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第2回 サンタクロースを燃やして 佐藤友哉「妻を殺したくなった夜に」

北国の地方都市を舞台に、少女連続殺人事件をめぐる中学生男女の冒険を描く、佐藤友哉による青春ミステリー。
[毎月最終火曜日更新 はじめから読む

illustration Takahashi Koya


 ゴールデン洋画劇場の『私をスキーに連れてって』を家族で見ながら、このときのさとるは、人生最後のクリスマスを味わっていると感じずにはいられなかった。
 子供の時代はこれで終わりだ。自分はもう、クリスマスを無邪気にたのしめる子供ではいられなくなるのだ。
 そう思っていた。
 父親の書斎で、血のついたコートを見つけた。
 少女連続殺人事件で見つかった不審車が、父親の乗っているのと同じく「白いワゴン車」だった。
 クリスマスパーティ中の自宅に、交番勤務の警察官がやってきた。
 これらがすべて、1日のうちに起こった。
 13歳の少年に、血のついたコートを処分しようと決断させるのに、じゅうぶんすぎる要素だった。
「おいしい!」
 弟の声で我に返る。
 食卓では、とおるがケーキを食べながらにこにこしていた。父親は無言でビールを飲んでいた。母親はあれこれ文句を言いながら、そうはいってもたのしそうだった。
 どの家でも見ることのできる、つまらない日常。
 この日常を守るために、コートを燃やすのだ。
 悟はあらためて決意した。
 緊張でのどが渇いて、サイダーばかり飲んだ。
「兄ちゃん、ケーキ食べないの?」
 透が聞いた。
「いや、食べるよ……」
 悟はケーキをほおばる。
 上野原うえのはらに渡されたケーキは、うっとりするほど甘く、かえってそれが苦しかった。
 午後10時。
 悟と透は寝支度をすませ、子供部屋に戻った。
 8畳ほどの空間に、勉強机とタンスと2段ベッドを押しこんだ子供部屋は、2人の共有スペースだった。
「兄ちゃん、おやすみなさい」
 サンタクロースが待ちきれない透は、ぎしぎしと音を立てるハシゴを駆け上がった。
 この2段ベッドは、去年、父親が引っ越しを手伝った家からもらってきたもので、ジャンケンに負けた悟は下のベッドを使うことになった。本当は上のベッドを使いたいと思っていた悟だったが、ぎしぎしという派手な音を聞きながら、今日ほど下でよかったと思ったことはなかった。
 電気を消して、ベッドに入る。
 目をつむると、ビデオテープが再生されるように、事件の映像が頭の中を回りはじめた。
 先月からはじまった、少女連続殺人事件。
 被害者はすでに4人。
 小学生から高校生までの女子が、メッタ刺しにされ、バラバラにされ、首を切断された。例外なくむごい殺され方をした。
 このように異常な事件を、マスコミがほうっておくわけがなく、連日テレビで報道された結果、今や事件の知名度は、全国区にまで上がっていた。
 そんな事件の犯人が、
 ……父さん?
 イメージがむすびつかない。
 それは、自分の父親が犯人とは信じたくないという気持ちよりも、父親がわからないという側面が強かった。
 悟は父親……浅葉あさば圭介けいすけのことが、ずっとわからなかった。
 妻にも子供にも文句も言わず、主張もせず、いつもソファに座っているか、ビールを飲んでいるだけだった。家にいてもいなくても、まるで気にならなかった。透明人間だった。家の外で、どんなふうに生きているのかも知らなかった。
 ……どうでもいい。
 このときの悟の頭には、血のついたコートを燃やすということしかなかった。
 おれはこれから、あのいまいましいコートを燃やすのだ。それは今夜なのだ。今夜決行なのだ。

 子供部屋のドアが開かれた。
 気配でわかる。
 サンタクロース……父親が入ってきたのだ。
 父親は忍び足で2段ベッドに近づくと、まずは上で眠っている透に、つづいて悟の枕もとにプレゼントを置いた。
 ドアが閉まり、足音が遠ざかってから、目を開く。
 そこには、なんともかわいらしい箱に入ったクリスマスプレゼントがあった。
 悟はわけのわからない感情で、ずっとそれを見ていた。
 小一時間ほどして、物音が完全に聞こえなくなったのを見計らうと、悟はベッドを出た。
 小学生のころから使っているリュックサックを手にして、子供部屋のドアを開ける。
 薄暗いリビングには、クリスマスパーティの余韻がまだ残っていた。唐揚げの匂い。テーブルに置かれた缶ビール。弟と飾りつけをしたクリスマスツリー。それらは悟の涙腺を刺激して、鼻の奥がむずがゆくなった。
 家全体が、しんと静まり返っていた。
 両親は、リビングとふすま1枚へだてた和室を、寝室として使っていた。確認するわけにはいかないが、ふたりともぐっすり眠っていることを祈りつつ、悟は気配を殺して進んだ。
 とうとう書斎の前にやってくる。
 ドアを開けた。
 電気をつけて、机の引き出しを確認すると、そこには当たり前のように、血のついたコートがあった。
 上段の引き出しには、100円ライターが入っていた。父親がひそかにタバコを吸っていることを悟は知っていた。
 すべてをリュックサックにつめこんで、書斎を出た。
 子供部屋に引き返す。
 ジャケットを羽織って、そっと窓を開けた。
 冷たい風が、室内に吹きこんでくる。
「ううん……」
 透が反応した。
 もぞもぞと寝返りを打つ。
 透に、すべてを打ち明けてしまおうか。
 ほんの一瞬だけ、悟はそんな衝動に駆られる。
 透は10歳で、まだサンタクロースを信じていたが、自分よりあきらかにかしこかった。頭の回転が早く、なにより察しがよかった。透ならこの問題を、うまく切り抜けられるかもしれない。
 ……だめだ。
 すぐに考え直す。
 巻きこめるはずがない。
 弟を共犯者にするなんて、恥知らずのすることだ。
 透がふたたび寝息を立てるのを待ってから、悟は窓から外に出た。

 玄関に回りこみ、ふだんから鍵をつけっぱなしにしている自転車に乗ると、一気に走り出した。
 反抗期もなく13年を生きた悟は、新鮮な気分につつまれていた。鼻の中が凍りそうなほどの寒さだったし、ハンドルをにぎる指はかじかんでいたが、それでも心地よかった。
 夜空には星々がきらめいて、それが自分のためだけに輝いているようにさえ感じながら、雪のない道を走った。
 今年は異常気象で、年末だというのに雪はまだ根を下ろしていなかった。雪の好きな悟はひそかに残念がっていたが、これもまた自分のためだったのだと思いつつ、軽快にペダルをこいだ。
 前方から、赤い光がやってくる。
 パトカー。
 おかしな幸福につつまれていた悟ははっとして、あわてて逃げた。
 最近は警察が夜回りをしているという話を、クラスメイトがしていたのを思い出す。もっと用心しなければならない。リュックサックの中身を点検されたらおしまいだ。
 悟はなるべく、人目につかない道をえらんで自転車を走らせた。
 やがて、鶏荷とりに川の脇に広がる林に差しかかった。
 林といっても、ことば通りのそれではなく、まわりには住宅が点在していた。そこは田舎によくある「ひとけのない場所」にすぎず、山奥というほどではない。
 しかし中学生の悟には、自転車のほかに移動手段がなかったし、一刻も早くコートを処分したいという欲もあって、ここで自転車をとめた。
 リュックサックを背負い、林の中に入る。
 土を踏みしめて進むと、たちまち枯れ木がふたをして、あれほど輝いていた星の光が、すっかり遮断された。
 なにも見えない。
 あるのは闇だけ。
 冬の、そして真夜中の林には、小動物の気配さえなく、悟はそのことに満足した。さっそくリュックサックを下ろすと、深呼吸するひますら自分にあたえず、コートを取り出した。
 血のついたコート。
 乾いた血がパリパリと音を立て、死んだ犬のように生地が腕にまとわりついた。不快だった。暗闇の中でも、この物体の異常さが感じられた。
 こんなものがあるからいけない。
 今すぐに消さなければならない。
 燃やせ。
 燃やせ。
 燃やしてしまえば大丈夫。
 それだけで万事解決する。
 悟はそう信じて、ライターの火をつけようとした。
 そのとき、パキンと高い音が響いた。
 まるで小枝を踏んだような音だった。
 ぎょっとしてふり返る。
 なにも見えない。
 あるのは闇だけ。
 ……いや。
 だれかがいる。
 それも、すぐ目の前に。
 ついさきほどまで存在しなかった気配が、息遣いが、自分の正面から、たしかに発せられている。
 絶対に見られてはいけないところを見られて、悟は戦慄した。
 瞳孔がぐっと開いた。
 それによって闇の中に、ぼんやりしたものが浮かんでいるのが見えた。白っぽいなにかが暗闇にまぎれていた。
 しかも悟は、それに見覚えがあった。
 ……制服?
「なにしてるんですか」
 女の声。
「なにしてるんですか。ねえ」
 女の声。
「なにしてるんですか。なにしてるんですか。ねえ。なにしてるんですか。ねえ。なにしてるんですか。ねえ。ねえ。なにして……」
 悟は逃げ出した。
 しかし動揺したせいで、うまく走れなかった。
 もっと言えば、暗闇の中で走るのは危険だった。
 数メートルも進まないうちに、悟は樹木に激突した。
 頭の中を火花が走る。
 次に気がついたとき、悟は仰向けに倒れていた。
 きぃんと耳鳴りがして、頭がはたらかない。ぶつけた鼻から、ごぽごぽと液体があふれる。それはぬるりと生温かく、鉄さびのような味がした。鼻血だった。
 ……血!
 その単語で我に返る。
 そして自分がまだ、血のついたコートをにぎっていることを知った。
「うわ、あ、あぁ……あああああ!」
 悟は地面に倒れたまま、自分でもわけのわからない声を上げながら、ライターの火をつけた。
 悟は知らなかったが、コートの素材は、可燃性の高いレーヨンとポリエステルだった。
 燃え移った火種は、最初こそ小さなものだったが、次の刹那、表面フラッシュ現象が起きて、一気に燃え広がった。
 熱風が襲う。》
 悟はぎゃっと叫び、反射的にコートをほうり投げた。
 地面に落ちたコートは、炎につつまれていた。
 炎のいきおいははげしく、ちょっとしたキャンプファイヤーのように、あたりには熱と光が広がり、白い制服を浮かび上がらせた。
「よく燃えますね」
 見船みふね美和みわ
 そこにいたのは、さきほど公園で見かけた同級生の女子だった。

「ひょっとして……ウチのクラスの浅葉悟くん? もの静かで優等生の、浅葉悟くん? ふうん、こんなところで火遊びをしている悪い子が浅葉くんとは、世も末ですね。とっても愉快ですね。そう思いませんか? ねえ。ねえ」
 こんなにべらべらしゃべっているところを、教室では見たことがなかった。
 なぜこんなところに、クラスメイトがいるのだ。なぜそれがよりによって、見船美和なのだ。
 悟はわけがわからなくなっていた。恐怖と怒りと不安と、ほかにも形容できない多くの気持ちが混ざり合い、ほとんど笑い出しそうだった。
 そのせいもあって悟は、実際に少しだけ笑いながら言った。
「ぼ……僕は、その、クリスマスプレゼントを燃やしていたんだ」
「背徳的ですね。どうして」
「プレゼントが気に入らなくて……。ダサい服だったんだ」
「私、そんな映画を見たことがあります。不良の女の子が、クリスマスプレゼントをもらうために、親の顔色を必死にうかがって、それでやっとプレゼントをもらったのに、ひどくイケてない靴だったの。それで女の子はキレちゃって、クリスマスツリーをなぎ倒して親を押しつぶす映画……。ねえ浅葉くん」
「な、なに?」
「私、そういうの、すぐわかっちゃうんです。人の嘘がすぐわかっちゃうんです。なぜなら生まれが不幸だから」
 炎が発する熱と明かりで、白い制服がゆらいでいた。
 まだ地面に倒れたままの悟は、ひそかに視線を動かす。
 コートは強い炎に覆われていて、今さら消火するのは不可能に思えた。
 なので、なるべく強気に言った。
「僕が嘘をついてるかどうかなんて、そんなの、見船さんにはわからないじゃないか」
「残念ですね。浅葉くんって、愚か者なんですね。あなたのことばが嘘かどうかなんて、そんなのはどうでもいいことなのです。重要なのは、この現状なのです」
「……どういうこと」
「私はこれから、警察に通報します」
「けっ、警察?」
「だって浅葉くん、不審者じゃないですか。中学生が真夜中に、火をつけているのを見つけたら、通報するのが市民の義務ですよ」
「僕は本当に、プレゼントを燃やしただけで……」
「あなたがなにを燃やそうが、知ったことじゃありません。重要なのは、あなたがこんな時間に火つけをしていたという現状です。ひょっとして、放火するつもりでした? こわいこわい。ああこわい」
「ちがう!」
「大声を出さないほうがいいですよ。このあたりにも民家はありますから」
「ちがうんだ。僕は本当に……」
「じゃあ、なにしてたんですか」
「…………」
「なにしてたんですか。ねえ。ねえ。なにしてたんですか。なにしてたんですか。なにしてたんですか。ねえ」
「それは……」
「黙秘するなら、警察に突き出すほかありませんね」
 見船は突き放すように言った。
 通報されたらどうなる?
 悟は必死に考えた。
 まずは警察に保護され、そのあと事情を聞かれるだろう。もちろん警察に、血のついたコートについて話すわけにはいかないから、悟は嘘をつく。コートが燃え尽きるのは時間の問題なので、嘘がバレたとしても問題はない。
 いや、
 ……本当に?
 もし通報されたら、今夜の悟の行動を、家族にも知られてしまう。
 これまで一度も問題行動を起こさなかった悟が、夜中にこっそりなにかを燃やしていたと知れば、家族はその原因を突き止めようとするだろう。悟はそこでも嘘をつくが、母親や弟をだましきれる自信はない。
 なにより、父親は絶対に勘づく。
 そして机の引き出しを確認して、血のついたコートが消えていることを知る。
 そうなったら悟は終わりだ。
 だがよりはっきり言えば、ここで見船と出会わなかったとしても、血のついたコートがなくなっていることに、父親はいつかは気づくし、いつかは悟に疑いを目を向ける。
 コートを持ち出せる人間が、家族の中のだれかにかぎられている以上、それを処分するにしても、このように強引な手を使ってはいけなかった。
 混乱に混乱がかさなったせいで、かえって冷静になった悟は、このときようやく、自分が最初からまちがっていたことに気づいた。
 この場をうまく乗り切れたとしても、結局、八方塞がり。
 はじめから、八方塞がりなのだ。
 コートの一部が灰になり、炎のいきおいが収まりはじめた。
 暗闇が戻ってくる。
 それはまるで、現実の時間が戻ってくるようにも感じられて、自分の無能さを痛感した悟には、それがたえられなかった。地面にころがったまま、不安と寒さで震えていた。
 いっぽうの見船は、制服姿にもかかわらず、とくに寒がる様子もなく、
「くひひ」
 変な声で笑った。
「くひ、くひひい……」
 なぜこのタイミングで笑えるのか、悟には理解できなかった。
 見船はひとしきり笑ったあと、悟を見下ろした。
 ぞっとするほど、暗い表情だった。
「浅葉くん、ではこうしませんか? 本当のことを教えてくれたら、今日のことをだまってあげますよ」
「で、でも……」
「おどろいた。『でも』ですって? この流れで、『でも』なんてことばを、よくも使えるものですね。でもいいですよ。ゆるしてあげますよ。虫けらみたいに倒れて、鼻血を流してる浅葉くんが、とっても素敵だから」
「…………」
「素敵な浅葉くんに、サービスを追加しましょう。本当のことを教えてくれたら、今日のことをだまってあげるし、救ってあげますよ」
「すくぅ……」
「子犬の鳴き声みたいなのはよして。はっきり口にしてみて」
「す、救う」
「そうです。私が救ってあげます。浅葉くんは今、大変なことに巻きこまれているんでしょう? ひとりでかかえこんで苦しいんでしょう? 私がいっしょにいてあげる。そしてあなたを救ってあげる」
「…………」
「だから、本当のことを教えて」
「…………」
「約束は守るから」
「……でも」
「私たちだけの秘密」
「……ぼ、ぼっ、僕は」
 悟は屈した。

 すべてを話した。
 血のついたコートのこと。
 それが父親の机から出てきたこと。
 父親が事件の犯人かもしれないこと。
 だから証拠のコートを燃やしたこと。
 悟の話が終わると、見船はゆっくりと顔を上げてから、
「で、それを信じろと?」
「本当なんだ!」
「ふうん、お父さんが人殺しねえ……。だとしたら浅葉くん、あなたは自分の人生を誇ってもいいですよ」
「は?」
「くひ、くひひひ」
「見船さん、なにを笑って……」
「くひひ。私、今ね、すばらしいことを思いついちゃった。なぜだかわかる?」
「さ、さあ」
「それはね、私がすばらしいからよ」
 見船は真理のように宣言してから、
 
「ねえ。私といっしょに、あなたのお父さんが殺人犯か突き止めない?」
 
 ちっともすばらしくなかった。
 悟にしてみれば、地獄の提案だった。
「見船さんは、父さんを警察に突き出すつもりなの?」
大島おおしましずくってわかる?」
 見船は質問に質問で返した。
 それは首なし死体で見つかった、4人目の犠牲者の名前だった。
「大島雫は、私のご近所さんでした。歳はちょっと離れていたけど、いつも親切にしてくれて、私を助けてくれました。そんな人が首を切られて殺されたんですよ。悲劇だと思いませんか」
「だ、だめだ」
「なにがです?」
「見船さんには協力できない。だって僕は、父さんにつかまってほしくないから」
「べつに私、あなたのお父さんが犯人とは思ってませんけど」
 見船の言っていることが、まるで呑みこめなかった。
 なぜなら悟は、父親が殺人犯だと信じていたからだ。
「だって父さんは、血のついたコートを隠して……」
「そのコートですけど、本当に、お父さんのものでした? あなた、そのコートをお父さんが着ていたのを見たことあります? コートのサイズは? 色は? かたちは?」
 指摘されて気づいた。
 なにもおぼえていなかった。
 あんなものを見つけてしまった衝撃と、すぐに処分しなくてはという思いが先走り、コートの細部など記憶になかった。
 炎を上げるコートは、今やその大半が燃えてしまい、悟の記憶を刺激する材料にはならなかった。
 見船はつづける。
「ひっかかるんですよね。だって、浅葉くんのお父さんが犯人で、犯行時にコートを汚したとすれば、そんなのふつう、さっさと捨てませんか?」
 たしかに自分が犯人だったら、その日のうちに燃やすだろうと悟は思った。
 コートの血は固まっていた。
 しばらく保管されていた証拠だ。
「血のついたコートを大事に持っていたことで、浅葉くんのお父さんはむしろ、犯人ではない可能性がある……と考えることもできるわけです」
「でも、父さんが犯人じゃないとすれば、どうしてあんなコートを持っていたの?」
「犯人を脅迫するための証拠として持っていたとか、あるいは、犯人をかばうためにコートを隠したとか」
「つまり犯人は、父さんの知り合いってこと……」
 父親が犯人でないとすれば、日常はつづく。
 退屈で、ありきたりで、かけがえのないこの日常がつづく。
 悟にとって、これ以上の幸せはなかった。
「くひひ。この退屈で、ありきたりな町で、殺人事件に関係できるなんて、これ以上の幸せはないわ」
 いっぽうの見船は炎に照らされながら、正反対のことを言った。
 その目はこちらに向けられているが、もはや悟を見てはいなかった。
「くひぃい……ひひひ」
 肩を震わせて笑っていた。
 いささかゆがんではいたが、たしかにそれは幸せそうだった。
 悟はそんな見船を見て、こいつは大島雫のことなど、本当はなにも思っていないことに気づいた。
 見船美和という女は、まさに本人が言ったように、「殺人事件に関係できる」ことが、「幸せ」だと本気で思っている。そしてそのことを隠そうともしていない。
 壊れている。
 そして悟は、この壊れたクラスメイトにつかまってしまった。
 もう逃げられない。
 悟は観念して言った。
「ねえ、僕はちゃんと話したよ。これで、今日のことをだまってくれるんだよね」
 すると見船は笑いを引っこめて、
「約束は守ります。安心して家に帰って、いい夢を見てください。あ、ベッドに入る前に鼻血を洗い流すのをわすれずに」
「わかってる」
「その上着についた汚れも落としてくださいね」
「見船さん、それで……父さんが殺人犯かどうかを、どうやって突き止めるの?」
「明日の午前10時、住塚すみづか第2公園にきてください。そこで作戦会議をします」
「作戦会議……」
「絶対に遅れないでくださいね。私、遅刻する人を、軽蔑してるんです。では明日、たっぷり会議をしましょう。私を地獄に連れてって」
 そのとき雪が、降ってきた。
 やわらかそうな雪の一粒一粒が、夜の中を舞いはじめる。
 炎が映し出す雪は、最初はおとなしいものだったが、すぐにいきおいがついた。雪はどんどん降りそそいだ。思いがけない大雪になりそうだった。
 見船は顔を上げると、
「ああ、雪ですね。雪が降ってきましたね。この調子なら、きっと根雪になるでしょう。コートの燃えカスが見つかる心配もないでしょう。じゃあ浅葉くん、また明日。メリークリスマス」
 それだけ言って去った。
 悟はまだ地面に倒れていた。
 ひとり、林の中に取り残される。
 コートが完全に燃え尽きた。
 あたり一面、まっくらになった。

(つづく)

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連載【妻を殺したくなった夜に】
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佐藤友哉(さとう・ゆうや)
1980年北海道生まれ。2001年『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』でメフィスト賞受賞。2007年『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を最年少で受賞。他の著書に『クリスマス・テロル invisible×inventor』『世界の終わりの終わり』『デンデラ』『ナイン・ストーリーズ』『転生! 太宰治 転生して、すみません』『青春とシリアルキラー』等がある。
Twitter:@yuyatan_sato

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