をそらして『殺人豚』のイメージを広げるほうが、かえっておそろしかった。
背の低い男は、しばらくフロアに立っていたが、そのうち姿を消した。
まちがいない。
あれは、チラシ配り男だ。
「もう行った?」
「う、うん……」
悟がうなずくと、見船はまるで、目からつばを吐くような表情になって、「けがらわしい」と言った。
悟はそこまでは思わなかったが、いかがわしい宣伝の書かれたチラシを、あらゆる民家のポストに入れるチラシ配り男に、いい印象を持っていなかったのは事実だ。母親などは、男がポストに入れたチラシを見つけるたび、叩きつけるようにゴミ箱に捨てては、「最悪よ!」などと言っていた。
「あいつはいつも、悪趣味なチラシを入れてくるの。だから私はあいつを、心から嫌悪しているの」
おなじ悪趣味にも、いろんなレベルがあるのだなと思いながら、悟はふたたびフロアの奥を見た。
黒いのれんに書かれた、「18歳未満立入禁止」の文字が、ゆらゆらと揺れていた。
だれかに教わったわけでもなかったが、この世にはアダルトビデオというものがあって、それがあの、黒いのれんの奥に置かれていることを悟は知っていた。
アダルトビデオ。
大人の男と女が裸でくっつき合い、よからぬことをする様子が記録されたビデオ。
本来なら、他人に見せるべきではない行為が記録されたビデオ。
どうしてそんなものがあるのか。
どうしてそんなものが見られるのか。
そして、こっそりとはいえ、そんなものが普通に借りられる世の中というのは、いったいなんなのか……。
「浅葉くん」
「は、はい」
気まずいタイミングで名前を呼ばれたせいで、悟は思わず丁寧なことばで返事をした。
見船はいつのまにか、悟に向き直っていた。
まっすぐな目を向けている。
いやな予感がした。
「私、ずっと気になっていたことがあるんです。そもそも浅葉くんはどういう流れで、血のついたコートを見つけたんですか?」
聞かれるにきまっている質問だった。
自宅を出るまでに、嘘の答えをあらかじめ用意しておくべきだった。
しかし悟はこの瞬間までなにも考えてこなかったし、いざ質問されたら頭の中が真っ白になり、まともに思考できる状態ではなくなっていた。
「え……と、父さんの机を開けたら、そのコートが入っていたって、あの、説明したはずだけど」
「いやだから、なぜお父さんの机を開けたんですか?」
「それは」
「ひょっとして、なにかをさがしていた?」
「…………」
「あらら、あらら? また反応が鈍くなりましたね。どうやら図星のようですね」
「…………」
悟は平静を装ったつもりだったが、みごとに失敗した。
胸が痛いくらい高鳴る。
ねばっこい脂汗が流れた。
そんな様子を愉快そうに観察しながら、見船はまた、「くひひひ」と、あのいやな笑いを発して、悟を脅迫したあの夜のように、ことばを詰めていく。
「浅葉くん、教えてくれないんですか? だめですよう。黙秘はゆるされません。私に逆らったらどうなるか、わかっているはずでしょう。あなたがやったこと、みんなばらしてやりますよ」
「…………」
「くひひ。嘘よ。嘘なのよ。安心してください。だれにも言わないから。だって私たちは運命共同体だから」
「…………」
「あなたの悩みは私の悩み。私の情報はあなたの情報。ね? そうでしょう?」
「…………」
「というわけで、答えてください。浅葉くんはお父さんの机をあさって、なにをさがしていたの? なにを期待していたの?」
悟が期待していたもの。
それはおそらく、あの黒いのれんの奥にさえ置かれていない、この世でもっともおぞましい悪趣味のひとつだった。
(つづく)
連載【妻を殺したくなった夜に】
毎月最終火曜日更新
佐藤友哉(さとう・ゆうや)
1980年北海道生まれ。2001年『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』でメフィスト賞受賞。2007年『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を最年少で受賞。他の著書に『クリスマス・テロル invisible×inventor』『世界の終わりの終わり』『デンデラ』『ナイン・ストーリーズ』『転生! 太宰治 転生して、すみません』『青春とシリアルキラー』等がある。
Twitter:@yuyatan_sato