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第12回 できるかな 佐藤友哉「妻を殺したくなった夜に」

北国の地方都市を舞台に、少女連続殺人事件をめぐる中学生男女の冒険を描く、佐藤友哉による青春ミステリー。
[毎月最終火曜日更新 はじめから読む

illustration Takahashi Koya


 逃げ出した2人は、鶏荷とりに川のほとりに腰かけていた。
 さとるれた目で、対岸にある橋脚をながめる。
 まばらに雑草が生えたそのあたりでは、今年の春、大島雫おおしましずくの生首が見つかり、橋の上は野次馬でにぎわっていたが、このときの橋の上には、数台の車がつまらなそうに走っているだけだった。
 7月にしては冷たい風が、2人のあいだを吹き抜ける。
 見船みふねは前髪を手で払い、隣に座る悟を見ると、
浅葉あさばくん、大丈夫ですか」
「……ちょっと痛い」
 さきほどまで血が噴き出していた鼻に触れると、鈍い痛みが走った。
「折れてはいないみたいですね。折れていなければどうということはありませんね」
「でもまだズキズキする。暴力なんて最低だ」
「私に文句を言わないでください」
「じゃあ、だれに言えばいいわけ」
「このことを、浅葉くんのご両親や学校に報告しますか?」
「それは……やめておくよ。きっと面倒なことになるだろうし、あとビールも飲んじゃったからね」
 30分ほど前。
 アパートに戻ってきた見船の父親は、帰ってくるなり冷蔵庫を開けると、缶ビールが減っていることに気づいて、怒鳴り散らしながら見船の部屋に入ってきた。
「やってくれたな! ご立派ちんちん野郎がよお!」
 そして悟を見つけるのとほぼ同時に、顔面を蹴り飛ばした。
 鼻っ柱に膝が入り、悟はいきおいよく倒れた。鼻の奥が瞬間的に熱くなり、どくどくと鼻血が流れ出た。
 見船の父親はそんなことにはおかまいなく、むしろもっと痛めつけるために悟を蹴りながら、
「ガキが酒泥棒とは、イカしたことをしてくれるじゃねえか」
「うぐっ、ぐぐ」
 悟は本能的に背中を丸めた。
 見船の父親はそこを執拗しつように蹴りつけて、
「おいこら、蹴られたくらいで寝るなら最初から起きてるんじゃねえよ! それで、なにする気だった? 娘に酒を飲ませてなにする気だった? さっさと答えろよちんちん野郎!」
「や、やめて」
 見船が止めに入ったが、見船の父親は娘もまた蹴り飛ばすと、
「へえ……こりゃおどろきだな。『やめて』ときたか。こっちのセリフだアバズレがよぉ! 『やめて』をやめてくれ! 今すぐさっさとやめてくれ! プリーズ!」
「お願い、やめて。そんなことをしたら問題になるから……」
「ああ? すでに大問題だろうが。それくらい気づけよ売女。あのなあ、親が外にいるあいだに男を連れこんで酒飲んでるなんてのはアレだぞ、法的なアレだ、えっと、ほら……くそっ、くそが馬鹿にしやがってよおおおお!」
 見船の父親は酒臭い息とともに叫び、こんどは壁をなぐりつけた。薄い壁にヒビが走った。
「だめ。家が壊れちゃう……」
「おまえにはそう見えるか。俺の目には、もう壊れてるようなもんにしか見えないが」
 見船の父親はふたたび壁をなぐった。
 悟は血のあふれ出る鼻を押さえながら、なんとかしなければとは思ったが、全身が痛くてどうにもならない。
「……店番してくる」
 それよりも先に見船が立ち上がると、悟をひきずりながら部屋を出ようとした。
「おいこら、まてよ美和みわ。どこ行くんだ」
「だから店番」
「まだ話は終わってないだろ。逃げるつもりか! ちんちん野郎を俺によこせ!」
 見船の父親が迫ってくる。
 しかし酔いが回っていたせいか足もとがふらつき、おかしな体勢のまま床に倒れこんだ。
「痛っ! いってえええ……。あ、足をくじいたぞ。痛え。なんかすっげえ痛えよお……。おい美和、ちょっと、足のとこを見てくれねえか」
「行ってきます」
「おいまて! なあ、マジなんだって。マジで痛いんだって。これ絶対にくじいた……いや、折れた。折れた折れた足が折れたぞ! マジで痛いんだよ信じてくれよ美和。なあ、ちょっと見てくれねえか……いててて、いてえええ!」
 その場で暴れている。
「行ってきます」
 見船はくり返すと、悟を引っぱって部屋を出た。
 こうして2人はアパートから逃げ出したが、どこにも行くあてがなく、とりあえず鶏荷川にたどりついたのだった。
 悟はまだ痛む鼻に触れながら、
「見船さん……聞いてもいいかな」
「ええ、そうくると思いました。聞きたいことのオンパレードでしょうね。なんでもどうぞ」
「きみのお父さんって、いつもあんな感じなの?」
「ふだんは平均的な人間だけど、お酒を飲むと、ああなります」
「それ、ちっとも平均的じゃないと思うけど。なんだか酒臭かったし……」
「どこかで1杯ひっかけてきたのでしょう」
「あれは1杯なんて量じゃないよ。っていうか、仕事してないの?」
「してますよ、古本屋を。『古書サンカク堂』は絶賛営業中です」
「でも店番をしてるのはきみだ」
「おやおや」
 見船は鼻を鳴らして、
「ずいぶんと私に肩入れしてくれるようですが、もしかして浅葉くんは今、私を助けようとしているわけ?」
「そんなつもりはないけど……」
「ですよね。私からしてみれば、浅葉くんの家庭のほうが大変そうですもの。自分の父親が殺人犯かもしれないなんて、ちょっとない状況だし」
「きみのお父さんが犯人ならいいのに」
「まったく」
 見船は深くうなずいて、
「でも残念ながら、それはない。ウチの父親に人殺しなんてやれる度胸はありません。あの人は酔っ払ったら荒っぽくなるだけの、ひどく退屈なアル中にすぎません」
「アル中……」
「ふだんはオドオドしてるくせに、お酒が入ると性格が変わる人っているでしょう? ウチの父親は、その中のもっとも最悪なパターンの1つです。そのせいで私は片親になりました。一応、本人もアル中を自覚しているから、カウンセリングに通っています」
「カウンセリング?」
「今話題の、『上野原うえのはらメンタルクリニック』に」
「…………」
「世間は狭い。それだけの話です」

 見船はジャージのポケットから煙草の箱を取り出すと、1本抜き取って、
「吸います?」
「バレたら殺されるよ」
「バレるものですか。これはあなたが買ってくれたものですよ」
 見船は煙草をくわえて火をつけた。
 そういえば以前、見船に脅されて、わけもわからぬまま『倉橋くらはし商店』で煙草を買わされたのだった。思えば、あのころは多くの人が生きていて、ずいぶん平和だった。
「あ……」
「浅葉くん、どうしました」
「思い出した」
 悟は『倉橋商店』という単語に刺激を受けて、熊になぐられてうしなっていた記憶を引き戻す。
 そこには上野原の笑顔があった。
「僕、きもだめしの直前に、上野原さんとちょっとだけ話したんだ」
「ほう」
「2人だけで話がしたいから、みんなが寝たあとで湖畔にきてくれって言われた」
「それは中学生男子にとっては、なかなか魅力的な提案でしたね。いったいなんの話だったんでしょう」
「わからない。上野原さんはそのあとすぐ殺されてしまったから……」
「だとしても、きっとなにか言っていたはずです。ちゃんと思い出してください」
「事件のことのほかにも、話したいことがあるって言ってたような気がする。ええと、あとは……」
『あと、見船さんのことなんだけど』
 そうだ。
 上野原はこんなことを言っていた。
『ちゃんと人間あつかいしないとだめだよ』
 あれはどういう意味だったのだろう。
 悟は見船を一瞥いちべつしたが、そのことを伝えるのはなんとなくやめた。
「見船さんは、なにか聞いてない?」
 かわりに質問した。
 見船は煙草の煙をぼんやり見つめながら、
「なんにも。事件の話なんて全然しなかったから」
「文通のことも?」
「なーんにも。私たちはまるで頭の悪い学生のように、ふわふわした話をつづけるばかりでした」
「もしかしたら上野原さんは、もっと仲良くなったあとで、見船さんからなにかを聞き出そうとしていたのかな」
「友情に水を差すつもり?」
「きみの口から友情なんてことばが出てきてびっくりした」
「自分でもびっくりしちゃった。でもまあ、浅葉くんが言ったような算段もあったのでしょうね」
「たぶん上野原さんは、事件のことか、そうでなくても文通のことで、なにか勘づいたことがあったんだよ。それで宿泊学習の夜に、そのことを僕に伝えようとしたんだ」
「妥当な推測です」
「でも上野原さんは殺された。なにを伝えようとしていたのかは、もうわからない」
「私はあきらめません」
 見船は短い髪を掻き上げながら、
「少なくとも売春にかんしては、友だちをマスコミに売ったあの裏切り者も、なんらかの情報をにぎっているはず」
早坂朱乃はやさかあけののこと?」
 それは上野原が売春しているとマスコミに言いふらしたクラスメイトの名前だった。
「売春が事実かどうか、事実だとすればだれがどこまで知っているのかは確認できます。事件解決のために、私たちがやれることはたくさんありますよ」
「上野原さんが売春をしていたかどうかなんて、事件とは関係ないだろ」
「私、あなたに『ビッグ・アイランド』のことを教えたはずだけど」
「見船さんはひょっとして、事件に売春組織が絡んでるとか考えてる?」
「妥当な推測です」
「いや……いくらなんでもスケールが大きすぎじゃないかな」
「スケールなんて最初から大きいですよ。いったい何人が殺されたと思ってるんですか。それに売春の関係者である大島雫は、首を切断されて殺されています」
 上野原もおなじく、首を切断された。
 それも自分の目の前で。
 包帯を巻いた頭がぎりぎりと痛み、悟は橋脚のあたりにふたたび視線をやりながら、見船から聞いた信じられない話を思い出す。
 見船の知り合いである大島雫は、父親が経営するコテージ、『ビッグ・アイランド』で、強制的に売春させられていた。そればかりか、おなじような目にあっている少女がほかにもいるらしい。
 なんでもないときに聞けば、「かわいそうだけど、そういう家もあるんだな」くらいにしか思わなかっただろう。
 しかし大島雫は少女連続殺人事件の被害者で、胴体が『ビッグ・アイランド』で見つかり、生首の発見者は悟自身だった。さらには上野原に売春疑惑がかかっていた。
 見船のように、事件と売春組織との関係を疑うことはできる。できるが、やはり悟には、突拍子もない話に感じられた。
「大島雫は、アパートの隣の部屋に住んでました」
 見船はゆっくりと煙を吐き出しながら話しはじめた。
「私の家は、浅葉くんも見たように終わってますし、大島雫の家も似たようなもので、あのボロアパートに1人で住まわされていました。育児放棄ってやつですかね」
「…………」
「大島雫は馬鹿みたいにお人好しで世話焼きな人でした。いつも私を心配してくれて、父親が暴れるたびに避難所として使わせてもらいました」
「友だちだったんだね」
「話をいちいち矮小化わいしょうかしないでちょうだい。私は避難所がほしかっただけ。大島雫はお人好しだっただけ」
「でもやっぱり、友だちだよ」
 悟のそんな感想を見船は無視して、
「私が『ビッグ・アイランド』の話を聞いたのは2年前です。大島雫は、親にときおり呼び出されては、客の相手をさせられるようになったと言って泣いていました」
「2年前って、それじゃ……」
「大島雫は14歳」
「くそったれだ」
「ですね」
「警察に言わなくちゃ」
「私にだって義侠心ぎきょうしんくらいあります。もちろんおなじことを言いましたよ。だけど大島雫は、そうはしなかった」
「どうして」
「『ビッグ・アイランド』は証拠を残さないように隠れて営業しているし、子供が告発したところで警察は聞いてくれないと言ってました。不幸な生まれの子供は、警察なんてものは最初から信用していません」
「証拠もなにも、売春させられてる本人が言えば、それが証拠になるじゃないか」
「あなただって、どうして自分のお父さんのことを、警察に言わないの?」
「……そうだね」
「大島雫が行動を起こさない以上、私のほうから動くというのもおかしなことです。これが私の義侠心。もし軽蔑するなら、浅葉くんが通報でもなんでもすればいい。そのかわりあなたも、血のついたコートや文通のことを、きちんと警察に話すのが筋だと思いますが」
「売春と関係あるのかわからないけど、僕の弟が、変なことを言ってたんだ」
 通報について語るべきことばをうしなった悟は、そのかわりに、とおるから聞いた情報を話した。
 透が通う水泳教室に、上野原も在籍していたこと。
 透のクラスメイトもおなじく水泳教室に通っていて、その女子と上野原が、とても信じられないような「おかしな話」をしていたこと。
 しかし、かんじんの「おかしな話」というものを、透が教えてくれなかったこと。
「僕、そのときはよくわからなかったけど、もしかしたら上野原さんと弟のクラスメイトは、『ビッグ・アイランド』のことを話していたのかもしれない……」
 悟がそう言うと、見船は短くなった煙草をほうり投げて2本目に火をつけ、悪くないとつぶやいた。
「うん……悪くない。しらべることがいっぱいある。これは悪くない流れですよ」
「僕たちで解決しよう」
「いいですね」
「できるかな」
「もちろん」
 2人は『作戦会議』をつづけて、明日やるべきことをきめたが、そのあともだらだらと話をつづけた。
 悟はその最中に、自分たちは上野原について話しているのだと気づいた。事件を語ることで、上野原のことを語っているのだと気づいた。
 上野原が殺されてくやしいとか、上野原がいなくなってさみしいとか、そうした当たり前すぎる事実を口にしたくなかった2人は、事件について語ることで、上野原の死をいたんでいた。そして事件を解決することこそが上野原の供養になると、本気で信じていた。
 それはいささか滑稽で、奇形でさえあったが、悟と見船にはこうするほかなかった。
 2人は夕日が沈むまで話をつづけた。
「明日からは、学校きなよ」
 悟は最後にそう言った。
「……くひひ」
 見船は口の端を不器用そうに吊り上げて、短く笑った。
 ひさしぶりに聞いたその笑い声は、いやな感じがしなかった。

 翌日。
 学校の校門前には、この日もマスコミがたむろしていて、彼らは頭に包帯を巻いた悟を見つけると、エサをもとめるハイエナのように、ぞろぞろと群がってきた。
「今日は上野原さんが殺されたときの様子を話します。ところで僕、知りたいことがあるんですけど、中山憲二なかやまけんじの住所はどこですか? 教えてくれた人にだけ、上野原さんの話をします」
 こうして悟は求めていた情報を得ると、教室に入った。
 教室の中は、朝からすでに壊れていた。
「だから、ごめんなさいって言ってるでしょう!」
 かん高い声が耳をつんざく。
 教室の真ん中で、クラスメイトの早坂が泣きわめいていたのだ。
「あやまってすむ問題じゃないよ!」
「ひどすぎ。上野原さんがかわいそう」
「この嘘つき。馬鹿。信じられない……」
「記者に話すなんてなにを考えてるわけ?」
「あんたがこんなやつだなんて思わなかった」
 早坂をかこむ女子たちは、次々に罵声を浴びせていた。
 すると早坂は、涙でくずれた顔をさらにくずすように大きく口を開けて、
「だ、だって本当だもの! 私、上野原さんにお金を貸してたし、それに、上野原さんが売春の話をしたのだって本当だもの!」
「じゃあ聞くけど、上野原さんはなんて言ったのさ」
 女子の1人がたずねた。
「お金を返してほしいって頼んだら、そしたら上野原さんが、『水旗町みずはたちょうでバイトをしたあとね』って……」
「はあ? それだけじゃ、売春の証明にならないでしょ!」
「そうよ!」
「そうよ馬鹿!」
「ち、ちがうの、まだつづきがあって……」
「だったらさっさと言いなさいよ!」
「そうよ!」
「そうよ馬鹿!」
 集団から攻撃を浴びて、早坂はふたたび泣き出した。
 悟はそんな様子を見ながら席につく。
 腫れ物あつかいを受けている悟に、声をかけてくる者はいなかった。
 満足だった。
 上機嫌で包帯の位置を直していると、ふと視線を感じた。
 見船だった。
 ひさしぶりに学校にやってきた見船は、あいかわらずの暗い表情を浮かべていたが、それでも自分とおなじく上機嫌であることを悟はすぐに理解した。
 悟と見船は沈黙したまま、ことの成りゆきを見守る。
 やがて早坂が、泣きじゃくりながら言った。
「ううっ、うう……。その、上野原さんがバイトの話をしたから、私は、『バイトってなにするの』って聞いたの。そ……そうしたら上野原さん、なんかニコニコしながら、『よくないバイトだよ』って」
「で?」
「それだけ……なん、だけども」
「じゃあやっぱり、売春してるかどうかなんてわからないじゃないの!」
 女子の1人が絶叫すると、まわりの連中も口々に、「あんたの勘違いでしょ!」「ひどい!」「ひどすぎる!」「頭悪いんじゃないの!」「馬鹿!」と叫んだ。
 しかし早坂は必死に、
「で、でも、上野原さんのそのときの言い方、なんか、おかしかったんだもの。秘密をこっそり話してるみたいな感じだったから、だから私、『よくないバイト』っていうのは絶対に売春のことだと思って……」
「あんたがそう思っただけでしょ」
「だけど、テレビに出てた中山って男は、実際に上野原さんと会ってたみたいだし……」
「でもあれ、売春じゃなかったんでしょ。警察がそう言ったんでしょ」
「み……みんなは上野原さんにお金を貸してないの?」
「だれか、上野原さんにお金を貸した人いる?」
「貸してない」
「私も」
「私も」
「上野原さんがお金を借りるわけないよ」
「そのお金のことだって、あんたの嘘じゃないの?」
「えー最低」
「ほんと最低」
「ってことは全部、こいつの嘘なの?」
「マスコミに嘘を言ったの?」
「なにそれ」
「最低」
「ひどいよ。こんなのって、上野原さんが浮かばれないよ……」
「上野原さんがかわいそう」
「こいつが死ねばよかったんだ」
「そうだそうだ。死ね」
「死ね!」
「死ね!」
「死ね!」

 学校が終わると、悟と見船は水旗町方面に向かうバスに乗った。
 このバスに最後に乗ったとき、上野原はまだ生きていて、悟の横で元気に駄菓子を食べていた。幸福な記憶だった。しかし上野原は何者かに殺されてしまい、このとき悟の隣に座る見船はひたすら無愛想で、ただ本を読んでいるだけだった。
 バス停に立っているときから、見船は一言もことばを発さなかった。
 悟はしばらくのあいだ、車窓を流れる風景を見ていたが、沈黙に耐えられなかったのと、このあとに自分たちがやることへの緊張から、とうとう声をかけた。
「見船さん……」
「なに」
「売春のこと、どう思う?」
「保留中」
「早坂の言ったことは、どこまで本当なんだろう」
「保留中」
「上野原さんはやっぱり、売春なんてしてなかったんじゃ……」
「保留中って言ってるでしょう」
 見船は面倒そうに本から顔を上げて、
「片耳がないからって、聞こえないふりはよして。あんな猫がじゃれ合うような話し合いでは、確証のある事実なんて出てこなかった。それだけ」
「そうだけど、でも」
「でも、なんですか」
「けしかけたのはきみでしょう?」
「それを私に教えたのは浅葉くんですが」
 見船はじろりと悟を見ながら、
「売春の話をマスコミにしたのがあの女だと、それとなく言いふらしてみたら、さっそく、あの審問会がはじまったわけ。だけど、期待以下。なんにも出てこなかった」
「早坂朱乃は、これから無視されるだろうな」
「どうでもいいです。あーあ、つまらなかった。拷問の1つもない審問会なんて、どこに価値があるやら」
 見船は本当につまらなそうにつぶやき、本に視線を戻した。
 悟は本のタイトルを見てぎょっとした。
『魔女狩り』と書かれていたからだ。
「……その本、なに」
「復習中」
「テストの範囲にそんなのあった?」
「学校のことじゃないですよ。今日の浅葉くんはピーピーうるさいですね。なんのつもり。緊張してるの?」
「…………」
「情けない表情はよして。あなた、魔女裁判をごぞんじ?」
「まあ、名前くらいなら」
「これはですね、かつてヨーロッパで大流行した魔女裁判について書かれた本です。死刑になった女性たちは、30万とも900万とも言われていて、みんなひどいやり方で殺されたんですよ。生きたまま焼かれたり、馬に引っぱられて体を裂かれたり、舌を切り取って、そこにアツアツの焼きごてを当てられたり……」
「むかし話はいいよ」
 悟は聞いたことを後悔した。
 しかし見船は興に乗ったらしく、
「なにを言ってるんですか。この残虐な魔女裁判は、紀元前とかの時代ではなく、合理性と人間性を獲得したルネサンス最盛期のヨーロッパで行われました。つまり、歴史に残る偉大な宗教家も、立派な科学者も、魔女という迷信を本気で信じていたわけ。まったく、キリスト教はおそろしい宗教ですね」
「はあ」
「本によれば、パスカルはこう言ってるそうですよ。『人は、宗教的信念によって行うときほど喜び勇んで、徹底的に悪を行うことはない』と」
「どういうこと?」
「浅葉くん、私たちはなんの信者ですか? 私たちにとっての宗教とはなんですか?」
「知らないけど……」
「しっかりしてください。事件の解決にきまってるでしょ。私たちは少女連続殺人事件を解決するためなら、どのようなこともいとわない狂信者です」
 見船はそれだけ言うと、座席の下に置いたカバンを蹴った。
 昨日の『作戦会議』で決定された、やるべきことは2つ。
 1つは、中山憲二に直接会って、上野原の売春が事実かどうかを聞き出す。
 そしてもう1つは、悟の父親から、文通や血のついたコートについて聞き出す。
 やらなければならないのはわかっていたし、決意は変わらない。上野原を殺した犯人を見つけるためならなんでもする。とはいえ、気が重かった。
 悟はバスに揺られながら、パンクでもしてくれと願ったが、バスはがっかりするほど順調に走り、2人は水旗町駅前で降りた。
 はじめてやってきた水旗町の駅前は、悟の暮らす鶏荷町よりもひなびていた。
 だだっ広い道路がひたすらにつづき、そのまわりに店なのか民家なのかよくわからない建物が点在しているのは鶏荷町といっしょだが、より閑散としていた。
 いったいだれがなんのために、このようなところに好きこのんで家を建て、生活しているのだろう。
 ほかに行くところや、やることはなかったのか。
 あるいは自分も成長して大人になるうちに、このような疑問が消えて、こんなところに暮らすのだろうか。
「燃やす価値もない町」
 見船は手にしたカバンを揺らした。
 マスコミから聞いた住所をたよりに、ひと気のない道を歩き、やがて目的の家を見つけた。
 それは赤と緑に塗り分けられた三角屋根の一軒家で、季節はずれのクリスマスツリーのようだったが、全体的に色あせていて、かえって貧相に見えた。
 やはり色あせた表札には、「中山」と書かれていた。
「くひひ。ここでまちがいありません。浅葉くんはちょっとそこにいて」
「僕は行かなくていいの?」
「なにを期待してるんですか。女の子だけでたずねたほうが、警戒されないというだけですよ」
 見船はそれだけ言うと、さっさと玄関に向かった。
 インターフォンを押す。
 しばらくして、ドアがわずかに開かれる。
 次の瞬間、見船はよどみのない動作で、自分のカバンから包丁を取り出すと、そのまま踏みこんだ。
 中から、がたがたと暴れる音がした。
 悟は逃げ出したくなったが、勇気を振り絞るというよりあきらめの気持ちを強くして、そろそろと玄関に入った。
 わかってはいたことだが、おそろしい状況を目にする。
 見船が男を組み伏せて、首筋に包丁を突きつけていた。
 ちょっとした乱闘があったらしく、玄関には靴や傘が散らばっていた。
 いきなり包丁を突きつけられた男は、なにが起きたのかわけがわからないというような顔をしていた。
「な……なんだきみは」
「なんだきみはですって? そうです私が魔女裁判です」
 見船が冗談を言うのを、悟ははじめて聞いた。
 いっぽうの男は、恐怖よりも混乱が勝っているらしく、目を白黒させていた。シャツはよれていて、スエットのズボンは片膝に穴が空いていた。生活に疲れ切ったような男だった。
 こいつが中山憲二だろうか。
「私のカバンにロープが入ってるから、それで縛りつけてちょうだい」
 見船がいやなことを命じてくる。
 今さら逃げられないことを理解している悟は、とりあえずドアに鍵をかけると、見船のカバンからロープを取り出した。
「お、おい、やめてくれ……。冗談だろ? なあ、これはいったいなんだ? 強盗か? 学生が強盗か?」
 男はずっと騒いでいたが、見船が包丁をちらつかせるとだまった。
 悟はそのあいだに男の手脚を拘束した。
「さて」
 見船は縛り上げられた男の胸に座った。
 男はくるしそうに、ぐぎゅうとうめいた。
 見船は男の上に乗ったまま、
「これから尋問をはじめます」
「尋問?」
「中山憲二さんですね?」
「く、くるしい」
「中山憲二さんですね?」
「そうだけど……きみたちは?」
「私たちは上野原涼子りょうこさんのクラスメイトです。上野原涼子さんの売春疑惑について聞きにきました」
「クラスメイト……ちょ、あの、まずは落ちつこうじゃないか」
「落ちついていますよ」
「じゃ、じゃあ、その刃物をしまってくれないかな。こんなふうに縛られて、脅されたんじゃ、話そうにも話せな……」
「どんな状況だろうと話すのです。あなたにはその義務がある」
 見船は中山を見下ろして、
「さあ、真実を話してください」
「真実って……」
「売春のことです」
「あれは、警察署で話したことがすべてだ。きみたちは、テレビを見てここにきたんだろう? 報道にあったことが事実だ。僕は誓って、あの子とおかしなことは……」
「真実を話してください」
 見船はすっと体勢を低くして、中山の首に包丁を当てた。
 ゆっくりと刃が食いこんでいく。
 中山の喉仏が音を立てた。
「よ、よせ……」
「真実を話してください。そうすればあなたに憐れみを持ってあげてもいい」
「だから言ってるだろ……ぼ、僕はなにもしてない!」
「あなたは上野原涼子さんをカネで買いましたね?」
「買ってない! 本当なんだ!」
「あなたは豚肉を食べましたね?」
「豚肉?」
「あなたは豚肉を食べましたね?」
「い、いや……食べてない。僕はむかしから、豚肉を食べると具合が悪くなるんだ。豚肉は好きじゃないんだ……たっ、頼むからやめてくれ。豚肉がどうしたっていうんだ!」
「豚肉のことなんかどうでもいいんです。あなたは教義にそむくことをしましたね?」
「さっきからなにを言ってるんだよ……。お、おいきみ、そこのきみ、この子をどかしてくれ」
 中山は恐怖に引きつった顔を悟に向けたが、悟としてもどうすればいいのかわからず、とりあえず目をそらした。すると中山は絶望的な声で、助けてくれえと叫んだ。
「尋問中はお静かに」
 見船は中山の耳もとに口を寄せて、
「さあ、あなたがしたことをくわしく話してください。上野原涼子さんをいくらで買い、どんなことをしたのか」
「だからなにもしてないって……」
「話さないとこうなります」
「あっ! 痛い! 痛い痛い!」
 包丁が食いこんだ中山の首に、ぷっくりと血が浮かぶ。
「くひひ……くひ、くひひひひ」
 見船の異常さには慣れつつあった悟だが、いくらなんでも度を越していると思った。本当に殺してしまいそうだった。
「も、もうやめようよ。ふつうに話を聞こうよ」
 悟はさすがにそう言った。
「いやだ」
「いやだって、そんな……」
「いやだ」
 ……怒っている。
 悟はようやく気づいた。
 その具体的なところまではわからないにしても、見船が怒っているのはたしかで、少なくともこのとき、その怒りは中山に集中して向けられていた。
 見船はまるで生ハムでも切るように、中山のふるえる首に包丁をすうっと引いていく。
 すると血の粒は表面張力に耐えられなくなり、赤い筋となって垂れた。
「痛い痛い痛い痛い痛い!」
 中山が縛られた脚をばたつかせた。
「くひひ……きびしい状況ですね。でもこうなったのは、あなたが真実を話さないからですよ。それとも、一生しゃべれなくしてやりましょうか?」
「し、信じてくれ」
 中山は今にも泣き出しそうな顔で、
「僕はあの子とはなにもしてないんだ。本当なんだ……」
「あなたは警察に出頭しましたね?」
「無実を訴えただけだ。なにもしてないのに、まわりが疑いの目で僕を見るから、そうじゃないって言おうとしたんだ。それに、警察は僕の訴えをみとめてくれた」
「警察は、買春の証拠を見つけられなかったとしか言ってませんが」
「そうだけど……」
「上野原涼子さんといっしょに外を歩きましたね?」
「だからそれは、彼女が親しくしてくれたからであって、やましいことはしていない」
「あなたが私の立場だったら、そんなこと言われて納得すると思います?」
 見船はわざとらしくため息を吐いて、
「55歳のおじさんが、中学生といっしょに歩いてる時点で、なんの説得力もないでしょうに」
「あれはその、彼女との友情であって……」
「友情というのは、便利なことばです」
 見船は包丁を持つ手に力をこめる。
 中山は顔中に脂汗を浮かばせながら、
「な、なあ……どうすれば信じてくれる? 僕は無実だ。無実なんだ。それともきみは、無実の人間を脅して、それで自白を強要するのか」
「私のやりくちに口を挟まないでください」
「僕が買春したっていう証拠なんて、そっ、そんなのは、どこにもないぞ。脅して強要した証言なんて、なんの役にも立たないぞ。裁判じゃ使い物にならないんだぞ」
「それがなんだっていうんですか」
 見船は包丁を逆手に持ち直すと、中山の目玉に近づけて、
「まずは目をつぶします」
「ひぃ」
「魔女裁判の時代、ある女性は、手の爪をみんなペンチで剥がされて、そこに針を突き刺されて、熱した鉄製の長靴をはかせられて、そのままハンマーで脚をめちゃめちゃに叩きつぶされても、けっして自白しなかったそうですよ。あなたはどうですかね」
「やめろ……」
「あと、証拠がどうこう言ってますが、それは現代の司法には必要かもしれないけど、魔女裁判ではいらないのです。自白だけがすべてなのです」
「よ、よせ」
「真実を話してください」
「僕は本当になにもしてない」
「無実だと?」
「無実だ。誓ってなにも……」
 2階から物音がした。

 見船は顔を上げると、一瞬にして中山への興味をうしなったように、土足のまま階段を上がった。
「おい! おいよせ! やめろ!」
 中山が叫んだ。
 それは罪をみとめたのもおなじだった。
 悟はカバンからガムテープを取り出すと、中山の目と口をぐるぐる巻きにして、見船のあとを追った。一応、靴は脱いだ。
 2階の廊下には3つのドアがあり、そのうちの1つが開いていた。
 中に入るとそこは寝室で、分厚いカーテンがかかり、すえた臭いが充満していた。
 そのような寝室には見船と、ベッドに横たわる人間がいた。
 老婆だった。
 色あせたイチゴ柄のパジャマを着て、うつろな目を天井に向けている。
 老婆はぴくりとも動かず、全身はおそろしいほど痩せていて、白髪には長いあいだくしを通したあとがなかった。
 死んでいるのではないかとぞっとしたが、老婆はときおり思い出したようにまばたきをしていた。生きている。生きているが、しかしデパートで見るマネキン人形のほうがまだ生気があった。
 悟と見船は、そんな意外な老婆をどうすればいいのかわからず、ただじっと観察していた。
 いっぽうの老婆は、闖入者ちんにゅうしゃに関心がないのか、あるいは動けないのか、天井を見つめたままだった。
「おばあさん、あなたはだれですか?」
 しばらくして、見船が問うた。
 返事はない。
「だれ?」
 やはり返事はない。
 階下から、ガムテープを巻かれた中山が必死になにごとかを訴える声が響き、そんな声にかき消されるほどに小さな物音が不意に聞こえた。
 悟は反射的にふり返る。
 クローゼットがあった。
 こんどはクローゼット全体が揺れた。
 見船の対応は迅速だった。
 足音を忍ばせて、ゆっくりとクローゼットに近づく。
 右手で包丁をかまえたまま、左手で一気に開けた。
 
 高校生くらいだろうか。
 中には、下着姿の少女が入っていた。
 
「あらまあ」
 見船は言った。

(つづく)

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連載【妻を殺したくなった夜に】
毎月最終火曜日更新

佐藤友哉(さとう・ゆうや)
1980年北海道生まれ。2001年『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』でメフィスト賞受賞。2007年『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を最年少で受賞。他の著書に『クリスマス・テロル invisible×inventor』『世界の終わりの終わり』『デンデラ』『ナイン・ストーリーズ』『転生! 太宰治 転生して、すみません』『青春とシリアルキラー』等がある。
Twitter:@yuyatan_sato

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