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第1回 人生最後のメリークリスマス 佐藤友哉「妻を殺したくなった夜に」

北国の地方都市を舞台に、少女連続殺人事件をめぐる中学生男女の冒険を描く、佐藤友哉による青春ミステリー。
[毎月最終火曜日更新]

illustration Takahashi Koya


  父親の机から、血のついたコートが出てきた。

 

  薄手のコート全体に、まるでペンキをぶちまけたように飛び散った大量の血は、もうすっかり乾いていて、そっとつまみ上げると、粉となった血がパラパラと落ちた。それは指紋の隙間に入りこみ、いくら爪でひっかいても取れなかった。
 こんなつもりじゃなかった。
 このとき浅葉あさばさとるが「期待」していたのは、もっとべつのものであり、けっして、血に染まったコートではなかった。
 どうしてこんなものが?
 どうしてこんなところに?
 混乱した悟はなにも考えられなくなり、ただひたすら、手にしたコートを見つめていたが、玄関ドアの鍵が開く音がして、はっと顔を上げた。
 壁にかかった時計を見る。
 水泳教室から、弟が帰ってくる時間だった。
 悟はあわててコートを戻すと、しずかでものわかりのいい兄の顔をして、父親の書斎を飛び出した。
「ただいま」
「おかえり」
 書斎のドアを閉めた数秒後、とおるがリビングに入ってきた。
 しずかでものわかりのいい兄である悟は、水道水で手をよく洗ってから、おやつのポッキーとほうじ茶を用意した。
 透は水泳道具を片づけると、「いただきます」と手を合わせて、ポッキーを一本ずつ食べはじめた。
 悟は背中で両手を隠しながら言った。
「なあ透、クロールはできるようになったか?」
「兄ちゃん、なにかあった?」
「べつに……。どうして?」
「クロールなんて、もうずっと前からできるのに、聞いてきたから。兄ちゃんは、ごまかそうとするとき、知ってることを質問してくるでしょ」
 幼い視線が、こちらに向けられる。
 悟はひそかに深呼吸をした。
 にぎりしめた拳は、じっとりと汗をかいていた。血の臭いがしないか不安だった。
 弟の透はまだ10歳だったが、妙に目ざといところがあった。嘘を吐いてもすぐに見抜かれ、家族で推理ドラマを見ているとき、だれよりも早く犯人に気づくのも透だった。
 弟とちがい、一般的な中学生にすぎない悟は、うまい返しが思いつかず、ズボンで手をぬぐってから、リモコンに手を伸ばした。
 テレビには今日も、少女連続殺人事件のニュースが流れていた。
 見覚えのある女性リポーターが、見覚えのある川沿いを歩きながら、
「こちらが、新たにバラバラ死体の一部が見つかった鶏荷とりに川です。11月7日、蓮ヶ丘はすがおか中学校に通う、中学1年生の倉橋くらはし詩織しおりちゃんのバラバラ死体が、ちょうどこのあたりで見つかり……」
 殺人事件。
 自分が暮らす町でそれが起きたことに、悟は最初、ぎゃっとなった。
 しかし、まるでゲームのように犠牲者が増えつづけ、そのたびにテレビが大騒ぎするのを見ているうちに、事件に対する印象が変わりつつあることに気づいた。
 たとえば被害者の顔写真や、葬式の映像が流れたとき、悟はある「期待」に胸を高鳴らせていた。
「こわいね」
 透がつぶやいた。
 ……そうだった。
 殺人事件とは本来、こわいもの。
 ワクワクするなんて間違っている。
 少し前まで、ビックリマンシールに一喜一憂していたのに、どうしてこんな人間になってしまったのだろう。
 自分の感情が制御できなくなっていることを気味悪く感じた悟は、透の皿からポッキーをまとめて取り上げて、口につっこんだ。
 血の味がしたような気がした。
「ぼくのなのに!」
 透が叫ぶ。
 弟がまったく弟らしい声を上げたことで、悟はそれでも、ほんの少しだけ日常を取り戻すことができた。
 テレビを見ると、少女連続殺人事件のニュースはいつのまにか終わり、こんどは東京のクリスマスの映像がはじまった。
 都会に暮らす人々が、幸福そうな顔つきでクリスマスツリーを見上げたり、カメラで写真を撮ったりしている。
 それは『ミキモト』という店が、12年前にはじめた冬の風物詩だと、リポーターが説明していた。
 都会から遠くはなれた悟の町には、駅前に行っても、あのように巨大なツリーは飾られていなかった。そもそもデパートすらなかった。
「メリークリスマス! 今年もツリーの前には、ごらんのように、たくさんの人たちがやってきております!」
 テレビから聞こえる声を聞いて、今日がクリスマスイブであることを思い出す。
 父親の書斎で、あんなものを見つけたせいで、毎年楽しみにしているクリスマスイブが、頭からすっぽりと抜け落ちていた。
「兄ちゃん、なんでそんなところにいるの?」
 透が指摘した。
 気づけば悟は、書斎のドアをふさぐようにして立っていた。
 こんなにもわかりやすい自分の反応に、悟はひどくげんなりしたが、
「おまえ、サンタさんになに頼んだ?」
 それでも努力してごまかした。
「うん! サンタさんね、RXの変身ベルトをくれるかもしれないんだって。ちゃんと水泳教室に通ったら、プレゼントしてくれるかもしれないんだって」
 クリスマスのおかげで、透の観察力はにぶっていた。
 あんなにかしこい弟が、いつまでもサンタクロースを信じていることが、悟には奇妙でならなかった。悟はこれまでの13年の人生で、サンタクロースを1秒たりとも信じたことがなかった。
「兄ちゃんはサンタさんに、なにお願いした?」
 透が聞いた。
 まさか我が家のサンタクロースの机に、血のついたコートが入っていたことを話すわけにもいかなかった。
 いったいあれは、なんの血だろう。
 鉛筆をけずるときに、ナイフで自分の指を傷つけたというような量ではなかった。ナイフをだれかの首に突き刺したり、だれかの体をバラバラに切り落としたりしなければ、あれほどの血は出ないはずだ。
 そうだとすれば、父親は……、
 だれかに、
 ナイフを、
「ねえ、兄ちゃんはなにお願いしたのって」
 透がくり返す。
 悟はぼんやりした声で、「スーパーマリオブラザーズ3」と、ゲームソフトのタイトルを言った。しかし、書斎のドアからただよう気配が濃厚なせいで、あれだけ楽しみにしていたゲームソフトも、ひどく遠いところに置いてきたような気分だった。
 甘いポッキーを食べたはずなのに、口の中は塩辛かった。 

 

「ちょっと悟、あんた冬休みでひましてるなら、『ハッピー』に行ってケーキをもらってきなさい!」
 パートから帰ってきた母親が、ソファに寝そべっていた悟を見るなり、そう言った。
 悟としては、ひましているわけではなく、頭からはなれないコートの映像を必死に振り払おうとしていただけなのだが、このあと仕事から戻ってくる父親と、どんなふうに接すればいいのかわからないこともあって、ケーキの予約券を素直に受け取った。どんな理由であれ、家から出られるのは救いだった。
「じゃ、行ってきます」
「気をつけてね」
「うん」
「寄り道しちゃだめよ」
「うんって」
 上着を羽織って外に出た。
 自転車を走らせる。
 パチンコ屋のぎらぎらしたネオン。ガソリンスタンドにともる明かり。バスロータリーと駐車場があるだけの駅前……。このような、特筆すべき点が1つも見当たらない景色も、ひとりで夜に出歩くことのない悟の目には、真新しいものに映った。
 ケーキを予約していたスーパーマーケット『ハッピー』は、駅からやや離れたところにあった。
 駐輪場に自転車をとめ、店の前に行くと、行列があった。
 土日くらいしか人出のない町に、こんなにもケーキを予約している人間がいたことにおどろきつつ、悟は列にならんだ。
 5分ほどして、自分の番になった。
「いらっしゃいませ!」
 サンタクロースのかっこうをした売り子が悟を見て、
「あれ、浅葉くん?」
 不意に名前を呼ばれて顔を上げると、そこには思いがけない人物があった。
 ケーキ売り場にいたのは、クラスメイトの上野原うえのはら涼子りょうこだった。
「浅葉くん、うちの店で、ケーキ予約してくれたの?」
「え? その……あ、うん」
「ありがとう」
 上野原が、笑顔としか観測できないものを向けてきたので、悟はある意味では、血のついたコートを見つけたときよりも混乱した。
 このような事態は、学校では絶対に起こり得ないことだった。そもそも、教室の中で死んだように生きている悟は、上野原とまともに話したことさえなかった。
 つまりこの瞬間は、悟にしてみれば奇跡だった。
 今まで一度も信じたことのないサンタクロースがいるかもしれないと、2秒だけ本気で思った。
 実際、上野原はサンタクロースのかっこうをしていた。赤と白で構成されたサンタクロースの衣装は女性物で、ズボンではなくスカートだった。それは制服のスカートよりもずいぶん短く、上野原のすらりとした長い脚がよく見えた。
 よからぬ視線に気づかれるのが不安で、悟はいつになく饒舌じょうぜつになった。
「あ、あの、上野原さん、ここでバイトしてるの?」
「だよ」
「中学生なのに、バイトしてもいいの?」
「ここのスーパー、うちのお母さんがはたらいてるんだけど、こんなふうにいそがしいときは、お手伝いしてもオッケーなんだ」
「そう」
「お正月も、お手伝いするんだ。私、ほしいものがあるの」
「そう」
「浅葉くん、買ってくれる?」
「わ、わかんない」
「クラスのみんなには内緒だよ」
「秘密……」
「そそ。私たちの秘密!」
 上野原がほほえむ。
 黒い虹彩にかこまれたその瞳は、きめこまかい肌や、茶色がかったセミロングの髪によく似合っていて、悟は頭がくらくらした。
「じゃ、浅葉くん、チケットちょうだい」
「あ、うん」
 チケットと、クリスマスケーキの入った箱を交換する。
 そのとき、たがいの指先が触れ合った。
 上野原の指は、死体のように冷たかった。
「浅葉くん」
「え?」
「メリークリスマス!」
「メリークリスマス……」
 夢心地のまま、駐輪場に戻る。
 前カゴに、まるで天使でも置くようにクリスマスケーキの箱をそっと入れて、自転車に乗った。
 駅前をすぎて、鶏荷橋を通りかかる。
 中心部から少しでも遠ざかったら、街灯の明かりさえ心もとない夜の鶏荷町は、その大部分が暗闇によって支配されていた。
 自転車を走らせながら見下ろす鶏荷川は、ぬらぬらうごめく水面がわずかに見えるだけで、あとは闇に溶けこんでいた。
 この川を北上したところにある隣町、栄北町えいほくちょうの川べりで、倉橋詩織とかいう少女のバラバラ死体が発見され、さらに今日、残りの死体の一部が見つかったと、さきほどのニュースが騒いでいた。
 ……もし。
 悟は想像する。
 もし、まだすべてのバラバラ死体が見つかったわけではないのなら、むかし話の『桃太郎』よろしく、どんぶらこどんぶらこと死体の一部が流されて、このあたりにあるかもしれない。
 自転車をとめて、川のあたりをよくさがせば、倉橋詩織の一部が見つかるかもしれない。水を吸ってやわらかくふくらんだ手や脚が見つかるかもしれない。
 想像はやがて、妄想を引き寄せる。
 もし、この町のどこかにいる殺人犯に上野原が殺されて、あの美しい体をバラバラにされたら、それを自分がうまいこと手に入れたら、机のひきだしにしまっておくのだろうか。
 そして夜になって家族のみんなが寝静まったあと、上野原のバラバラ死体をひそかに取り出して、それから、それから……。
「ああ」
 思わず声を漏らす。
 はっきりいえば悟は、性的に興奮していた。
 そんな自分がおそろしくて、悟は必死にペダルを漕ぎ、鶏荷橋を通りすぎた。
 いったいなぜ、こんなふうになってしまったのか。
 ビックリマンシールを愛し、テレビゲームに夢中になっていたかわいらしい自分は、両親に甘えて、弟の世話をする優しい自分は、どこに消えたのか。
 なんだか、泣きたくなった。
 ……あの本のせいだ。
 友だちの家で、あの本を見つけてから、自分の頭はあきらかにおかしくなった。ふだんなら思いつかないような不気味な考えが浮かぶようになった。
 あれは、悪魔の本だ。
 読まなければよかった。
 だけど、読んでしまった。
 今さら、なかったことにはできない。
 もう遅い。
 もう遅いのだ。
 そんなふうに絶望しつつ、家までの道をいそいだが、しかし悟が「期待」していたのはあの本だったし、そうして父親の机のひきだしをあさって出てきたのは、血のついたコートだった。 

 大通りを走っていると、その横にある住塚すみづか第2公園で人影を見つけた。
 悟が自転車をとめて人影を確認すると、それはクラスメイトだった。
 見船みふね美和みわ
 電話ボックスの明かりをたよりに、ベンチに腰かけて本を読んでいる。
 耳が見えるくらいまで雑に刈り上げられた黒髪と、白というよりも青みがかった肌が、電話ボックスの仄青い光に照らされていた。
 そのすべてが、上野原と真逆だった。
 しかも、冬休みだというのに制服姿だった。
 ……なんだあれ。
 見船美和という人物を構成するすべての要素が、悟にはわけがわからなかった。
 実際、見船美和は、わけのわからない存在だった。クラスでは孤立していて、だれとも話すことなく、しかしそれを気にするそぶりも見せずに本を読み、ひとりでにやにやしていた。
「くひ、くひひ……」
 おかしな声がした。
 それは見船が、本を読んで笑っている声だった。
「くひひ、ひひひ」
 女子中学生が、このような時間に制服姿で公園にいるのはあまりに異様だったが、しかし悟は見船にまるで興味がなかったので、見届けることなく公園を去った。
 自宅の駐車場には、白いワゴンがとまっていた。
 父親が仕事から帰ってきたのだ。
 悟は覚悟を決めてドアを開けた。
 リビングには、缶ビールを飲みながら、ビデオショップで借りてきた『トップガン』を見ている父親の背中があった。
「ただいま」
「おかえり」
「ケーキ、もらってきた」
「ああ」
 会話はそれだけで、ソファに座った父親はテレビから視線をはなさなかった。
 いっぽうの母親は、キッチンでいそがしく動き回り、クリスマスパーティの準備をしていた。
「悟、あんたちょっと遅かったから心配したじゃないの。なにやってたのよ」
 フライパンの中身をかき回しながら、母親が言った。
「べつに」
「ささっと帰ってきなさい。ささっと」
「あのさ、ケーキはどうすればいい?」
「冷蔵庫に入れておきなさい」
「わかった」
 冷蔵庫を開けると、巨大な皿に盛りつけられたサラダがあった。サラダをどかしてケーキを押しこんでからリビングに戻ると、父親との会話を避けるために、見たくもない『トップガン』をいっしょに見た。
「はいみんな、できたわよー」
 やがて、大皿を手にした母親が、ほとんど突撃するようにリビングにやってきた。
 クリスマスパーティがはじまった。
 サンタクロースを信じたことのない悟だったが、それでも、無条件にプレゼントをもらえて、手軽に非日常を味わえるクリスマスは、むかしから大好きだった。グラタンや唐揚げといったごちそうを家族で食べるこの時間も、かけがえのないものだと感じていた。
「おいしい!」
 透もまたすっかりはしゃいで、口いっぱいに入れた唐揚げを、ふだんは禁止されているサイダーで流しこんだ。父親はビールとグラタンを無言で往復して、母親はテレビを見てけらけら笑っていたかと思うと急に真顔になり、ちっともサラダに箸を伸ばさない男性陣に文句を言いはじめた。
 そこにあるのは、いつも通りのクリスマスだった。
 テレビのクリスマス特番は、例年とおなじように、ミュージシャンが大勢で歌ったり、芸人があれこれとしゃべったりしていた。
 ただ今年は、例年とは少しだけ、しかしあきらかに、様子がちがっていた。
 画面にテロップが表示される。 

  天皇陛下のご容体(午後七時)
  体温37.6度
  脈拍80
  血圧135〜60
  呼吸数20 

 昭和天皇とかいう老人が、そろそろ死のうとしているらしい。
 来年……1989年まで、どうやら生きられないらしい。
 それがどういう意味を持つのか、今ひとつわからなかった。悟にとって天皇というのは、たまにテレビに出て、国民に手を振っているだけにすぎず、そのような人物がいなくなったところで、なにがどう変わるのか、うまく想像できなかった。
 画面に貼りついたテロップを見ても、両親はなにも言わなかった。
 なので悟も反応せずにテレビを見ていたが、食事も一段落してケーキを食べようというころになった午後九時のニュースを見た瞬間、胃の中のごちそうを吐きそうになった。
「では次のニュースです。先月3日、S県鶏荷町にある苑腹おんばら峠において、女児二人の遺体が発見された殺人事件で、事件当日、不審な白いワゴン車を見たとの証言が入ってきました。目撃者は、付近で林業を営む男性で、警察は苑腹峠の入口に検問を敷き、不審な車の行方を追って……」
「本当にいやねえもう!」
「でも車が特定されたなら、これで犯人も見つかるだろう」
「だといいけど。自分の暮らす町で殺人事件なんて、本当に気持ち悪いわ」
「すぐつかまるさ」
「女の子ばかりを殺すなんて最低。犯人はさっさとつかまって死刑になればいいのに」
「ああ」
「犯人は絶対クズよクズ。つまりクズ!」
「ああ」
 テレビを前にのんきに話す両親を見て、こいつらは馬鹿野郎なのではと悟は思う。
 白いワゴン車。
 それはまさに、自分の父親が乗る車と、まったくおなじタイプではないか。
 ピンポーン。
 玄関のチャイムが鳴った。
 母親が立ち上がり、こんな時間にだれよ非常識ねと、ぶつぶつ言いながら玄関に向かった。
 気を取り直そうとした悟が、サイダーを口に入れたとき、
「あら、おまわりさん!」
 母親がそんなことを言ったので、サイダーを噴き出しそうになった。
 玄関の声は遠く、会話はほとんど聞き取れなかった。悟は自分が犯人というわけでもないのに、生きた心地がしなかった。
 父親の顔を盗み見たが、そこからはなんの情報も読み取れなかった。
「あーびっくりした。おまわりさんだったわ、近所の交番の」
 数分もしないうちに、母親が戻ってきて、
「なんかね、まだ犯人が見つかってないから、年末年始は戸締まりに気をつけてくださいって、子どもがいる家庭を回ってるみたい。クリスマスイブも仕事しなくちゃいけないなんて、警察も大変ね。さ、寝ちゃう前にケーキを食べましょう」
 本当に?
 父親はすでに、警察からマークされているのではないのか?
 白いワゴン車の有無を、警察は確認しにきたのではないのか?
 恐怖と不安と、あとよくわからないものが、このときはまだ中学生にすぎない悟の全身にのしかかり、気分が悪くなった。
 無意識に、自分の指先を見る。
 よく見ると、コートから移った血が、まだわずかに残っていた。
 この手で、唐揚げをつまんで口に入れていたのかと思うと、がまんできなくなった。
 悟はトイレに入り、すべてを戻した。
 それでもまだ吐き足りず、ノドの奥に指を入れて、胃液しか出なくなるまで吐きつづけた。
 内容物がすっかりなくなり、これでようやく、上野原からもらった綺麗なケーキを食べる資格を手に入れたような気がした。
 悟はトイレを出て、顔をよく洗ってからリビングに向かった。
「ちょっと透、あんたそのケーキは大きすぎるでしょ。こっちにしなさい」
「えー、大丈夫だよ。これくらい食べられるよ」
「いいから、こっちにしなさい」
「本で読んだんだけど、10歳は、大人とおなじくらいの胃酸の量なんだって。だから消化できるよ」
「いいから! ほら、お父さんもなんか言ってやって」
「ああ」
「『ああ』じゃないでしょもう」
「父さんはおなかいっぱいだから、ケーキは少しでいいよ」
「そんなこと聞いてないわよ……あら悟、遅かったけど大丈夫?」
「ああ……うん。ごめん」
「なにあやまってるのよ。ほら、ケーキの準備できてるわよ。お茶もあるわよ」
「うん……」
「さっさと座りなさい。食べましょ。今年は奮発して、いつもより高いケーキを買ったのよ。イチゴの量が倍なのよ」
「兄ちゃんは、ケーキを持ってきてくれたから、一番大きいやつ食べていいよ!」
 そこにあるのは退屈な、だけども大切な日常だった。
 13年という、これまでの悟の人生を守ってくれて、包んでくれた、甘く優しい日常だった。
 この日常を、壊すわけにはいかない。
 今晩、サンタクロースがプレゼントをとどけにきたあとで、そっと起き出そう。そうして、あのコートを燃やしてしまおう。
 悟はそう思った。

(つづく)

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連載【妻を殺したくなった夜に】
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佐藤友哉(さとう・ゆうや)
1980年北海道生まれ。2001年『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』でメフィスト賞受賞。2007年『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を最年少で受賞。他の著書に『クリスマス・テロル invisible×inventor』『世界の終わりの終わり』『デンデラ』『ナイン・ストーリーズ』『転生! 太宰治 転生して、すみません』『青春とシリアルキラー』等がある。
Twitter:@yuyatan_sato

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