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第5回 闇に燃えし篝火は 佐藤友哉「妻を殺したくなった夜に」

北国の地方都市を舞台に、少女連続殺人事件をめぐる中学生男女の冒険を描く、佐藤友哉による青春ミステリー。
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illustration Takahashi Koya


さとる。悟。悟。悟」
 とてつもない力で体を揺さぶられ目を覚ますと、すぐ目の前に母親の顔があった。
「え……母さん?」
「悟。起きて」
「え、なに……え?」
「早く起きて!」
 母親はほとんど引き剥がすようにして、悟をベッドから起こそうとする。背中に爪が痛いほど食いこんだ。
 子供部屋のドアが開いていた。
 そこから見える廊下は、夜だというのに不自然に輝いていた。さらにそれは、リビングの照明とはあきらかにちがう光だった。ゆらゆらと仄赤くゆらめいているのだ。
 なにかが落下する音が、リビングから響いた。
 悟はおどろいてベッドから起き上がり、子供部屋を出た。
「悟!」
 うしろで母親が叫ぶ。
 だが悟は返事ができなかった。
 リビングが燃えていたからだ。
 両親の寝室と書斎の壁に、火が回っていた。
 パジャマ姿のとおるが、らしくないほど呆然とした顔つきで、壁を這う炎を見つめていた。
「透!」
 悟は思わず叫んだ。
「兄ちゃん!」
 透も叫び、
「か、火事だ……」
 たしかにそれは火事だった。
 炎のいきおいははげしく、白かったはずの壁紙はすっかり黒焦げになり、内部の木材が露出していた。壁にかかっていた時計が床に落ちて、2時11分を指したままとまっていた。
 さきほどの音は、時計が落ちたときの衝撃ということに気づいたが、しかし悟の思考よりも炎の進行は速く、床の一部が燃えはじめた。
 リビング全体がぎらぎらと輝き、その熱は悟の皮膚に痛いほど伝わってきた。悟は恐怖よりも本能レベルで危機を察知し、思わず退いた。火事だ。火事だ。家が燃えている。自分の家が燃えている。
「どいてろ!」
 不意に声がした。
 浴室から父親が飛び出してきた。
 いつのまにか帰ってきた父親は、水の入ったバケツをかかえていた。
 当然、バケツの水をかけたところで消火できるわけもなく、壁を蹂躙する火はたちまち水を呑みこみ、さらにその勢力を拡大しようとしていた。
「くそっ!」
 父親は炎の中にバケツを投げ捨てた。
 次の瞬間、壁の一部が炎とともに崩れてきた。
 炎と瓦礫が悟に向かってくる。
 父親が飛びかかり、悟とひとかたまりになって倒れた。
 燃えさかる瓦礫は、数秒前まで悟が立っていた場所に落下した。死ぬところだった。死ぬところだった。死ぬところだった。おそろしくなって歯の根が合わなくなった。
「だ、だいじょうぶか悟……」
 しかし悟は、がちがち歯を鳴らすだけで答えられない。恐怖で全身が縮こまり、体の自由が利かないのだ。
 炎の侵食はつづく。
 リビングの窓を覆うブラインドが熱に負けてひん曲がり、ピシピシと甲高い音を立てた。床からカーペットに火が移り、まるで動物でも焼いたような悪臭が瞬時に立ちこめた。天井では炎と煙が一体となって苦しそうに充満していた。
 家が壊れていく様子が、炎自身が発する光によって、いやになるほどよく見えた。もうだめだ。もう終わりだ。そう判断したのは悟だけではなかった。
「だめだ。早く逃げなくちゃ!」
 透が叫んだ。
「こっちよ! みんな早く!」
 母親が玄関を指差した。
 父親は悟の手をつかんで引き起こすと、透を連れて玄関に向かい、転がるようにして家から出た。
 玄関ドアを開けると、家の周囲には近所の人たちが集まっていた。
 彼ら野次馬は、ごうごうと燃える家をじっと眺めていたが、悟たちが家から飛び出すのを見つけると、その中の数人が駆け寄ってきた。力が入らず倒れそうになった悟の体を、だれかが持ち上げた。「おい無事か!」「早くこっちに!」「これで全員か?」「もう大丈夫だぞ!」といういくつもの声とともに、悟は炎がおよばない道路側まで運ばれた。
 悟は知らないだれかに抱きかかえられたまま、自分の家が闇の中で燃えているのを見た。
 意外というべきか、外から観測すると、火の手はさほど回ってはいなかった。窓の内部は赤々としていたが、火は外壁全体を焼くほどの規模ではなく、寝室側の一部にとどまっていた。とはいえ、このままでは家全体を呑みこむほどの炎に成長するだろう。ひょっとしたら、近所の家に火が移ってしまうかもしれない。
「しょ、消防車を呼ばないと……。私、常盤ときわさんに電話借りてくる!」
 母親はまだ興奮した調子で、隣家の常盤家に駆け出した。
 父親はまだ呆然としている透をしっかり抱きしめていた。
 ……よかった。
 悟は安堵の中で、自分の足で地面に立てるほどの余裕を取り戻した。
 家は燃えている。
 でもみんな生きている。
 家は壊れている。
 でも家族は壊れていない。
 悟にとって、これ以上の安心はなかった。
 悟たちも、野次馬も、消防がやってくるまで、やれるべきことがないので、燃えつづける家をだまって見ていた。
 灼熱色した炎は、まるで篝火かがりびのように暗闇の中で輝いていた。
 そのはげしい熱と光は、なにもできないでいる野次馬の一団を照らし、悟はそこに、不自然なものを発見した。
 ……どうしてここに?
 それは近所の住人ではなかった。
 それは真夜中だというのに、制服を着ていた。
 それはだれもが緊迫する中で、にやにや笑いながら火事を見物していた。
 それは見船美和みふねみわだった。
 悟は野次馬の中から見船を見つけた瞬間、心臓が痛いほど高鳴るのを感じた。
 次に湧き出たのは憎悪だった。
 憎悪。
 のんびりとした人生を長いことつづけている悟にとって、それは新鮮な感情だった。
 野次馬に交じって火事を見物している見船を視界にとらえた悟は、憎悪がおそろしい速度で膨れ上がるのを感じながら、周囲をうかがう。
 母親は隣家の玄関先でなにごとかを叫んでいる。父親と透は燃える家をじっと見つめて動かない。
 悟は野次馬に交じってその場をはなれて、見船に近づく。
 見船も悟に気づく。
 2人はこのとき、敵というよりもまるで同志のようなアイコンタクトをとり、そっと移動した。
 悟の家のほぼ正面には高層マンションが建っていて、そこには住人専用の駐車場と、それを囲む高い塀があった。2人は炎の光がおよばない塀の隅に寄り添い、向かい合った。

「こんばんは。いい夜ですね」
 見船は刈り上がった後頭部をかきながら、この場にまったくふさわしくない挨拶をした。
「きみが……やったのか」
浅葉あさばくん、昨日はたばこをありがとう」
「答えろ。きみがやったのか」
「なんのこと?」
 見船が首をかしげる。
 白々しい態度に、かっとなった。
「きみが燃やしたのか」
「だからなんのこと?」
「きみが僕の家を燃やしたんだろ。放火だ。放火したんだろ。ちくしょう。警察に言ってやる」
「浅葉くん、あなた、頭おかしいんじゃないの?」
「そっちのほうがおかしいだろ」
「どうかしら。顔は真っ黒で、目も血走って、ひどく興奮してますね。アドレナリンの過剰分泌は、平静さをうしなわせて……」
「うるさい! 人の家を燃やしたくせにしゃべるな!」
「ほら興奮してる」
「うるさい!」
「私じゃないわ」
「じゃあどうして、こんなところにいるんだよ。燃やしたからここにいるんだろ。なあ、そうなんだろ」
「ふーん、これ放火だったわけ」
「とぼけるな」
「あなた、私のことを馬鹿だと思ってる? もし私が放火犯だったら、こんなふうに現場に残ってるわけないでしょ」
「じゃあどうしてここにいるんだ」
「言ったはずです。私には、帰るところがないって」
「嘘だ」
「ねえ浅葉くん、思うんだけど、これが放火だっていうなら……あなたのお父さんの仕業じゃなくて?」
「あ?」
「家を燃やしたのは、あなたのお父さんじゃないかって聞いてるの」
「……なんのために」
「もちろん、血のついたコートを消すため」
「そんなわけあるか」
 悟はあわてて否定して、
「もしそうしたいなら、コートだけ燃やせばすむことだ」
「浅葉くんがやったように?」
 見船は口もとを痙攣させるように笑い、
「あなたのお父さんは、血のついたコートがなくなっていることに気づいたのかもしれない」
「探偵ごっこはやめろ」
「いいから聞いて。あなたのお父さんは、書斎の机に隠したコートがないことに気づいた。コートがないということは、家族の中のだれかがそれを見つけて持ち去ったと考えるのが自然でしょう? つまり、決定的な証拠が家族にバレたことに気づいたのよ。浅葉くんのお父さんはそのとき、はげしいショックと不安に襲われたはず……。だから、コートを隠していたという証拠そのものを消すために、家を燃やしたのかも」
 ちがう。
 ちがう。
 悟は必死に否定する。
 父親は命がけで自分を助けてくれた。
 健気にもバケツの水で火を消そうとした。
 このように、家族も家も大切に思っている父親が、自分の家に火をつけるわけがない。そもそも父親はコートの持ち主ではない。父親は殺人事件とはなんの関係もない。
 だが、本当にそうなのだろうか。事件と無関係の人間が、どうして血のついたコートを机に隠していたのか。父親はやはり、なんらかの事件に関与している? あるいは犯人なのか? 人殺しなのか? 思考が堂々めぐりする。
「適当なことを言うな!」
 悟は耐えきれずに叫んだ。
 いっぽうの見船は、いつもと変わらぬ表情と口調を維持したまま、
「大声は危険ですよ。私たちがしゃべっているところを見られたら、あなたの立場が悪くなるから。くひひ、放火犯だと疑われたら大変ですよ」
 まるでたばこでも吸うように、薄い唇に指を当てた。
 見船に対する憎悪が荒れ狂った。悟は怒りをコントロールできなかった。裸足で雪の上に立っているというのに、まるで寒さを感じなかった。
 悟は憎悪の中で思う。
 どうしてこいつは、おれをこんなにもいじめるのか。どうしてこいつは、いつだっておれを追い詰めるのか。おれを救ってくれるのではなかったのか。
 ……ちがう。
 見船は最初から、この町で起きている少女連続殺人事件を、「おもしろいから」という理由だけで嗅ぎ回っていた。
 正義もなにもない。
 あるのは腐った好奇心だけ。
 そんなやつの話を聞く必要はない。
 だまされるな。
「きみがここにいたのは、偶然だっていうのか」
 悟は話を蒸し返す。
 見船は小さくうなずいて、
「帰るところがないからふらふら歩いていたら、たまたま騒ぎを聞きつけて、わくわくしながらきてみたら、あなたの家がぼうぼう燃えていた。それだけ」
「じゃあ、どうしてあのとき……」
「はい?」
「どうしてあのとき、家の間取りを聞いた?」
 昨日、『サンセット・ビデオ』を出たあと、見船は唐突に、「浅葉くんの家が見たい」と言い、さらには悟の部屋や書斎の位置をたずねた。あきらかに不自然だった。
 すると見船はあっさりと白状した。
「あなたの家に侵入しようと思って」
「し、侵入?」
「ほらこれ」
 見船は制服のポケットから、100円ライターを取り出すと、
「浅葉くん、あなた、お父さんのライターを使ったまま、机に戻さなかったでしょ。それにコートがなくなってることだって、いつ気づかれるかわかったものじゃなかった。だからあなたの家に侵入して、そっとライターを戻して、書斎を荒らそうとしたわけ。泥棒が入ったということにしてね。コートを持ち去ったのが外部犯ということになれば、お父さんが家族に疑いの目を向けることもなくなる。だから……」
「それが、間取りを聞いた理由だって?」
「あなたの家族が崩壊するのを防ぐために、一肌脱ごうと思ったわけ。私、意外と優しいのよ。くひ、くひひひ……まあでも、杞憂でしたね。まさか火をつけるなんてね」
「信じないぞ」
「ところで机はすっかり燃えた? ちゃんと確認したほうがいいかもしれな……」
「うるさい。僕は信じない。信じないぞ。おまえが放火したって警察に言ってやる」
「だから私じゃないですって。なんでそんなふうに思うわけ?」
「おまえが一番怪しいからだ」
「一番怪しいのは、浅葉くんのお父さんですよ。やっぱりコートの持ち主は、あなたのお父さんかもしれないですね。あーあ、なんかそれって、ちょっとつまらないオチですよね。ま、そこらへんもふくめて、また明日、作戦会議しましょう」
「作戦会議だって……まだそんなこと言ってるのか?」
「そろそろ戻ったほうがいいと思うけど」
 サイレンの音が聞こえてきた。

(つづく)

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連載【妻を殺したくなった夜に】
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佐藤友哉(さとう・ゆうや)
1980年北海道生まれ。2001年『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』でメフィスト賞受賞。2007年『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を最年少で受賞。他の著書に『クリスマス・テロル invisible×inventor』『世界の終わりの終わり』『デンデラ』『ナイン・ストーリーズ』『転生! 太宰治 転生して、すみません』『青春とシリアルキラー』等がある。
Twitter:@yuyatan_sato

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