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第11回 みんなのせかい 佐藤友哉「妻を殺したくなった夜に」

北国の地方都市を舞台に、少女連続殺人事件をめぐる中学生男女の冒険を描く、佐藤友哉による青春ミステリー。
[毎月最終火曜日更新 はじめから読む

illustration Takahashi Koya


 物語は折り返し地点に入った。
 さて、ここからがおもしろい。
 あとは一方的に、落ちるだけ。

  熊に殴られたさとるが意識をうしなっているあいだにも世界は回り、ものごとは進む。
 きもだめし大会が終わっても数名の生徒が戻らず、さらに熊に襲われたという生徒からの報告を聞いた教師らが、生徒たちをテントに帰してあたりを見て回ったところ、首を切断された上野原涼子うえのはらりょうこ、頭をつぶされた名越由香なごしゆか、内臓をくり抜かれた水沢恵みずさわめぐみ、もはや原形をとどめていない西沢健介にしざわけんすけ、頭から血を流してのびている悟を見つけて、警察と救急に連絡した。
 ただちにやってきた警察により、現場は封鎖された。
 警察はまもなく、森の中をうろつく不審な男を発見した。
 男は倉橋遊真くらはしゆうまと名乗り、上野原の家庭教師であることと、上野原の死体からブラジャーをぎ取ったことをその場でみとめた。
 倉橋遊真は確保された。
 警察としては、倉橋遊真の証言をもとに、捜査の範囲を広げたかったが、真夜中で視界が悪く、さらには熊がひそんでいた場合、警察の装備だけでは太刀打ちできなかったので方針を変え、現場は放置することにして湖畔の警備を固め、テントにいる生徒たちから事情を聞くことにした。
 死体となって発見された水沢恵とペアを組んでいた舞草まいくさみのりの証言によると、2人はきもだめし大会の最中に、ヘッドライトをつけた人物を見かけたが、教師が見回りをしていると判断して深く考えず指定されたコースを進んだ。しかし事件当日、教師はゴール付近しか見回りをしていなかった。
 やがて2人は熊に襲われた。
 水沢恵は熊に腹を食い破られ、舞草みのりはその隙をついて逃げ切ったがとちゅうで道に迷い、そのために教師たちへの報告が大きく遅れてしまった。
 この舞草証言のほかにめぼしいものはなく、警察はまだ息のある悟に期待したが、意識は回復しなかった。こうして初日の捜査は終了となった。
 翌朝、学校関係者はバスに乗って大尻湖おおじりこを去り、入れ替わるように地元の猟友会がやってきた。
 猟友会が警戒する中で、現場検証がはじまった。
 夜のうちにはあったはずの西沢健介の死体が、忽然こつぜんと消えていた。
 猟友会の意見によれば、熊がゆっくり食べようとして運んだ可能性があるとのことで、森の中をさがしてみると、土に半分ほど埋められた西沢健介の死体が見つかった。昨日見つけたときよりも損壊がはげしく、骨や肉の一部が欠けていた。
 ほかの死体はぶじに回収された。
 検死の結果、水沢恵と西沢健介は熊による食害がみとめられ、上野原と名越由香は刃物による人的被害、殺人と断定された。死因はどちらも出血性ショックだった。
 鶏荷とりに警察署で取り調べを受ける倉橋遊真はしかし、上野原の死体から下着を剥ぎ取ったことはみとめたが、殺人については否認していた。
 倉橋遊真の供述は、教え子である上野原に以前からほのかな恋愛感情を抱いており、事件のあったその日はどうしても会いたくなって車を飛ばし、きもだめし大会が行われている湖畔のハイキングコースをうろついていたところ、死体となった上野原を発見して、思わず下着を盗んだというものだった。
 実際、大尻湖の付近にあるパーキングエリアに、倉橋遊真が所有する赤いスポーツカーが停まっていた。
 倉橋遊真は去年からつづく少女連続殺人事件の3番目の被害者、倉橋詩織しおりの兄ということもあり、「ついに犯人発見か?」という期待が警察内部でふくれ上がった。
 しかし上野原の死体の出血量から見て、倉橋遊真が殺害したのであれば相当量の返り血を浴びているはずだがまったく汚れておらず、本当に下着を盗んだだけという判断が下されたが、重要参考人であることに変わりはなく、ひきつづき事情聴取がつづけられた。
 多くの犠牲者を出した鶏荷中学校は休校となり、事件発生の翌日には、緊急の保護者会が開かれた。
 校長は、熊の襲来を予測できなかったことをび、来年からの宿泊学習を中止すると発表したが、殺人事件にかんしては、「捜査に支障をきたすのでノーコメントとさせていただく」とくり返し、保護者からの不信を買った。
 その後、司法解剖を終えた死体が家族のもとに戻り、犠牲者たちの葬儀がいっせいに行われた。
 葬儀に押しかけたマスコミはテレビ受けする魅力的な素材をさがし、その結果、笑みを浮かべた上野原の遺影を、各テレビ局があらゆる角度から撮影した。
 お茶の間のテレビ画面に、上野原の笑顔が咲き乱れたころ、大尻湖で一頭の雄熊が仕留められた。
 胃の内容物から人骨が見つかり、それは西沢健介の欠損した部位と一致した。
 6月26日。
 葬儀が一段落つき、中学校が再開された。
 教室に、見船美和みふねみわの姿はなかった。
 学校前にはマスコミが張りついていて、映像素材と新情報をかき集めようとしていたが、けっして相手をしてはならないという学校側のお触れを守り、生徒たちは無言で校門に入った。
 それでも一部の生徒が取材に応じた。
 上野原がひそかに売春をしていたという情報が、そこから漏れた。
 ある女子生徒(顔にはモザイクがかけられ、声も加工されていたので、だれなのかはわからなかった)いわく、上野原はああ見えて金遣いが荒く、自分も五千円ほど貸していて、あるとき返してほしいと頼んだところ、「水旗町みずはたちょうでバイトをしたあとね」と言って、アルバイトの内容を聞いたところ、売春をほのめかしたというのだ。
 この証言映像がテレビに流れてまもなく、1人の男が水旗警察署にやってきた。
 中山憲二なかやまけんじと名乗った五十五歳の男は、去年の春ごろ、鶏荷駅にいる上野原に声をかけたことで知り合いになった。
 知り合いになってまもなく、上野原のほうから売春を持ちかけてきたが、自分はべつにそのようなことをするつもりはなく、歳の離れた友人としてつき合っていたが、その際、近所をいっしょに歩いていたところを住人に目撃されていたため噂になっていて、潔白を証明するためにやってきた、自分は上野原を金で買ったこともないし、殺してもいないとのことだった。
 警察がしらべたところ、中山憲二は事件当日の夜、水旗町のカラオケスナックで夜中まで歌っていたところを複数人から目撃されており、アリバイは立証されたが、売春にかんしては不確定だった。
 笑顔が印象的な上野原の遺影をおぼえていた多くの人々は、惨殺された美人女子中学生が、裏で売春をしていたというスキャンダルに沸いた。
 マスコミは新たな燃料を投下すべく、上野原の父親が院長を務める『上野原メンタルクリニック』のドアを叩いたが、「本日休業」の札が貼られていて、自宅兼病院には人の気配がなかった。上野原の両親は完全に雲隠れした。
 こうして人々の関心が、いつまでたっても解決されない殺人事件よりも、上野原の売春にシフトしつつあった7月2日、倉橋遊真が自殺した。自分のズボンをトイレのドアにくくりつけ、首を吊っているところを発見された。
 以上は、すべて悟があとから聞いた話である。 

  悟は目を覚ました。
 ゆっくりと上体を起こして、まず視界に入ったのは日めくりカレンダーだった。
「7月4日(火)」と記されていた。
 宿泊学習に出発したときから、ずいぶんと日数が飛んでいて、悟は混乱した。だれにアピールするわけでもなかったが、思わず頭を押さえた。
 違和感があった。
 鏡をのぞくと、自分の顔が倍くらいにふくれ上がり、さらには包帯がぐるぐる巻きになっていた。
 ドアが開かれる。
 中年の女が顔をのぞかせた。
 その女が看護婦の格好をしていたので、悟はここが病院で、自分が病室のベッドで眠っていたことを知った。
 病院?
 どうして?
 宿泊学習は?
「……あっ」
 自分の意志とは関係なく、そんな声が漏れた。
 悟が目覚めていることに気づいた看護婦も似たような声を発して、「今、先生を呼んできます」と廊下を駆け出した。
 看護婦はまもなく、老いた医師を連れて戻ってきた。
「うん、目が覚めたみたいだねえ。よし、よし……」
 老いた医師はしわだらけの手を悟の肩に置いてから、瞳孔にライトを当てたり、いくつかの形式的な質問をしたりしたあと、
「異常もなさそうだし、受け答えもしっかりしている。よし、よし、脳波も確認しておこう」
「あの、僕は」
「心配しなくてよろしい。脳に問題がなければ、今日にでも退院できるから」
「僕は……いや」
「それにしても、うん、ずいぶんな災難だったねえ。うん、うん、よく生き残ったものだよ」
「上野原さんは?」
 悟はたずねた。
 老いた医師はうなずくばかりで答えず、
「水を、飲むかね」
「上野原さんは?」
「水を、飲むかね」
「……はい」
 紙コップに水が注がれた。
 一口飲むと、乾いた土にバケツの水を流したように全身にしみこんだ。
「よし、よし、ゆっくり飲みなさい」
 老いた医師はそんな悟を見つめながら、
「飲みながら聞いてほしいんだがねえ、きみはこれから、いろいろと質問を受ける流れになっている」
「え……」
 悟はコップから口を離した。
「もし話すのがいやになったら、具合が悪いとか頭が痛いとか叫びなさい。うん、うん、きっとそれでなんとかなる」
「あの、質問っていうのは……」
「わたしもねえ、医者の立場からノーと言ったんだが、お上には逆らえないものだよ。うん、気をしっかりな」
 老いた医師と看護婦は病室を去った。
 不安をかかえつつ待っていると、スーツを着た2人組の男が病室に入ってきた。
 彼らは壁でも作るようにならんで立ち、ベッドにいる悟を見下ろした。
 2人組の男は、鶏荷警察署の宮島みやじま原田はらだと名乗ると、事件当日の状況を話してほしいと言った。
「その前に、聞きたいことがあるんですけど」
「なんだね」
「上野原さんは?」
 すると2人組は顔を見合わせ、宮島と名乗った男が口を開くと、
「ほう。その名前が出てきたということは、きみの記憶は正常なようだね。熊にぶんなぐられたと聞いていたので、頭がパーになったんじゃないかと心配だったんだ。はっはは!」
 甲高い声で笑った。
 悟はふたたびたずねた。
「上野原さんは?」
「亡くなった」
 わかっていた。
 聞くまでもなかった。
 自分はそれを知っている。
 上野原が殺されるところを、目の前で見たのだから。
 あのときの映像がよみがえる。
 頭の奥が危険信号のようにチカチカする。
浅葉あさば悟くん、つらいのはわかるが、どうだね、話せそうかね」
 宮島はそんな悟を見下ろしながら言った。
 悟はうなずいた。
「6月8日、きみたち鶏荷中学校の二学年は、大尻湖に宿泊学習に行って、その夜、きもだめし大会をした」
「はい」
「そこで殺人が起きた」
「はい」
「きみが見たことを話してほしい」
「えっと、僕はまず、きもだめしに……いや、僕とペアになった友だちがいて、名前がたしか……」
「西沢健介」
 原田がメモ帳を見た。
「はっははは! 浅葉悟くん、きみは上野原の名前はおぼえているのに、お友だちの名前はわすれてしまったんだね」
 宮島がふたたび笑った。
「……僕と西沢でペアを組んで、きもだめしのコースを回りました。それでしばらく進んでいたら、コースの前に熊がいて……あの熊はどうなったんですか?」
「猟友会が始末した。熊と遭遇するまでに、おかしなことはなかったかな? たとえば、物音がしたとか、だれかにあとをつけられたとか」
「どこかで叫び声がしたような」
「男の声だった?」
「ちょっと、思い出せません」
「ふむ。つづけて」
「えっとそれで、熊が立ち上がって、西沢がライトを持ったまま逃げて……そう、熊がそのあとを追いかけて、1人になりました。僕も逃げようとしたんだけど、ライトを持ってないから……」
「ライトがないのに、どうやって逃げたんだね?」
「手さぐりで、必死に……」
 自分の手を見ると、無数の切り傷があった。逃げている最中に負ったものだろう。
 宮島も悟の切り傷を見ながら、
「浅葉悟くん、それできみは熊から逃げ切ったわけかな?」
「はい……だけどコースをはずれてしまって、明かりもないからまっくらで、なにも見えなくて……いや」
 だんだん思い出してきた。
「いや……ちがう。明かりはありました。あの、僕、見たんです。茂みのあたりに、頭にライトをつけたやつがいて、そいつが人を殺しているところを。あれは……だれが殺されたんですか? たぶん女子だと思うんだけど、みんなおなじジャージだからわからなくて……」
「名越由香」
 原田が口にした名前は、聞きおぼえがあるような気もしたが、ぴんとこなかった。
「浅葉悟くん、つまりきみは、名越由香が殺されているところを目撃したわけだね。いやあ、優秀優秀。はははは!」
 相槌のつもりなのか、宮島はまた笑いながら、
「どんなふうに殺されていた?」
 ヘッドライトをつけた人物が、その名越由香という女子生徒の腹にナイフを突き立て、倒れたところをなんども踏みつけたことと、自分が隠れている茂みのまわりに、内臓が飛び散っていたことを説明した。
 すると宮島は、名越由香にも内臓にも興味がないように、
「犯人の顔は見たかね」
「いいえ……」
「きみの知っている人だった?」
「さあ、ライトが逆光になっていたし、顔を見るどころじゃなかったので、はっきりはわかりません」
「はっきりじゃなくてもいい」
 本当におぼえていなかった。
 犯人の顔はおろか、年齢も性別もまったくわからなかった。
 悟がそう答えても宮島は食い下がり、
「本当かい? よく思い出してごらん」
 もしかして警察は、自分の父親を疑っているのだろうか?
 悟はようやく、そのことに思い至る。
 警察がどこまで知っているのかを知りたかったが、このタイミングで父親の名を出すのが悪手なのを理解していた悟は、ぐっとこらえて、
「犯人の顔はおぼえてないけど、僕が隠れている茂みのそばに、上野原さんがいました」
 新しいエサをまいた。
「くわしく聞かせてくれ」
 宮島が食いついた。
 茂みにうずくまる上野原は極度に狼狽ろうばいしていたし、悟も似たような状態だったので、こまかいことはおぼえていないが、上野原が震える声で、熊がどうこうと言っていたのは記憶にあった。
「ふむ。また熊か。じつはね、上野原涼子のペアが名越由香なんだ。彼女たちも熊に襲われたのかもしれないね。これからきもだめしをするときは、猟師を同行させるべきだな」
 宮島はそんなことを言ってから、
「で、きみと上野原涼子はそれからどうした?」
「逃げようとしました。でもそのとき、上野原さんがライトをつけてしまって、それで犯人に見つかったので、2人でとにかく走りました。でも上野原さんがころんで、犯人につかまって……」
 殺された。
 それを見た。
 目の前で見た。
 ひどい頭痛がする。
 吐き気がやってきて、悟は思わず、ベッドの上でうずくまった。
 宮島は気遣うどころか質問をかさねた。
「きみはそれで、上野原涼子が殺されるところを見たかね」
 悟はうなずく。
「顔をつぶされるのを見た?」
 悟はうなずく。
「腹にナイフを刺されるのも見た?」
 悟はうなずく。
「内臓を掻き出されるのも?」
 悟はうなずく。
「性器にナイフを突き立てられるのも?」
 悟はうなずく。
「首を切断されるのも?」
 悟はうなずく。
「ふむ。でもそれって、おかしな話じゃないか。どうして犯人はきみを襲わなかったんだろう」
 悪趣味な質問への不快感と、やはり父親を疑っているのではという不安が混ざり、吐き気が増した。
「……とにかく僕は、犯人が上野原さんを殺している隙に、上野原さんのライトを拾って逃げました。そしたらまた、あの熊がいました」
「それで?」
「それだけです。あとはおぼえていません」
「熊と再会したのに、おぼえてないってことはないだろう」
「でも本当なんです。逃げてるとちゅうで熊と会って、それきり……」
「熊にぶんなぐられた記憶もない?」
「はい」
「耳のことも?」
「耳?」
「はっははは!」
 宮島はおかしなタイミングで笑い声を発して、
「いやあ、こいつは失敬失敬。ま、大変参考になりました。どうもありがとう。今日のところはこれで失礼するが、また近いうちに、話を聞かせてもらうことになると思うので、その頭を、せいぜい大切にしておいてくれ。というわけで、じゃましたね。お大事に」
「あの、耳って?」 

  左耳がなくなっていた。
 脳波の検査を終えて、さきほどの老いた医師が新しい包帯を巻きながら、耳をうしなったていどですんだのは奇跡みたいなもので、ふつうは熊の一撃を頭に食らったら、骨が砕けて即死するものだと言ったが、なぐさめにもならなかった。
 左耳がない。
 その事実は悟に思いがけないほどの喪失感をもたらし、家族がむかえにきても、母親に泣きつかれても、なんだかうまく感情が乗らなかった。
 父親が運転する白いワゴンに乗って家に戻り、ひさしぶりに弟のとおると再会しても、それでもやはり感情を置き去りにしてきたような感覚だった。
「……ねえ悟、お医者さまに聞いたんだけど、耳のことが気になるなら、軟骨を移植して治せるらしいから、すぐに手術しましょう。母さんの軟骨をあげてもいいから。ね?」
 家に帰ってから、母親は従者のように悟のあとをついて回り、やさしいことばをかけつづけた。
 なんにも思わなかった。
 その日の夜、祖母の家に行き、退院パーティが開かれた。
 クラスメイトが惨殺され、悟も左耳をうしなっているので、大はしゃぎというわけではなかったが、それでもぶじに退院できたことに、母親と祖母は泣いてよろこんでいた。
 透は静かだった。
 なにかを考えこんでいるらしく、小学生には似合わないほど、眉間に深いしわを寄せていた。
 だが悟にしてみれば、弟の変容より気になるのは、父親の変わらなさだ。
 父親は今日も、ぼんやりしたゼリーの中で生きているように反応が鈍かった。
 息子が生還したというのに、きわめて淡々とすごしていた。いつものように。
 父親が一連の殺人事件の犯人だったとしても、自分はきっとおどろかないだろうと悟は思った。
 だとしても、
 ……殺しすぎだ。
 岸谷真梨子きしたにまりこ
 飯田幸代いいだゆきよ
 倉橋詩織。
 大島雫おおしましずく
 名越由香。
 上野原涼子。
 父親が少女連続殺人事件の犯人としても、なぜこれほどまで大勢の少女を殺すのか。
 動機が思いつかない。
 少なくとも、手もとにある材料だけではわからない。
 文通。
 ひさしぶりに、その単語を思い出す。
 父親の文通相手が、倉橋詩織だけとはかぎらない。被害者全員と、雑誌の文通コーナーで知り合っていた可能性もある。
 もちろん、なんの確証もない。
 唯一の証拠である血のついたコートも燃やしてしまった以上、どれだけ推論を深めたところで机上の空論にすぎず、父親の口から罪の告白を聞き出すしかなかった。
 見船が言ったように、もういいかげん、父親を直撃してもいいのかもしれない。
 退院パーティが終わると、祖母の家から自宅に戻り、ひさしぶりに自室のベッドで眠った。
 悪夢を見た。
 上野原の生首が、うらめしそうに悟を見上げながら、
「おっおっ」
 と言った。
 悟は飛び起きた。
 全身に汗が浮かび、左耳のあった部分がずきずきと痛む。包帯の上から頭を押さえようとしたが、その手は震えていた。
 しかしそれは恐怖からではなかった。
 怒り。
 悟は怒りによって震えていた。
 なにに怒っているのか?
 すべてだ。
 すべてに対する怒り。
 上野原が殺されたという事実。上野原を殺した犯人。そこから逃げた自分。襲ってきた熊。うしなわれた片耳。感情が機能しない自分。終わらない事件。やってきた警察。そして父親。
 すべてのすべて。
「……透、起きてるか?」
 2段ベッドの上にいる透に声をかけたが、反応はなかった。
 悟は音を立てないように起き出して、机の引き出しを開けた。
 奥に手を入れる。
 ない。
 川べりで拾ったマンガ雑誌、『ありす・くりーむ』がないのだ。
 血のついたコートが机からなくなっていたとき、父親もこんな気分になったんだろうなと、悟はぼんやり思った。 

  体調に問題はなかったが、「耳が痛い」と嘘を吐いて学校を休んだ。
 母親は心配そうな表情で、毛布の上から悟の体をさすりながら、
「悟、あんた、むりしなくていいんだからね。すっかりよくなるまで、家で休んでいていいんだからね。なにかほしいものある?」
「ゼリー」
 ほしいものなど今やすべてうしなわれていたので、悟は適当に、風邪でもひいたときのようなことを言った。
「わかった。今すぐ買ってくるから。ほら透、あんたはさっさと準備しなさい。遅刻するよ遅刻」
「はい」
 透は服を着替えながら返事をした。
 母親は子供部屋を出て行った。
「透」「兄ちゃん」
 2人は同時にことばを発した。
 いつもの悟なら、透にゆずっていただろうがそうはせず、
「なあおまえ、どうしたんだよ。やけに静かだけど」
「…………」
「話したいことがあるのか」
 玄関のドアが閉まる音がした。
 母親がゼリーを買いに行ったのだろう。
 父親は朝の早いうちから仕事に出ている。
 今、家に大人はいない。
「ぼく……水泳教室に通ってるでしょ」
 ややあってから、透はようやく口を開き、衝撃的な告白をした。
「そこにね、上野原さんも通ってたの」
「上野原って、上野原涼子?」
「うん、殺された上野原さん」
「知らなかった」
 そういえば上野原が以前、水泳がどうこうと話していたことを思い出した。
 透は脱ぎ捨てたばかりのパジャマに、ぼんやりした視線を落としながら、
「上野原さんとは歳が離れてるから、ちゃんと話をしたことはないんだけど、ただ、ぼくの友だちと……」
「うん」
「…………」
「透、大丈夫か?」
「大丈夫……」
 透は小さな体を奮い立たせるように、短く息を吐くと、
「あのね兄ちゃん、これは少し前のことなんだけど、ぼくのクラスの女子も、おなじ水泳教室に通ってて、それで上野原さんとその子が、おかしな話をしているのが聞こえたんだ」
「どんな話だった?」
「ぼくは信じてなかったんだけど……」
「どんな話だった?」
「…………」
「話したくないんだな」
「ごめん」
「いいよ。わかるよ」
「……学校行ってくるね。兄ちゃん、テレビを見て」
 透はランドセルを背負って、子供部屋を出た。
 悟は起き上がると、テレビのワイドショーにかじりつき、自分が意識をうしなっているあいだに判明した事実をかき集めた。 

  翌日、悟は学校に向かった。
「むりして行かなくてもいいのよ。しばらく休んでてもいいんだからね」
 母親はそう言ってくれたが、悟は頭に巻いた包帯を微調整しながら家を出た。
 校門前には、大勢の記者が待ち受けていた。
 彼らは登校中の生徒に、だれかれかまわずカメラとマイクを向けていたが、生徒たちは見えないものとしてあつかっているらしく、すいすいと避けて校門をくぐっていた。
 悟のもとには、記者がひときわ殺到した。
 記者はすでに悟の情報をつかんでいるだろうし、なによりよく目立つ包帯をしているのだから、それは当然のことだった。
 記者に囲まれた悟は、大量のマイクと質問を向けられた。
「浅葉悟くんですね!」
「一言だけでもお願い!」
「耳はもう大丈夫ですか!」
「どうやって逃げたんですか!」
「犯人の姿は目撃したんですか!」
「友だちが殺されるのを見ましたか!」
 責め立てられるような調子に、まるで自分が事件の犯人みたいだなと思い、少しだけおかしかった。
「答えますよ。ちゃんと答えます。そのかわり、こっちも聞きたいことがあります」
 悟は言った。
 自分の口から出てきたものではないように聞こえた。
「なにを知りたいんだ?」
 記者の1人がたずねた。
「上野原さんが売春をしていたことを話した女子生徒、あれ、だれですか?」
「悪いけどね、そういうのはね、答えられないんだよ」
 小太りの中年記者が言った。
「どうして」
「取材源の秘匿といってね、そういうのは教えてはならないことになってるんだよ」
「じゃあ、あなたには話さない」
 悟は間を置かずにそう言って、
「だれかほかに、あの生徒のことを教えてくれる人はいますか? 教えてくれたら、熊に襲われた話をたくさんしますけど」
「よしきた。教えよう」
 べつの記者が手を挙げると、ほかの記者も次々と、「うちも教えるぞ」、「うちも!」と言った。
 すると最初は拒否していた中年記者も、「……ここだけの話にしてくれよ」と折れて、悟の提案に乗った。
 悟は求めている情報を聞いたあと、記者たちの前で熊の話をした。
 教室に入った。
 クラスメイトの目が、いっせいに向けられた。
 だれも話しかけてこなかった。
 以前までの悟であれば、耳のことをバレたくなくて挙動不審になったり、上野原の件を聞かれたくなくて殻に閉じこもったり、そのくせ本当にだれも声をかけてこなければさみしくなったりしただろうが、しかしこのときの悟は無視されて気分爽快だった。
「はっはは」
 悟は席につくと、あのいけすかない警察を真似て、笑い声を出してみた。
 クラスメイトは遠巻きに悟を見ていたが、それだけだった。
 沈黙する教室の中で、悟はだれよりも自由を感じていた。
 べつの人間に生まれ変わったような気さえしていた。
 記者たちと交渉したときもそうだが、耳をうしなったことで、これまで悟が大切にしてきた人間の情緒も同時にうしない、自分本位の生き方ができるようになったようだった。
 だとすれば人間とは本来、こんなにも自分本位な生き物だったのか?
 自分以外のみんなの世界は、こんなにも自分の主張をひたすらに押しつけるものだったのか?
 そりゃ殺人事件も起こるだろうなと悟は思い、ふたたび笑った。
 教室は静かだった。
 そんな教室に、見船の姿はなかった。
 結局、授業が終わるまで、だれも話しかけてこなかった。
「先生」
 なので帰りの会で、悟のほうから動くことにした。
「え、なんですか……」
 担任教師はおびえたような表情になった。
「先生、見船さんはどうして休んでるんですか?」
「あの、それは、ご家庭の都合で……」
「学校のプリント、ちゃんと渡してますか?」
「だからそれも、ご家庭の都合で……」
「僕がプリント渡しますよ」
「えっ」
「僕がプリント渡しますよ」
「でも」
「僕がプリント渡しますよ」
 最初からこうすればよかった。
 みんなこんなにも、生きるのが楽だったのか。だからいつも、楽しそうに笑っていたのか。
 少しだけ、泣きたくなった。 

  担任教師から教えられた住所をたどると、悟の家からそう遠くないところに、見船の住まいはあった。
 住塚すみづか第2公園のある通りに建つアパートは、好意的に表現すれば年季が入っていて、そうでなければ倒壊寸前のボロ屋だった。
 壁の塗料はほとんど剥がれ、階段はこれ以上ないくらいに錆びていて、今にも崩れ落ちそうだった。
 プリントを手にした悟が、そんな階段に足をかけると、踏み板は不安な音を立てた。
 薄暗い廊下には、生活の雑多なにおいが充満していた。
 悟は廊下を進み、見船が暮らす202号室のドアの前に立った。
 ノックをする。
 反応なし。
 もういちどノック。
 反応なし。
 ドアの横にある電気メーターを確認すると、円盤が元気に回転していた。それは室内で電力が使われている証拠だった。
「見船さん」
 悟は呼びかけながらドアを叩いた。
「僕です。浅葉です。学校のプリントを持ってきたんだけど。ねえ、ねえ」
 ノックをくり返す。
 やがて鍵が開けられ、ドアの隙間から見船の青白い顔が浮かんだ。
 見船は呪うような目つきで、悟をじっと見つめたまま、
「うるさい」
「ごめん」
 悟は反射的にあやまった。
 ドアの隙間から見える見船は、学校指定のジャージを着ていた。
「で、なに」
「なにって」
「なんでこんなところにきてくれるのよ」
「学校のプリントを……」
「それはもう聞いた。で、それだけ? だったらプリントはそのへんに捨てておいて。じゃあ……」
 見船はドアを閉めようとした。
「まって。上野原さんを売ったやつがわかったんだ」
「え」
「うちのクラスの早坂朱乃はやさかあけのだ」
 悟はつづけて、
「あと、僕が入院しているあいだに、隠してたマンガ雑誌がなくなった。『ありす・くりーむ』とかいう、文通コーナーが載ってたあの雑誌が」
「どこに隠していたの」
「机の引き出しの奥」
「親子そろって机が好きですね。それで、どうするんですか」
「僕はもう、父さんにぜんぶを聞こうと思ってる」
「…………」
「見船さん、僕は本気だ。これは本当の気持ちなんだ」
「……入って」
 見船はドアを開けた。
「おじゃましま……」
 玄関に足を踏み入れた瞬間、悟はことばをうしなった。
 古い型のキッチンには食器が堆く積まれ、ゴミ箱のような腐臭を発していた。ガス台のまわりは、なにがあったのか黒焦げで、その上にぬるぬるしたカビのようなものが膜っぽく貼りついていた。
 悟は呼吸をとめながら、廊下とは呼べない長さの廊下を進み、見船の部屋に入った。
 そこは四畳半で、死んだネズミのような色をしたカーペットと、小さな穴がいくつも空いたカーテンがまず見えた。
 机にはたくさんの本が積みかさなり、それは床の上まで侵食していたが本棚はなく、ところどころにヒビの入った壁には、ポスターの1枚も貼られていなかった。
「こちらにどうぞ。座布団はありません」
 見船は本をどかして空間を作った。
 悟は指定された場所に座ったが、カーペットはやけに薄く、すぐに脚が痛くなった。
 見船は正面に座った。
「私、貧乏なんです」
「そうみたいだね」
「お茶は出ませんよ」
「べつにいいよ」
「ジャージを着ているのは、ほかにあまり服がないからです」
 いつも制服姿だったのも、それが理由なのだろう。もしかしたら散髪代もなくて自分で切っているために、あのような粗雑な髪型なのかもしれないが、ずけずけと聞くわけにはいかなかった。
 見船は短く刈った頭を無造作に掻きながら、
「それにしても浅葉くんは、ビザンツ帝国をほろぼしたメフメト2世みたいですね」
「え?」
「なかなかアバンギャルドに包帯を巻いているので。けが、大丈夫?」
「熊にやられたんだ」
「興味深いけど、時間がないのでこんど聞きます」
「わかった」
「お父さんと腹を割って話すというのは本当ですか?」
「上野原さんが殺されたから」
 悟は言った。
 見船はなにも言わなかった。
 しばらく2人でだまっていた。
 外で強い風が吹き、建てつけの悪い窓枠が揺れた。
 見船が立ち上がり、部屋を出た。
 しばらくして、1本の缶ビールを手にして戻ってくる。
 見船はフタを開けると、ぐいっと勢いよく飲んでから悟に缶を渡した。
 悟はほんの少しだけ躊躇ちゅうちょしたが、そんな自分を恥知らずだと感じて、缶を受け取る。
 人生ではじめてアルコールを口にした。
「……これでみんな、悪いやつだね」
 悟は缶を床に置いた。
「浅葉くんは南極探検のことを、どれくらい知っていますか?」
「なんの探検だって?」
「南極探検」
「よくは知らないけど……。タロとジロくらいしか」
 悟はまだ平和だった時代に、父親といっしょにビデオで見た、『南極物語』という映画を思い出した。
「南極点を目ざしたイギリス人医師、ウィルソンは、雪目を防止するためにコカインを点眼していたそうです」
「見船さんはいろんなことを知ってるね」
「私たちもこれから南極点に向かうわけですから、悪徳の力を借りる必要があります。コカインは用意できないけど、お酒なら死ぬほどあるから」
「で、そのウィルソンって人は、どうなったの?」
「南極点には到着しました。でもライバルが一足早く到達していたのを知って、失意の底で帰るとちゅうに、遭難して死にました」
「僕は死なないし、だれよりも早く事件の真相に到達してやる」
 悟ははじめての酔いにまかせて宣言して、
「僕はもう、だれにも気を遣わない。父さんにも気を遣わない。上野原さんを殺した犯人を、かならず見つけてやる」
「それがお父さんだったとしても?」
「もちろん」
「見つけたら、どうするの?」
「…………」
「警察に突き出す?」
「わからない」
「殺す?」
「わからない」
 悟はくり返して、
「わからない。そんなことはわからないよ。僕はただ、上野原さんを殺した犯人を見つけたいんだ。それだけなんだ。見船さんはちがうの?」
「どうやら、私の話をしなくちゃいけないみたいですね。まったく、ビールを飲んでおいてよかった」
 見船は静かにうなずいて、
「浅葉くんの決意は、よくわかりました。これから『作戦会議』を開きます」
「ひさしぶりだね」
「じつは、浅葉くんに言ってないことがあるの、大島雫のことで」
 大島雫。
 見船の知り合い。
 少女連続殺人事件の4番目の被害者。
 そして、悟が見つけた生首。
 見船は言った。
「大島雫は売春をしていました。それも、強制的な売春です」
「……は?」
小尻湖こじりこって、ごぞんじですよね。水旗町にある、ハクチョウがたくさんやってくる湖なのですが」
「今年の正月に、家族で遊びに行ったけど」
「小尻湖の湖畔に、『ビッグ・アイランド』というコテージがあったのを、見ました?」
「うん」
「そこでは、大島雫の胴体が見つかりました」
「知ってる」
「そんな『ビッグ・アイランド』は、大島雫の父親が経営しています」
 ビッグ・アイランドを日本語に置き換えたら大島になるので、もしかしたらそうではないかと、うっすら考えていた悟は、さほどおどろかなかった。
 しかし、見船がつづけて発したことばを聞いて、悟は現実感をうしなうほどの衝撃を浴びた。
「大島雫はそのコテージで、むりやり売春させられていました。彼女の話によれば、ほかにもおなじような目にあっている人が複数いるみたいなんです」
「……ちょっとまって。え、なにそれ」
「売春宿です」
「本当の話なの? 信じられない」
「大島雫の証言だけですが、私は信じています。これは嘘なんかじゃな……」
 そのとき、薄い壁の向こうから、ガチャガチャと音が聞こえた。
 玄関ドアを開ける音だった。
 見船はすぐに立ち上がり、まだ中身の残っているビールの缶をつかむと、窓から思い切り投げ捨てた。
「見船さん……どうしたの」
「帰ってきた」
「だれが」
「父です」

(つづく)

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連載【妻を殺したくなった夜に】
毎月最終火曜日更新

佐藤友哉(さとう・ゆうや)
1980年北海道生まれ。2001年『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』でメフィスト賞受賞。2007年『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を最年少で受賞。他の著書に『クリスマス・テロル invisible×inventor』『世界の終わりの終わり』『デンデラ』『ナイン・ストーリーズ』『転生! 太宰治 転生して、すみません』『青春とシリアルキラー』等がある。
Twitter:@yuyatan_sato

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