あなたならではのムーミン・シリーズの読み方が、きっとあるはず! 横道誠×二村ヒトシ
2024年10月31日(木)に代官山 蔦屋書店で行われた、横道誠の『なぜスナフキンは旅をし、ミイは他人を気にせず、ムーミン一家は水辺を好むのか』刊行記念トークイベントのレポートです。
AV監督・文筆家でムーミン・シリーズの大ファン、本にコラムも寄稿してくださっている二村ヒトシさんとの対談は、トーベ・ヤンソンと作品への尊敬と愛情に満ちていました。
開始早々のTシャツ対決にムーミン愛がほとばしる
横道 先ほど店内を拝見していたら、たいへん嬉しいことに「横道誠フェア」をやってくださっていて、デビュー作から、今回のこの『なぜスナフキンは旅をし、ミイは他人を気にせず、ムーミン一家は水辺を好むのか』(以下『なぜスナ』)まで、私の単著、共著がずらっと並んでいました。
二村 何年で何冊でしたっけ?
横道 3年半で22冊です。
二村 そんなに(笑)。それが一望できるんですね。
横道 ではまずは自己紹介から。私は横道誠という名前で、ふだんは京都府立大学文学部の准教授として働いています。専門はドイツ文学、つまりドイツ語を使った文学ですね。
ドイツ語は、大きく分類するとゲルマン系の言葉で、英語やオランダ語、そしてムーミンの原作のスウェーデン語も、同じ仲間になりますが、私自身はスウェーデン語はまったくできません。だからムーミンに関する本が出せるとは思っていなかったんですが、今回、出版の機会に恵まれ、たいへん喜んでいます。
最近の私は、発達障害者として発信することが多いです。今回の本は、タイトルだけ見ると「ムーミンの秘密がわかる本」だと思われそうですが、具体的には「ムーミンたちの行動をニューロマイノリティのものとして理解する内容」。ニューロマイノリティというのは、発達障害を病理的なものと見ない構図ですね。「ムーミン・シリーズをこんなふうに読んでいくと、意外なものが見えてきますよ」ということを説明している本なんです。
二村 二村ヒトシといいます。本業は大人向けの映像のディレクターで、おそらく日本のAV監督のなかで一番のムーミン好きだと思います(笑)。『なぜスナ』には「大人のテーマが描かれている(ようにぼくには思える)ムーミン・シリーズ」というコラムを寄稿しています。
今ご本人もおっしゃったように、この本は、ムーミン谷の生きものたちをニューロダイバーシティの問題と結びつけてしまう横道さんの、それこそ発達特性がよく出ている本。一方、僕は、ムーミンのどこを読んでもついエッチなことを考えてしまうわけです。横道さんとは違う視点で、コラムを書かせてもらいました。
横道 二村さん、今日のTシャツまでばっちりムーミンですね。
二村 ムーミンパパですね。これは、小説のシーンではなくて、イギリスの新聞に連載された漫画版のムーミンの中の一コマなんです。おわかりでしょうか。ムーミンパパがウイスキーのビンを見つけた場面です。実はムーミンパパ、依存症の傾向があるんですね。
横道 私は緑色のTシャツで来ました。ムーミンの原作者のトーベ・ヤンソンはフィンランドの人でした。トーベの母はスウェーデン人で、親戚はスウェーデンにも住んでいます。同じ北欧のノルウェイにちなんで、村上春樹の『ノルウェイの森』の表紙の緑を選びました。ひねくれてますね(笑)。
今日は、こういうちょっと“アレ”なふたりでやっていきたいと思います。
ムーミンとの出会い直しもあって、世界が開けた
横道 私と二村さんの出会いについてお話ししますね。
私は子供の頃から生きづらさを抱えていましたが、40歳のときに発達障害や依存症の診断を受け、2019年4月から休職をしました。発達障害は現代の医学では解決できないし、依存症もすごく治りにくいので、同じ問題をもつ仲間が集まる自助グループ活動に救いを求めたんですね。
そのうち、哲学対話に興味がわいてきて、オンラインの会合に参加するようになりました。するとしょっちゅう、謎のAV監督が来ている(笑)。最初はちょっと警戒したのですが、発言内容がいちいちまともなので、好意を抱くようになりました。
その後、著作をいろいろ発表するようになって、『ひとつにならない――発達障害者がセックスについて語ること』という本を出したときに、トークイベントをやろうということになって、私が対談相手としてぜひと思ったのが、二村さんでした。そうしたら偶然、同じタイミングで、二村さんがSNSで私の『みんな水の中――「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』を絶賛してくださっていて。運命の赤い糸が繋がった瞬間です。
二村 その後、僕が参加している「猫町倶楽部」というオンライン読書会に、横道さんが参加してくださったんですよね。そのときは、1年間かけてムーミン・シリーズを読んでいった。
横道 気づいたのが遅くて参加できたのは最終回だけでしたが、すごく面白かった。そこで私もやってみようと、主宰している自助グループ「推しを広め合う発達凸凹の会」で、ムーミンをテーマに読書会を開催したんですね。二村さんや、ムーミン・シリーズの翻訳者である畑中麻紀さんも毎回参加してくださって、大いに盛り上がった。そのときに私がプレゼンし、意見交換した内容も取りこんだのが、この『なぜスナ』というわけです。
二村 横道誠という人がムーミンをどう読んだか、という本ですよね。ムーミンって、読む人の数だけ解釈がある。「その人にしかできない読みをする」という、横道さんが提唱されている「当事者批評」の実践です。
ある特性を持った人――脳や体の問題かもしれないし、職業なんかでもそうですが、要するに「普通ってなんだろう?」って話。みんなそれぞれに背負ってるものがあるなかで、童話や文学を、自分にしかできない読み方でどう読むか、というようなことを、今回、すごく深く知れた感じがします。乱暴な言葉を使えば、あ、俺独自の読みでいいんだっていうね。ムーミンとの出会い直しもあった。世界が開けた感じがしました。
「童話のジャンルでガチの純文学」というような越境体験
横道 二村さんがムーミンの世界に入ったのは昭和版のアニメからですよね。
二村 10歳ぐらいですね。女優の岸田今日子さんがムーミントロールの声を演じておられて、それは素晴らしかったんだけど。いま思えば、大企業がスポンサーについている、日本の子供向けのちゃんとしたアニメでしたね。原作者のトーベは、気に入らなかったらしい(笑)。
とにかく僕はまずアニメから入って、小説も読んで、今日着ているTシャツの漫画も、当時は旧訳版ですが親に買ってもらって読んでみた。そうしたら、日本のアニメ版とは違って、ムーミンのオリジナルの世界は非常にスラップスティックで、バカバカしくて。全然お行儀が良くなかったんです。それが子供心にすごく面白かった。
横道 私は二村さんの20年後くらい、平成版のアニメでムーミンに出会ったんですね。すぐに原作の小説を読んで、圧倒的に面白いなと。少年の私にとっては文学に開眼した体験でした。小6のときですね。シリーズを読んでいったんですが、だんだんと文学的に難しくなっていくんですよ。最後の2冊、『ムーミンパパ海へいく』と『ムーミン谷の十一月』は、難しすぎて当時はよくわからなかったですね。
二村 童話なんだけど、この文学性はなんだろう。みたいなことを、子供ながらに感じましたよね。『ムーミンパパ海へ行く』では、ムーミンパパが洒落にならない本当にひどい父親だったことが描かれているし、 『ムーミン谷の十一月』では、そもそもムーミン一家が登場しないんですから。この2冊は完全に大人向けの小説ですよ。
横道 ムーミン・シリーズを通して、「越境」とか「変身」が頻繁にモティーフになっている。それに、二村さんも私も惹きつけられるんじゃないかと思います。
二村さんの撮るAVは、普通のジャンルじゃないですよね。初期に女性が男性を襲う「痴女もの」を開拓して、その後は女性同士の恋愛もの、今はもっぱら男の人同士で、片方が女の子の格好をして男の人に抱かれるという作品。普通のジェンダーにとどまっていられないということですよね。
トーベがムーミンでやった「なにも童話のジャンルでガチの純文学をやらなくたっていいじゃないか」っていうような越境体験を、二村さんはAVでやっているわけです。
「かわいい」の向こうにあるエロティシズムや毒に惹かれる
横道 トーベ自身も一般的なジェンダーからはみ出ている感じがあります。彼女が自分の“性的指向”をバイセクシャルかレズビアンのどちらだと自認していたのかはわかりませんが、初期には男性との恋愛経験が何回もあって、途中から、恋愛と性愛の対象が主として女性になっていくんですよね。
二村 いや〜、惹かれますね。映画『TOVE トーベ』(2020年)の中でも描かれていましたが、若い頃のトーベは性に奔放なんです。その元気のいいマイノリティぶりが、映画ではすごく良かった。
横道 彼女のそういう同性愛的指向は、昔は伏せられていたんですよね。商品流通上の障害になるという配慮があったんでしょう。でも、彼女が21世紀の初めに亡くなって、情報が解禁された。私はびっくりしましたが、ある意味で腑に落ちるような思いもありました。
二村 トーベがもつ性への関心は、キャラクターにも反映されていると思いますね。わかる人にはわかるように書いていますが、生めかしいっていうか、エロスがあるんですよ。
横道 そう考えると、昭和版のアニメでムーミンの声をやったのが岸田今日子さんだったのは「大いなる伏線」ですね。彼女は谷崎潤一郎原作の映画『卍』(1964年版)で、男女で結婚してるんだけど、レズビアン関係に陥っていく役をされているんですから。トーベの秘密が公にされる数十年前のことです。
二村 いや〜ほんとですね。ムーミンかわいい、スナフキンかっこいい、みたいに扱われているキャラクターたちの背景に、そういう毒とかエロティシズムがあるっていうのが、たまんないですね。『なぜスナ』にもちょっと書きましたが、スナフキンなんて実はひでえヤツなんだから(笑)。
横道 私はスナフキンに非常に思い入れがあって、ほとんど恋心に近いのですが、現実にスナフキンみたいな印象の男性がいたら、「イケメンでクールでモテるんだけど、陰で女性を殴ってるタイプじゃないか」みたいに邪推すると思います。ほとんどヒガミですが(笑)。
表現することで、マイノリティ性を活かしながら生きていく
横道 私は昔から「変わってる」と周りから言われて育ったし、自分でも「なるほど、そうなのだなあ」と思っていました。でも知識がないと、「わけわからん人」で終わりじゃないですか。でも精神疾患に関する知識があると、「変わってる人」っていうのは、最近では精神疾患の傾向として理解されるものなんですよね。
かつては、精神疾患というと、黒か白かで、その精神疾患であるか、そうでないか、ということは、はっきりと違うんだという考えだったんです。でも今は、黒と白の間にグレーゾーンのグラデーションがあるという考え方が支持を広げている。「変わっている」という特性が精神疾患とされる場合もあれば、環境に恵まれて問題にならない場合もあるということが言われるようになった。
そして、その考え方を踏まえて、むかし読んだムーミン・シリーズを思いだしてみると、いろいろな点に「ハッ」とするところがあるような気がした。そして実際に読み直してみたわけです。おそらくニューロマイノリティの特性を持ったキャラクターたちに対応して、トーベやその周囲の人々も、ニューロマイノリティ的な人たちだったのだろうと思います。
二村 この本で横道さんは、「発達障害をもつ自分が、ニューロダイバーシティの観点からムーミンを読んだ」ということを書かれているわけですね。
横道 はい。ニューロダイバーシティというのは、「脳の多様性」のことですね。発達障害のひとつに自閉スペクトラム症というのがあり、その当事者たちが、1990年代に自分たちの権利要求運動として提唱しました。
発達障害者は、「疾患」や「障害」の当事者ではなく、ニューロマイノリティ、つまり脳のあり方が少数派なだけではないかと。日本ではこの考え方が、2020年代に入って急に注目されるようになってきたわけです。
例えば1970年代だったら、医学の診断マニュアルでは同性愛は「異常」の「変態性欲」。治療すべきものとされていました。でも現代ではそうではなく、単に数が少ないから「正常でない」ように見えるだけで、多様性のうちに入ってるよねという共通理解が広まってきています。
同じように発達障害に関しても、「極端に少ないから異常に見えるだけではないか」というダイバーシティの発想が向けられているわけです。同性愛と同様に、将来的に非病理化される可能性は否定できないのではないでしょうか。
あともうひとつのポイントとして、発達障害の特性があっても、活躍できる環境に恵まれていれば「障害者」という診断にはならないので、トーベを含めて、そういう創作者は非常に多いと思うんですよね。自閉スペクトラム症に特有の「極端なこだわり」とか、ADHDに特有の「衝動性」の特性は、芸術創作の上で決定的な強みになりますから。
二村 美術でも文学でも、「こういう異様な作品をつくる人は、脳にこういう病気があったに違いない」というみなされ方があるじゃないですか。ある芸術を評論することで、著者の心の病を読み解いていくみたいな。「病跡学」って言うんでしたっけ? それって、確かにやりたくなるんですよね。
でも横道さんがこの本でやっているのは逆で、トーベは脳にそういう傾向があったかもしれないけど、でも、ムーミンを創造したことによって、生きやすくなった。マイノリティであっても健康に生きることができた。つまり創作が彼女をいい方向に連れていったんだろうと。これを病跡学の逆で、横道さんは「健跡学」っておっしゃるんですよね。
横道 「パトグラフィー」という学問があって、病跡学と訳されます。ギリシャ語で「病=パトス」ということですね。それに対して、近年では「サルトグラフィー」が提唱されています。健跡学くらいに訳せるでしょうか。「健康=サルト」です。病跡学は創作者の天才性の根拠を精神疾患の傾向に発見しようとしてきた学問なんですけど、健跡学は創作者が天才だったのは、精神疾患の傾向があったにせよ、それに屈せぬ健康生成があったからこそだと考えます。
二村 その言葉に、僕自身が救われたような気がするんです。
他とはちがうAVをつくるのは、僕がそういうものに興奮する異常者だからなんですけど、僕はやっぱりね、自分が作ったアダルトビデオに救われてここまで来たんですよ。ポルノだけじゃなくて、これまで書いてきた恋愛の本でもそう。そこで分析した、恋や愛に苦しんでる人間は、僕自身なんです。AVを撮ったり本を書いたことで、なんとか人並みに成りすまして生きてこれたという実感が、今に至るまでずっとある。
さっき、健康になったっていう言い方をしましたけど、決して自分のマイノリティ性を否定するものではないんです。むしろそのマイノリティ性を活かして、生きていくしかない。
横道 わかります。
一応弁護しておきますが、病跡学は必ずしも、クリエイターを勝手に病気認定する学問だったわけではなくて、病気自体の復権をしているんです。精神疾患は強い偏見を持たれがちだけれど、実はそれは天才性の源泉ではないかと論じる学問だったんです。けれど、それがひっくり返って、誰々さんは結局これこれ病でしょうみたいな話になることが多くて、「良くなかった」という反省が最近の動きなんです。
病跡学っていうのは、ある意味では、精神科医から見たらこんなふうに見えますよ、こう診断できますよ、という世界観の話で、私がやってる「当事者批評」はその逆になっているわけですね。患者側、当事者側から見たらこんなふうに見えますよということ。「もっと患者に喋らせろ」っていうことです。
二村 その、当事者意識バリバリの横道さんの筆によって、読み解けることがたくさんありました。たとえばあの話に出てくるあのキャラクターの……。
(と、これ以降マニアックな話が続く)
二村 とにかく自分は生きづらいと感じている人、いや、生きづらくなくてもいいんだよな、もうとにかくあらゆる人に、ムーミン・シリーズを読んでもらいたい。そのうえで、『なぜスナ』もぜひ読んでもらいたいなと、今日改めて思いました。
横道 私が思ったのは、二村さんの方が私よりずっと文学研究者っぽいということ(笑)。二村さんは「これはこういうふうに解釈できるのではないか」という「読み」をすごく大事にしている。私は昔から「読み」「解釈」に終始する研究にはあまり興味が湧かなくて、文学作品を使って文化を理解するとか、社会や歴史の流れを理解するとか、そういうツールとして文学にアプローチしてきた研究者です。文学研究者としては邪道、「横道に逸れてる」わけです(笑)。
でも今回の本では、少し正道、「縦道」だったかもしれない。「オレはこう読むぞ」というのを提示した。とはいえ、文学研究であれ文芸批評であれ、まっとうな論者は、「こういうふうに考えたら、面白い広がりが出るでしょ」という見取り図を提示する役割を果たすんです。解釈を決めつけない。だから『なぜスナ』を読んでくれたみなさんも、私の提示した解釈は「参考意見」と考えて、知的に刺激されたら充分で、あとはご自身で好きなように解釈を広げてもらえたらと思います。
二村 当事者批評の極意ですね。
横道 そういえば二村さんおすすめの旧版のムーミン漫画シリーズ、すでに絶版で、国立国会図書館にも全巻は揃ってなかったんです。それを二村さんに伝えたら、「僕の方が先に死ぬだろうから、形見として横道さんに贈るよ」と。
二村 言いました。はい、全部差し上げます。
横道 聞きました? 皆さんが証人ですからね(笑)。
(構成:剣持亜弥 写真:編集部)
横道誠(よこみち・まこと)
京都府立大学文学部准教授。文学博士。専門は文学・当事者研究。1979年、大阪府生まれ。40歳で自閉スペクトラム症、ADHDと診断され、発達障害当事者自助グループ活動も精力的に行う。自助グループで「ここはムーミン谷だ!」と思ったのが本書執筆のきっかけとなった。
単著に『みんな水の中』(医学書院)、『創作者の体感世界』(光文社新書)、『「心のない人」は、どうやって人の心を理解しているか』(亜紀書房)、『〈逆上がり〉ができない人々』(明石書店)など。共著に『酒をやめられない文学研究者とタバコをやめられない精神科医が本気で語り明かした依存症の話』(太田出版)、編著に『ニューロマイノリティ』(北大路書房)などがある。
二村ヒトシ(にむら・ひとし)
アダルトビデオ監督、文筆家。1964年生まれ。慶應義塾大学文学部中退。女性が主導権をもって男性を愛撫する「痴女」、男優が登場しない「レズビアン」、女性が登場しない「女装男子」などのジャンルの演出手法を確立した。著書に『すべてはモテるためである』(文庫ぎんが堂)、『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』(同)、『あなたの恋がでてくる映画』(スモール出版)、『僕たちは愛されることを教わってきたはずだったのに』(KADOKAWA)、共著に『どうすれば愛しあえるの 幸せな性愛のヒント』(KKベストセラーズ)、『オトコのカラダはキモチいい』(角川文庫)、『欲望会議 性とポリコレの哲学』(同)、『モテと非モテの境界線』(講談社)など。