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No.03『眠れる美女』川端康成 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」

子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]

photo:大塚佳男


 デビュー作が世に出たばかりの頃、集英社の編集者に書き下ろしの依頼をもらった。第1作はそこそこ出版界では好評で(だが単行本はまるで売れず)、ドラマ化はすでに決定していたが、実現はまだ先のこと。当の作家はまだ誰でもない新人である。肝心の依頼内容は、「集英社 長編エンタテイメント」シリーズの一作として、なんでも好きなものを書いてもらえないか、というものだった。
 さて、なにを書こうか?
 ここに新人作家の最初の難問が生まれる。
 デビュー作は青春ハードボイルド・ミステリー。作者の名は誰も知らない。この路線を続けて、知名度を上げるほうがいいか。依頼の通り、まったく好きなものを書いたほうがいいか。デビュー作をつくってくれた文藝春秋の編集者と相談をした。すると、やはりお勧めはあと3、4作ミステリーを書いて、作者の名前を浸透させましょうという安全路線だった。いつの時代でも新人作家が、世に名を売るというのは困難なものである。すこしでも手堅い策のほうがいい。恋愛小説もかまわないけれど、まだ早いという賢明な判断だ。
 それが王道なのだろうが、当の作者にはどうにもおもしろくなかった。小説のなかでも人を殺すのは好きではないし、第一ぼくに精密なトリックをつくれというのは無理な相談だ。そんなにミステリーばかり書いていたら、小説に飽きてしまう。そこで出版界の常識に反して、邪道を選ぶことにした。どうせ新人の書き下ろしなど、誰も読まないのだ。好きなようにやってやれ。

 次回の打ちあわせは、御茶ノ水・山の上ホテルのカフェだった。
 ぼくは構想を説明した。世のなかからドロップアウトしかかった大学生が、謎のマダムにスカウトされ、1時間1万円で身体を売るプロのコールボーイになるというストーリーです。たくさんの女性と性的な経験を積むことで、主人公は人として成長していくシュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)の青春小説になります。
 ぼくの説明に編集者はよく呑みこめないという顔をしていた。それはそうだ。この時代、日本の小説は消毒がいき届きすっかり清潔になり、性を正面から扱う作品は激減していたのだ。あまりいいアイディアではないのかもしれない。困ったな。タイトルはこれです。ぼくは胸ポケットからパーカーの万年筆を抜いて、紙ナプキンに書いた。

『娼年』

 しょうねんと読みます。編集者の顔色が変わった。それ、いただきます。そういって、紙ナプキンをファイルに挟んで、持って帰ったのだ。ぼくは内心、安堵していた。小説のタイトルをつけるのが得意でよかった。シンプルだが、いい作品名だ。
 こうして、ぼくの最初の書き下ろし作が生まれ、望外なことにその作品は初めて直木賞候補に挙げられることになった。赤坂にある中華の高級店で選考の待ち会をしたのは、今もいい思い出だ。このエピソードから学べることがあるとしたら、社会人ならいつでもいい万年筆を一本持つようにすべきということかもしれない。筆記用具は案外大切だし、いざというとき身を助けてくれる。それにネーミング・センスがすこしあれば鬼に金棒である。

 さて、そろそろ川端康成の話をしよう。
『娼年』を書き始める前に、何冊かよい先行作品はないだろうかと、恋愛小説の古典を集中的に読んでみた。そのなかで題材、文体、デカダンスな雰囲気など、もっともぼくのイメージにフィットしたのが、世界のカワバタの『眠れる美女』だった。以前に『伊豆の踊子』『雪国』は読んでいたが、まったくぴんとこなかった。川端作品で唯一心酔したのは『たなごころの小説』のなかのショートショート「有難う」くらいだ(これは名作で、ぼくも自選アンソロジーに収めている、4ページと短いので立ち読みでもいいので試してください)。
 川端の最高傑作は、67歳の江口老人が海辺の謎めいた館を訪れるところから始まる。そこは睡眠薬で深く昏睡状態になった若い女性と老人が添い寝をするという秘密倶楽部だった。川端自身が睡眠薬中毒で入院したことがあったので、きっと自分の経験から発想したのだろう。江口は眠っている娘の匂いをかぎ、肌にふれ、ときに指を口に含んだりしながら、過去につきあいがあった多くの女性たちのことを回想する。女性には絶望している。もう孫もいる。それなのに、まだ異性を求めることがやめられない。えた臭いを放つ老年のエロティシズムと熾火おきびのような命への執着が怪しく底光りして、実に素晴らしい。寝仏に似た裸身の娘と思い出の女たちの姿を、フィルムのように重ねあわせ、老人は過去と現在の欲望を同時に生きるのだ。
 奇術のようだと謳われた描写力も凄まじい。寝室に入る手前には「深紅のびろうどのかあてん」が下がっている。「かあてんの前に薄い光りの層がある感じで、幻のなかに足を踏み入れたようだった」。この幻想的な薄い光りだけで、読み手は川端特有の鋭い感覚で編みあげられた魔界に誘いこまれてしまう。カーテンの先の布団のなかに20歳前の眠れる美女を見つけると、「江口老人の胸のなかに別の心臓が羽ばたくようだった」とくる。小説における描写の真髄とはなにか、その問いの答えとして真っ先にぼくが思い浮かべるのは、この作品である。

『眠れる美女』では主人公は老人で、眠りこんだ年下の娘を買うために金銭を支払うが、実際の性行為は禁じられている。『娼年』では主人公は大学生の若者で、年上の女性たちに金銭で身を売り、性行為もおこなう。ぴたりと吸いつく手袋を裏返したように、見事にテーマが反転している。これに気づいたとき、すこしばかり自分の着想に誇りをもったものである。川端康成の正反対なら、そう悪くないアイディアかもしれない。
『娼年』は不思議な作品で、刊行から15年後、作者も忘れかけていた頃、なぜか舞台作品となり、17年後に映画化されることになった。さらに翌年ネットフリックスで国内ランキング1位を獲るというおまけまでついてきた。この変化の激しい時代に、20年近い歳月に耐え、何度か再評価を受けてきたというのは、自分でも驚きである。幸運な作品というしかない。あのとき書き下ろしの依頼に王道の殺人事件ものを、もう一冊書いていたら、こんな結果を生むことは決してなかっただろう。
 王道は必ずしも正解にあらず。それが世の多くの新人に送るぼくからのメッセージかもしれない。勢いのあるときは無茶をするのも、また楽しいものだ。

作品番号(3)
『眠れる美女』
川端康成
新潮社 1967年11月刊

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【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新

石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira


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