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No.02『羊をめぐる冒険』村上春樹 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」

子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]

photo:大塚佳男


 村上春樹というすごい新人がいるらしい。
 そんな噂が聞こえてきたのは1979年で、ぼくは大学2年生だった。
 7月の終わりに上梓されたデビュー作『風の歌を聴け』を発売日に手に入れると、わくわくしながらすぐに目を通した。カバーは埠頭ふとうの先に腰かける白いTシャツを着た若い男の後ろ姿が印象的な佐々木マキのイラストレーションで、あのポップでノスタルジックな絵柄を見ると、今も初期村上作品のセンチメンタルなトーンを懐かしく思いだす。四六判単行本の定価は690円(消費税はなかった!)で、学食のランチ2回分とすこし高かったけれど、本代をけちるようでは大学生とはいえないと、かたくなに信じていた。選書においては背伸びだけが正しい態度である。

 話題の作品を読んだ感想は、ついに日本にも「こういう作家」が現れたのかというやや軽めの驚きだった。驚きの理由は、それまで日本の小説の主流だった人生の悲哀や苦痛を描くリアリズムから完全に決別していることで、権威主義的な父親への反抗とか日本社会のふるい因習との軋轢あつれきといった多くの新人作家に見られるテーマは影も形もなかった。
 その代わり作中に満ちているのは、趣味のいいポップスやジャズの明るく優雅なトーンと心優しい青年の世界に対するやわらかな諦観、それに青春の終わりを告げるゆったりとした挽歌だった。ワントーンのムードだけでも小説は書けるのだ。古くさい対立構造やリアルさなんて、どうでもいいじゃないか。その軽やかさとセンスのよさに驚いたのである。
 対して驚きが「やや軽め」だったのは、ぼくがすでにカート・ヴォネガット、スコット・フィッツジェラルド、リチャード・ブローティガン、レイモンド・チャンドラーを読んでいたことで、どの作家のどの部分からなにを借用しているのか、ほぼ見当がついたせいだった。文明のいきついた果てのフラットな西海岸に広がるポップで空虚な絶望というのは、この国ではともかく、アメリカではそれほど目新しいとはいえない。イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』とヴォネガットの「ソー・イット・ゴーズ」を思いだしてもらえばいいだろう。
 続く『1973年のピンボール』はさらに上手くなっているとはいえ、同じ路線の延長線上にある作品で、しみじみいい小説だなあ、耳に心地いい声と文体をしているなあと感心したけれど、特筆すべき衝撃はなかった。
 だが3作目の『羊をめぐる冒険』は違った。
 それは正真正銘の驚きだったのである。初出は講談社「群像」1982年8月号、デビュー作から3年の月日が流れ、ぼくは留年して大学5年生になっていた。就職をするのが嫌でたまらず、本だけ読みながらのんびり暮らせるような仕事はないものかと空想する怠惰な学生になり下がっていた。
『羊をめぐる冒険』が一挙掲載された「群像」を手にとったのは近くの区立図書館で、発売月には貸し出しができないので、そのまま硬い椅子に座り、昼過ぎから夕方まで村上春樹の初めての長編小説を読みあげることになった。ずっと同じ姿勢で緊張して読み続けたので、腰がかちかちに固まってしまった。図書館の帰り道、叩かれたばかりの鐘のように、頭を衝撃で痺れさせながら自転車を漕いだ記憶がある。

 第3作はなにが違っていたのか。
 まず長さがそれまでの倍以上に急膨張している。小説においても物理的な長さは、内容と質を規定する重要な指標だ。「僕」と「鼠」という前2作の主要登場人物はそのままに、3年目の新人作家は大胆にストーリー性を導入した。物語は19世紀文学的な時代遅れの旧いものと、当時の純文学では見なされていたのにである。
 行方不明になった親友を探す謎めいた旅、ゴシック小説風なおどろおどろしい恐怖感を誘う北海道・十二滝町の歴史と風土、「耳」の力を解放することで超絶的な美人に変貌するコールガール、人から人へ乗り移りながら陰の支配者を定めてゆく星形の班紋がある帝王の羊、甦った死者からの伝言。ダーク・ファンタジーに登場するような小道具をふんだんにちりばめて、シーク&ファインドの予測不可能な冒険物語は展開する。

 この頃村上春樹はジョン・アーヴィングやスティーブン・キングの大長編を読み、読み手を丸々呑みこむ長さの力を評価し、自作の長編化にかじを切ったとインタビューで答えていたことをおぼろげに思いだす(どの雑誌だったかは忘れた)。おもしろいのは先に挙げた4人に加え、アーヴィングとキングの計6名のなかには、ひとりもアメリカの主流文学で最高評価を得ている作家がいないことである。ヴォネガットはSF、チャンドラーはミステリー、キングはモダンホラーと、抜群の筆力を有していても文学との境界線上のベストセラー作家である。フィッツジェラルド、アーヴィング、ブローティガンは、それぞれよい作家だけれどマイナーな存在で、米文学の最高峰を形成するとはいいがたい(スタインベック、フォークナー、ヘミングウェイといったヘビー級にはとても対抗できない)。
 チャンドラーの文体の洒落た魅力、ヴォネガットのアイロニーと相対的視点、キングの粘着的な不気味さと無意識に働きかける恐怖、アーヴィングのストーリーテリングの剛腕と自由自在の時制。文芸評論家はあまり言及しないが、ぼくは村上春樹という作家はアメリカのエンタテインメント小説の巨大な威力を換骨奪胎して自分のものとし、オンリーワンの文学世界を切りひらいた作家なのだとひそかに考えている。この評には作家をおとしめる気持ちなどさらさらない。先に挙げた書き手の誰かひとつの力でもものにするには、創作者として飛び抜けた膂力りょりょくを必要とするのだ。
 村上春樹作品が世界中どの国でも読まれるのは当然である。あの心地よいナルシシスティックな文体と無意識の広大な世界を果てなく探索できるジャック・マイヨールのような潜行力、そこにアメリカ・エンタメ小説の唯一無二の吸引力が加わるのである。世界を制覇したアメリカのポップカルチャーと同質の越境的な魅力を、村上作品は燦然さんぜんと放っているのだ。
 それは同時にノーベル文学賞の選考委員からは冷遇されるという結果も生んでしまうことになるだろう。どれほど洗練され、新しい映像技術の粋を尽くし、世界中で爆発的な興行成績を記録しても、ハリウッドのスーパーヒーロー映画が、カンヌやヴェネチアの映画祭でグランプリを獲ることがないのと同じである。村上作品がアベンジャーズと同じだといっているのではない。村上作品から漏れだすアメリカン・カルチャーの匂いに、ヨーロッパのインテリが過敏に反応してしまうのは、どうにも仕方のないことだといいたいのだ。村上春樹は川端のように「美しい日本の私」には、決して収まりえない作家である。ヨーロッパが好きな珍味としてのジャポニズムや土着性は、デビュー時からほとんど作中に存在しなかったのだ。

 ソファに寝そべり、作家の最高傑作を決めるという、本読みの自堕落にして痛快なイベントがある。その場合ふたつの決定方法が有力なのはいうまでもない。単純に作品の最高到達点の高さで決める、あるいは成長の最高加速度を記録した作品で決める。どこまで届いたか、どれほど伸びたか。この2通りだ。
 ぼくの場合、全村上作品から到達点で選ぶなら『ねじまき鳥クロニクル』、加速度で選ぶなら『羊をめぐる冒険』という選択になる。若い頃に読んだ衝撃の強度もあって、ここでは前作から飛躍的に伸びた『羊』を選ばせてもらった。異論はあるだろうが、熱心なハルキストではない穏健な愛好家諸氏と読書会でも開いて、ゆっくり語りあってみたいものだ。どの世界でも熱狂的なファンは面倒なので。
 ぼくの村上作品への評価はとてもシンプルだ。
 この40年以上、新作を読むのをつねに楽しみにできた作家。
 そういう人は村上春樹以外ない。

PS そこで6年ぶりの新作『街とその不確かな壁』である。第一部を読んでいて、この作品のプロトタイプとなった中編を、「文學界」で読んでいたことを思いだした。物語性と悪の存在を導入する前の初期作品のリマスター版なので、動きがあまりない抒情的な長編に仕上がっていた。ひと言でいえば読みやすく、わかりやすい。70代で10代の初恋を描いていることに違和感を覚えるという的外れな評がネットにはあがっているけれど、そんなことはまるで関係ない。作品がみずみずしいかどうかが問題なのだ。この作品の成熟した安定と多くの作家の晩年期に特徴的な透明感は、村上作品にアクセスする最初の一冊として若い読者には最適かもしれない。より濃度と複雑さ、迷宮感の高い過去作へと遡上していくタイムマシンのような読みかたもおもしろいだろう。

作品番号(2)
『羊をめぐる冒険』
村上春樹
講談社 1982年10月刊

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【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新

石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira


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