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第10回 ジェノサイド 佐藤友哉「妻を殺したくなった夜に」

北国の地方都市を舞台に、少女連続殺人事件をめぐる中学生男女の冒険を描く、佐藤友哉による青春ミステリー。
[毎月最終火曜日更新 はじめから読む

illustration Takahashi Koya


 キャンプファイヤーがはじまった。
 夜の湖畔にやぐらが組まれ、実行委員たちがトーチで着火する。
 炎はたちまち成長して、ときおり高く舞い上がると、不用意に近づいてきた羽虫を呑みこんだ。
 キャンプファイヤーがはじまった。
 各クラスが前に出て、炎を囲みながら、それぞれの出し物を披露する。ちなみにさとるのクラスは、『パラダイス銀河』という、去年流行った歌を合唱した。
 キャンプファイヤーがはじまった。
 悟の気分はふつうに死んでいたので、なにが燃えようが、だれが歌おうが、心底どうでもよかった。
 歌うふりをしながら口をぱくぱくさせていると、燃えさかるやぐらの向こうに、上野原涼子うえのはらりょうこの姿が浮かんでいた。
 炎に照らされた上野原は、みんなとおなじく学校指定の、ひどくダサいジャージ姿だったが、それでもなにかのまちがいのように美しかった。
 その隣では、見船美和みふねみわが歌っていた。
 協調性ゼロの見船が、クラスメイトとリズムを合わせながら、光GENJIを歌っている。
 信じられなかった。
 つまらない合唱が終わると、まばらな拍手を浴びながら、悟たちのクラスはもとの位置に戻った。
「ちゃんと歌ってえらいねー」
「意外といい声してるじゃん」
「見船っちかわいかったよ!」
 まわりの女子から子猫のようにかまわれる見船は、いやそうな顔つきで、「……うるさいです」と文句を言ったが、その態度は逆効果で、「かわいいー」と言われて、耳が見えるくらいまで刈り上げた髪をもみくちゃにされた。
「やめてくれません?」
 見船は髪を直しながら言ったが、まんざらでもなさそうな様子だった。

 きっかけは二ヶ月前、『倉橋くらはし商店』で奇妙な顔合わせをした翌日にさかのぼる。
 宿泊学習の班を決める学級会が行われた。
 悟はそのあいだ、寝たふりをしていた。こういうものはクラスの上位連中が勝手に班を作り、残った者が、その場かぎりの集団を結成するものと相場が決まっていたし、実際にそうなった。声の大きな数人の生徒が会議の進行を無視して、次々に仲良しグループを組んだ。
 あまりに予想通りの展開に、かえって安心した悟は、なにも発言せず机に突っ伏していたが、
「ねえ見船さん、よかったらウチの班にこない?」
 上野原のことばにおどろき、思わず顔を上げた。
 おどろいているのは、悟だけではなかった。ほかのクラスメイトも、上野原が集めた仲良しグループも、生徒の自主性を名目にだまっていた担任教師も、だれもが目を丸くしていた。
 もちろん、だれよりもおどろいていたのは見船本人で、それまで本を読んで自分だけの世界に浸っていたが、さすがに上野原を見やった。
 目には警戒の色が浮かんでいる。
 むりもないことだった。
 その前日、倉橋詩織しおりのことで、上野原と激突したばかりだった。
「なにを言ってるの? 冗談じゃない」
 見船は拒絶した。
「ち、ちょっと涼子……本気?」
「え? なんで見船さんなんか」
「涼子よしなよ。ね、やめよ?」
 それは上野原の女子グループもいっしょで、困惑しつつもノーをアピールした。
「こっちこそ願い下げです。あなたたちと話してるだけで、知能指数が下がりそう」
 見船が言った。
 教室がひりついた。
 いっぽうの上野原は、女王のように意に介さず、
「でも見船さんがあまされたら、かわいそうでしょ?」
 上野原の集めた班員はだれも意見できなかったし、見船は実際にあまされていたし、そうなるとどこかの班が、クラスの問題児である見船を受け入れなければならず、そんなことはだれもしたくなかったので、話はまとまった。
「それでは、これで班決めを終わります。残りの時間は各班で集まって、宿泊学習の打ち合わせをしてください」
 実行委員のクラスメイトが言った。
 ちなみに悟は、クラスの底辺にいる連中と班を組むことになった。つまらない顔をしたつまらない男子たちが、つまらない打ち合わせをはじめた。
 このあたりから、宿泊学習への一方的な希望が、悟の中から消えつつあった。
 その放課後。
浅葉あさばくん、ちょっといいですか……」
 見船に声をかけられて、廊下のすみで会話をした。
「えらい目にあいました。かわいそうな私です」
 見船はいつもの暗い顔と暗い声で、さっそく不満を口にした。
「大変だね」
 悟がそう返すと、見船はいらだちを隠さずに、
「ひとごとみたいな態度をできなくしてやりましょう。上野原涼子は、私から情報を聞き出すつもりです」
「情報?」
「昨日、私と浅葉くんは、倉橋詩織の部屋に侵入しました。あのときはうまくごまかせたけど、上野原涼子はなにかに勘づいて、私たちの真意をさぐろうとしている……。そうじゃなきゃ、私にこんなアプローチをする理由がありません」
「でも上野原さんとは、同盟を組んだじゃないか」
「浅葉くんはおめでたい人ですね。あんなものが上辺だけということくらい、あっちもわかっていますよ」
「え、ちょっとまって。僕たちが本当はなにをしているのかを、上野原さんは知ろうとしているってこと?」
「私、ずっと、そう言ってますけど」
 見船は白というより青みがかった顔に埋めこまれた瞳を、愚弄するように歪めて、
「上野原涼子はかならず、あなたにも接触してくるから、せいぜい気をつけてくださいね」
 だとすれば、まずいことになった。
 この町をさわがせている少女連続殺人事件の犯人をさがしている。
 上野原にはこのように説明したが、もちろんこれがすべてではない。
 事件の犯人は自分の父親かもしれず、さらにはそんな父親が、3人目の被害者である倉橋詩織と文通をしていたという新発見を、上野原に知られるわけにはいかなかった。
「ところで浅葉くん」
 見船はそっと顔を近づけて、
「あなたのお父さんのハガキには、どんなことが書かれていました? 昨日は上野原涼子が乱入したせいで、ちゃんと読めなかったのですが」
「ハガキなら、持ってきたよ」
「危なっかしい」
「こんなものを自分の部屋に置いて学校に行くほうが、危なっかしいよ」
「地獄のような家にお住まいですね」
 カバンから倉橋詩織の部屋で見つけたハガキを取り出して、見船に渡した。
 
 拝啓
 倉橋詩織さま
 お手紙拝読しました
 ぜひおねがいします
 念のため、これからのハガキはすべて捨ててください
 浅葉圭介
 
「これだけですか?」
「たぶん」
「本当に?」
「た、たぶん」
「上野原涼子には、倉橋詩織のハガキをしらべるという仕事をあたえています。もしそこに浅葉くんのお父さんとの文通が残っていたら、みんなバレちゃうんですよ」
「時間がなかったから、ちゃんとは見てないけど、でもこのハガキしかなかったと思う。たぶん……」
「自信のない人間って、『たぶん』が好きですよね」
 見船は鼻を鳴らして、
「なんにしても、これだけでは情報不足です。残りのハガキ、まだ処分されていなければ読んでみたいけど、その場合、上野原涼子が先に見つけてしまうかもしれません」
「もう一度、おばあさんをだまして、『倉橋商店』に入る?」
「昨日の今日ですし、上野原涼子が警戒しているはずだから、むずかしいでしょう。それにしてもひどいハガキですね。隠したい気持ちが前に出すぎていて、なんにも伝わらない。これだと、いったいなにが、『ぜひおねがいします』なのかわからないし、2人がどんな文通をしていたのかもわからない……まあどうせ、他人には見せられない内容なのでしょうが」
 おじさんと中学生の文通なんて、そもそもそれが見せられたものではないと悟は思った。
 見船はしばらくハガキを見つめていたが、それを悟に返して、
「浅葉くん、あなたのお父さんの書斎をあさって、倉橋詩織のハガキがないかさがしてみてくださいよ」
「むりだよ」
「今さら逃げるつもりですか」
「じゃなくて、僕の家……燃えたから」
 悟の家に火をつけて、めちゃくちゃにした張本人である見船は、そのことをわすれていたのか、「ああ」とつぶやいて頭をかいてから、
「では、このハガキをお父さんに見せてみてください。きっと、いい反応が得られるはずです」
「それこそむりだよ」
 悟はすぐに言った。
 てっきりまた、「今さら逃げるつもりですか」と文句が飛んでくると予想したが、
「もういいじゃないですか、そういうの。本人に直接聞いちゃいましょうよ」
「むりだってば」
「なぜ?」
「そんなことしたら、家庭が壊れる」
「もう壊れているようなものでは?」
 見船はつづけて、
「私たちはこれまで事件を追いかけてきたけども、結局、浅葉くんのお父さんが最有力容疑者なのは、一度として変わりませんでした。もういいじゃないですか。捜査もくそもありません。血のついたコートを隠して、被害者の倉橋詩織と通じていたあなたのお父さんが犯人で決まりです。最初からずっと」
「…………」
「なんかもう面倒くさいので、さっさと終わらせましょうよ」
「…………」
「あなたのお父さんが、倉橋詩織を殺して、大島雫おおしましずくを殺して、ほかの2人も殺した犯人というのは、浅葉くんだって否定するつもりはないでしょう?」
「……でも、望んじゃいない」
「どういうことです」
「僕はべつに、自分の家庭を壊してまで、犯人の正体が知りたいなんて望んじゃいない。最初からずっと」
 そもそも悟は、父親の書斎で見つけた血のついたコートを燃やして、犯罪の証拠を消そうとした。それをたまたま見船に目撃されて、しかたなく捜査に協力しているにすぎなかった。
 どうしてそんなこともわすれているのだろうと思ったが、目の前にある退屈そうな見船の顔を見て、そういうことじゃないのではと思い直す。
 見船は悟に、興味がないのでは?
 悟の父親が犯人かもしれないという理由だけで接触しているにすぎず、悟個人の主張にも人生にも、見船はまったく興味がない。悟の家がどうなっても、悟と父親がどうなってもかまわない。そんなことに、毛ほどの関心も持っていない。だから悟のパーソナルなことなどおぼえていないし、おぼえる気もない。
 だとすれば、
「見船さーん」
 そんな声が聞こえて、悟の思考はとぎれた。
 あわててハガキをポケットに突っこむ。
 振り返ると、上野原が立っていた。
「ふーん、本当にお友だちなんだね……」
 上野原の大きな瞳が、2人を交互に見る。
 肩にかかる茶色がかった髪や、制服のスカートから伸びた長い脚といった、これまで悟をうっとりさせていた上野原の魅力的な要素が、このときは妙に不安をあおるものとして映った。
 上野原はその瞳を見船に固定させて、
「あのさ、このあとみんなで班のことを話すんだけど、よかったら見船さんも参加してくれない?」
「むりです」
「なんで?」
「私、学校が終わったら、店番をしなくちゃいけないので」
「店番って、古本屋さんの?」
「よく覚えていますね」
「だって私たち、お友だちだもの」
「よしてください。冗談じゃない」
「冗談なんて言ってないよ。みんなで宿泊学習の話をしたあとに、買い物をするんだけど、見船さんもおなじ班なんだから参加するよね?」
「ですから私は、店番を……」
「そんなのはふつう、親がやるべきことじゃない?」
「私の家は、ふつうじゃないんです」
「どこの家だってふつうじゃないよ。ね、見船さん、いいよね?」
 ぐいぐい迫ってくる。
 このような展開に慣れていない見船は、返すべきことばをうしない、すっかり沈黙するばかりか、こちらに救難信号を送ってくる。悟は気づかないふりをした。見船の目がぎりぎりと鋭くなった。
「じゃあ浅葉くん、そういうことで、見船さんを借りるね。バイバイ」
 上野原は見船を回収して、すぐにそこから去った。
 あとには悟だけが残された。
 宿泊学習についての話をしたあとに、みんなで買い物。見船のような社会不適合者が入って、そんなことできるわけがないと思った。
 次の日。
 悟は朝の教室で、信じられない光景を目撃する。
 
 れいの女子グループと見船が、楽しそうに話していた。
 
 新学年の自己紹介で、話しかけるなとクラスに宣言したあの見船が、つねに本を読んでバリアを張っているあの見船が、クラスメイトと仲良くおしゃべりしている。
 見船の表情はいつもと変わらずに暗く、口数もそう多くはなかったが、それでも決していやがっていないことが、つき合いの長い悟にはすぐにわかった。
 意外な展開に、おどろくよりも、いらっときた。
 こっちは父親が殺人犯かもしれず、そのことで長いあいだ見船に脅され、家まで燃やされたのに、お前はいきなり学生生活をエンジョイかよと叫んだ。といってもそれは頭の中で叫んだにすぎず、悟の怒りはだれにも届かない。
 女子グループと話す見船は、奇妙にひきつってはいたが、ときおり笑顔まで見せていた。
 宿泊学習の班決めを契機に、見船はクラスに対する態度をやわらげた。
 その結果、悟と事件の話をする機会が減り、ひどいときなど声をかけてこない日まであった。あれほどまでに熱中していた殺人事件をわすれて、見船がなにをしているかといえば、これまで見下していた日常生活というものに浸かっていた。
 授業で手を挙げ、体育の時間に友だちといっしょに走り、給食を食べながらおしゃべりをするという、あの日常生活というものに頭から呑みこまれ、溶けこみ、ぞっとするほど楽しんでいる。
 見船はクラスの一員になろうとしていた。
 日常に取りこまれるなよ。
 勝手にそっちに行くなよ。
 お前がはじめた物語だろ。
 ぶっ殺したくなった。
 クラスの中心人物である上野原がバックにいるというのもあるが、見船はそれから数ヶ月のうちに、完全にクラスになじんだ。
 女子ばかりではなく、悟以外の男子とも話すようになり、「見船っち」などという、虫唾の走るあだ名までつけられ、大変身をとげた見船は、ちょっとばかり独特な性格だが、かえってそれがプラスになってかわいがられるタイプの女子となった。
 悟だけはなにも変わらず、腐ったような日々だった。
 ぶっ殺したくなった。

 各クラスの出し物が終わり、キャンプファイヤーは閉幕となった。
 やぐらの炎が消されて、大尻湖おおじりこの周囲では、闇が本来の活気を取り戻した。
 月明かりをわずかに反射する湖面のほかにはなにも見えず、悟は極度の暗がりの中で、ああ終わってしまったと思った。なにが終わったのかは、しかし自分でもよくわからなかった。
 やぐらの炎を消した実行委員たちが、こんどはそれよりも弱々しいハンドライトを手に集まった。
「それではこれから、初日のメインイベントである、きもだめし大会をはじめます。みなさん、事前に決めたペアを作って、クラス順にならんでください」
 いっぽうからは歓声が、またいっぽうからは、「やだあー」という悲鳴が響いたが、どちらも結局は楽しそうなので、悟はいらいらした。きもだめし大会なんて、今さらどうでもよかった。さっさとテントに戻って眠りたかった。
 いつものように悟の思いなど関係なく、ものごとは回る。
 きもだめし大会は順調に進行した。
「つづいて、福本陽介ふくもとようすけくんと鈴原誠すずはらまことくんのペアです。こっちにきてください」
 数分おきに呼ばれて、暗い森に入っていく。
 クラスの残り者で構成された悟のペアは、とくに親しいわけでもないので会話はなく、順番がくるのをぼんやり待っていた。
 これから入る森を、2人で見るともなく見ていると、列の前のほうから足音が近づいてきた。
 上野原だった。
「やっほ」
「…………」
「浅葉くんと話すのひさしぶりだね」
「…………」
「って、どしたの?」
「べつに……」
「ねえ浅葉くん、ちょっといいかな」
 上野原に対して、いくつもの不満をかかえていた悟だったが、その誘いを断ることはできなかった。
 待機列から離れて、2人で暗がりに入る。
 月明かりは弱く、上野原は顔どころか輪郭さえ曖昧だったが、それでもやはり魅力的に感じられて、悟はつい、うっとりした。カレーを作ってキャンプファイヤーの煤を浴びたあとだというのに、上野原はなんともいい香りがしていた。
 上野原はさらに、悟をうっとりさせるようなことを言った。
「浅葉くん、きもだめしのあと、2人きりで大事な話がしたいの」
「……え」
「きもだめしが終わって就寝時間になったら、テントを抜け出して湖畔まできてほしいんだ。私、待ってるから」
 一発で舞い上がった悟は、「今すぐ話して!」と言いたくなる衝動をおさえて、
「どんな話?」
「まあ、いろいろかな」
「事件のこと?」
「それもあるし、それじゃないのもある。今ここで、パッと話せる感じじゃないのよ……で、いい?」
「わかった」
 悟は必要もないのに、ジャージの上から背中をかいた。
 上野原はそんな悟を見守りながら、
「あと、見船さんのことなんだけど」
「え」
「ちゃんと人間あつかいしないとだめだよ」
「それは、どういう……」
「じゃあね。絶対に寝たらだめだよ! 大事な話なんだから!」
 上野原がもとの場所へ駆け戻ると、
「次は、上野原涼子さんと名越由香なごしゆかさんのペアの番です。上野原さん、早くきてください」
「はいはーい、今行ってますよー!」
 直後、上野原のペアは森の中に消えた。
「それでは次に、浅葉悟くんと西沢健介にしざわけんすけくんのペア、こっちにきてください」
 まだ呆けているうちに、悟たちの番になった。
 自分とペアを組む相手の名前が、西沢健介であることを、悟はこのときはじめて知った。新学年になって数ヶ月たつが、クラスメイトの名前さえ、ろくにおぼえていなかった。上野原と見船だけで世界が回っていて、それ以外の人間には関心を持ったことがなく、その発想もなかった。
 だとすれば、見船といっしょだ。
 自分のことをちっともおぼえようとしなかった見船を、悪くは言えない。
 ようやく、そのことに気づく。
 実行委員がライトを手渡しながら、注意事項を読み上げた。
「きもだめし大会は、湖畔のハイキングコースを使って、2名ずつ出発します。とちゅう、2ヶ所のチェックポイントがあるので、スタンプを押してください。ゴール地点で確認します。道には目印がついていますが、もし迷ったら、むりせずに引き返してください。それでは気をつけて」

 悟と西沢のペアは、森の中に足を踏み入れた。
 湖畔のまわりも暗かったが、森はそれ以上だった。
 闇を集めたプールに頭まで突っこまれたように暗いそこは、ライトで照らさなければ数歩先すら見えず、きもだめしを甘く考えていた悟はすぐに怖気づいた。
 耳をそばだてても虫の声が響くばかりで、悟の精神を安定させてはくれず、全方位から聞こえるそれは、かえって悟の不安を加速させた。自分がどこを歩いているのかも、コースに沿って正しく進んでいるのかもわからなかった。
「うっわー。めっちゃ暗いなあ」
 悟のペア……西沢が気楽そうに言って、関係ない場所をライトで照らした。
 どうして実行委員はライト1本で大丈夫と判断したのだろう、どうして自分ではなくこいつにライトを渡したのだろうと、悟は腹が立ってきた。
 西沢の持つライトをたよりに進むうちに、際限なく広がっているように感じた森の中に、砂利道で作られたコースがあり、ビニールひもや看板などで、それとなく動線が用意されていることに気づいたが、それでも悟はまだ落ちつかなかった。
 早くゴールに行こう。
 そしてテントを抜け出して、上野原と会おう。
 それだけを考えて歩いた。
「なあ、浅葉」
 西沢がライトを照らしながら名前を呼び、
「さっき、上野原に呼ばれてたけど、なんの話だったんだ?」
「べつに」
「お前たちって、仲いいの? 一年のとき、いっしょのクラスだったんだろ」
「べつに仲良しとかじゃないよ」
「じゃあなんで、さっき話しかけられたんだよ」
「わかんないよ」
「わかんないことないだろ」
「どうしてそんなこと聞くの」
「どうしてって、まあ、そりゃ……」
「いゃああああああああああああああ!」
 西沢の返事は、悲鳴にかき消された。
 悟たちは足を止めて、たがいに顔を見合わせる。
「な、なんだ今の」
「さあ……。オバケ役の実行委員が、女子をおどろかせたんじゃない?」
 悟は答えたが、そういうものではないことはわかっていた。
 あの悲鳴は、もっとおぞましいものだ。
 だからこそ2人は、本能的に足を止めたのだ。
 西沢は警戒するようにライトを動かしたが、異変は見つからない。
 悲鳴も聞こえなかった。
「……行こうか」
 悟がうながすと、西沢は曖昧にうなずいた。
 チェックポイントを見つけたので、手早くスタンプを押して、ライトで闇を切り裂くように進む。
 2人のあいだに会話はなかった。
 ほとんど走るような速度だった。
 そして、いきなり道が終わった。
 砂利道をふさぐように、なにか大きなものが置かれているのだ。
 だがそんなはずはなかった。実行委員の話では、きもだめしはハイキングコースを利用しているのだから、このように道がふさがれるわけがないのだ。
 コースを妨害するそれは暗闇の中で、奇妙なほど堂々と存在していて、西沢がおそるおそるライトを向けると、巨大な岩のように見えた。
 落石でもあったか。
 しかし山ははるか遠くにあり、ここまで落石がやってくるとは考えられない。
「なんだこれ」
 西沢が執拗しつようにライトを当てる。
 たしかに、「なんだこれ」だった。
 岩にしては茶色がかっていたし、なにより、表面がふさふさしているのだ。
 こんなにも毛深い岩があるはずがない。
 さらには、あたりに嗅ぎ慣れない濃い匂いがただよっていて、よく観察してみると、表面がゆっくり動いている……まるで呼吸しているように。
 岩じゃない。
 これは、
「くっ、熊だ……」
 西沢がうめいた。
 同時に、熊もうめき声を発した。
 人間のそれよりもはるかに重々しい、聞くだけで身震いするような声。
 熊がこちらを向く。
 今までライトで照らしていたのはどうやら熊の尻だったようで、それよりは小さいが、じゅうぶんに威圧感のある顔が、悟と西沢をとらえる。
 その瞳は、闇の中でも輝いていた。
 熊は悟たちから視線をはずさず、後ろ脚に力を入れる。
 まわりの空気が動いた。
 熊が立ち上がった。
 空に浮かぶ月が、巨体に隠れた。
 全長は2メートルほどだろうか。
 質量のある腹。
 おそろしく太い前脚。
 暗がりでもわかる鋭い爪。
 むき出しになった牙からは粘っこい唾液がたれ、口からしゅうしゅうと蒸気のような音がもれている。
 立ち上がった熊は、ふたたび後ろ脚に力を入れると、前に進んだ。
「あ、あ、あ……あああああああ!」
 次の瞬間、西沢は逃げ出した。
 コースをそれて走る。
 熊はすぐには追わなかった。それは姿勢を戻すための時間だった。
 前脚を地面に置いて本来のポーズになると、草むらに消えた西沢を追いかけた。
 一瞬のことだった。
 体臭の混じった強い風が巻き起こり、気がつけば熊の姿はもうなかった。
 助かった。
 西沢がこれからどうなるのかはわからないが、自分は助かった。
 今のところは。
 逃げろ。
 逃げろ。
 いつまた熊が戻ってくるのかわからない。
 悟の本能はそう訴えているが、足がすくんで動かない。
「ぎゃぅ!」
 悲鳴がした。
 そう遠くない場所からだった。
 つづいて、熊が発する咆哮ほうこうが聞こえた。
 びりびりと全身に響くほどの大声は、むしろ気つけになり、悟の体はようやく自由を取り戻した。
 取り戻したが、まだ動けなかった。
 正確には、どう動くべきかわからなかった。
 熊は近くにいる。
 ライトは西沢が持っている。
 あたりにあるのは闇。
 それらの要素はすべて、悟が自由に動けないということを示していた。不用意に行動して熊と鉢合わせするわけにはいかなかったし、そもそもライトもない状態で、この真っ暗な森を動けるわけがない。濃密な闇の中では、月明かりなどほぼ無意味で、目をつむっているのと大差なかった。
 ぶおおおと野太い声が聞こえた。
 次には、あきらかに肉を叩きつける音。
「があっ! ひ、ひいいいい! た、た、たすけて……」
 西沢の声。
 助ける義理などなかった。
 悟はその場にしゃがんだ。
 両手を使ってあたりの状況を確認し、とにかく一歩でもここから離れようとしたのだ。
 その判断は、ある意味では正しかったし、ある意味ではまちがっていた。
 視界が役に立たない以上、手さぐりで道を見つけるほかない悟は、メガネをさがすコント芸のような格好で進んだが、そのせいで、誘導用にむすばれていたビニールひもを見逃して、まったくべつのコースに入ってしまった。
「う、うわああああ! うわああああ……助けて! 助けて!」
 西沢の悲鳴がまた聞こえた。

 手さぐりで移動をつづける悟は、きもだめしのゴール地点からどんどん離れていった。
 西沢の絶叫も、熊の気配もなくなり、ようやく顔を上げたとき、深い草むらの中に埋もれていて、自分が道に迷ったことをようやく知ったが、悟はそれでも安堵していた。もう大丈夫。熊から逃げられた。危機は去った。ここでじっとしていよう。そうすれば異変に気づいた教師がやってきて助けてくれるかもしれない。
 いくら待っても、助けはこなかった。
 暗闇に呑まれた悟はそのうちに、自分の想像力が新しい恐怖を育てはじめていることに気づく。
 あの熊はどうしているだろう。西沢をすっかり食い殺して、それでも足りず、こんどは自分をさがしているのではないか。そうして夜の中でもよく見える輝く目で、草むらに隠れている自分を今にも見つけ出すのではないか。鋭い爪を思いきり振り下ろして、肉も骨もまとめてズタズタにするのではないか……。
 恐怖が全身のすみずみまで侵食し、じっとしていることもできなくなった。
 悟は恐怖に背中を押されるように、ふたたび闇の中をさまよいはじめる。手の感触が訴えてくるのは砂利と草ばかりで、ガラスのように鋭い草が指や頬を切ったが、それでも前進をつづけた。
 だがそれは、悟が「前進」と思っているだけで、じつは弧を描きながら、まわりをぐるぐる回っているだけだった。
 方向感覚をうしなった悟は、弧を描いて何度も円を作った。そのたびに円は大きくなり、そのうちにとうとう、修正が利かない致命的なところにまでやってきてしまった。
 それらを理解していない悟は、ほとんど泣きそうになりながら手脚を動かして、暗闇の中を移動する。
 すると、これまで草をかき分けるだけだった手が、新しい感触を得た。
 やわらかいものが、指先に当たったのだ。
 濡れていた。
 ためしに指先でつまんでみると、100円の自動販売機で買ったスライムのように、ぐにゅっとした。
 指の匂いを嗅ぐ。
 おぼえのあるような、ないような、不思議な匂いだった。
 しいて言えば、肉の匂いだった。
 密集する草から、頭だけを出す。
 ぼんやりした月明かりが、どこまでも広がる草むらを映していた。
 でもそれはおかしなことなのだ。
 月の光はあいかわらず脆弱で、あたりを照らすほどの力はない。
 光源はべつにあった。
 10メートルも離れていないところに、異質な輝きはあった。
 闇の中に強烈な光があり、それがおかしな景色を映し出していた。
 学校指定のジャージを着た1人の生徒が、酔っ払ったようにふらふらしている。
 その正面に、ヘッドライトを装着した人物が立っていて、手にしたナイフを、ジャージの腹部に突き刺した。
 ナイフが刺さり、引き抜かれる。ふたたび刺さり、引き抜かれる。それは執拗にくり返され、そのたびに血が飛び散り、ジャージ姿の生徒はよろめき、とうとう倒れた。
 ヘッドライトをつけたその人物は飽き足りないらしく、こんどは地面を照らすと、乱暴に踏みつけはじめた。
 草むらがじゃまでよく見えなかったが、ぐちゅぐちゅと汁っぽい音が響いたので、なにが起きているのかは大体わかった。
 
 殺しの現場だった。
 
 あわてて草むらに伏せる。
 あれはなんだ。
 だれが殺してるんだ。
 だれが殺されてるんだ。
 どうしてこんなことが……。
 理解が追いつかず、全身が沸騰でもするように熱くなり、目が血走った。
 そのせいか、これまで役立たずだった視界が冴えて、まわりの様子がわずかに見えるようになった。
 内臓が飛び散っていた。
 ちぎられ、刻まれ、ぐちゃぐちゃになった内臓が、グロテスクに咲いた花のように広がっていた。
 もはや悲鳴すら出なかった。内臓の一部が草木に引っかかり、血と粘膜の混じったものが地面にたれているのが見えても、気持ち悪いという感覚もなかった。
 悟の頭にあるのは、これがだれの内臓かという疑問。
 目の前で殺された、あのジャージ姿の生徒ではない。腹の中がからっぽの状態で、立っていられるわけがないからだ。
 近くに、べつの死体があるのか?
 悟は息を殺したまま、目を凝らす。
 人の姿を見つけた。
 草むらの奥でだれかがうずくまり……震えていた。
 生きている。
 そっと近づくと、その人物もまたジャージ姿で、髪が長かった。
 女子だ。
 悟はできるだけ小さな声で、「だれ?」とたずねた。
 反応はなかった。
 ふたたび問うと、ジャージの背中がびくんと跳ねて、顔を上げた。
 髪の隙間からわずかに見えるその顔は、おどろいたことに上野原だった。
 顔中に髪が貼りついた上野原は、信じられないものでも見るような目を悟に向けたが、それは悟もおなじだった。いったいなにがどうしたというのだろう。
「あ……浅葉くん。えっ……あ、あっ私」
 上野原はがちがちと歯を鳴らして、
「私……熊が、あのね熊が出てきて、大変で、で……あっ、由香といっしょに逃げて、あっ、私、私ぃ……」
 声が徐々に大きくなる。
「私、あ、あ、熊……」
「逃げよう」
 悟は言った。
 上野原は強くうなずいて、手にしたライトをつけた。
 光が散らばった。
 どすんという音が聞こえた。
 それはあの人殺しが、死体を蹴り飛ばす音だった。
 がさがさという音が聞こえた。
 それはあの人殺しが、こちらに迫ってくる音だった。
 気づかれた。
「は、早く」
 悟は立ち上がった。
 しかし上野原は、ライトの明かりを天に向けたまま動かない。
「上野原さん」
 動かない。
「上野原さん!」
 動かない。
 そのうちに、水っぽい音がした。
 上野原の穿いたズボンに、染みが広がっていく。
 失禁したらしい。
 ヘッドライトの光が近づき、自分たちを照らしていた。
 おそるおそる振り返ると、人殺しは意外な反応を見せた。
 襲いかかってくると思ったがそうはせず、突っ立っているのだ。
 棒立ち状態の人殺しは、死体のあった方向に首を回したあと、こちらに向き直ってから、
「うおおおおおおおおお!」
 叫んだ。
 男なのか女なのか、若いのか年老いているのか判別できない、それどころか、人間のものとも思えない叫び声だった。
 熊といっしょだ。
 悟はそう思った。
 こいつは熊とおなじで、人間のことばが通じない。
 人間じゃない。
「うおおおおおおお! おおおおおお! おおおおおお……ううぉぉおおおおおお……おおおうううっぁああああああああぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 その声が伝達する情報は、きわめて単純な感情だった。
 怒り。
 ただそれだけ。
 どうしてそんなに怒っているのだろう。
 人殺しはまだ叫んでいる。
 悟は上野原の手を引いて強引に体を立たせると、一気に駆け出した。

 

 とにかく走った。
 とにかく逃げた。
 腰が抜けた上野原の手を引っぱり、悟は死にものぐるいで駆けた。どれだけ走っても草むらは終わらず、ゴール地点も見えなかったが、もはやそんなことは関係なかった。
 逃げのびること。
 生きのびること。
 頭の中には、それしかなかった。
 上野原の持っているライトのおかげで、かろうじて視界は獲得できていた。しかしそれは、相手にとっても好都合だった。ライトは格好の目印になっていた。とはいえ捨てるわけにもいかなかった。
 背後から、ゆらゆらと揺れるヘッドライトの光が迫った。
 人殺しが追いかけてくる。
「あ、あれはなに……」
 悟は走りながら聞いた。
「わかんない、わかんないよぉ!」
 上野原はかん高い声で叫び、
「わ、わ、私たち、熊から逃げてたの……。そしたらなんか、人を、あああ、人を殺してる! ああ! それで、それで!」
「わかった。わかったから走って」
「走ってるよ!」
「もっと走って!」
「やああああああ」
 心を乱した上野原の動きは、ひどく遅かった。
 そのため、後方から迫る足音とヘッドライトの光は、もうすぐそばまできていた。
 だめかもしれない。
 そう思った瞬間、手が離れた。
 上野原が転んだ。
 ライトが宙を舞い、地面に落ちる。
 その光が、上野原に飛びかかる人殺しの姿をとらえた。
 黒いレインコートのようなものを頭からかぶった人殺しは、上野原の背中に乗ったまま髪をつかみ、地面に顔をたたきつけた。
「上野原さん!」
 悟は立ち止まり、引き返そうとしたが、実行できなかった。
 引き返す?
 それでどうする?
 こいつと戦うのか?
 できるわけがなかった。
 人殺しは悟にかまわず、上野原の顔を何度もたたきつけている。
 上野原は暴れたが、人殺しが背中に乗っており、両腕も膝で固められているため、脚をばたつかせることしかできなかった。さらに人殺しはゴム手袋をしていたので、上野原はその髪をしっかりつかまれていた。
 地面にたたきつけられるたびに、上野原の鼻がつぶれ、まぶたが切れ、唇が裂けた。ライトの明かりに映し出されて、それはいやになるほどよく見えた。
「あ……あしゃば、くん」
 髪を引っぱられ、むりやり上げられた上野原の顔は破壊されていた。いつもこっそり見ていた上野原の顔は、血と涙でぐしゃぐしゃになっていた。
 悟は動けなかった。
 そのことは人殺しも理解しているらしく、嗚咽おえつする上野原の体をひっくり返して、ゆっくりした動作でまたがり、その腹にナイフを突き刺した。

 

「うっ」
 短く小さな悲鳴だった。
 ナイフを中心として、上野原のジャージのまわりに赤い血がにじみ出てくる。
 犯人はナイフを逆手に持ち直すと、大きな魚でもさばくように、ぐぐっと動かして、上野原の腹あたりまで一気に裂いた。
 するとこんどは、信じられないような絶叫が、上野原の口から飛び出した。
 上野原はふたたび全身を暴れさせたが、人殺しにあせりの気配はなく、慣れた調子で腹に刺さったナイフを抜き取ると、そのまま上野原の白い首を掻っ切った。
 今日まであの美しい顔を支えていた首が裂けて、血しぶきがほとばしる。
 赤々とした血はライトに照らされ、ぞっとするほど淫靡いんびな色をあたりに散らした。
 支えをうしなった上野原の頭がガクンと落ちて、悟のほうを向く。
 上野原は悟を見ながら、ぱくぱくと口を開閉させていた。
 声は出なかったが、口の動きはあきらかに、「たすけて」と言っていた。
 たすけて。
 たすけて。
 そう言っていた。
 できるわけがなかった。
 人殺しは上野原の腹からナイフを抜くと、そのぽっかり空いた穴に、手首を突っこんだ。上野原は一度だけはげしい痙攣けいれんを見せたが、反応はそれだけだった。
 人殺しは手首どころか腕までを上野原の腹に入れて、まさぐり、目当てのものを見つけたのか、いきおいよく引き抜いた。
 上野原の中身が、腸が引きずり出された。
 まだ健康的な湯気を上げている腸は、いきなり外に出されたのを恥ずかしがるように震えていた。そして臓物を引き抜かれた上野原は、もはや意識がないのか、あるいは死んでしまったのか、むしろ恍惚とした顔つきになっていた。
 悟は動けなかった。
 人殺しはしばらく腸を引きずり出していたが、急に興味をうしなったように投げ捨てると、上野原の足もとに回りこみ、その失禁した股ぐらにナイフを突き刺した。
「おっおっ」
 上野原はまるで感じているような声を上げたが、それは残った空気が口からもれただけだった。
 
 上野原はあきらかに絶命していた。
 
 それでも人殺しは行為をやめず、ずぼずぼと音がするほどナイフを股ぐらに突き刺し、そのたびに上野原は、「おっおっ」という声を発した。上野原の下半身が赤黒く染まった。
 人殺しはふたたび上野原にまたがり、血まみれのナイフをその首に突き立てた。
 キャベツをまっぷたつにするときのような音が響き、ただでさえ不安定な上野原の頭が大きく揺れた。
 ナイフの刃が、首に埋もれていく。
 ああ、こいつは上野原を首チョンパにするつもりだと悟は思った。
 予想は正しかった。
 長い時間はかかったが、上野原の首がとうとう切断された。
 人殺しは生首を両手で持ち上げ、儀式の終焉しゅうえんを告げるように天に掲げた。
 そして悟は我を取り戻した。
 気づかれないように、そっと眼球だけを動かす。
 人殺しは上野原の生首に夢中で、こちらを見ていない。悟の足もとには、上野原のライトが落ちていた。
 悟は震える手を動かしてそれを拾い上げると、駆け出した。
 人殺しは追ってこなかった。
 だが悟にそれを確認する余裕はなかった。
 口から叫び声が出るのにも、涙があふれ出るのにも気づかず、とにかく走った。走りつづけた。前方をライトで照らしていたが、ほとんど見ていなかった。
 なので目の前に、さきほどの熊が現れたとき、すべてが手遅れだった。
 熊はその前脚で悟を殴りつけた。
 悟はたちまち吹き飛ばされ、意識をうしなった。

 

 悟は重度の脳震盪のうしんとうと、片耳がちぎれる大けがを負った。
 そして悟が病院にかつぎこまれているあいだ、1人の男が警察に取り押さえられた。
 男の名前は倉橋遊真ゆうま
 上野原の家庭教師を名乗るその男は、上野原の死体からブラジャーをはぎ取り、森の中をさまよっているところを発見された。
『重要参考人確保』の文字が、新聞の一面を飾った。

(つづく)

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連載【妻を殺したくなった夜に】
毎月最終火曜日更新

佐藤友哉(さとう・ゆうや)
1980年北海道生まれ。2001年『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』でメフィスト賞受賞。2007年『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を最年少で受賞。他の著書に『クリスマス・テロル invisible×inventor』『世界の終わりの終わり』『デンデラ』『ナイン・ストーリーズ』『転生! 太宰治 転生して、すみません』『青春とシリアルキラー』等がある。
Twitter:@yuyatan_sato

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